幸福な王子の恋人

授業中、ふいに昨晩のニーナが言っていた言葉がふっと浮かんだ。

"変わることってさ、自分で思ってるより、案外悪いもんでもないかもしれないよ"


──本当かよ。とつばめは思う。

でも、あれから寝る前に自分でも少し考えてみた。

レイジとは初対面で、噂ではもっぱら『ヘンな奴』と言われていることが多かった。でも実際に話してみると、不器用だが彼なりの優しさのあるやつだと、つばめは思った。

"大丈夫だよ。‥‥じゃあ戻ろう。
俺がなんとかするから"

"大河原君が元に戻っても、俺は絶対に君に迷惑はかけない"

少なくともつばめには、レイジの言葉に嘘はないと思えた。



昼休みのチャイムが鳴る。
クラス中の生徒が一斉にざわざわと散らばっていく。

「おい。つばめ。パン買いに行くぞ」

ヨウジが軽い口調で背中を叩く。

「う、うん」

距離が近い。
思わず、つばめは少し離れて歩いてしまう。

しかし離れると、ヨウジは更に近づいて、つばめの顔を心配そうにのぞき込む。

「どうしたんだよ元気ねーなぁ。
‥‥もしかして、体調悪いのか?」

「そんなんじゃないから、大丈夫だって」

「そ。それなら安心した。
まぁ、食欲ないならお前の分のパンも食ってやるから。いつでも言えよ」

そう言ってヨウジはニッコリ笑う。

(う‥‥ああ、カッコいい‥‥)

会話とは無関係に、無意識にわいてくる心の声。

それを必死につばめはかき消す。

「‥やーだよ!俺は元気でまともだっつうの!」

自分に言いきかせるように、とりとめのない会話をしながら歩く。


つばめは、いつも昼はヨウジやサッカー部の悪友メンバー繋がりで、固まって食べている。
その日もいつものようにワイワイと連れ立って、購買のパン屋の所まで歩いていた。

「お」

その時、ヨウジが何かに気づいたように声を上げた。

つばめもその声に思わず見ると、離れたところからレイジが歩いてくるのがわかった。
しかしその姿は、昨日と様子が違っている。

「あいつ‥‥制服着てなくね?」

クラスメイトの一人が言う。

レイジは見慣れない絵の具まみれのツナギとエプロンに着替えて、長いぼさぼさ頭を無造作にまとめていた。

「‥‥‥‥」

すらっとした身長も相まって、その出立ちがつばめにはやけに大人っぽく見えて、なんだか目が離せなくなる。

弁当箱を包んだバンダナを指でひっかけ気だるそうに歩く姿も、普段のイメージとはまた印象が違って見えた。

‥‥あ。

つい、そんなレイジを目で追っていたら、遠くからでも目線があった気がして、つばめは慌てて視線をそらす。

そのまま、距離が近づく。

「日替わりパン、今日何だろ?」
「カツサンド残ってねーかなー」

ヨウジやサッカー部の面々は、特に彼にさしたる興味もなく、とりとめのない会話をしながら至って普通に通りすぎる。

「‥‥」

しかしレイジはすれ違いさま、つばめだけにわかるように控えめに、前髪の隙間からアイコンタクトを送ると小さく笑った。

「ッ‥‥!」

その瞬間、つばめの心臓がとびはねる。

そしてそのまま、何でもないような様子でレイジはすれ違っていく。

──ばくばくばく。
心臓はまだ鳴っている。

つばめは、まるでレイジと秘密の共有をしているような、誰にも知られてはいけない関係を隠しているような‥‥。
軽い背徳感にも似た感情がこみあげてきた。

秘密の共有。
あれ?なんか‥‥。

「なんだよこれ」

と、つばめが思うのと同時に、ヨウジがつぶやいた。

目線の先には、やけに年季のはいった刷毛(はけ)が床に落ちている。

「うわ、すっげーボロい‥‥」
「誰が落としたんだ?」

ヨウジはそれを拾い上げるなり、悪友たちと顔を見合わせる。

つばめには見覚えあった。
──おそらく、レイジのものだ。
昨日、美術室に荷物を運び入れる時に見た事がある。

「ま。オレがあとで職員室に届けとくわー」

「あ、それって‥‥!」

ヨウジが言って自らの制服のポケットに入れようとするのを、とっさにつばめは奪い取るように手に取った。

(やっぱり、そうだ‥)

