君を好きになる前に





昼過ぎだと言うのに、外はあっという間に真っ暗になってしまった。

アスファルトの地面には大粒の雨が叩きつけて、排水が間に合わない様子でうっすら水が溜まっている。

すぐそばのグラウンドでも、あちらこちらに大きな濁った水たまりができている。

泣き疲れたハジメは、そのままフラフラとした足取りのまま、その水たまりを踏み抜いた。

「‥‥‥‥」

白いズボンが泥水でまたたく間に汚れていく。



そして、雷雲立ち込める中、ハジメはよろよろとグラウンドの中心にたどり着いた。


 
「‥‥れ、‥‥戻れ、‥‥戻れ!」

そのまま水たまりの地面にひざまずくように倒れこむと、ハジメは拳を地面に打ち付けながらうつろにつぶやいた。


「戻れ!戻れ!戻れ!
はやく!はやく戻れよ‥‥‥!」

どんどん声は大きく切実になる。
しかし、ハジメの願いはどんなに叫んでも、天には届かない。


「なんで‥‥‥どうして‥‥!どうしてだよ‥!」

そのままフラフラと立ち上がると、ハジメはあてもなくグラウンドをさまよう。

やがて叫ぶ声も枯れて、うなだれるようにたどり着いたその場にうずくまった。



「頼む‥‥戻れ‥‥戻ってくれよ‥‥‥。

こんなの、本当の俺じゃないんだ。
お願いだから‥‥‥早く‥‥お願い‥‥‥」


もう、全部忘れたい。
全部なかったことにしたい。


全部、なかったことに‥‥。


雨水なのか涙なのかわからない顔で、ハジメは天を見上げる。


その時。

「‥‥‥バカ!お前あれだけ言っただろうが!欅から離れろ!」



聞き慣れた言葉が、突然背後から聞こえた気がした。


「レイジ‥‥?」

その瞬間。
ハジメの頭の中に洪水のように、忘れていた記憶の断片が流れ込んできた。

手を繋いで走りあった記憶。

キャンプ場の脇に流れる、小さな川。
そのキラキラの水面。

そこで幼い二人はずぶ濡れになって笑ってる。

誰かが自分の体に触れている。

"‥‥俺の目、見て。
俺もちゃんと見るから"

そう言って、誰かがハジメを見つめている。その顔は真っ黒に塗りつぶされてわからない。

でも‥‥声でわかる。

"‥‥‥明日、ハジメ君が元に戻っても、変わらずに俺と友達でいて"




「‥‥‥‥!」

それとほぼ同時、ハジメは誰かに抱きすくめられて、その場から思い切り引き剥がされた。


そして。
あの日と同じような雷が、あの日と同じように、欅の木に落ちた。 

眩しい光と共にけたたましい轟音が一瞬だけ、学校中を包む。



あの声は‥‥。

ハジメは思ったが、意識がゆっくり遠のいて、かき消されていった。




「‥‥メ!‥ハジメ!‥‥」

誰かが必死に名前を呼んでいる。

あの時と同じように再び目を開けると、あの時と変わらず、悲痛な表情のヨウジがこちらを覗き込んでいた。

「ハジメ‥‥‥。よかった‥‥」

「あれ、彼女さんは‥?」

うつろな目で、ハジメが聞く。

「そんなのいまどうだっていいだろ!」

ヨウジは絶叫するように言う。

「‥‥それよりも、お前、この雨の中なに一人でフラフラしてんだ!

なにやってんだよ‥ハジメ。
一体どうしちゃったんだよ‥‥!」

ヨウジは、ハジメの異変に気づいてなりふり構わずに駆けつけたのだろう。土砂降りの雷雨の中で身の危険もお構いなしに、ぐったりとしたハジメを抱きかかえると、涙目で必死に怒鳴りつけた。

「ばかやろう‥‥!
またお前に何かあったら、俺は、俺は‥‥」

そういうと、ヨウジはハジメを強く抱きしめる。


彼の腕の中で強く抱きすくめられながら、ハジメはあることに気づいてしまう。


「あ‥‥‥‥」 


あの雷の日から、ハジメは密かにずっとヨウジにこうやって抱きしめてほしかった。密かにそれをずっと望んでいて、それがいま叶ってしまった。

(これは‥‥)

