幸福な王子の恋人


「ねー。さっきの雷やばかったね」

 ザワザワと会話が飛び交う中、ムツミとヨウジは模擬店で買ったアイスクリームを手に、テーブルに座っていた。

「‥‥‥」

 ヨウジはずっと上の空だった。

 彼女がいると打ち明けた時。
つばめはいまにも泣き出しそうなのを、必死にこらえて笑っていた。

 まさか、つばめがあそこまで辛そうな顔するなんて思わなかった。自分で考えていた以上に、オレはあいつの心を傷つけてしまったんじゃないか‥‥。

 オレは、つばめをこれ以上傷つけないために、あの芝居を打ったはずなのに──。

「‥‥‥で、これでよかったの?」

 ふいに、向かいに座るムツミが、さっきまでの猫撫で声とは違うハスキーな地声でヨウジに聞く。

「あ‥‥うん。ありがと‥‥ごめんな姉ちゃん」

 表情の晴れないヨウジをみながら、ムツミはアイスクリームを口に運ぶ。

「あんた、あの子のこと好きなんでしょ?」

「‥‥‥‥‥うん」

 ヨウジは少しの間をおいてうなづいた。
 以前のヨウジだったら、必死に否定していただろう。

「でもさ、オレ‥‥。
あいつへの思いを無かったことにしなくちゃいけないんだ。あいつのために」

「‥何それ?」 

 ムツミはいぶかしげに聞く。

「あいつを幸せにできるのは、オレじゃない。
って気づいちゃったから‥‥。

オレだけ幸せになったって、意味ないんだ。

姉ちゃんまで付き合わせて嘘ついて、ズルいことしたのはわかってる。

でも‥‥諦めるにはこれしかなかったんだ。
これでいいんだ‥‥」

 言い聞かせるように、ヨウジは手元のアイスクリームを見る。ずっと持っている手の熱で、どんどん溶けていく。

「ふーん。まあよくわかんないけど‥‥。
とりあえずあんた、結構がんばったね。

だって好きなまま、好きな子の幸せなために、好きな子の事を手放したってことでしょ」

「‥そんな、いいもんじゃないよ‥‥」


 外ではバケツをひっくり返したような豪雨と共に、時折雷が鳴る音がひっきりなしに聞こえてくる。

(‥‥ああ。ムカつくな。
あの日と同じみてーな、最悪の天気だ‥‥)

 ヨウジはそう思いながら窓の外を見た。

 ──そして、固まった。


「つばめ?」

 雷が鳴る豪雨の中、一人グラウンドをふらふらと歩く
つばめの姿を見つけた時、ヨウジの体に電流が走った。

 遠くからでもわかる。
 うつむいて背中をまるめて力無く、さまようように歩いている。

"うそ‥‥こんなの嘘だ。
いやだ‥‥嫌だ!つばめ!"

 それと同時に、あの日。
 ぐったりと地面に横たわるつばめの姿が、脳裏にフラッシュバックした。


「‥‥あいつ‥‥!何やってんだよ‥‥‥!」

 思うより先に、体が動いていた。

 手に持っていたアイスクリームが床に落ちる。

「ちょっと、ヨウジ!どこ行くの」

 ムツミの叫ぶ言葉は入ってこない。
ヨウジは気づくと、ただ一心不乱にグラウンドへ向かって走っていた。



 昼過ぎだと言うのに、外はあっという間に真っ暗になってしまった。

 アスファルトには大粒の雨が叩きつけて、排水が間に合わない様子でうっすら水が溜まりつつある。
 すぐそばのグラウンドでも、あちらこちらに大きな濁った水たまりができている。