そして確信する。

「つばめ、どうしたんだよ」

いぶかしげにヨウジが聞く。

「多分これ、あいつのだ。
‥‥おれちょっと渡してくる。
ごめんけど、先行ってて」

「あ、おい!」

ヨウジが背後から声をかけるのも気にせず、つばめは走り出す。

「カツサンド!
まだ売ってたら代わりに買っといて!後で払うから!」

つばめは振り返ってそれだけ言うと、レイジを追いかけて走って行く。


「なんだよつばめのやつ、やけに急いで‥‥」
「ま、いいや。先いこうぜ」

悪友たちは特に気にする様子もなく先を進める。

ヨウジだけが、消えていくつばめの背中を見つめながら、苦しそうにポツリとつぶやいた。

「‥‥‥俺だって、知ってるっつうの。
コレが山岸のモンだってことくらい‥‥!」



──記憶は、あの"雷の日"にさかのぼる。

閃光と轟音のあと、ヨウジはすぐに目を開けた。

土砂降りの雨の中で、目の前のつばめはうつ伏せに倒れたまま動かない。
サーっと全身の血の気が引いていく。

「おい!‥‥つばめ!大丈夫か?」

声をかけるが反応はない。
ごろんと体を仰向けに起き上がらせると、力ない表情でぐったりするつばめの体に、大粒の雨が激しく打ち付ける。

「‥‥あ、ああ‥‥‥つばめ!」

ヨウジはとっさにつばめを雨から守るように抱きかかえる。

「こんなの嘘だ。いやだ‥‥嫌だ!」

さっきまで、二人で顔を見合わせて笑い合っていたのに。ヨウジの脳裏に、つい数分前のつばめの笑顔が鮮明に浮かぶ。

でもいまでは、泥と雨水でびしょ濡れになって、かたく目を閉じたままピクリともしない。 

どうして‥‥どうして。

「‥‥あ、ああああーっ!
つばめ、起きろ!つばめ!‥‥つばめ!」

呼吸を荒げて、ヨウジはそのまま泣き叫びながら、肩を掴んで揺さぶり起こそうとする。

「‥‥海野君!何してんの!」

完全に取り乱すヨウジの元に、ツナギとエプロン姿のレイジが現れると、強引にふたりを引き剥がした。

「頭ぶつけてるかも知れない人を揺さぶるなんて絶対やっちゃダメ!‥‥‥何考えてんだよ‥!」

「‥‥‥‥!」

レイジはヨウジを怒鳴りつけると、全速力で走ってきたのか、肩で息を整えながらも震える手でつばめの脈拍をはかる。

「だって、つばめが‥‥つばめが‥‥!」

言葉にならない言葉で、ヨウジは泣きじゃくる。

オレの大切なつばめが‥‥。

そこまで言おうとして、涙で声がうまく出ない。


「‥‥大丈夫、つばめ君は死んでないよ。脈も呼吸もちゃんとあるから」

「う‥‥ううっ‥‥うううう‥‥」

その言葉に、ヨウジはへなへなと力が抜けると、そのまま嗚咽した。

「とにかく。ここにいたら危ないから、行こう。
つばめ君は俺が保健室に連れてく。
‥‥海野君は自分で歩いて来れるでしょ」

レイジはそう言うと、その場で呆然とするヨウジを置いて、軽々とつばめを持ち上げて保健室に運んで行く。

その時に、ヨウジは見ていた。
ツナギの後ろポケットに入ったあの刷毛を。

──忘れるわけない。
ヨウジはとってあの"雷の日"は、自分の無力さを痛感したのと同時に、つばめへの思いを強く揺さぶられた日なのだから。



あれ、どこだあいつ‥‥。

昼時の人混みに紛れ、つばめはレイジの姿を見失ってしまう。

しかし、あんな格好をした彼が行く場所は察しがついている。

──美術室だ。

つばめは先回りして教室の前まで全速力で走ると、その推察通りに少し離れたところからレイジがうつむき加減に歩いてくるのが見えた。

「山岸!」

予想だにしないつばめの呼びかけに、レイジは驚いた様子で頭を上げる。

「え?大河原君、なんでここに?」

とまどうレイジに、つばめはすっと駆け寄ると、刷毛を差し出した。

「これさ。多分お前のだろ。さっき落としてたぞ」

「‥‥え?」

その言葉に、レイジは自らのツナギのポケットを確認する。

「あ‥‥‥‥ごめん、ありがとう。
このツナギ、ポッケ緩くなってて。
たまに物入れても知らないうちに落ちちゃうんだよね」

「お前って、本当どんくさいヤツなんだな」