だからこそ皮肉にも、いまの自分は、なにひとつ元に戻ってないことに気づいてしまった。


レイジと考えた作戦は失敗してしまったのか。

 
ーーーいや、違う。


その時、ハジメはようやく理解した。

最初から、自分は何も変わってなかったことに。
最初から、自分はヨウジの事が好きだったことに。

つまり、最初から‥‥"元に戻る自分"なんてどこにもいなかった。ということに。


雷は、ただのきっかけ。

今まで心の奥底で忘れたふりをして隠し続けていた本心を、雷が照らしただけだった。


「こんなの自分じゃない」と、ずっと押し殺していた心が真実だった。

最初からいままでずっと、これが本当の自分だったのだ。


‥‥‥‥ああ。そうだった。
思い出した。



あんなに土砂降りだった雨は、気づくともうすっかり小ぶりになっていた。


ハジメはヨウジの腕の中で、静かに涙を流した。


「‥‥ハジメ、大丈夫か?
どこか痛い所でもあるのか?」

心配そうにヨウジが尋ねる。


ハジメは「ううん‥‥」と短く返すと、ポツリと呟いた。


「‥‥おれ、ヨウジにずっと秘密にしてたことがあるんだ‥‥」


「‥なに?」

優しい声でヨウジが尋ねる。


「おれさ。ずっと‥‥‥‥‥。
ずっと、お前の事が好きだったんだよ」


ハジメの言葉に、ヨウジは小さく笑って答えた。

「‥‥そんなの、知ってる‥‥。
なんか‥‥‥俺もずっと前からそんな気がしてたんだ」

ヨウジは落ち着いた様子で言葉を続ける。

「でもそれを問い詰めたら、この関係が終わっちまう気がして、俺も、ずっと言えなかった‥‥」


「ヨウジ‥‥」

すがるような思いで、ハジメはヨウジの腕を掴む。

「‥‥でもさ。‥‥‥‥‥ごめん。
俺は、ハジメの思いには応えられないよ‥‥。ごめんな」

「‥‥どうして?」

悲痛な声でハジメが聞く。
ヨウジは黙ったまま、なにも答えない。

「‥‥‥‥‥もし、ヨウジに彼女がいなくても、答えは同じだった‥?」

ハジメは訴えかけるような目で言う。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

ヨウジは何かを考えるような長い沈黙のあと、

「‥‥‥‥うん。それでも、ごめん」
と、うつむきながら返した。


「そっか‥じゃあ仕方ないか‥」

その言葉に、ヨウジを掴んでいた手が諦めたように離れる。


「だけどさ‥‥ハジメ。
告白してくれて、打ち明けてくれて、ありがとうな」

そんなハジメを見て、なぜかヨウジのほうがずっと泣きそうになりながら、言葉を続ける。


「覚えてるか?俺、この学校に来たばっかりの頃、別世界すぎて、ちょっと浮いてたこと。

そんな俺がここに来て初めてできた友達が、お前なんだよ。

‥‥最初はたまたま席が隣でさ。
教科書忘れた俺にハジメは嫌な顔せず貸してくれて。

でも俺が左利きでハジメは左利きだから授業中ずっと肘がぶつかりまくって、ちょっとケンカになったこと、あったよな」

懐かしそうにヨウジが言う。

「あー、あったね、そんなこと‥‥」

ハジメも笑いながら、しみじみと思い返す。


「俺さ。
ハジメと試合出るの、好きなんだ」

「‥‥なんで?」

「だってお前、いつも俺のこと信じてパス出してくれるじゃん。だから俺も、お前なら受けてくれる。って出してた。

お前は、俺にとって最高の相方だから。
‥‥‥恋人にはなれないけど、俺たちは親友だ。
‥‥だからさ、これからも改めてよろしく」

「‥‥なにそれ‥‥」 

ハジメはそう言うと、泣きながら笑った。

叶わなかった思いなのに、涙は止まらないのに、それよりも不思議とハジメは胸の奥が軽くなって、清々しい気持ちになった。


それと同時に、
いまのヨウジなら打ち明けられる。

と、ハジメは懺悔するように、いままで誰にも言えなかった、隠していた心のうちを話し始めた。

「本当はさ。
