ーーそして。
ついに文化祭当日がやってきた。
前日まで時間をかけて描いていたレイジの絵は、展示が始まるその直前まで、ハトロン紙にしっかりと包まれていた。
朝から豪雨だというのに人でごった返す校内の中で、人の波は絶えない。
ヨウジとハジメは朝からずっとブースの前で美術部の呼び込みをしていた。
それは二人が美術部のボランティアをしている以上、任された仕事だというのはわかる。
‥‥‥それは百歩譲って。
「何でこんな格好までしないといけないんだよ!」
そう叫ぶヨウジは、安い金髪のウィッグを被り、プラスチックのパールネックレスをつけていた。
本当はハイヒールもあったのだが、「足痛ェ!」と三秒で脱落したので、下は上履きのまま。
裾がつんつるてんになったピンクのテカテカした素材のドレスは背中のジッパーが上がらず、よくみると上側がずっと開いたままになっている。
一応、お姫様のコスプレ。だそうだ。
「本当だよ‥。なんだよこのカッコ」
そう返すハジメもハジメで、白いシャツに金のボタンがついたベストと白いズボン。
頭にはプラスチックで出来たメッキの王冠を乗せてマントを羽織って、二人して、まるで絵本の中に出てくるコテコテのお姫様と王子様のようなコスプレをしていた。
それもこれも、時を遡ること数時間前。
「はい。二人とも、これ着て!」
当日いきなり、ニーナは二人を呼び込みスタッフに任命するなりこの衣装を渡してきた。
「‥‥‥‥」
その後ろには、こちらにガンを飛ばしまくるミズキ。
ふ
拒否権はなかった。
「‥‥まだお前の方はいいよ。王子だし。
そんなに装飾も派手じゃないから。
これさー‥‥絶対ミズキの嫌がらせだろ!
せめて俺が王子でハジメがお姫様、だろ!てか、体型的にみたら絶対そっちじゃん!」
「へへーん。
かっこいいコスプレが羨ましいか」
なんてハジメはさっきから恨めしく自分を見てくるヨウジにイタズラっぽく挑発する。
「うるせえ!
衣装ぜーんぶ追い剥ぎしてやる!」
「なっ!やめろばーか!」
第三者的に見れば、王子様のコスプレをするのもそれはそれで痛いので、結局どっちもどっちなのだが、二人はギャースカといつものように他愛のない、意味のない言い合いをする。
「あらあら、お二人とも素敵なお召し物ですこと」
と、ニーナの声がして二人は振り返る。
「あ!ニーナちゃん!って。
白魔女っ娘!‥‥かわいい〜」
ヨウジの顔は一瞬でデレデレになる。
「アンタのお姫様姿、やば。
やっぱ私の見立て通りだわ。最高じゃん」
ミズキが鼻で笑うように言う。
二人は共に色違いでお揃いの魔女のコスプレをし、手を繋いで立っていた。
「私たちはねー、魔女の双子コーデにしました!」
そういうと、ニーナはその場でくるくると回る。
ニーナは白で、ミズキは黒。それぞれミニ丈の裾広がりなワンピースに大きな帽子と、ニーナはピンクストライプのタイツ。ミズキは緑のタイツを合わせている。
「これから休憩がてらデートしてくる!」
「呼び込み、サボんなよ」
そういうと、二人は周りの目など気にせず自分たちの世界全開で、腕を組んで雑踏に消えていった。
‥‥デートかあ。いいなあ。
ハジメは思った。
「おい」
急にヨウジがずいっと真剣な面持ちで目の前に接近してくる。
「な、なんだよ‥‥」
思えばここ最近、ずっとヨウジは距離が近い。
それに‥‥。
「じっとしてろ」
「なんで?」
「いいから。王冠ずれてる」
そういうと、ヨウジはハジメの髪に手をやると、頭の上にある王冠の位置を直した。
なんだか頭を撫でられているような気がして、照れくさい。
見つめられてドキドキする心の中で、ハジメは改めて浮き足たつ。それをかき消すように減らず口をいいつつも、耳まで赤くなる。
「なっ、なにそれ。
お前のほうがめちゃくちゃな服装してる癖に‥‥!」
「はいはい。オッケー。これでよし」
ヨウジは満足そうにそういうと、ハジメの赤くなった両頬をぐにーっと引っ張る。
「‥‥おーい、王子様なんだからシケたツラしてないで、もっと笑え笑え!」
「いひゃいって!」
無防備なヨウジのやりとりに、ハジメの心はひたすらかき乱される。
ーーハジメはふいに、昨日の事を思い出した。
部室で意味深に自分に言いあぐねた言葉。
その心臓は、ハジメと同じくらい暴れていた。
そして、グラウンドでのやりとり。
"明日、文化祭終わったら明日のお前の時間。
少しでいいから‥‥俺にくれ"
伝えたい事って、なんだろう。
ヨウジって、もしかして‥‥。
頭の中でぐるぐると感情が巡る。
「‥‥あ、あのさ」
ハジメは思い切って声をかけた。
「なんか俺たちも、色々見て回りたくない?」
「確かにまあ、それはある!」
「次の15分休憩さ、一緒にぐるっと校内回ってみねえ?」
「この格好で?」
「うん」
ヨウジは少し驚いて少し何かを考えたあと、ニヤッと笑っていった。
「えーやん。おもろそう!賛成!」
ヨウジの笑顔に、ハジメもつられて笑う。
これはただの、仲良い悪友同士のたわむれ。
デートなんかじゃない。
デートなんかじゃ‥‥。
ハジメは心の中でつぶやきながらヨウジをみる。
きれいな、整った横顔に見とれてしまう。
その時ふと、彼越しに壁掛け時計が目に入る。
(あ‥‥もうすぐレイジとの約束の時間だ)
「‥‥ごめんちょっと。一瞬だけ、抜ける!」
急いで人の波をかきわけて美術準備室に向かう。
そこでは、レイジが先に座って待っていた。
「え‥‥‥‥!