「いや、返す言葉もないよ‥‥。
考えごとしてて。全然気づかなかった」

恥ずかしそうにレイジは言うと、刷毛をエプロンのポケットにしまう。

「‥‥でも、その格好似合ってるな。
ゲージュツカみたい」

少し興奮した様子でつばめが言う。

「‥‥ああこれ?
絵の具が制服についたらなかなか取れないからさ。
このツナギとエプロン、中学生の頃からずっと使ってるんだ。年季入ってるでしょ」  


そう言ってレイジは笑う。

「‥‥‥‥‥それよりも、海野君たち待ってるんじゃないの?早く行ってあげたら?」

「ああ。あいつらには伝えてあるから、大丈夫」

つばめは言うと、自分でも少し驚いた。

レイジの落とし物を届けに来た。

というのは建前で、本当は、突然みた彼の知らない一面にただ純粋に興味が湧いて、とっさに声をかけたくなった気持ちもあったからだ。

「‥‥それよりも。
お前さ、いつも1人でここで昼飯食べてんの?」

つばめが聞くと、レイジは笑って返す。

「まさか。いつもは教室で食べてるよ。今だけ特別なだけ」

「特別?」

「‥‥じつは昨日あの後の打ち合わせで、詰められちやってさ。

演劇部のポスター。
じつはまだ描けてなくて。
締切はもうとっくに過ぎてるんだ。
それでも何とかギリギリまで待ってもらってる状態で。

だから、こうしてお昼の時間削ってせっせと描いてるんだ」

「あ、‥‥‥そうだったんだ。
なんかごめんな。忙しいところ呼び止めて‥‥」

「ううん。全然」

「それじゃ‥‥」

そう言うと、二人はいったん別れようとしてレイジは教室の扉に手をかける。

そこで、

「あ!」

と、何かを思い出したようにレイジが顔を上げると、付け加えるように呼び止めた。

「大河原君‥‥あの、覚えてる?
ほら‥‥‥昨日君が元に戻りたいって話してくれたの」

「あ、うん」

「あの時、"俺がなんとかする"って言ったけどさ。それは、ちゃんとやるから。
‥‥あれから俺、いろいろ調べてきたから」

「‥‥え?まだ一日しか経ってないのに?」

つばめはあまりにも前のめりなレイジに、少し驚く。

「うん。なんかいてもたってもいられなくて‥‥。なんかキモいよね‥‥我ながら」

自嘲気味にレイジが笑う。

「‥‥‥‥‥」

つばめは、まだ出会ったばかりの関係で、そんなことないよ、と返すのもなんだか変な気がして、思わず黙り込む。

「だからさ、今日の放課後‥‥。
あらためて美術室にきてもらっていい?」

そわそわと様子をうかがうように前髪の隙間からレイジの目が泳ぐ。

「‥‥わかった。いいよ。
じゃあまた、後でな」

そう言ってはにかむつばめの表情をみて、ホッとしたように彼も笑った。

「うん。それじゃあ、改めて。
‥‥‥またね」

そういうと、二人は別れた。



「──そういやさ。
山岸とつばめなんて、どう考えても絡みなんかねーはずだろ。

なのになんで、あの時の刷毛があいつのだってわかったんだよ」

昼食中、購買で買ったパンをもさもさ食べながら、ヨウジは思い出したように切り出した。

「ん、まあ‥‥ね。
こないだあいつがめっちゃ荷物持ってる時に、偶然廊下でバッタリあったんだよ。
それが見ててすげー危なっかしくてさ。そん時にさ、運ぶの手伝って気づいたんだ」

「‥‥‥ふーん」

いまいち納得してない様子で、ヨウジは少し乱暴にパンにかぶりつく。


(‥‥そしておれはその時に、お前への秘めた思いをあいつに見抜かれました。‥‥なんて、本人を前にして言えるわけないよな‥‥)

つばめは思いながら、ヨウジが代わりに買って来てくれたカツサンドをもぐもぐ食べる。


「でもさー‥」

ふいにつばめは、パンを噛み締めながら言った。

「山岸って、噂で聞いてたよりなんか、いいやつだったよ」

「‥‥いいやつ?」

ヨウジはパンを口に運ぶ動作のまま、固まって聞く。

「いや、なんていうか、静かでのぺーっとしてて何考えてんのかわかんないのに、妙に気がきくというか‥‥。
優しいと言うかさ」

「‥‥そうか?
‥‥‥‥あいつが?優しいか??