 つばめはそのままフラフラとした足取りのまま、水たまりを踏み抜いた。

「‥‥‥‥」

 白いズボンがまたたく間に泥水で汚れていく。

 雷雲立ち込める中、つばめはよろよろとグラウンドの中心までたどり着いた。

「‥‥れ、‥‥戻れ、‥‥戻れ!」

 つばめは水たまりの地面にひざまずくように倒れこむと、固く握った拳を地面に打ち付けながら、うつろに声を上げる。

「戻れ!‥戻れ!‥戻れ!‥戻れ!はやく!
はやく戻れよ‥‥‥!」

 どんどん声は大きく、切実になる。
 何度も打ち付けるたび、拳はじんじんと腫れ上がる。

 しかし、つばめの願いはどんなに叫んでも天には届かない。

「なんで‥‥‥どうして‥‥! どうしてだよ‥!」

 痛みに震える拳を握りしめながら、空に向かってつばめは泣き叫ぶ。

「────!!!」

 もはや、自分が泣いてるのか雨に濡れてるのかわからない。

 そのまま力なく立ち上がると、あてもなくグラウンドをさまよい、つばめはたどり着いたその場にうずくまる。

「こんなの、本当のおれじゃないんだ‥。
お願いだから‥‥‥はやく‥‥もどりたい‥‥」

 枯れた声でうわごとのようにつぶやく。

 はやく、はやく、おれに雷が落ちてくれよ‥‥‥。
 そうすれば全部チャラになるんだ‥。
 ヨウジへの思いも‥‥レイジとの記憶も。

 ‥‥‥あのひどい言葉たちも。
 きっと全部、なかったことになる‥‥‥。

 もう‥‥いいんだ。
 おれ、全部忘れたい。

 全部なかったことにしたい。

 全部、ぜんぶ、なかったことに‥‥。



 つばめはぐしゃぐしゃの顔で、木陰から曇天を見上げた。


 ──その時。

「‥‥‥バカつばめ! あれだけ言っただろうが!
はやく欅から離れろ!」

 聞き慣れた呼び声が、背後から聞こえた気がした。


「‥‥‥‥あ‥」

 つばめは思わず右頬をおさえる。

 その瞬間。
 頭の中に、知らない記憶の断片が流れ込んできた。
 

 手を繋いで走りあった道。

 小さな川。

 そのキラキラの水面。

 そこで幼い二人は‥‥‥。
 ずぶ濡れになって抱きしめあっている。

 秘密の幸福。

 自分の体に触れる。その指使い、心地よさ。

 くすぐったい、いつかの思い出。 

 "ぼくの目、見て‥‥。ぼくもちゃんと見るから"

 そう言って、誰かが自分を見つめている。
 その顔は真っ黒に塗りつぶされてわからない。

 でも‥‥‥‥声でわかる。

 "つばめ君が元に戻っても‥‥。
 変わらずに俺と友達でいて‥‥"



「──つばめ!!!」

 それとほぼ同時、自分の名を叫ばれて現実に引き戻される。誰かに抱きすくめられながら、つばめはその場から思い切り引き剥がされた。


 そして。
 あの日と同じ雷が、あの日と同じように、欅の木に落ちた。まぶしい光と共にけたたましい轟音が一瞬だけ、学校中を包む。


 あの声は‥‥。

 つばめは思ったが、意識がゆっくり遠のいて、かき消されていった。




「‥‥め!‥つばめ!‥‥」

 気づくと、つばめは誰かに抱きしめられているのがわかった。そしてその誰かは、必死に自分の名前を呼んでいる。


「つばめ!」

 その声にゆっくりと目を開ける。
 そこには、あの日と同じように悲痛な表情をうかべてヨウジが、こちらを覗き込んでいた。

「あれ‥彼女さんは‥?」

 うつろな目でつばめが聞く。

「そんなの、いまどうだっていい‥‥!
それよりもお前‥‥なに一人でフラフラしてんだ!
あぶねーだろうが! ほんと、なにやってんだよ‥!」

 ヨウジはつばめを怒鳴りつけると、そのまますがりつくように抱きしめた。

「頼むからもうこれ以上、心配かけんなって‥‥!
またお前に何かあったら、オレは、オレは‥‥」

 そう涙目で必死に訴えるヨウジ。

「‥‥‥お前のこと傷つけるつもりなんか、なかったのに‥‥‥‥本当に、ごめん‥‥‥」


 そんな彼の腕の中で、つばめは"あること"に気づいてしまう。


 つばめはずっとヨウジにこうして包まれたかった。
 密かにずっとそれを望んでいて、それがいま、叶ってしまった。

(ああ‥‥これは‥‥)

