「あれ、なんか今日ハジメいいことあった?」
夕食の時間。
ニーナが不意にハジメに聞いた。
「なんか‥‥。いつもより嬉しそう」
「ま、まさか。気のせいだよ」
言えるわけがない。
"ヨウジを好きになる前の自分"に戻れそうな算段がついたから、心がちょっと浮わついてる。なんて。
「それに服の裾、汚れてるし」
え、いつの間に。
「本当だ‥‥」
見ると、シャツの裾に絵の具のような汚れがうっすら付いていた。
「‥‥あ、今日放課後にレイジのいる美術準備室に行ったから‥‥。その時付いたのかも」
取り繕うように、ハジメが言う。
「‥‥レイジ君?
それってあの絵の上手い子?
なんだか、懐かしいわねぇ。
‥‥最近聞かないけど元気してるの?」
ふいに、二人のやりとりの間から、ニーナの母親が微笑ましそうに声をかけてきた。
「そうそう!そのレイジ君!
相変わらず高校に入っても描いてるよー」
「あれ‥‥?おばさんってレイジのこと知ってるの‥‥?」
ハジメは戸惑うように聞いた。
「‥‥何言ってるの!昔はみんなでよく遊んでたじゃない」
「え、あれ。そんな事ありましたっけ。おれ記憶にない‥」
「あらそう?
ま、子供の頃の事だからねぇ‥‥。
サマーキャンプとか、昔はよく行ってたんだけど。覚えてない?」
「いや、全然‥‥」
「まあ、十年以上も前の事だし。
忘れてても無理ないか。
おばさんなんてねぇ、もう最近は昨日のことすら記憶あやしいもの!」
「ママ、こないだも乾燥機かけた服二重で洗濯しかけてたもんね!」
そんなやりとりをして、みんなで笑って、その場は和んですぐに終わる。
「‥‥‥‥」
しかし、ハジメは一人密かに胸のつかえを感じていた。
子供の頃の記憶を忘れるなんて、よくある話だ。
だけどなぜかこの記憶だけは、思い出そうとするたびに、心の奥が切なくて苦しくなる。
‥‥それは、なんで?
「‥‥‥‥」
食事も終わり、忙しいニーナの母親に変わって、ハジメは一人食器洗いをこなしていた。
いつもはニーナも一緒に手伝うのだが、その日は物置部屋でずっとゴソゴソと何かを探している。
「あった!」
物音の気配を感じながら淡々と洗い物をするハジメの背後で、ふいにニーナが嬉しそうな声を上げた。
「ねー。みて。これ。
なんか今日晩御飯の時の会話、私ずっと気になっちゃって。アルバム探して持ってきた!」
そういうと、古いフォトアルバムを抱えたニーナがリビングにやって来た。
「ほら、こっち来てハジメも見ようよー」
「‥‥やだよ。洗い物まだ終わってないし」
「いいから。後で私も手伝うから。
一緒に見よ?こういうのってさ、誰かと見るから楽しいんじゃーん」
足をプラプラさせながらニーナが駄々をこねるように催促する。
「ったく。‥‥しゃーねーなぁ‥‥」
ハジメはしぶしぶ折れる。
食器洗いをする手を止め、泡まみれの手を洗ってタオルで拭くと、彼女の元に向かった。
「さて。と‥‥」
ワクワクした様子で、ニーナはうっすら埃をかぶった表紙を軽く手で払うと、ページをめくった。
「うわ、若っ!」
「若いっていうか‥‥赤ちゃんだな」
首も座ってない頃の二人の赤ん坊の写真から始まって、三歳、五歳と、何気ない日々や、節目節目のお祝いなどの様々な写真がたくさんファイリングされている。
「懐かしいなぁ‥‥」
二人は目を細めながら、今よりずっと子ども姿の自分たちの写真を眺めた。
そして、アルバムの中盤ごろ。
ふいに、幼い頃のニーナとハジメとレイジが写る写真が何枚も現れた。
「あ、おれわかった。こいつ多分レイジだろ」
子どもの頃から変わらない顔立ちを見て、ハジメは一目で見抜く。
写真に写る幼いレイジは、まだ目元を前髪で隠すあのボサボサの髪型をする前の姿をしていて、どの写真もはつらつとした無邪気な笑顔をしていた。
「あいつ、こんな顔で笑う時もあったんだな」
ハジメがしみじみとつぶやく。
「‥‥昔はよく笑ってたよ」
そう言いながら、ニーナはページをめくった。
「うわーー懐かしいなぁ」
写真は、ある日の一連の思い出が収められたページに辿り着く。
おそらくこれがさっき食事中に話題に上がった、サマーキャンプの写真だろうとハジメは思った。
みんなでカレーを作ったり、山を散策したり、川遊びをしたり。
自然豊かな山奥の中で、ハジメとレイジとニーナが、あどけない表情で写真に写っている。
「ふふ。ミズキちゃんもいる。
やっぱりこの頃から可愛いなぁ」
「何でだろ‥‥‥‥」
しみじみと写真を見つめるニーナに反し、ハジメはうろたえるようにつぶやいた。
「初めてみる写真じゃないはずなのに、なんか‥‥。
ずっと頭に霧がかかったみたいに思い出せない。