まあ妙な気はきくっつーか、
なんかヘンな勘をもってる奴だよな。
オレは、あいつが何考えてるのか‥‥全くわかんねえけど」

「‥‥あれ、ヨウジも山岸と話したことあんの?」

意外な様子でつばめがたずねる。

「そりゃあるだろ‥‥‥。一回くらいは。おんなじ学年なんだから」

つばめの言葉にぶっきらぼうにヨウジは返すと、荒々しくパンにかじりついた。



──昼休憩があける頃。
ひょっこりとつばめの教室を通り過ぎて行ったレイジはもうツナギとエプロン姿ではなく、自分と同じ制服に着替えていた。

「‥‥‥‥」

なんだか彼の知らない一面を覗き見たみたようで、つばめは少しドキドキする。


放課後になるのが、こんなに長く感じたのは初めてだった。

六時間目の授業はほとんど頭に入らず、チャイムが鳴るのと同時に、つばめは鞄を持って駆け出そうとしたところで、ヨウジに呼び止められた。

「おーい、つばめ!この後の自主練なんだけど‥」

「‥ごめん。おれ今日、ちょっとパス‥‥」

「どうした?‥‥やっぱり、具合悪いのか?」

弱々しく返すつばめの声に、ヨウジは一気に心配そうな表情になって少し後ろめたくなる。

「いや、そう言うのじゃないんだけど。‥‥ちょっと急きょ約束ができちゃってさ」

「‥‥約束、か‥‥。わかったよ」

ヨウジは、何が言いたげな気持ちを飲み込むように静かに返す。

「ごめん。明日は必ず行くから‥‥それじゃ!」

つばめはそんなヨウジの顔が見れなくて、それだけ伝えると足早に走り出した。

「‥‥‥‥」




レイジは一体、何を調べてきたんだろうか。
はやる気持ちを抑えて、つばめは一目散に約束していた美術室にたどり着く。

「山岸!」

しかし、扉を開けると教室には誰もいなかった。

おかしいな、と思い周りを見渡すと、奥にある美術準備室のドアが不自然に半開きになっている事に気づく。

「‥‥おーい。って‥‥」

扉の向こうから人の気配を感じる。
つばめは思わず、すき間から中を覗き込む。

そこには、作業着とエプロン姿に再び着替えたレイジが、一心不乱に何かを描いている姿が見えた。

「‥‥‥‥」

レイジはあらかた何かを描き上げたものの、それには納得いかない様子で、絵筆でぐちゃぐちゃと塗りつぶす。

その後、深いため息をつきしばらく何かを考えるように動きが止まるが、またすぐ真剣な眼差しになり‥‥再び静かにキャンバスと向き合う。

あいつ、あんな顔もできるんだ‥‥‥。

それまで運動音痴でうろたえる姿や、階段から落ちてキョトンとする顔ばかりが印象に残っていたつばめは、その表情がひどく新鮮で、思わずしばらく見入ってしまう。

(‥‥いや。でも、こんなことするために来たんじゃない‥‥)