 だからこそ皮肉にも‥‥。
 二度目の雷を経たのに、自分はなにも元に戻ってないことに気づいてしまった。‥‥だっていま、こんなにも自分の胸はドキドキしている。

 レイジとの賭けに失敗したのか?
 ‥‥‥いや、そうじゃない。

「‥‥そっか‥‥‥‥」

 その時、つばめは理解した。

 最初から、自分は何も変わってなかった。
 最初から、自分は彼の事が好きだった。

 つまり最初から‥‥ヨウジの事を好きになる前の"元の自分"なんて、どこにもいなかったのだ。

 雷は、ただのきっかけ。
 心の奥底でずっと隠し続けてた本心を揺さぶるように、一瞬だけ照らしに過ぎなかった。

 「こんなの自分じゃない」と、押し殺していた心こそ真実で、最初からいままでずっとこれが、本当の自分だ。

 ‥‥どうして‥‥どうしておれは‥‥。
 自分のキモチをずっと隠してしまってたんだろう‥。

 あんなに土砂降りだった雨は、気づけば小雨に変わっていた。

 つばめはヨウジの腕の中で、静かに涙を流していた。

「‥‥どうした?つばめ、大丈夫か?
どこか痛い所でもあるのか?」

 心配そうにヨウジが尋ねる。
つばめは「ううん‥‥」と短く返すと、ポツリとつぶやいた。

「おれ、ヨウジにずっと秘密にしてたことがある‥」

「‥‥‥なに?」
 ヨウジは優しい声でたずねる。

「おれさ。ずっと‥‥‥‥‥。
ずっと‥‥‥お前の事が好きだったんだ‥‥」

 意を決して伝えた言葉に、ヨウジは笑った。 

「そんなの、とっくに知ってたよ‥‥」

 そういってより一層強くつばめを抱きしめる。


「でもそれを伝えたら、この関係が終わる気がして‥‥。オレもずっと言えなかった。
けど、本当はオレだって‥‥‥‥。

‥‥ずっとつばめが好きだったよ‥‥」

「ほんと‥‥?」

「うん。本当‥‥‥」

 たまらなくなったつばめは、ヨウジの腕を掴む。

「‥‥ねえ‥‥‥ヨウジ‥‥」

 そして、そのままじっと彼を見つめると、言った。

「‥‥キスして‥‥‥」

 それは彼にとって、夢にまで見た光景そのものだった。ヨウジの心が、体が、激しく揺らぐ。

「おねがい‥‥」

 つばめは体越しに、またたく間に彼の鼓動がバクバクと高鳴っていくのがわかった。

「‥‥‥‥‥‥‥」
 
 ふたつの心臓が強く響いている。


「‥‥つばめ‥‥。目ぇ、閉じろ‥‥」

 ヨウジはガラス細工を触るような手つきで、つばめの頬に手をそえると言った。

「‥‥うん‥‥‥」

 ヨウジの顔は真っ赤で、手はかすかに震えている。

(‥‥ああ‥‥‥‥)

