君を好きになる前に

「ねー。さっきの雷やばかったね」

ムツミは、文化祭で買ったアイスクリームを食べながら、向かいに座るヨウジに聞いた。

「んー‥そうだな‥‥‥」

ヨウジはずっと上の空だった。

彼女がいると打ち明けた時。
つばめは今にも泣き出しそうで‥‥それを必死にこらえて笑っていた。

その表情を思うと、胸が苦しかった。

──俺は、ずるい人間だ。
山岸にあんな啖呵を切っておいて、
けっきょくこんな逃げ道を選んだ。

彼女、なんてさ。
エラソーに言ったけど、別に大した仲じゃない。
つばめへの思いをかき消そうと、無理やり作ったんだ。

俺は、つばめへの思いを、どうしても手放したかった。

‥‥だから、これしかなかった。
これでよかったんだ。

そう言い聞かせるように、どんどん溶けていくアイスクリームを見つめながら、ヨウジは思っていた。

外はバケツをひっくり返したような豪雨と共に、時折雷がゴロゴロと鳴っている。

(うざってえ‥‥。
"あの日"と同じみてーな天気‥‥)

ヨウジはそう思って窓の外をふいに見た。

そして、固まった。

「‥‥‥‥‥‥‥つばめ?」

雷が鳴る豪雨の中、うつろにフラフラとさまよう彼を見つけた瞬間、ヨウジの全身に電流が走った。

"嫌だ!いやだ!‥‥つばめ!"

──それと同時に、あの雷の日。
ぐったりと倒れて動かないつばめの姿が、脳裏にフラッシュバックした。

手に持っていたアイスクリームが床に落ちる。

「‥‥あいつ‥‥何やってんだよ‥‥‥!」

思うより先に、体が動いた。

「ちょっと、ヨウちゃん‥‥!どこ行くの」

ムツミの叫ぶ言葉は一切入ってこない。
ヨウジはただ、一心不乱にグラウンドへ向かって走っていった。



昼過ぎだと言うのに、外はあっという間に真っ暗になってしまった。

アスファルトには大粒の雨が叩きつけて、排水が間に合わない様子でうっすら水が溜まりつつある。
すぐそばのグラウンドでも、あちらこちらに大きな濁った水たまりができている。

泣き疲れたつばめは、そのままフラフラとした足取りのまま、水たまりを踏み抜いた。

「‥‥‥‥」

白いズボンが泥水でまたたく間に汚れていく。

雷雲立ち込める中、つばめはよろよろとグラウンドの中心までたどり着いた。

「‥‥れ、‥‥戻れ、‥‥戻れ!」

水たまりの地面にひざまずくように倒れこむと、つばめは拳を地面に打ち付けながら、うつろにつぶやいた。

「戻れ!戻れ!戻れ!
はやく!はやく戻れよ‥‥‥!」

どんどん声は大きく切実になる。
何度も打ち付ける拳はじんじんと痛く腫れ上がっていく。

しかし、つばめの願いはどんなに叫んでも、天には届かない。


「なんで‥‥‥どうして‥‥!どうしてだよ‥!」


震える拳を見つめながら、つばめは叫ぶ。
そのままフラフラと立ち上がると、つばめはあてもなくグラウンドをさまよう。

やがて叫ぶ声も枯れて、うなだれるようにたどり着いたその場に、つばめはうずくまった。


「頼む‥‥戻れ‥‥戻ってくれよ‥‥‥。
こんなの、本当の俺じゃないんだ。

お願いだから‥‥‥早く‥‥お願い‥‥‥」


もう、全部忘れたい。 
全部なかったことにしたい。

全部、なかったことに‥‥。


つばめは、雨水なのか涙なのかわからないぐしゃぐしゃの顔で、曇天を見上げた。



──その時。


「‥‥バカ!あれだけ言っただろうが!はやく木から離れろ!」


聞き慣れた声が、背後から聞こえた気がした。


「‥‥‥‥!」

その瞬間。

つばめの頭の中に、忘れていた記憶の断片がなだれの様に流れ込んできた。


手を繋いで走りあった記憶。

小さな川。

そのキラキラの水面。

そこで幼い二人はずぶ濡れになって笑ってる。


誰かが自分の体に触れている。
その優しい指使い、心地よさ。


"‥‥俺の目、見て。
俺もちゃんと見るから"