と、本来の要件を思い出したつばめは意を決して、恐る恐るドア越しに声をかけた。


「‥‥山岸?」

「うわッ!
びっっっ‥くりした~‥‥‥。
って、大河原君か」

扉のすき間から呼ぶと、レイジが椅子からひっくり返るほどの衝撃で驚いたのが声でわかった。

「‥‥悪い!
そんな驚かす気はなかったんだけど。
あまりにも真剣だったから‥‥。
なんか、声かけづらくて」

「ううん。気にしないで‥!
てか、しまった。もうこんな時間か‥‥」

二人はドア越しに会話をする。

「集中して忘れてた‥こっちこそごめん」

「いや、ぜんぜんいい」

言いながら、つばめはドアを開けようとする。

「あ!開けないで!」

が、間髪入れずにレイジに大声で静止されてしまう。

「いま散らかってるから!
準備するから、ちょっと待ってて!」

レイジはそういうと、ドタバタと向こうで何かを片付けては引っ張り出しているのがわかった。

つばめは、しばらくの間ドアの前で待つ。


──数分間、ドアの向こうでレイジが片付けに奮闘する音が聞こえたのち。

「お待たせ!
すこし散らかってるけど、気にしないで‥‥」

という言葉と共に、少しくたびれた様子のレイジが、絵の具だらけの手でつばめを中に引き入れた。


「すご‥‥」

中に入るなり、つばめは驚きの声を上げた。

最初に飛び込んでくるのは、油絵の具独特のすえた油脂っぽい匂い。

それから、床に散らばったたくさんのクロッキー。

それは皆一様に暗く塗りつぶされ、あるものはぐしゃぐしゃに丸められて埋め尽くされ、まるで獣道のようにレイジの導線に沿って、そこだけ床がみえている。

獣道の終点は窓際まで続いていて、そこにはイーゼルと小さなイスと、いろいろな画材が一緒くたに詰められたワゴンが置かれていた。


「あ、あの絵‥‥」

昨日つばめが運び入れた、すでに完成している何枚かの絵は、次の作品のインスピレーションを得るためか、イーゼルの周りに控えめに飾られている。

だが、あの大きなキャンバスはだけは、描きかけを隠すように反対向きに立てかけられていた。

「なんか、本当にゲージュツカ、って感じ。アトリエってこんな感じなのかな‥‥」

「‥‥まあそんないいもんじゃないけどね」

あっけに取られるつばめに、照れくさそうにレイジが言う。

「アトリエだなんて聞こえはいいけど。
実際は俺の筆が遅いから、痺れ切らして顧問にかけあって、ニーナちゃんとミズキちゃんに強制的にカンヅメにされてるだけだから。これなら集中できるだろ、って感じで」