なんで、そんな格好してるの‥‥?」
レイジはハジメの姿を一目見るなり、心底びっくりした様子で硬直した。
「え?ああ、コレ?
ニーナとミズキにほぼ強制で着せられたんだよ‥‥。
ほら、客寄せだから!って」
呆れながらハジメが言う。
「‥‥ああ、そっか。そうだよね‥‥」
その言葉に、少しだけ残念そうな様子で、レイジが返した。
「疲れたからいったん取る。はーあ」
レイジの様子に特に違和感を感じることもなく、ハジメは頭につけっぱなしだった王冠とローブを取る。
この二つを取ればコスプレ感もだいぶ薄まって、気恥ずかしさも和らぐ。
ハジメはそのまま、どかっと椅子に腰掛けて聞いた。
「あ、そうだ。それよりも今って何時?」
「‥‥あ、うん。今は‥‥。十四時だね」
ハジメのコスプレに見とれるようにぼーっとしていたレイジがハッとして腕時計を見る。
予定時刻の一時間半前だ。
「順調に天気も崩れてきてる」
レイジは窓の外をみて言う。
その言葉に、ハジメは吹き出した。
「‥‥‥なんか冷静に考えたら‥‥。
おれらってシュールだよな。
ふつー、文化祭が雨になったら早く晴れてくれって思うのに、おれたちは雷雨になるのを願ってるんだから」
「たしかに、変なの」
顔を見合わせて、笑い合う。
「‥‥じゃ、俺も部員の子にひとこと言って抜けてきただけだから、手短に言うね」
そう前置きすると、レイジは続ける。
「前も言ったけど‥‥。
雷は欅が避雷針になってくれる。
だからこそ、危ないからくれぐれも欅には近寄りすぎないように気をつけてね。
特にグラウンドの真ん中より先は、ぜったいに行っちゃダメだからね」
「あ、ありがとう。
でも、そのことなんだけどさ‥」
真剣にそう話すレイジを前に、気まずそうにハジメが切り出した。
「‥‥実は、昨日お前と別れた後、ヨウジに言われたことがあって」
「え?」
「今日の文化祭が終わったら"話したい事がある"って。
スゲー意味深に言われちゃってさ。
もちろん、まだ、わかんないけど‥」
レイジの表情が一瞬でこわばる。
テーブルの下で、レイジは無意識に拳を握っていた。
「もし、もしさ。
‥‥それがヨウジからの告白だったら?
だって、よく考えたら、あいつもおれと一緒に同じ雷の近くにいたんだもんな。
実はそれで、ヨウジもおれと同じ心になってたとしたら?
‥‥なのに、おれだけ元に戻っちゃったら?