楽しかった記憶は、ぼんやりあるのに‥‥」
ハジメはそう言うと、苦しそうにアルバムから目をそらす。
「‥‥そっか」
ニーナはそれだけ言うと、ページめくる手を止めた。
「でもさ。
写真はちゃんと覚えてるから。
‥‥きっとそのうち思い出すよ」
そう言ってハジメの肩に触れると、ニーナは笑った。
「そんな言い方をするってことは‥‥。
これって、忘れちゃいけない記憶だったってこと‥‥?」
ハッとしたように戸惑いながら、ハジメは問いかける。
その言葉に、ニーナは否定も肯定もせず、ただ静かに沈黙するばかりだった。
「‥‥‥なあ、ニーナ。
昔のおれって、どんなだった?」
ぽつりとハジメが聞く。
彼女は少しの沈黙の後、
「‥‥レイジ君とね、仲がよかったよ。すっごく」
と言って笑った。
「‥‥‥‥‥覚えてない‥‥‥‥」
その言葉に、ハジメの胸の奥が理由もわからず少し痛んだ。
思い出せない。
なのに、写真の中で二人が笑って手を繋いでるのをみると、「そうだったのか」とどこかで納得してしまう自分もいた。
「‥‥レイジも、覚えてるかな。このこと」
「どうなんだろうね?
今度、会った時に聞いてみれば?」
ニーナがハジメの背中をさするように、優しい声で言葉をかけた。
「うん‥‥」
ハジメはその晩ずっと、なんだか心がざわついたままで、なかなか寝付けなかった。
なんでこんなに苦しいんだろう。
なんてことない。
子供の頃の何気ないエピソードを忘れるなんて、よくあることじゃないか。
「‥‥」
なのに。
まるで心の中に二人の自分がいて、ひとりは「思い出したくない」と言い、もうひとりは「思い出したい」と言って、左右で自分の腕を引っ張っているような感覚が、ずーっと続いている。
この心の正体は一体なんなんだろう。
「‥‥‥‥」
シトシト降り続く雨音を聞きながら、ハジメはずっと考えていた。
文化祭が近くなるにつれ、校内はにわかに活気立つ。
しかしそれに反比例するように、連日の豪雨で自主練が続くサッカー部の面々は、少しずつフラストレーションが溜まっていくように見える。
「‥‥‥‥」
とくにヨウジはここのところ、まともな練習ができずにずっとイライラとしている様子だった。
ハジメは、あれから特に用もないのにフラッと美術室に立ち寄る事が増えた。
あれからずっと心の隅でモヤモヤしている"自分が忘れてしまった記憶"をレイジに聞き出したかったのだ。
「あ、あのさ‥‥」
しかし、いざレイジを前にすると、雑談はいくらできるのに、その話題だけはどうしても切り出せず、毎回なんてことない会話だけして、お茶を濁して終わってしまう。
‥‥今日こそは。
レイジにちゃんと聞こう。
そうハジメは決意していた。
「あ、ハジメ!どうしたの?」
放課後に美術室に立ち寄ると、ニーナは粘土で立体作品を作っていた。
教室ではニーナの他にも幾人かの部員が、文化祭を前に作品制作に追われている。
「ん。なんか部活もできなくて手持ち無沙汰でさ‥‥レイジいる?」
「‥‥うん。レイジ君なら"いつものアトリエ"だよー」
ニーナは声だけで返事すると、手元はせっせと緻密に作品を作り続けた。
ハジメは、慣れた様子で準備室のドアをノックする。
「レイジ?俺だけど‥‥」
「あ、ハジメ君。いらっしゃい」
ドアの向こうにレイジの声がする。
ゴソゴソと何かを片付けるような音の後に、ドアが開く。
レイジは相変わらず、ハジメが来るといつもドギマギしたように描いている絵を隠してしまう。
「途中経過の絵ってさ、昔からなんか、見られるの恥ずかしいんだよね‥‥」
と、その度にレイジは情けなそうに笑うのだった。
「‥‥もしかして、邪魔だった?」
申し訳なさそうにハジメが聞くと、レイジは首を横に振りながら言った。
「ううん。俺もちょうど気分転換したかったところ」
「そっか」
レイジは椅子に座ったままうーんと体を伸ばす。
「‥‥あ、あのさ」
ハジメは、意を決して話しかける。
「おれ、レイジに聞きたいことがあるんだけど‥‥」
「なに?」
少しだけドキドキしながら、ハジメは言葉を続ける。
「お前って‥‥。
子どもの頃、サマーキャンプに行った記憶ってある?」
レイジの伸びていた体がピタッと止まる。
そのまま振り返ると、ハジメを見て言った。
「‥‥あの町内会のやつ?」
「うん」
「‥‥‥‥あるよ。でもなんで?」
少しの沈黙の後、懐かしそうに言うとレイジは笑った。
その反応に、ハジメの顔が少し明るくなる。
「よかった。
おれさ‥‥なんかその時の記憶が、全然思い出せなくて、最近ずっと気になってんだ。
なあ。その時、おれもいただろ?