自戒も込めてレイジが言う。

「‥‥まあとにかく、座ってよ」
「あ、ありがと」

つばめはレイジに言われるまま、イーゼルの前にある椅子に腰掛ける。

「‥‥じゃ、さっそくはじめよっか」

レイジはそういうと、隅に重ねられた椅子を一つ取り出して引きずると、大量の本やファイルをまるごと抱えて持ってきた。

「──でね。これが俺が調べた資料なんだけど‥‥」

「えっ、え?ちょっと待って‥‥。
すご。これ1日で集めたの?」

資料は本だけじゃなく、ネットからプリントアウトしたものを集めたクリアファイルや、ノートまである。

その熱意に思わずつばめは戸惑ってしまう。

「なんか悪いことさせちゃったな。
忙しい中、大変だったろ」

「‥‥そんなの全然気にしないで。
俺が勝手にやった事だから。
‥‥それよりもさ」

ばさばさと資料を探りながらレイジは言う。

「まず‥‥。
今回みたいに、事故で性格が変わること自体は、医学的には十分ありうるんだって。例えば、この本みたいに」

そういうと、レイジは小難しそうな脳科学の本を手に持った。

「でもそう言う場合は‥‥ホラ。
ここに書いてあるみたいに、大抵は前頭葉とか側頭葉への損傷がセットなんだ」

そう言うと、レイジは付箋をつけたページを開き、マーカーが引かれた小難しい文章を指で示す。

「でも、大河原君の場合は、そうじゃない。
‥‥昨日の病院では、みっちり検査した結果、"異常なし"だったんだよね?」

レイジの返答に、つばめはうなずく。

「じゃあ、今回のケースはそれじゃない。
で、次に俺が調べたのは、医学的なエビデンスはないけど、過去に雷で心が変わった人たちの記録を集めてみたんだ」

差し出されたのは、海外のインタビュー記事のスクラップだった。

「つばめ君の場合は、こっちの方が近いんじゃないかなって思ってる」

そこには、雷事故で別人のように性格が変わった者や、記憶を失った者、逆に全くない記憶が生まれた者などの証言がまとめられていた。

「いろいろ集めてみて思ったけど。
医学的な根拠がなくても、それはまだ医療が追いついてないだけかもしれないし。

俺は、雷で趣味趣向が変わってしまうことって、充分ありえるんじゃないかって思うんだ」

「なるほど‥‥」

「まあそうなると次の問題は、"じゃあどうやって元に戻るの?"ってことになるわけなんだけどさ。

これがなかなか‥‥。
一日じゃ調べきれなくて。

夜遅くまでいろいろ考えて、答えが見つからなかったんだけどさ。ふと、リビングに行ったら、両親が手繋いで仲良く映画観ててさ」

「‥‥‥はあ」

‥‥あれ、なんだか急に雲行きが変わったぞ。

「その映画は、主人公がタイムスリップして自分の両親をくっつけてパラドックスを治した後、タイムマシンの電力を雷で補って、現在に戻るってお話で‥‥」

「ちょ、ちょ。ちょい待ち!
それ、おれ知ってる。めっちゃ有名な作品‥‥‥。
そのTシャツ、持ってる」

「‥‥‥その映画を観たとき、俺はこれだ!って思ったよね」

「は、はあ‥‥‥。
つまり結論、フィクションってこと?」

呆れた様子でつばめは突っ込む。

「‥‥まあ、そうなる」

「‥‥」

「でもすごくない?
シリーズ合わせると3回もタイムスリップしてるんだよ」

「あのさあ!」

つばめが呆れたようにツッコむ。

「‥‥っていうのは、冗談で。
だけど実際問題、君はあの雷の日を機に、心が変わっちゃったんでしょ?