‥‥永遠にすれ違ったままだ」
「‥‥」
「いま、あいつの話をきかないまま、全部元に戻っちゃったら、たぶんおれ、一生『もしも』を引きずる気がする。
‥‥なんかそれって、この先ずっとキモチを押し殺して過ごすより、嫌なんだ」
レイジの拳が、テーブルの下でずっと静かに震えている。
「‥‥」
「レイジがおれを元に戻そうとあんなにたくさん調べてくれたのはわかる。
ほんと自分勝手だよな‥‥でも、
でも。おれ、まだ元に戻りたくないかもって、昨日ずっと考えて、考えて‥‥気づいちゃったんだよね‥‥‥」
そう言って、ハジメは泣きそうな顔でレイジを見た。
「‥‥」
その表情をみたレイジは、テーブルの下でずっと握っていた拳をゆっくりとほどいた。
「‥‥わかった。
じゃあ、今日の作戦はやめよう。
休憩時間は普通に使ってよ。
俺も自由に過ごすから」
「ありがとう‥‥ごめん」
「なんで謝るの?‥‥ヨウジ君からの告白、楽しみだね」
「‥‥‥うん」
そういうと、ハジメは頬を赤らめた。
「実はこの後も、ヨウジと一緒に校内回る約束してるんだ」
まるで友人に恋の相談をきいてもらう子供のような、うきうきとしたハジメの表情を見て、レイジはふっと笑った。
「そっか‥‥いいじゃん」
━━その時。
「あ、ハジメ!よかった、ここにいたのか。探したぜ!」
突然、浮き足だった様子でヨウジが二人の元へやってきた。さっきまで来てきたコスプレは、もう脱いでいる。
(あれ、次の休憩にはまだ早いはず‥‥)
ハジメは妙な違和感に、背中がざわついた。
「紹介したい人がいるんだ」
ヨウジは手短にそういうと、ドアの向こうにいる
"だれか"を呼び寄せる。
「ムツミ‥‥。おいで」
優しい声でヨウジが言う。
その目は、ハジメがいままで見たことないほどの優しい瞳をしていた。
「‥‥お邪魔します」
小さな鈴が揺れるようなか弱い声とともに、はかなげな女性が二人の前に現れると、ヨウジの横に連れ立った。
え?
え?
え、え、待って。
どういうこと。
状況をつかめないまま、ハジメは立ち尽くす。
「こいつ、俺の彼女!‥‥ムツミって言うんだ」
すこしぎこちない笑顔でヨウジが言う。
「‥‥‥え?」
その言葉にハジメは頭の中が真っ白になった。
「い、いつから?」
「んー‥‥半年前になるかな。バイト先の先輩でさ」
「そんなの、知らなかった‥」
「‥‥悪い。隠すつもりなかったんだけど、なんか照れ臭くて」
「‥‥‥‥」
「‥‥本当は夜にこっち来る予定だったんだけど、なんか早く来れそうって言うから、せっかくだから土壇場で文化祭に連れてきたんだ」
ヨウジは恥ずかしそうに、嬉しそうに、少しだけ切なそうに、早口に言った。
「きのう、言ってた話したいことって‥‥。
このことだったのかよ」
動揺を隠せないハジメは、なんとか自分を取り繕って尋ねる。
「‥‥‥‥‥‥うん。そう」
ヨウジは短く、うなずいた。
隣でずっとほほえみをたたえた女性は、優しい声で二人に声をかける。
「‥‥はじめまして。ムツミっていいます。
あなたが、ハジメ君?
よくヨウジから話聞いてるよ。
いつもお世話になってます。
‥‥隣の方は、レイジ君やったっけ?」
何の敵意もなく、ムツミと名乗る女性は、にっこりとこちらに語りかける。
「‥‥‥はい、そうです」
「初めまして」
「‥‥」
小柄で華奢な、可愛らしいが大人びた佇まい。
年齢はハッキリとはわからないが、10代ではあまり着ないような清潔でシンプルなデザインのワンピースを着て、小さなブランドのハンドバッグを控えめに持っているところから、自分たちより少し年上だと伺える。
‥‥‥‥そして、どことなく顔の雰囲気がニーナに似ていた。
「ハジメ。この後一緒に回ろうって約束あったけどさ、ムツミを1人にできねえから、こいつも一緒に連れてってもいい?」
「あ‥‥」
無邪気に声をかけるヨウジの言葉に、ハジメはどんな顔をしたらいいか分からなくなる。
だけど、とにかく必死に、
(泣くな。泣くな。泣くな。)
とだけ自分に言い聞かせて、言葉をつむいだ。
「お前さ‥‥‥‥。バカじゃねーーの!
せっかく彼女さんきてくれたんなら、おれよりそっち優先しろっての!バーーーーカ!」
精一杯の作り笑顔で大袈裟におどけながら、ハジメは必死に取り繕う。
その様子を、レイジはずっと隣で見つめていた。
「だって、お前に言ったら絶対茶化されるから‥‥」
「まあそりゃそうだろ!
お前、知らねえ所でこんなら可愛い彼女作ってたなんて、もっと早く言えってのーー!!!
本当彼女さん、おれ大丈夫なんではやくコイツ連れてっちゃって下さい!」
「あ、あの‥‥」
「ハジメ、いいのか‥?」
「いいのいいの!気にしないで!