‥‥おれってどんなだった?
多分、覚えてるならレイジも知ってるよな‥‥」
しかし、ハジメの問いに、レイジは一転して表情が暗くなる。
「‥‥‥知りたい?」
レイジの目元に影が落ちる。
「うん」
「本当に?」
「‥‥うん」
「じゃあ‥‥‥‥‥‥いいよ。教えてあげる」
レイジはそういうとおもむろに椅子から立ち上がると、ハジメの前に歩き出した。
「え?‥‥」
静かな気迫に押され、ハジメは思わず後ずさる。
レイジはそんなハジメを追い詰めるように、あっという間にハジメを美術部準備室の壁へと追いやってしまう。
「‥‥あの、レイジ‥‥」
そう呼びかける相手は、いつもの優しい表情とは違い、無機質な冷たい顔をしている。
普段あまり気にすることはなかったが、自分よりも一回り以上体の大きなレイジにそんな表情で立ちはだかれると、ハジメは少しだけ身がすくむような思いになった。
「な、なんかいつもと違うって‥‥」
見下ろすようにこちらを見るレイジの視線が少しだけ怖くて、ハジメは恐る恐る声をかけるが、返答はない。
「‥‥‥‥」
思わず視線をずらそうとすると、そのままレイジは無表情のまま『目をそらすな』と言わんばかりに、ぐっとハジメの顎を掴んで言った。
「うっ‥‥!」
「ねえ。‥‥俺の目、見ても思い出さない?」
「わ、わかんない‥‥‥」
そう言うと、前髪の隙間からハジメをとらえるレイジのするどい視線が、次第にゆっくりと近づいていく。
ハジメは息をのんだ。
「あ‥‥‥」
唇が触れそうになるギリギリ。
鼻息がかかるくらいの距離まで来たところで、ハジメは耐えられなくなり、とっさに目を閉じて反射的に顔を横にそらした。
「‥‥なーんて。やっぱりやーめた。
ドキドキした?‥‥冗談だよ。ごめんね」
その瞬間、パッと手が離れていつものレイジに戻る。
「‥‥ばかっ‥!
はぁっ、冗談でもやってもいいことと、悪いことがあるだろ‥‥!ふぅ、」
レイジに見つめられた時、緊張のあまり呼吸がままならなくなってしまっていたハジメは、そう言いながら必死に息を整える。
「‥‥俺が教えちゃったら、それはもうハジメ君の思い出じゃなくなるから、言わない」
そんなハジメを面白そうにながめて笑ったあと、レイジは小さくポツリとつぶやいた。
「なんだよ‥‥さんざん人をおちょくっといて!」
「‥‥だからごめんってば。すねないでよ」
「別にすねてねーし!」
「まあ、そもそもさ。
"思い出せない思い出"なんて、最初からその程度の事だったんだから。
‥‥いちいち気にすることないって」
そう言って笑うと、レイジは近くにあったクロッキー帳とサインペンを手に取り、さらさらと即興でなにかを描き込みはじめた。
「さて気分転換。これ、だーれだ」
そう言って、クロッキー帳をみせる。そこには素描で描かれたハジメの似顔絵が描かれていた。
「‥‥おれ?」
「正解!」
「え、おれってこんな顔なんだ。
なんか変な感じ‥‥。てか、キャンバスの絵はみせてくれないのに、こういうのはいいのかよ」
「‥‥‥あれは特別だから。
じゃあ次、コレは?」
再び、慣れた手つきでサラサラと描く。
「あ、ニーナとミズキ。すげー!そっくり。」
走り描きのような少ない線でも的確にそれぞれの特徴を捉えているのに、ハジメは素直に感心する。
「あったり!