そう言って、誰かがつばめを見つめている。
その顔は真っ黒に塗りつぶされてわからない。

でも‥‥声でわかる。


"‥‥‥明日、つばめ君が元に戻っても、変わらずに俺と友達でいて"




「‥‥‥つばめ!!!」

それとほぼ同時、自分の名を叫ぶ誰かに抱きすくめられ、つばめはその場から思い切り引き剥がされた。



──そして。

あの日と同じような雷が、あの日と同じように、欅の木に落ちた。


眩しい光と共にけたたましい轟音が一瞬だけ、学校中を包む。


あの声は‥‥。

つばめは思ったが、意識がゆっくり遠のいて、かき消されていった。




「‥‥め!‥つばめ!‥‥」

つばめは誰かに強く抱きすくめられている。
その誰かは、必死に名前を呼んでいる。


「つばめ!」

その声に、目を開ける。
あの日と同じように、悲痛な表情のヨウジがこちらを覗き込んでいた。

「あれ‥彼女さんは‥?」
うつろな目でつばめが聞く。

「そんなの、いまどうだっていい‥‥!
それよりもお前‥‥なに一人でフラフラしてんだ!
あぶねーだろうが!ほんと、なにやってんだよ‥」

ヨウジは絶叫するように言うと、ほとんどすがりつくようにつばめを抱きしめた。

「頼むからもうこれ以上、心配かけんなって‥‥!
またお前に何かあったら、俺は、俺は‥‥」

そう涙目で必死に訴える。

「‥‥‥俺、お前のこと傷つけるつもりなんか、
なかったのに‥‥‥‥ごめん‥‥‥」

彼の腕の中で、つばめはあることに気づいてしまう。

「あ‥‥‥‥」

あの雷の日から、つばめは密かにずっとヨウジにこうやって包まれたかった。密かにそれを望んでいて、それがいま、叶ってしまった。

(これは‥‥)