ヨウジ、紹介してくれてありがとうな。
じゃっ、‥‥楽しんできて!」
ぐいぐいと二人を準備室の外に押し出す。
バタン!と扉を強く閉めた後、ハジメはうつむく。
我慢していた涙があふれて、ボタボタと床に落ちた。
「ハジメ君‥‥」
レイジがたまらず、声をかける。
「‥‥‥‥」
ハジメはふーーっと長いため息をつくと、顔を上げて笑った。
「‥‥‥‥はは。恥ず。
ごめん。やっぱさっきの無しで‥‥‥」
笑いながら強がるが、涙がとまらない。
「‥‥‥いいよ。
何も言わなくて、いいから」
そういうと、レイジはとっさにハジメを抱きしめる。
その声は震えていて、レイジまで泣き出しそうだった。
「あ‥‥」
一瞬だけ、ハジメは思わず彼の背中に手を伸ばし、そのまま胸の中に顔を埋めてわんわんと泣きたくなった。
‥‥でも、そんな都合のいい自分が心底嫌になり、すぐに伸ばした手を引っ込める。
「やめろ。同情すんなバカ」
とハジメに力無く言うと、ぐいっとレイジから離れる。
━━その時。
パッと強い稲光と共に、教室が一瞬だけ停電した。
「‥‥!」
その後少し遅れて、ゴロゴロという轟音。
思わず二人は顔を合わせる。
「遠くに落ちたっぽいけど‥。
予定より早く天気が崩れ始めてる」
少し焦った様子でレイジが言った。
‥‥‥なんでだよ。
何もかも、うまくいない。
でも、もうどうでもいい。
「なんか、どうでもいい‥‥。
全部忘れたい。はやく‥‥」
ハジメはぼそっと呟く。
そのままフラフラと準備室から出て行こうとするのを、レイジは腕を掴んで引き止めた。
「‥‥ちょっと待って。どこ行くの」
「グラウンド‥‥」
「俺も行く」
「ほっとけよ!‥‥おれ一人で行く!」
ハジメは振り返り、泣き叫ぶように声を上げる。
「‥‥‥ほっとけるわけないだろ!」
レイジは強い口調で言った。
その声は、ほとんど怒っているようだった。
「‥‥まずちょっと、落ちつこうよ」
すぐに冷静な声にもどり、レイジが言う。
「‥‥‥」
しかし、ハジメは無言でしばらくレイジをにらみつけると、
「お落ち着けるわけ、ない‥‥」
そう言葉を絞り出して、ボロボロと泣くばかりだった。
「‥‥‥」
レイジはその顔をみて言葉が詰まり、たまらなく胸が苦しくなる。
「‥‥‥離せよ」
「いや」
「離せって」
「いやだ」
「‥‥なんなん、さっきから‥‥」
押し問答の果てに、なげやりにハジメが言う。
「お前におれの何がわかるんだよ」
「わかんないよ‥‥。でも、心配なんだ。
今のハジメ君‥‥見ててすごくヒヤヒヤする。
だから、絶対離さない」
「‥‥‥はっ、なんだよそれ」
ハジメがうつろにつぶやく。
「どうせお前‥‥。
おれが弱ってるから、それに漬け込んで優しくすれば、俺のこと‥何とかできるかとか、思ってんだろ‥‥」
むなしさのやり場がなくてやさぐれるあまり、ついハジメは思ってもないことを口に言ってしまう。
「そんな訳ない‥‥!
俺のこと、ずっとそんな風に思ってたの?」
レイジは怒りを抑えるように、悲しい声で尋ねる。
「‥‥さあな」
ハジメは小さくつぶやく。
そのまま、すぐ近くの机にしなだれるように力無くもたれると、なげやりに言葉を吐き捨てた。
「‥‥ふん。でもまあいいよ。
お前、俺のこと好きなんだもんな。
そんなにしたいんだったら‥‥いいぜ。
キスくらいなら、してやっても」
その言葉に、レイジの瞳孔が開く。
「‥本気で言ってる?それ」
「‥‥なんだよ、その目は。
どうせずっとそれが目的だったんだろ、お前。
それとも‥‥キスよりもっと先のことがしたいとか?