じゃあ‥‥コレは?」
最後に出された問題の絵をみて、ハジメは言葉がつまる。
「あ‥‥‥‥‥ヨウジ」
そう言うと、ハジメは照れくさい気持ちをごまかすようにうつむいた。
「ふふ。
ハジメ君って‥‥本当にヨウジ君の事、好きなんだね。表情見てたらすぐわかるよ。もう、バレっバレ」
そういってレイジは笑う。
「‥‥からかうなよ」
「恥ずかしがらなくていいのに。
ヨウジ君のこと思い出してる時の表情、すごく素敵だよ」
「やめろって、そういうの!」
そう言うとハジメは少し強い口調でうつむいた。
「本気で言ってるのに‥‥。ねえ、怒った?」
レイジが聞く。
「別に」
言葉ではそういうが、ハジメは少しむすっとしている。
「ごめんって。これ、おわび」
そういうと、ぴり、とそれまで描いていたページを破ると、ハジメのクロッキーを本人に渡した。
「なんだよ」
ハジメは思わず受け取る。
自分の似顔絵をもらうのは気恥ずかしいけど‥‥なんだか嬉しい気もする。
「ヨウジ君のもいる?」
レイジがイタズラっぽく聞く。
「ば、ばーか。いらねえよ!」
とハジメは強がるが、
(嘘。本当はちょっと欲しい)
と心の中で思った。
「これ、最初からあげるつもりで、三割り増しで描いたから。捨てないで飾ってくれるとうれしいな」
「‥‥いちいち一言うるせーんだよ、ほんと」
そんな他愛のないやりとりの中、ふいに美術準備室のドアが勢いよく開いた。
「大河原、マジで邪魔!」
という言葉と共に、盛大な舌打ち。
振り返ると、いつになくいらだった様子のミズキが立っていた。
ミズキはハジメを忌々しく睨みつけると、つかつかとレイジの元まで歩いて言う。
「‥‥‥なにこれ?落書き?」
クロッキー帳に描かれたレイジの素描をみて、ミズキはため息をつく。
「レイジ。あんたさ、締切とっくに過ぎてんのわかってる?こんなの描いてるヒマあんなら、さっさと絵仕上げてよ。こっちはずっと待ってんだけど」
眉間にシワがグングンと寄っていくのも気にせずミズキは詰め寄る。
「うう。ご、ごめんなさい‥‥」
さっきまで飄々と自分をおちょくっていたレイジが、いまはミズキにガン詰めされ、背の高い大きな体は所在なさげにしおらしく縮こまっている。
その姿にハジメはふと、どこかで見た"いたずらをして飼い主に叱られるゴールデンレトリバーの動画"を思い出した。
「あのさぁ。なんか後ろでヘラヘラしてるから言うけど、大河原も同罪だから!」
ばちが当たったんだ。ざまーみろ。
と、のんきにレイジの背中をながめていたら、ミズキの怒りがこちらにも飛んできてハジメはドキッとする。
「えっ?」
「アンタがくるとさぁ‥‥。レイジの制作が止まんだよ!大河原はよそものなんだから、これ以上シャシャって来んなって!」
「よ、よそものって‥」
「ミズキちゃん、違うよ。
ハジメ君はすぐ帰ろうとしたんだけど、俺が引き止めちゃっただけで‥‥」
レイジは弁明するが、ミズキは全く意に介さない。
「レイジは黙ってて。
ニーナから聞いたけど、アンタここ最近部室に寄りすぎ!
あたしはね、絵を受け取って終わりじゃないの。
そっからやる事が山ほどあんの。
でもそれ、いまぜーんぶストップしてんの!
もしこれでさ。
あんたがちょっかい出し続けた結果、レイジが絵を"落としたら"どうする?」
ミズキがするどい視線でハジメをにらみつける。
「‥‥もしそうなったら。
あたし、マジであんた半殺しにするから。
先輩から引き継いで初めての舞台なの。
確かに筆は遅いけど、あの作品にはアイツの絵が不可欠なの。だからマジでうちらの邪魔しないで!」
「まあまあミズキちゃん‥‥。
何も悪気があるわけじゃないんだし。ちょっと落ち着こ?ね」
騒ぎを聞きつけたニーナが、三人の間に割って入ってくる。
「‥‥あんたはいっつも二人に甘い」
ミズキはニーナの言葉に、口を尖らして子どものようにすねた。
「‥‥‥‥」
正直、ぐうの音もでない。
圧倒的にミズキが正しい。
自分の巣に戻れ、か。
その時、ハジメはふと思いだす。
最近そういえば自主練をサボり気味だった事に。
何日、空けてただろう。
「‥‥‥‥」
ハジメは気まずそうに、土砂降りの窓越しに部室を見た。