 息づかいでわかる。
 ゆっくりと顔が近づいていく。

 つばめはヨウジの手に自分の掌を重ねた。
 その手もまた、震えている。
 
 くちびるまであと数ミリ。
 近づいたら、二人はくちづけをする。

「‥‥‥‥‥‥」

 そして‥‥‥。

 ヨウジは、つばめのおでこにゆっくりと、優しい、優しいくちづけをひとつだけ落とした。
 
「‥‥ん。キスしたよ‥‥‥」

 目を開けてつぶやくと、ヨウジはほほえんだ。


「やだ‥‥くちびるにして‥‥」

 つばめが、か細い声で訴える。
 その言葉にヨウジはほほえんだ。
 
「‥‥それは、できない‥‥‥。
だってお前とそんな事したら‥‥戻れなくなるから。
オレもお前のこと、めちゃくちゃにしたいよ‥‥。

でも‥‥それをしちゃうと、オレたちじゃなくなっちゃうだろ‥‥?」

 そういうと、ヨウジはこらえるようにつばめを抱きしめる。

「なんで‥‥?好きって言ってくれたのに‥‥。
おれじゃダメなの‥‥?」

 つばめがすがりつく。
 その姿に、ヨウジは必死に理性でキモチを抑えこむ。

「‥ダメなわけねーよ。
そんなわけない‥‥‥‥!
‥‥‥‥好きだから、できないんだ。

大好きだから俺は、
つばめの思いには応えられない‥‥。

お前にはさ、オレじゃないんだよ‥‥」


「なにそれ‥‥そんなのいやだ‥‥。
おれは‥‥ヨウジがいい‥‥」

 それでもなお、つばめはヨウジを求めて、そのくちびるに触れようと顔を上げる。


「‥‥‥‥‥‥‥‥だめ」

 それを、ヨウジは優しく指で制止した。

「‥‥」

 その言葉でようやく諦めるように、ずっと掴んでいたつばめの手はゆっくりとヨウジの元から離れていった。

「‥‥‥‥そっか‥‥」



「‥‥‥だけどさ‥‥つばめ。
打ち明けてくれて、ありがとうな」

 ヨウジのほうが泣きそうになりながら、二人はそのまま会話を交わす。

「オレさ。つばめと試合出るの、すげー好きなんだ」
「‥‥なんで?」

「だってお前。
いつもオレのこと信じてパス出してくれるだろ。
だからオレも、お前なら受けてくれる。って思って出してた。
なんつーか、心が通じ合ってるみたいな気がしてさ‥‥‥。オレ、あれが好きなんだ」

 そう言うとヨウジは笑ってつばめと向き合うと、コツンと額をつき合わせた。

「‥‥つばめ。お前は最高の相方だ。
俺たちはさ、恋人にはなれなくても‥‥ずっと一緒だ‥‥。だからさ。改めて、今後ともよろしく」

「‥‥‥なにそれ‥‥」

 つばめはそう言うと、泣きながら笑った。
 ヨウジも目に涙をたくさん溜めて、笑った。

 叶わなかった思いなのに、涙は止まらないのに。

 それよりも不思議とつばめは胸が軽くなって、どこか清々しい気持ちに包まれていた。


 ──それと同時に。
 いまのヨウジなら打ち明けられる。

 と、つばめは懺悔(ざんげ)するようにずっと心に刺さったままのトゲを、彼にさらけ出した。

「‥‥‥じつはさ。
さっきの雷の時、おれなぜかレイジの声が聞こえた気がしたんだ。そんなのあるわけないのに、変だよな」

「‥‥」

「‥‥でもおれ、レイジに最低なこと言って、嫌われちゃったんだ。‥‥仕方ないよね。
最初から最後まで、ずっとおれが悪いから‥‥」

 そう言いながら、どんどん表情が暗くなるつばめをみて、ヨウジは声をかけた。

「‥‥山岸のヤツ、事故が起きた時にまっさきにオレらの所に駆けつけてきたの、知ってるか?」

 ヨウジは言う。

「うん‥前に本人から聞いた」

「あん時の山岸、すごい剣幕でオレに怒鳴ってきてさ。
すげー的確にお前の応急処置したんだ。
つばめのことかかえて保健室まで運んだのも、あいつ」

「え?しらなかった」

「‥‥そんで極め付けが‥‥‥あの絵だもんな。
ほんとあれにはマジで、ビビったわ」

 呆れるように思い出しながら、ヨウジが笑う。

「‥‥つばめはもう見たか?
山岸が描いた例のポスター。
うちの学年、みーんな驚いてたぜ」

「え、なに?まだおれ見てない‥‥」

 つばめはわけもわからずうろたえる。

「そうなん?
だったら、とりあえずいますぐ見てこいよ。
たぶん今日しか見れないだろ。あれ」

 そういうと、ヨウジはつばめをゆっくりと立たせる。

「──お前さ。
自分じゃ気づいてないかもしれないけど、山岸と仲良くなってから、変わったよ。すごく。

なんかさ‥‥こう、やわらかくなった。

そんなふうになれる奴と巡り会えるのって、多分人生そんなにある事じゃねーと思うから。

オレさ。ずっと、羨ましかったんだ」

「誰が?」

 つばめはたずねる。

「‥‥‥‥‥‥‥山岸が」

そういうと、ヨウジは笑った。


"この恋は実らなかった"