‥‥はは。別にいいよ。
なんかもう、どうでもいいから。
‥‥最後に一発やってみる?」
「‥‥!!!!」
レイジは反射的にハジメの頬をぶった。
「お前、ふざけんな‥‥!」
レイジは肩で息をしながら、必死に言葉にならない様子で怒りに震えている。
「あ‥‥‥」
目がチカチカして、めちゃくちゃ痛い。
目の覚めるようなビンタをくらって、ハジメはただ呆然としている。
「‥‥‥」
赤く腫れた頬を抑えてポロポロと涙を流す表情を見て、思わずレイジは我に返るように、ハジメを掴んでいた手を離した。
「‥‥‥‥違う。
ちがう。俺、最低だ‥‥ごめん‥‥」
レイジはそう小さく呟くと、苦しそうにうつむいた。
「レイジ‥‥」
ハジメは呆然としたまま名前を呼ぶ。
しかし、次の言葉が出てこない。
何か話さなきゃと思うのに、何もできない。
「‥‥ごめん。ちょっと無理。
頭ぐちゃぐちゃで、整理できない‥‥」
と、うつむいたままポツリと言うと、レイジはとぼとぼと、静かにその場から去っていく。
「レイジ、待って‥‥」
「‥‥ううん、もういい。
‥‥‥‥‥着いてこないで」
その言葉に、ハジメは体が棒切れのように固まってその場から動けなくなる。
二人はそれっきり、別れた。
一人取り残された準備室で、ハジメはやり場のない思いを壁にぶつける。
「‥‥くそおっ!‥‥」
でも、気持ちなんて晴れるわけない。
ハジメは乱暴に物に当たる自分に、ますます嫌気がさす。
「‥‥なんでだよ‥どうして‥‥。
どうしてこんな事になっちゃうんだよ‥‥」
そのままハジメは、その場でうずくまり、しばらくの間大声をあげて子供のようにわんわんと泣いた。
その泣き声は、窓の外の土砂降りと壁を隔てた向こうにある展示を見にきた人々の賑わいに、すべてかき消された。
ついに文化祭当日がやってきた。
前日まで時間をかけて描いていたレイジの絵は、展示が始まるその直前まで、ハトロン紙にしっかりと包まれていた。
朝から豪雨だというのに人でごった返す校内の中で、人の波は絶えない。
ヨウジとハジメは朝からずっとブースの前で美術部の呼び込みをしていた。
それは二人が美術部のボランティアをしている以上、任された仕事だというのはわかる。
‥‥‥それは百歩譲って。
「何でこんな格好までしないといけないんだよ!」
そう叫ぶヨウジは、安い金髪のウィッグを被り、プラスチックのパールネックレスをつけていた。
本当はハイヒールもあったのだが、「足痛ェ!」と三秒で脱落したので、下は上履きのまま。
裾がつんつるてんになったピンクのテカテカした素材のドレスは背中のジッパーが上がらず、よくみると上側がずっと開いたままになっている。
一応、お姫様のコスプレ。だそうだ。
「本当だよ‥。なんだよこのカッコ」
そう返すハジメもハジメで、白いシャツに金のボタンがついたベストと白いズボン。
頭にはプラスチックで出来たメッキの王冠を乗せてマントを羽織って、二人して、まるで絵本の中に出てくるコテコテのお姫様と王子様のようなコスプレをしていた。
それもこれも、時を遡ること数時間前。
「はい。二人とも、これ着て!」
当日いきなり、ニーナは二人を呼び込みスタッフに任命するなりこの衣装を渡してきた。
「‥‥‥‥」
その後ろには、こちらにガンを飛ばしまくるミズキ。
ふ
拒否権はなかった。
「‥‥まだお前の方はいいよ。王子だし。
そんなに装飾も派手じゃないから。
これさー‥‥絶対ミズキの嫌がらせだろ!
せめて俺が王子でハジメがお姫様、だろ!てか、体型的にみたら絶対そっちじゃん!」
「へへーん。
かっこいいコスプレが羨ましいか」
なんてハジメはさっきから恨めしく自分を見てくるヨウジにイタズラっぽく挑発する。
「うるせえ!
衣装ぜーんぶ追い剥ぎしてやる!」
「なっ!やめろばーか!」
第三者的に見れば、王子様のコスプレをするのもそれはそれで痛いので、結局どっちもどっちなのだが、二人はギャースカといつものように他愛のない、意味のない言い合いをする。
「あらあら、お二人とも素敵なお召し物ですこと」
と、ニーナの声がして二人は振り返る。
「あ!ニーナちゃん!って。
白魔女っ娘!‥‥かわいい〜」
ヨウジの顔は一瞬でデレデレになる。
「アンタのお姫様姿、やば。
やっぱ私の見立て通りだわ。最高じゃん」
ミズキが鼻で笑うように言う。
二人は共に色違いでお揃いの魔女のコスプレをし、手を繋いで立っていた。
「私たちはねー、魔女の双子コーデにしました!」
そういうと、ニーナはその場でくるくると回る。
ニーナは白で、ミズキは黒。それぞれミニ丈の裾広がりなワンピースに大きな帽子と、ニーナはピンクストライプのタイツ。ミズキは緑のタイツを合わせている。