さっきの雷の時、おれなぜかレイジのことが頭に浮かんでたんだ‥‥なんか声がした気がして。
‥‥変だよな」

「‥‥」

「‥‥俺、それなのにレイジに最低なこと言って、悲しませちゃった。
でも、そりゃそうなんだ。
最初から最後までずっと俺が悪いんだから」

そのまま、また泣きそうになるハジメをみて、ヨウジはふっと笑って声をかけた。

「‥‥山岸のヤツ、事故が起きた時にまっさきに俺らの所に駆けつけてきたの、知ってるか?」

ヨウジは言う。

「うん。前に本人から聞いた」

「あん時の山岸、見た事ないくらいの剣幕で俺に怒鳴ってきてさ。めちゃくちゃ的確にお前の事、応急処置したんだ。
ハジメのことかかえて保健室まで運んだのも、山岸なんだぜ。

あいつ、本気出したらめちゃくちゃ足速いのなー。
‥‥うちの部にスカウトしたいわ」

「え?しらなかった」

「そんで極め付けが‥‥あの絵だもんな‥‥‥。
ほんと、あれにはマジでビビった」

そういうと、呆れるようにヨウジは笑う。

「‥‥ハジメはもう見たか?
山岸が描いたあの例の演劇部のポスター。
うちの学年、みんな驚いてたぜ」

「え、なに?まだおれ見てない‥‥」

ハジメはわけもわからずうろたえる。

「そうなん?
だったら、とりあえず今すぐ見てこいよ。
多分今日しか見れないだろ。あれ」

そういうと、ヨウジはハジメをゆっくりと立たせると、背中をポンと押した。

「ーーお前さ。
自分じゃ気づいてないかもしれないけど、山岸と仲良くなってから、変わったよ。すごく。

なんかさ‥‥こう、柔らかくなった。

そんなふうになれる奴と巡り会えるのって、多分人生そんなにある事じゃねーと思うから。
俺、じつはずっと羨ましかったんだ」  

「誰が?」

ハジメは尋ねる。

「‥‥‥二人が」

そういうとヨウジは切ない顔で笑った。




あんなに人でひしめき合っていた校内はすっかり人気なく静まり返り、みんな体育館に移動したのがわかった。

わずかに校内に残っている人たちとすれ違う度、みな一様にコスプレ姿でずぶ濡れのハジメをいぶかしげに振り返って見た。

「あれ、あの人‥‥」

そんな風にすれ違いざまにひそひそ言われるのにも目もくれず、ハジメはただ一心に歩いていく。


「あ。おかえり」

美術室に辿り着くと、ニーナだけがひっそりと立っていた。

「‥‥演劇、みなくていいの?」

ニーナは雨と涙でぐちゃぐちゃになったハジメを見ても特に気にする様子もなく、ふたたび目の前のブースの絵に目を落とした。

「うん。私、ミズキちゃんの作品が素晴らしいのはとっくに知ってるから。少しくらいみなくても全然平気。

それより、今の時間はレイジ君の当番だったけど、レイジ君急に体調崩しちゃって。
その代わり私が店番してるの」

その言葉に胸がずきっとする。
ーーーおれのせいだ。


「‥‥」

言葉なく落ち込むハジメを慰めるように、ニーナは自分が立っている、レイジのブースを指差した。

「見て」

レイジの名前のプレートが置かれたその空間は、さまざまな風景画がただ静かに置かれていた。

教室の隅、美術室の窓、川の水面。

何気ない日常を切り取ったありふれた景色が淡々と、しかし丁寧な筆致で、油絵や水彩で精密に描写されている。

印象的だったのは、他のクラスメイトはみな一様に作品それぞれに想いを込めたタイトルをつけるのに、レイジのキャプションは全てが"無題"だったこと。

そうして視線を進めていと、最後にイーゼルに立てかけれた、一枚の大きな絵に辿り着く。

「あ‥‥!」

ハジメはその場に立ちすくんだ。


山岸レイジ
タイトル 幸福な王子

そう銘打たれたその絵は、オスカーワイルドの童話「幸福な王子」の有名なクライマックスを描いた抽象画だった。

物語の最後、優しい王子のために身を尽くしたツバメは死を悟った間際、王子の手にキスする事を望む。王子もまた、自らの黄金や宝石でできた体を貧しい人達に分け与え続けてボロボロで、今にも壊れかけている。