 言葉にすれば一言で終わる。
 ただそれだけのことが、つばめとヨウジには大切な記憶になった。

 悲しいけど、辛いけど。
 でも、君を好きになってよかった。
 ──それもまた、ひとつの正解だった。


「行ってこいよ。山岸のところへ」

 そう言うと、ヨウジはつばめの背中を押した。




 ──赤い実がはじけた、あの日の続き。

『あ、あんまり、ジロジロ見ないでよ‥‥』

 会話の先で見つめたのつばめ君は、ハッとしたように、恥ずかしそうに顔を隠す。

 俺は、そんな彼の手をはぎ取って言った。

『‥‥だめ。ちゃんと見せて。
ぼくの目、見て‥‥。ぼくもちゃんと見るから』

 俺の言葉に、真っ赤にしながら戸惑うつばめ君が、俺をじっと見つめてぼんやりと言った。

『‥‥‥おれ、れいじの事見てると変な気持ちになるんだ‥‥』

『変じゃないよ。ぼくも一緒だよ』

『ほんと‥‥?』 

『うん』

そのまま、俺たちはおずおずと手を回して抱きしめ合う。

『れいじ‥‥あったかい』

 この気持ちをどうしたらいいのかわからない。
 でもとにかく触れていたくて、幼い俺たちは手を繋いで、抱きしめあって確認する。ただ、それだけでよかった。

 お互いの心の中にある、幸福な記憶のはじまり。




 あんなに人でひしめき合っていた校内はすっかり静まり返り、人々は体育館に移動したのがわかった。

 わずかに校内に残っている人たちとすれ違う度、人々はコスプレ姿でずぶ濡れのつばめをいぶかしげに振り返って見た。

「あれ、あの人‥‥」

 そんな風に影で言われるのにも目もくれず、つばめはただ一心に歩いていく。


「あ。おかえり」

 美術室に辿り着くと、ニーナだけがひっそりと立っていた。

「‥‥演劇、みなくていいの?」

 ニーナは雨と泥と涙でぐちゃぐちゃになったつばめを特に気にする様子もなく、ふたたび目の前のブースの絵に目を落とした。

「うん。私、ミズキちゃんの作品が素晴らしいのはとっくに知ってるから、少しくらいみなくても全然平気。

それより、いまの時間はレイジ君の当番だったけど‥‥レイジ君、急に体調崩しちゃって。
代わりに私が店番してるんだ」

 その言葉に胸がずきっとする。
 ──おれのせいだ。

「‥‥」

 言葉なく落ち込むつばめを慰めるように、ニーナはレイジのブースを指差した。

「見て」

 レイジの名前のプレートが置かれたその空間は、さまざまな風景画が静かに置かれていた。

 教室の隅、美術室の窓、川の水面。
 見覚えがある。初めて会った時に見せてくれた絵だ。

 何気ない日常を切り取った景色が淡々と、しかし丁寧な筆致で、精密に描写されている。


 印象的だったのは、他の部員はみな一様に作品それぞれに思いのこもったタイトルをつけているのに、レイジのキャプションは全てが"無題"だったこと。

 そうして視線を進めていくと、最後にイーゼルに立てかけれた、一枚の大きな絵に辿り着く。

「あ‥‥!」

 つばめはその場に立ちすくんだ。

 山岸レイジ
 タイトル 幸福な王子

 そう銘打たれたその絵は、童話「幸福な王子」のクライマックスを描いた絵画だった。


『ぼくの愛する王子さま───』

 優しい王子のために身を尽くした燕(ツバメ)は死の間際、その手にキスする事を望む。王子もまた、自らの黄金や宝石でできた体を貧しい人達に分け与え続け、いまにも壊れかけている。