だからこそ皮肉にも、いまの自分は、なにひとつ元に戻ってないことに気づいてしまった。


レイジと考えた作戦は失敗してしまったのか。



──いや、違う。
その時、つばめはようやく理解した。


最初から、自分は何も変わってなかったことに。

最初から、自分は彼の事が好きだった。
つまり最初から‥‥"ヨウジの事を好きになる前の、普通の自分"なんて、どこにもいなかったのだ。

‥‥だって、元からずっと好きだったんだから。

雷は、ただのきっかけ。
今まで心の奥底で隠し続けていた本心を照らしただけ。

「こんなの自分じゃない」と、押し殺しつづけた心こそ真実で、最初からいままでずっと、これが本当の自分だった。



‥‥‥‥ああ。そうだった。
思い出した。

どうしておれは‥‥。
自分のキモチをずっと隠してしまっていたんだろう‥‥。


あんなに土砂降りだった雨は、気づけばすっかり小雨に変わっていた。


つばめはヨウジの腕の中で、静かに涙を流した。

「‥‥どうした?つばめ、大丈夫か?
どこか痛い所でもあるのか?」

心配そうにヨウジが尋ねる。

つばめは「ううん‥‥」と短く返すと、ポツリと呟いた。


「‥‥おれ、ヨウジにずっと秘密にしてたことがあるんだ‥‥」

「‥‥‥なに?」
ヨウジは優しい声で尋ねる。


「おれさ。ずっと‥‥‥‥‥。
ずっと‥‥お前の事が好きだったんだよ」


つばめの言葉に、ヨウジは笑った。  

「‥‥‥‥‥そんなの、知ってたよ‥‥‥‥」

そういって、より一層強くつばめを抱きしめる。

「でもそれを問い詰めたら
この関係が終わる気がして‥‥。

俺も、ずっと言えなかった。
けど本当は俺も‥‥俺だって‥‥‥‥」

彼の言葉にたまらなくなったつばめは、すがるようにヨウジの腕を掴む。

「ヨウジ‥‥」

そのまま濡れた目でじっと彼を見つめると、言った。


「‥‥‥‥キスして‥‥‥」


その言葉にヨウジの体が、心が、激しく揺らぐ。

「‥‥おねがい‥‥」

つばめは抱きしめられる体越しに、またたく間に彼の鼓動がバクバクと高鳴っていくのがわかった。

ふたつの心臓が強く響いている。

「つばめ‥‥‥」

ヨウジは顔を真っ赤にして、静かにつばめの頬に手をそえると、目を閉じた。

「‥‥‥‥‥」

その手は震えている。


「あ‥‥‥‥」

ゆっくりと顔が近づいていく。

くちびるまであと数センチ。
近づいたら、二人はくちづけをする。

「‥‥‥‥‥‥」

つばめも目を閉じて、ヨウジの手に自分の掌を重ねる。

その手もまた、震えていた。



そして‥‥‥。

ヨウジは、つばめのおでこにゆっくりと、
優しく、優しく‥‥くちづけをした。

 
「‥‥‥‥‥‥キスしたよ‥‥」

閉じていた目を開けて小さくつぶやくと、ヨウジは笑った。


「やだ‥‥くちびるがいい‥‥‥。
‥‥してよ、ヨウジ」

つばめが、か細い声で聞く。
その言葉に、ヨウジはふっと笑った。
 
「‥‥それは、できない‥‥。
お前とそんな事したら‥‥戻れなくなる。
俺もお前のこと、めちゃくちゃにしたいよ‥‥。

でも‥‥。
それをしちゃうと、
俺たちじゃなくなっちゃうだろ‥‥」

そういうと、ヨウジは涙をこらえるように、力いっぱい抱きしめる。

「‥‥おれじゃ、ダメなの‥‥?」

すがるようにつばめが言う。
その姿に、ヨウジは必死に理性でキモチを抑えこむ。

「‥‥‥ダメなわけねーよ‥‥。
そんなわけない‥‥‥‥。

‥‥‥‥好きだから、できないんだ。

大好きだから俺は、
つばめの思いには応えられない‥‥」

「‥‥‥‥‥いやだ‥ちがう‥‥おれは、ヨウジがいい‥‥」