「これから休憩がてらデートしてくる!」
「呼び込み、サボんなよ」
そういうと、二人は周りの目など気にせず自分たちの世界全開で、腕を組んで雑踏に消えていった。
‥‥デートかあ。いいなあ。
ハジメは思った。
「おい」
急にヨウジがずいっと真剣な面持ちで目の前に接近してくる。
「な、なんだよ‥‥」
思えばここ最近、ずっとヨウジは距離が近い。
それに‥‥。
「じっとしてろ」
「なんで?」
「いいから。王冠ずれてる」
そういうと、ヨウジはハジメの髪に手をやると、頭の上にある王冠の位置を直した。
なんだか頭を撫でられているような気がして、照れくさい。
見つめられてドキドキする心の中で、ハジメは改めて浮き足たつ。それをかき消すように減らず口をいいつつも、耳まで赤くなる。
「なっ、なにそれ。
お前のほうがめちゃくちゃな服装してる癖に‥‥!」
「はいはい。オッケー。これでよし」
ヨウジは満足そうにそういうと、ハジメの赤くなった両頬をぐにーっと引っ張る。
「‥‥おーい、王子様なんだからシケたツラしてないで、もっと笑え笑え!」
「いひゃいって!」
無防備なヨウジのやりとりに、ハジメの心はひたすらかき乱される。
ーーハジメはふいに、昨日の事を思い出した。
部室で意味深に自分に言いあぐねた言葉。
その心臓は、ハジメと同じくらい暴れていた。
そして、グラウンドでのやりとり。
"明日、文化祭終わったら明日のお前の時間。
少しでいいから‥‥俺にくれ"
伝えたい事って、なんだろう。
ヨウジって、もしかして‥‥。
頭の中でぐるぐると感情が巡る。
「‥‥あ、あのさ」
ハジメは思い切って声をかけた。
「なんか俺たちも、色々見て回りたくない?」
「確かにまあ、それはある!」
「次の15分休憩さ、一緒にぐるっと校内回ってみねえ?」
「この格好で?」
「うん」
ヨウジは少し驚いて少し何かを考えたあと、ニヤッと笑っていった。
「えーやん。おもろそう!賛成!」
ヨウジの笑顔に、ハジメもつられて笑う。
これはただの、仲良い悪友同士のたわむれ。
デートなんかじゃない。
デートなんかじゃ‥‥。
ハジメは心の中でつぶやきながらヨウジをみる。
きれいな、整った横顔に見とれてしまう。
その時ふと、彼越しに壁掛け時計が目に入る。
(あ‥‥もうすぐレイジとの約束の時間だ)
「‥‥ごめんちょっと。一瞬だけ、抜ける!」
急いで人の波をかきわけて美術準備室に向かう。
そこでは、レイジが先に座って待っていた。
「え‥‥‥‥!
なんで、そんな格好してるの‥‥?」
レイジはハジメの姿を一目見るなり、心底びっくりした様子で硬直した。
「え?ああ、コレ?
ニーナとミズキにほぼ強制で着せられたんだよ‥‥。
ほら、客寄せだから!って」
呆れながらハジメが言う。
「‥‥ああ、そっか。そうだよね‥‥」
その言葉に、少しだけ残念そうな様子で、レイジが返した。
「疲れたからいったん取る。はーあ」
レイジの様子に特に違和感を感じることもなく、ハジメは頭につけっぱなしだった王冠とローブを取る。
この二つを取ればコスプレ感もだいぶ薄まって、気恥ずかしさも和らぐ。
ハジメはそのまま、どかっと椅子に腰掛けて聞いた。
「あ、そうだ。それよりも今って何時?」
「‥‥あ、うん。今は‥‥。十四時だね」
ハジメのコスプレに見とれるようにぼーっとしていたレイジがハッとして腕時計を見る。
予定時刻の一時間半前だ。
「順調に天気も崩れてきてる」
レイジは窓の外をみて言う。
その言葉に、ハジメは吹き出した。
「‥‥‥なんか冷静に考えたら‥‥。
おれらってシュールだよな。
ふつー、文化祭が雨になったら早く晴れてくれって思うのに、おれたちは雷雨になるのを願ってるんだから」
「たしかに、変なの」
顔を見合わせて、笑い合う。
「‥‥じゃ、俺も部員の子にひとこと言って抜けてきただけだから、手短に言うね」
そう前置きすると、レイジは続ける。
「前も言ったけど‥‥。
雷は欅が避雷針になってくれる。
だからこそ、危ないからくれぐれも欅には近寄りすぎないように気をつけてね。
特にグラウンドの真ん中より先は、ぜったいに行っちゃダメだからね」
「あ、ありがとう。
でも、そのことなんだけどさ‥」
真剣にそう話すレイジを前に、気まずそうにハジメが切り出した。
「‥‥実は、昨日お前と別れた後、ヨウジに言われたことがあって」
「え?」
「今日の文化祭が終わったら"話したい事がある"って。
スゲー意味深に言われちゃってさ。
もちろん、まだ、わかんないけど‥」
レイジの表情が一瞬でこわばる。
テーブルの下で、レイジは無意識に拳を握っていた。
「もし、もしさ。
‥‥それがヨウジからの告白だったら?