『──キスなら、唇がいい。
なぜならわたしも君を愛しているんだ──』

 王子はそう言って、燕と口づけを交わす。その後、燕は彼の足元で力付きる。王子も体がバラバラになり鉛の心臓が割れると、ふたりは二度と動かなくなる。

 そんな作中での一連の物語が、レイジなりの解釈で描れていた。

 印象的なのは、もとの童話は悲しい別れの一幕であるはずなのに‥レイジの絵では穏やかで優しいシーンに切り取られていること。

 ひなたの下にいるようなあたたかい色に包まれ、キラキラと泡が輝く水の中で王子と小さな燕は睦まじく、気持ちよさそうに口づけをしている。

 さっきまでの作風とは全く違う。
 新しい表現方法を見つけたような、抑えられたキモチを解放するような、活き活きとした筆使い。

"これは終わりじゃなくて、はじまりなんだよ"

 思うまま自由に描いたというのが一目で伝わってくる。そんな絵だった。


 ────そして、なによりも。

 画面の中で、優しく燕と共にほほえんでいる王子の姿は、まぎれもなく、つばめ自身として描かれていた。


「‥‥‥これって‥‥‥‥俺じゃん」

 絵の中の自分は大切なものを全て手放してもなお、燕と安らかに、幸せそうに笑っていた。

 なぜ? そんな顔ができるの?