"キスをするなら、唇にしておくれ"

王子はそう言って、ツバメと最後にくちづけを交わす。その後、ツバメは王子の足元で力付き、王子も鉛の心臓が音と立てて割れると、二度と動かなくなる。

一連の作中でのシーンが、レイジなりの解釈で描れていた。

印象的なのは、もとの寓話では悲しい別れのシーンなのに、レイジの絵では穏やかで優しい一瞬に切り取られていること。

晴れたひなたの下にいるようなあたたかい色に包まれ、キラキラと泡が輝く水の中で二人は睦まじく、気持ちよさそうに泳ぎながら、口づけをしている。

さっきまでの作風とは全く違う。

新しい表現方法を見つけたような、縛られ続けた気持ちを解放するような、活き活きした筆致で思うまま自由に描いたというのが、一目見ただけでわかる‥‥そんな絵だった。 

そして、なによりも。

画面の中で、全てのことから解き放たれ、優しくツバメと共に微笑んでいる王子の姿は、まぎれもなく、ハジメそのものだった。

「これって‥‥」

それだけ言うと、ハジメはその場から動けなくなった。  

なぜだかその絵をじっと見ているうち、どうしようもなく温かいキモチがこみ上げて止まらなかった。


「この絵、私もすっごく好き」

ニーナが笑う。

「‥‥ずーっと前からね、レイジ君はよくこの窓際から、ハジメのこと見てたよ。あの雷の時も、この窓際にいたの」

そう指で示すそこは、美術部の窓際の隅。風景画で描いたものと全く同じ構図だった。


そこでハジメは気づく。

今まで無機質だと思っていた風景はすべて、どれもレイジが密かにハジメを見つめていた景色を切り取ったものなのだということに。

教室の隅、美術室の窓、川の水面。
一見とりとめのないように見える風景画には、実は全て意味があったことに。

全てに意味がある。
そう思って、改めてもういちどあの「幸福な王子」の絵を見た。


‥‥この絵、この風景。
思い出した。

子供の頃の、サマーキャンプだ。


そうだ。

おれ、幼い頃にレイジと二人で抜け出して、キャンプ場の川に行ったんだ。

でもその時に、レイジが岩の苔に滑って溺れかけてしまって。浅瀬だったからなんとかおれが助けて引き上げたけど、ぐったりしてて。

おれ、そのとき必死に父さんから教わった救急救命のやり方で、レイジに人工呼吸をしたんだ。

何度目かの息を吹き込んだ時、レイジは目を覚まして、あいつはおれを見て、笑って‥‥。

それから‥それから、おれたちは二人で抱きしめあって‥‥‥。
キスしたんだ。


‥‥ああ。
この作品は、レイジからの告白だったんだ。

ずっとレイジはおれの方を向いて、声をかけてくれていたんだ。
‥‥なのになんでおれは、こんな大事なこと、ずっと忘れてしまってたんだろう。


すべてが氷解したハジメは両手で顔を覆うと、その場でへたりこんで静かに嗚咽した。



「おれ、レイジに今すぐ会いたい。
‥‥会って謝りたい。
でもおれ‥‥もう、レイジに会う資格ないんだ」

もう全て手遅れだと言わんばかりに、ハジメはその場でうなだれる。


「‥‥‥‥」


その姿を見て、ニーナは何か決意したようにつぶやいた。


「ほんとは"場所は伝えないで"って言われてたんだけど。
‥‥いまのハジメなら、伝えてもいいよね」

そういうと、ニーナはポケットからおもむろに鍵を取り出した。

「それは‥?」

「保健室の予備鍵。レイジ君はね、そこにいるよ」

尋ねるハジメに、ニーナは短く返すとそのまま鍵を渡した。

「ニーナ‥‥」

「その顔見たら、わかる。
‥‥私もハジメみたいに迷ったことがあったから。

レイジ君の絵は、きっとハジメに届いたんだよね。

だったら今度はハジメの番だよ。
レイジ君、ずっと待ってたんだから」

「‥‥‥‥‥‥うん」

どこか清々しい顔をしながらニーナが言ったその言葉に、ハジメはようやく、溢れてくる涙を止めることができた。

「行ってくる‥‥」

そして、ゆっくりと立ち上がると、静かに教室から出ていった。