だって、よく考えたら、あいつもおれと一緒に同じ雷の近くにいたんだもんな。
実はそれで、ヨウジもおれと同じ心になってたとしたら?
‥‥なのに、おれだけ元に戻っちゃったら?
‥‥永遠にすれ違ったままだ」
「‥‥」
「いま、あいつの話をきかないまま、全部元に戻っちゃったら、たぶんおれ、一生『もしも』を引きずる気がする。
‥‥なんかそれって、この先ずっとキモチを押し殺して過ごすより、嫌なんだ」
レイジの拳が、テーブルの下でずっと静かに震えている。
「‥‥」
「レイジがおれを元に戻そうとあんなにたくさん調べてくれたのはわかる。
ほんと自分勝手だよな‥‥でも、
でも。おれ、まだ元に戻りたくないかもって、昨日ずっと考えて、考えて‥‥気づいちゃったんだよね‥‥‥」
そう言って、ハジメは泣きそうな顔でレイジを見た。
「‥‥」
その表情をみたレイジは、テーブルの下でずっと握っていた拳をゆっくりとほどいた。
「‥‥わかった。
じゃあ、今日の作戦はやめよう。
休憩時間は普通に使ってよ。
俺も自由に過ごすから」
「ありがとう‥‥ごめん」
「なんで謝るの?‥‥ヨウジ君からの告白、楽しみだね」
「‥‥‥うん」
そういうと、ハジメは頬を赤らめた。
「実はこの後も、ヨウジと一緒に校内回る約束してるんだ」
まるで友人に恋の相談をきいてもらう子供のような、うきうきとしたハジメの表情を見て、レイジはふっと笑った。
「そっか‥‥いいじゃん」
━━その時。
「あ、ハジメ!よかった、ここにいたのか。探したぜ!」
突然、浮き足だった様子でヨウジが二人の元へやってきた。さっきまで来てきたコスプレは、もう脱いでいる。
(あれ、次の休憩にはまだ早いはず‥‥)
ハジメは妙な違和感に、背中がざわついた。
「紹介したい人がいるんだ」
ヨウジは手短にそういうと、ドアの向こうにいる
"だれか"を呼び寄せる。
「ムツミ‥‥。おいで」
優しい声でヨウジが言う。
その目は、ハジメがいままで見たことないほどの優しい瞳をしていた。
「‥‥お邪魔します」
小さな鈴が揺れるようなか弱い声とともに、はかなげな女性が二人の前に現れると、ヨウジの横に連れ立った。
え?
え?
え、え、待って。
どういうこと。
状況をつかめないまま、ハジメは立ち尽くす。
「こいつ、俺の彼女!‥‥ムツミって言うんだ」
すこしぎこちない笑顔でヨウジが言う。
「‥‥‥え?」
その言葉にハジメは頭の中が真っ白になった。
「い、いつから?」
「んー‥‥半年前になるかな。バイト先の先輩でさ」
「そんなの、知らなかった‥」
「‥‥悪い。隠すつもりなかったんだけど、なんか照れ臭くて」
「‥‥‥‥」
「‥‥本当は夜にこっち来る予定だったんだけど、なんか早く来れそうって言うから、せっかくだから土壇場で文化祭に連れてきたんだ」
ヨウジは恥ずかしそうに、嬉しそうに、少しだけ切なそうに、早口に言った。
「きのう、言ってた話したいことって‥‥。
このことだったのかよ」
動揺を隠せないハジメは、なんとか自分を取り繕って尋ねる。
「‥‥‥‥‥‥うん。そう」
ヨウジは短く、うなずいた。
隣でずっとほほえみをたたえた女性は、優しい声で二人に声をかける。
「‥‥はじめまして。ムツミっていいます。
あなたが、ハジメ君?
よくヨウジから話聞いてるよ。
いつもお世話になってます。
‥‥隣の方は、レイジ君やったっけ?」
何の敵意もなく、ムツミと名乗る女性は、にっこりとこちらに語りかける。
「‥‥‥はい、そうです」
「初めまして」
「‥‥」
小柄で華奢な、可愛らしいが大人びた佇まい。
年齢はハッキリとはわからないが、10代ではあまり着ないような清潔でシンプルなデザインのワンピースを着て、小さなブランドのハンドバッグを控えめに持っているところから、自分たちより少し年上だと伺える。
‥‥‥‥そして、どことなく顔の雰囲気がニーナに似ていた。
「ハジメ。この後一緒に回ろうって約束あったけどさ、ムツミを1人にできねえから、こいつも一緒に連れてってもいい?」
「あ‥‥」
無邪気に声をかけるヨウジの言葉に、ハジメはどんな顔をしたらいいか分からなくなる。
だけど、とにかく必死に、
(泣くな。泣くな。泣くな。)
とだけ自分に言い聞かせて、言葉をつむいだ。
「お前さ‥‥‥‥。バカじゃねーーの!