 わからない。けど‥‥。
なぜだかその絵をじっと見ているうち、つばめはどうしようもなくあたたかいキモチがこみ上げてきて、その場から動けなくなる。


「この絵、私もすっごく好き」

 ニーナが笑う。

「‥‥レイジ君はね。
よくここからつばめのこと見てたよ。
あの雷の時も、この窓際にいたの」

 そう指で示すそこは、美術部の窓際だった。
 つばめはしばらくの間そこをじっと見ていたら、ある瞬間、あることに気づく。

「あ‥‥!」

 そこはレイジが最初に見せてくれたあの風景画と同じ場所で、同じ構図に目線を合わせると、グラウンドが‥‥サッカー部いつも練習してる辺りが、ひときわよく見えるのだ。

 その時、つばめは理解する。

 いままで無機質だと思っていた風景画は、レイジが密かに自分を見ていた景色を切り取ったのを描いていたのだということに。

 教室の隅、美術室の窓、川の水面。
 一見とりとめのないように見える絵には、じつはすべてに意味があり、そこには密かに彼のメッセージが隠れていたことに。

──すべてに意味がある。
 そう思って、改めてもういちどあの「幸福な王子」の絵を見る。


『‥‥つばめは、ぼくの‥‥』

 その瞬間、記憶が、決壊した。


「ああ‥‥っ!」


 つばめは、思わず嗚咽するように声を上げると、頬を両手で覆った。


「‥‥思い出した‥‥‥」


 ‥そうだ‥‥そうだった‥‥‥。

 ‥‥おれ、この小川を知ってる。

 行ったことある。
 この場所、見たことある。

 あの澄んだ水の色。
 あの青々とした自然に満ちた景色。

 川の水でびしょ濡れになった体。

 そしてあの‥‥。
 やわらかい感触とぬくもり。


「子どもの頃の、サマーキャンプだ‥‥」


 ‥‥そうだ。
 おれはあの時、いつもみたいにレイジと二人きりになりたかったんだ。

 それで少し離れたところにある小川にレイジを誘って。そこで水遊びして‥‥すっごく楽しかった。

 ──その後、あんなことになるなんて思わないくらい。

『れいじー!ここの水の流れ、すっごい綺麗だよ』

 何気なくおれが言った呼びかけにレイジが向かってくる時‥‥あいつはうっかり足を滑らせてしまったんだ。

『ああ!』

 浅瀬だったからなんとかおれが引き上げたけど、レイジずっとぐったりしてて。

『いやだ‥‥‥! 目を覚ましてよ、‥‥‥』

 おれは、泣きながら父さんから教わったやり方で人工呼吸をしたんだ‥‥。

『れいじ‥ごめん‥‥ごめんね‥‥。
おれのせいだ‥‥』

 何度目かの息を必死で吹き込んだ時、レイジは水を吐きだして‥意識を取り戻して‥‥。

『‥‥バカつばめ‥‥‥。泣くなよ‥‥‥』

 目を開けたレイジが泣きじゃくるおれを見て、頭を撫でて言ったんだ‥‥。 


『つばめは‥‥‥ぼくの王子さまなんだから‥‥‥』


 そう言って‥‥。
 レイジの手がゆっくり伸びて‥‥。

 『れいじ‥‥』

 おれは、くしゃくしゃの笑顔で笑って‥‥。

 それから‥‥‥それから。


 『‥‥だいすき‥‥!』


 おれたちは二人で抱きしめあって。
 あの時、はじめてキスをしたんだ。

 レイジは、ずっと覚えていたんだ。
 おれのぶんまで、ずっと‥‥。

 ──おれを見つけてくれた燕はレイジだった。
 おれは、優しい燕に愛された、幸福な王子だったんだ。


 なのに、いままで忘れてしまってた。 

 その理由も‥もうわかるよ‥‥‥。

 幸せな記憶も、辛い記憶も。
 一緒くたになって染み込んできたから。

 あの後すぐ、レイジとの関係がバレたんだ‥‥。
 父さんにすべてを否定されて、痛みの中でおれはレイジとの思い出ごと、心の奥に閉じ込めてしまってた。

 頬の傷も、その時できた‥‥。

 「れいじ‥‥」
 

 しかし、ようやく気づいた初恋を前に、全て手遅れだと悟ったつばめは力なくうなだれる。

「おれ、レイジに今すぐ会いたいよ‥‥。
‥‥会って謝りたい。
でもおれ‥‥もう、アイツに会う資格ないんだ‥‥」

 諦めるように、そうつぶやく事しかできなかった。

「‥‥‥‥」

 その姿を見て、ニーナは決意する。

「ほんとは"場所は伝えないで"ってきつく言われたんだけど。‥‥いまのつばめなら、きっと怒んないよね」

 そういうと、彼女は制服のポケットから鍵を取り出した。

「それは‥?」
「保健室の予備鍵。レイジ君はね、そこにいるよ」

 ニーナは言うと、つばめに鍵を握らせた。

「その顔見たら、わかる。
‥‥わたしも迷ったことがあったから。

レイジ君の絵‥‥やっと届いたんだよね。
だったらさ、次はつばめの番だよ。

今度はつばめがレイジ君を迎えに行くの。
だからほら、立って。歩いて」
 
 ニーナは笑ってつばめに言う。

「‥‥‥‥うん」

 その言葉につばめはうなずくと、涙を拭いた。





 ヨウジはずっと、雨の上がったグラウンドにいた。
 
 ──あの時、迷わずくちびるにキスしていたら。
 きっとオレたちは恋人同士になっていただろう。

 俺だって、なりたかったよ。
 心の底から。

 ‥‥でも。

 つばめの心の目隠しがとれないままオレと付き合ったところで、遅かれ早かれ過去に気づく。

 その時オレがとなりにいたら‥‥。
 あいつは余計に苦しむ。

 つばめはさ。笑うとくしゃくしゃになるあの目元がいいんだ。好きなヤツに作り笑いさせてまでそばに置いたって、しゃーねーよな。

 辛い顔なんて、見たくない。
 ‥‥‥わかるよ山岸。

 そう思うとさ。できなかったんだよ。つばめ。

「ごめんな‥‥」

 悔しいけど。
 オレはちゃんと逃げずに、思いを手放せた。

 だからさ‥‥‥‥‥。
 これでいい。これでいいんだ。


 ─────いや、嘘。

 やっぱ一言だけ。


 辛いに決まってんだろ!くそ!

 あ──ムカつく!なんで山岸なんだよ!
 オレの方が絶対つばめを幸せにできる自信あるわ!オレの方が背だって高いし多分イケメンだぞ!今でも全然間に合うからオレの所に来い!

 ‥‥‥でも、それじゃダメなんだよな。
 ‥‥‥‥‥わかってるよ。

 だったらせめて。
 今度はもう、その手は離すなよ。

 そんでさ。
 幸せになれよ‥‥つばめ。

 心の中でそうつぶやくと、ヨウジは雨上がりの空を見上げる。 

「あーあ。腹立つくらい、いい天気じゃんか‥‥」

 雲の切れ間からキラキラと光が差し込むのに、ヨウジは思わずまぶしさに目を細めた。