それでもなお、つばめはヨウジにすがりつくように、そのくちびるに触れようと顔を上げる。


「‥‥‥‥‥‥‥‥だめ」

それを、ヨウジは優しく制止する。

「‥‥‥‥‥‥‥」

その言葉でようやく諦めるように、ずっと掴んでいたつばめの手は、ヨウジの元から離れた。

「‥‥‥‥‥‥‥そっか‥‥」




「‥‥‥だけどさ‥‥つばめ。
打ち明けてくれて、ありがとうな」


ヨウジのほうがずっと泣きそうになりながら、二人は抱きしめ合ったまま、しばらく会話を続ける。


「‥‥‥俺さ。
つばめと試合出るの、すげー好きなんだ」

「‥‥なんで?」

「だってお前、いつも俺のこと信じてパス出してくれるじゃん」

そういうヨウジはいまにも涙があふれそうだった。

「だから俺も、お前なら受けてくれる。って出してた。
なんつーか、心が通じ合ってるみたいな気がして‥‥‥。俺、あれが好きなんだよ」

そう言うと少しだけ笑って、ヨウジはつばめを見る。

「お前は、俺の最高の相方だ」

「‥‥‥‥‥‥」

「‥‥‥恋人にはなれなくても‥俺たちは一緒だ。
だからさ、これからも俺のパス、受けとめてくれよ」

その言葉に、つばめの目から涙がこぼれる。

「‥‥‥‥そんでもって、改めて今後ともよろしく」

「‥‥‥なにそれ‥‥」

つばめはそう言うと、泣きながら笑った。
ヨウジも目に涙をたくさん溜めて、笑った。

叶わなかった思いなのに、涙は止まらないのに。
それよりも不思議とつばめは胸の奥が軽くなって、なんだか清々しい気持ちだった。



──それと同時に、
いまのヨウジなら打ち明けられる。

と、つばめは懺悔(ざんげ)するように、いままで誰にも言えなかった、隠していた心のうちを話し始めた。


「実はさ。さっきの雷の時、おれなぜかレイジのことが一瞬、頭に浮かんでたんだ‥‥。
なんか声がした気がして。‥‥変だよな」

「‥‥」

「‥‥おれ、それなのにレイジに最低なこと言って、嫌われちゃった。‥‥でも、仕方ない。
最初から最後までずっと俺が悪いんだから」

そのまま、また泣きそうになるつばめをみて、ヨウジは声をかけた。

「‥‥山岸のヤツ、事故が起きた時にまっさきに俺らの所に駆けつけてきたの、知ってるか?」

ヨウジは言う。

「うん‥前に本人から聞いた」

「あん時の山岸、すごい剣幕で俺に怒鳴ってきてさ。
めちゃくちゃ的確にお前の事、応急処置したんだ。
つばめのことかかえて保健室まで運んだのも、あいつ。

山岸さ、本気出したらめちゃくちゃ足速いのなー。
‥‥うちの部にスカウトしたいわ」

「え?しらなかった」

「そんで極め付けが‥‥‥あの絵だもんな‥‥‥‥‥。
ほんと‥‥‥あれにはマジで、ビビったわ」

呆れるようにヨウジが笑う。

「‥‥つばめはもう見たか?
山岸が描いた例の演劇部のポスター。
うちの学年、みーんな驚いてたぜ」

「え、なに?まだおれ見てない‥‥」

つばめはわけもわからず、うろたえる。

「そうなん?
だったら、とりあえず今すぐ見てこいよ。
多分今日しか見れないだろ。あれ」

そういうと、ヨウジはつばめをゆっくりと立たせると、背中を押して言った。

「──お前さ。
自分じゃ気づいてないかもしれないけど、山岸と仲良くなってから、変わったよ。すごく。

なんかさ‥‥こう、やわらかくなった。

そんなふうになれる奴と巡り会えるのって、多分人生そんなにある事じゃねーと思うから。

俺さ。ずっと、羨ましかったんだ」

「誰が?」

つばめは尋ねる。

「‥‥‥‥‥‥‥山岸が」

そういうと、ヨウジは笑った。


"この恋は、実らなかった"