それまではヨウジ君のこと『良き友人』としか思ってなかったのに、いまではその日以来ずっと、それ以上の気持ちでみてる」

「た、たしかに‥‥。それはそうだけど」

「そして、そんな自分を受け入れられなくて‥‥元の自分に戻りたいと思ってるんだよね?」

「うん‥‥」

「それならもう一度。
ダメ元で"あの日と同じ条件"を再現してみる。って言うのはどう?」

「‥‥」

「これ、見て」

そういうと、レイジは"ある日"の詳細な天気予報をつばめに見せた。

「おあつらえ向きに‥‥。
あの時とほとんど同じ天候になる日が、向こう数ヶ月の中で、直近で『1日だけ』あるんだ」

平均気温は28度。
終日豪雨。「時折雷雨に注意」
雷のピークは15時半~16時。
確かに、あの時とほぼ同じ。

そして日付は───。

「‥‥‥文化祭の当日」

つばめの言葉に、レイジはうなづいた。

「それにね。
文化祭当日のこの時間は演劇部が体育館で演劇をしてるんだ。

ここの学生演劇ってけっこう人気らしいね?毎年立ち見が出るくらい人が殺到して、その間は他のブースが空っぽになる事がよくあるとか。

だから、他の日よりも雷雨の中グラウンドにいても、作戦を邪魔される心配も低いんじゃないかな」

‥‥こんなの、荒唐無稽だ。

「それに俺の算段では、雷が落ちるなら、グラウンドにある欅が避雷針になるとにらんでる。

現にあの時も、2人がグラウンドの真ん中あたりにいる時、欅があの大きな雷を全部吸収してた‥‥。

当日もその場所にいれば、雷の直撃はほぼまぬがれて、かつほぼ同じ状況で雷の近くに行ける」

だけど───。
なんだか妙な説得力がある。

まるで、"戻るならこの日だ"と神様が言ってるかのように、あまりにも全てが整っている。
‥‥‥そんな気がしてしまう。

「もちろん、本当にそれが正しいのかはわからないよ」

そう前置きして、レイジは言う。

「でもさ。
本当に元の自分に戻りたいと思うなら‥‥。

もうこの際、フィクションでもオカルトでもスピリチュアルでも、もう何でもいいから、文化祭の日に一回賭けてみてもいいんじゃないか、って‥‥。

俺はそう思ってる。
大河原君は、どう思う?」

窓の外では、忌々しい雨がずっと降り続いてる。

「おれは‥‥」

つばめはゆっくりと口を開いた。

「‥‥おれは、ヨウジの事を好きになる前に‥‥。
あいつと"友達だった頃"に戻りたい。
だから‥‥」

──やるしかない。

「お前の話に乗る」

つばめは腹をくくると、レイジに手を差し出した。

「‥‥そう来なくっちゃ。
改めてよろしく、大河原君」

レイジは絵の具まみれの手で、つばめと力強く握手を交わす。

「‥‥つばめでいいよ。
おれもレイジって呼ぶから」

「‥‥え?」

レイジの顔がぴくっと動く。

「‥‥こんなにレイジに世話になってんだから、もうカタいことは抜き」

「あ‥‥ああ。‥‥‥‥うん」

つばめの言葉に、レイジは少しうろたえる。


「なに?おれ変なこと言った?」

「いや、気にしないで。
‥‥‥‥‥じゃあ改めてよろしく。
‥‥‥‥つばめ君」

その後、その名前を噛み締めるように、少しはにかみながらレイジは言葉を返した。


──賭け、か‥‥。

つばめはふと、いつかの記憶を思い出した。

あれは夏のインターハイ、最後の決勝戦。
試合は後半戦終了間近、相手のファウルでPKを獲得した。スコアは2-2。

チームの全員が、"PKを蹴るのはヨウジしかない"と思っていた。

‥‥しかし。
当のヨウジはつばめにボールを渡すと言った。

「お前が蹴れ」
「はあ?!」

「俺は、つばめに賭ける」

周りは怒号にも似た声でざわつく。
どう考えても、確実に点を取りに行くならヨウジに託す以外、考えられないからだ。

しかし、ゆっくり話し合う時間はなく、つばめはボールを受け取るしかなかった。

「‥‥‥‥」

(あいつは土壇場でギャンブルするほど向こうみずなヤツじゃない。

むしろチームの勝利のためなら、いつだって貪欲だ。

そんなヨウジがおれにボールを託した。
‥‥それはきっと、なにか算段があるはずだ‥‥。
‥‥‥‥それなら!)

"迷うな。お前の一番自信のあるコースへ蹴れ。
‥‥お前ならできる"

つばめは、最後にヨウジが耳元で言った言葉を思い返すと、思い切りシュートを打った。

軌道は力強く弾丸の様に飛び出す。
GKの指先がわずかにボールに触れるが‥‥それでも、勢いは死なない。

そのままボールは右ポストの内側を叩き、そのままゴールネットへ勢いよく吸い込まれていった。

「うおおお!!!!」

つばめが決定点を決めた瞬間、その場は一瞬にして湧き上がった。仲間たちが一斉に駆けつけて、つばめはもみくちゃになる。

視線の先には、ヨウジがいた。

ヨウジは、つばめの頭を乱暴にグシャグシャと撫でると、

「な?」

と一言だけ言って、笑った。


‥うん。いけるよ。絶対いける。
そんでまた、あの頃みたいに戻ろう。ヨウジ。

つばめは、決意するように立ち上がると大声で言った。

「おれたちはぜってー、賭けに勝つ!」

「そうだ!その意気だ!
俺たちのXデーは、文化祭当日だー!」

つばめは大声でそういうと、レイジもつられてへなへなの声で返す。

「お───!!!」

その場で気合を入れ合うと、顔を見合わせて二人はぷっと笑った。

ふとその時、一瞬だけ。

つばめはレイジとの他愛ないやりとりに、いままで感じたことのない懐かしさを覚えた。

あれ、この感じ。
おれ知ってる‥‥?

と、つばめは考えを巡らせたが、同時にまた別の疑問も頭に湧いて、それに気を取られてしまう。

「‥‥‥‥ってか、でもさ。
それにしてもお前ってホント変わってるよな。なんで、おれなんかにこんなに親切なんだよ。

‥‥それってやっぱ、ノンケに戻って欲しいから?」

つばめの問いに、レイジは冗談っぽく笑う。

「‥‥まあ、それはあるね」

そんなレイジの返答に、いまいち腑に落ちない様子でつばめは続ける。

「ふーん。
なんかでも、それって難儀なモンだな‥‥」

「なんで?」  

「だって、おれがノンケに戻ったら、お前の恋は実らないだろ?なのに、ノンケの俺が好きだからって元に戻るのに協力するなんて。

‥‥うーんなんか、自分で言ってて頭こんがらがってきた‥」

「あはは。
確かにそうかもね‥‥でもさ」

つばめの言葉に、レイジは笑いながらたずねる。

「つばめ君は、叶わない恋って辛いと思う?」

「いきなりそんな‥‥‥‥。
まあ、そりゃ思うよ。
だってしんどいだけじゃん。そんなの」

「まあ普通はそうだよね。

でもさ、俺はそう思わないんだ。
叶わなくても、遠くから見てるだけでいいんだ。
世の中にはね‥‥そういう恋もあるんだよ」

そうつぶやくレイジの目は、ずっと遠くを見つめている。

「‥‥‥‥なにそれ。
おれって、そんなにお前に好かれるような事したっけ?」

「したよ」

レイジはキッパリと答える。

「つばめ君は覚えてないかもしれないけど。俺を救ってくれたんだ」

「またまた。
‥‥‥そんな、おおげさな。
たかが半年でそんな大層なことあったっけ?」

そうつばめが返すと、レイジの表情が一瞬だけ曇る。

そして、またすぐに笑った。

「大丈夫。
つばめ君が忘れても俺は覚えてるから。
それでいいんだ」