言葉にすればただの一言で終わる。
ただそれだけのことなのに、つばめとヨウジにとっては一生忘れない記憶になった。

悲しいけど、辛いけど。
でも、君を好きになってよかった。

それもまた、ふたりで見つけたひとつの正解だった。

「行ってこいよ。山岸のところへ」

そう言うとヨウジは笑って、つばめを送り出した。



あんなに人でひしめき合っていた校内はすっかり静まり返り、みんな体育館に移動したのがわかった。

わずかに校内に残っている人たちとすれ違う度、コスプレ姿でずぶ濡れのつばめを、皆一様にいぶかしげに振り返って見た。

「あれ、あの人‥‥」

そんな風にひそひそ言われるのにも目もくれず、つばめはただ一心に歩いていく。


「あ。おかえり」

美術室に辿り着くと、ニーナだけがひっそりと立っていた。

「‥‥演劇、みなくていいの?」

ニーナは雨と涙でぐちゃぐちゃになったつばめを見ても特に気にする様子もなく、ふたたび目の前のブースの絵に目を落とした。

「うん。私、ミズキちゃんの作品が素晴らしいのはとっくに知ってるから。
少しくらいみなくても全然平気。

それより、今の時間はレイジ君の当番だったけど‥‥。
レイジ君急に体調崩しちゃって。
私が店番してるんだ」

その言葉に胸がずきっとする。
──おれのせいだ。

「‥‥」

言葉なく落ち込むつばめを慰めるように、ニーナはレイジのブースを指差した。

「見て」

レイジの名前のプレートが置かれたその空間は、さまざまな風景画がただ静かに置かれていた。

教室の隅、美術室の窓、川の水面。
見覚えがある。初めて会った時に見せてくれた絵だ。

何気ない日常を切り取ったありふれた景色が淡々と、しかし丁寧な筆致で、精密に描写されている。


印象的だったのは、他のクラスメイトはみな一様に作品それぞれに想いのこもったタイトルをつけるのに、レイジのキャプションは全てが"無題"だったこと。


そうして視線を進めていくと、最後にイーゼルに立てかけれた、一枚の大きな絵に辿り着く。

「あ‥‥!」

つばめはその場に立ちすくんだ。


山岸レイジ
タイトル 幸福な王子

そう銘打たれたその絵は、童話「幸福な王子」の有名なクライマックスを描いた抽象画だった。

物語の最後。
優しい王子のために身を尽くした燕(ツバメ)は死の間際、王子の手にキスする事を望む。
王子自身もまた、自らの黄金や宝石でできた体を貧しい人達に分け与え続け、今にも壊れかけている。

「キスをするなら、くちびるにしておくれ」

王子はそう言って、燕とくちづけを交わす。
その後、燕は王子の足元で力付き、王子も鉛の心臓が音を立てて崩れ、ふたりは二度と動かなくなる。

そんな作中での一連のシーンが、レイジなりの解釈で描れていた。

印象的なのは、もとの童話は悲しい別れであるはずなのに、レイジの絵では穏やかで優しい一幕に切り取られていること。

ひなたの下にいるようなあたたかい色に包まれ、キラキラと泡が輝く水の中で王子と燕は睦まじく、気持ちよさそうに泳ぎながら、口づけをしている。

さっきまでの作風とは全く違う。
新しい表現方法を見つけたような、抑えられたキモチを解放するような、活き活きした筆使い。

"これは終わりじゃなくて、はじまりなんだよ"

思うまま自由に描いたというのが一目でわかる。
そんな絵だった。


──そして、なによりも。
画面の中で、優しく燕と共にほほえんでいる王子の姿は、まぎれもなく、つばめ自身で描かれていた。

「‥‥‥これって‥‥‥‥俺じゃん」

思わずその場から動けなくなる。

絵の中の自分は大切なものを全て手放してもなお、燕と安らかに、幸せそうに笑っている。

なぜ? そんな顔ができるの?

わからない。けど‥‥。
なぜだかその絵をじっと見ているうち、つばめはどうしようもなく、温かいキモチがこみ上げてきた。


「この絵、私もすっごく好き」

ニーナが笑う。

「‥‥レイジ君はね。
よくここからつばめのこと見てたよ。
あの雷の時も、この窓際にいたの」

そう指で示すそこは、美術部の窓際の隅。
風景画で描いたものと全く同じ構図だった。

「あ‥‥」

そこでつばめは気づく。

今まで無機質だと思っていた風景はすべて、どれもレイジが密かにつばめを見ていた景色を切り取ったものだということに。

教室の隅、美術室の窓、川の水面。
一見とりとめのないように見える風景画には、実は全て意味があったことに。

──全てに意味がある。
そう思って、改めてもういちどあの「幸福な王子」の絵を見る。


‥‥‥‥‥そうだ。

‥‥おれ、この小川、知ってる。

行ったことある。
この場所、見たことある。

あの水の色。あの景色。

そしてあの‥‥。
やわらかい感触とぬくもり。


「‥‥‥‥‥‥‥思い出した」

子どもの頃の、サマーキャンプだ。


そうだ。
おれ、小学校の頃にレイジと抜け出して‥‥。

あの日、キャンプ場の少し離れたところにある小さな川に行ったんだ。

そこで初めて二人きりになって、遊んだんだ。
すっごく‥‥すっごく楽しかった。

──でもその時に、レイジが岩の苔に滑って転んで、溺れかけてしまって。

浅瀬だったからなんとかおれが引き上げたけど、ずっとぐったりしてて。

(いやだ‥‥‥!目を覚まして、れいじ‥‥‥)

おれ、たしかそのとき父さんから教わったやり方で必死に、レイジに人工呼吸をしたんだ。

何度目かの息を吹き込んだ時、レイジは目を覚まして‥‥‥おれに言ったんだ‥‥。


(つばめは‥‥‥ぼくの王子さまだ‥‥‥)


そう言って、あいつはおれを見て、笑って‥‥。
手を伸ばして‥‥。


それから‥‥‥それから。


おれたちは二人で抱きしめあって‥‥‥。

あの時、はじめてキスしたんだ。


───ああ。思い出した。
おれは‥‥レイジの事が好きだった。

"好きになる前"からずっと好きだった。

ずっとずっと昔から、レイジが好きだったんだ。


‥‥なのに、ずっと忘れてしまってた。

それをレイジがこの絵を通じて、
忘れていた記憶を‥‥おれに思い出させてくれた。


「‥‥‥‥れいじ‥‥」

まるで、今まで忘れていたものが一気に戻ってくるような感覚に、つばめは感情を処理しきれず、ただとめどなく涙を流しながら、その場にへたりこんだ。


「おれ、レイジに今すぐ会いたい‥‥‥。
‥‥会って謝りたい。
でもおれ‥‥もう、アイツに会う資格ないんだ」

しかし、ようやく気づいた初恋を前に、全て手遅れだと悟ったつばめは、その場でうなだれる。

「‥‥‥‥」

その姿を見て、ニーナは決意したようにつぶやいた。

「ほんとは"場所は伝えないで"ってきつく言われてたんだけど。
‥‥いまのつばめなら、伝えてもいいよね」

そういうと、ニーナはポケットからおもむろに鍵を取り出した。

「それは‥」

「保健室の予備鍵。レイジ君はね、そこにいるよ」

ニーナは言うとそのまま鍵を渡した。

「その顔見たら、わかる。
‥‥私もつばめみたいに迷ったことがあったから。

レイジ君の絵‥‥きっとつばめに届いたんだよね。
だったら今度はつばめの番だよ」

「‥‥‥‥‥‥うん」


 

(‥‥つばめのやつ、今ごろ山岸とちゃんと会えてるかな‥‥)

ヨウジは一人、雨の上がったグラウンドで考えていた。

──あの時、迷わずくちびるにキスをすることができてたら。
‥‥きっと俺とつばめは恋人同士になっていた。

俺だって、なりたかったよ。
心の底から。

けど‥‥‥。

昨日、あの絵をみてしまった時。
山岸のつばめを思う気持ちには‥‥勝てないと思った。

つばめがアイツのことを話す時の表情や行動が、すべて腑に落ちた。

俺がこの学校にくる前、中学生の頃のふたりに何かあったというのは、少し前に風の噂で知っていた。
‥‥たぶんつばめは、そのことを忘れてしまっていることも。

つばめを無理やり自分のものにしても、きっといつか過去に気づく時がくる。
そしてその時、彼はとても傷つくだろう。

そう思うと‥‥‥できなかった。


「‥‥‥でもま、しゃーねーか」
俺だって、自分の心と向き合えなくて、色んな人に迷惑をかけてしまった。

これからは、もう自分の心にウソをつくのはやめだ。

悔しいけど。
今度はちゃんと逃げずに、つばめを好きなまま思いを手放せた。

だから‥‥‥‥‥これでいい。

‥‥‥‥‥嘘だ。
やっぱ、一言だけ。

もしこの先、つばめを泣かせやがったら。
その時は今度こそつばめを奪い返してやる。
だから、絶対アイツを悲しませんなよ。

────おぼえとけ、山岸。

心の中でそう悪態をつくと、ヨウジは雨上がりの空を見上げた。

「あーあ。ムカつくくらい、いい天気」

雲の切れ間からキラキラと光が差し込む。
そのまぶしさに目を細めながら、静かに笑った。

(俺も少しづつ、前を向くか‥‥‥)