せっかく彼女さんきてくれたんなら、おれよりそっち優先しろっての!バーーーーカ!」
精一杯の作り笑顔で大袈裟におどけながら、ハジメは必死に取り繕う。
その様子を、レイジはずっと隣で見つめていた。
「だって、お前に言ったら絶対茶化されるから‥‥」
「まあそりゃそうだろ!
お前、知らねえ所でこんなら可愛い彼女作ってたなんて、もっと早く言えってのーー!!!
本当彼女さん、おれ大丈夫なんではやくコイツ連れてっちゃって下さい!」
「あ、あの‥‥」
「ハジメ、いいのか‥?」
「いいのいいの!気にしないで!
ヨウジ、紹介してくれてありがとうな。
じゃっ、‥‥楽しんできて!」
ぐいぐいと二人を準備室の外に押し出す。
バタン!と扉を強く閉めた後、ハジメはうつむく。
我慢していた涙があふれて、ボタボタと床に落ちた。
「ハジメ君‥‥」
レイジがたまらず、声をかける。
「‥‥‥‥」
ハジメはふーーっと長いため息をつくと、顔を上げて笑った。
「‥‥‥‥はは。恥ず。
ごめん。やっぱさっきの無しで‥‥‥」
笑いながら強がるが、涙がとまらない。
「‥‥‥いいよ。
何も言わなくて、いいから」
そういうと、レイジはとっさにハジメを抱きしめる。
その声は震えていて、レイジまで泣き出しそうだった。
「あ‥‥」
一瞬だけ、ハジメは思わず彼の背中に手を伸ばし、そのまま胸の中に顔を埋めてわんわんと泣きたくなった。
‥‥でも、そんな都合のいい自分が心底嫌になり、すぐに伸ばした手を引っ込める。
「やめろ。同情すんなバカ」
とハジメに力無く言うと、ぐいっとレイジから離れる。
━━その時。
パッと強い稲光と共に、教室が一瞬だけ停電した。
「‥‥!」
その後少し遅れて、ゴロゴロという轟音。
思わず二人は顔を合わせる。
「遠くに落ちたっぽいけど‥。
予定より早く天気が崩れ始めてる」
少し焦った様子でレイジが言った。
‥‥‥なんでだよ。
何もかも、うまくいない。
でも、もうどうでもいい。
「なんか、どうでもいい‥‥。
全部忘れたい。はやく‥‥」
ハジメはぼそっと呟く。
そのままフラフラと準備室から出て行こうとするのを、レイジは腕を掴んで引き止めた。
「‥‥ちょっと待って。どこ行くの」
「グラウンド‥‥」
「俺も行く」
「ほっとけよ!‥‥おれ一人で行く!」
ハジメは振り返り、泣き叫ぶように声を上げる。
「‥‥‥ほっとけるわけないだろ!」
レイジは強い口調で言った。
その声は、ほとんど怒っているようだった。
「‥‥まずちょっと、落ちつこうよ」
すぐに冷静な声にもどり、レイジが言う。
「‥‥‥」
しかし、ハジメは無言でしばらくレイジをにらみつけると、
「お落ち着けるわけ、ない‥‥」
そう言葉を絞り出して、ボロボロと泣くばかりだった。
「‥‥‥」
レイジはその顔をみて言葉が詰まり、たまらなく胸が苦しくなる。
「‥‥‥離せよ」
「いや」
「離せって」
「いやだ」
「‥‥なんなん、さっきから‥‥」
押し問答の果てに、なげやりにハジメが言う。
「お前におれの何がわかるんだよ」
「わかんないよ‥‥。でも、心配なんだ。
今のハジメ君‥‥見ててすごくヒヤヒヤする。
だから、絶対離さない」
「‥‥‥はっ、なんだよそれ」
ハジメがうつろにつぶやく。
「どうせお前‥‥。
おれが弱ってるから、それに漬け込んで優しくすれば、俺のこと‥何とかできるかとか、思ってんだろ‥‥」
むなしさのやり場がなくてやさぐれるあまり、ついハジメは思ってもないことを口に言ってしまう。
「そんな訳ない‥‥!
俺のこと、ずっとそんな風に思ってたの?」
レイジは怒りを抑えるように、悲しい声で尋ねる。
「‥‥さあな」
ハジメは小さくつぶやく。
そのまま、すぐ近くの机にしなだれるように力無くもたれると、なげやりに言葉を吐き捨てた。
「‥‥ふん。でもまあいいよ。
お前、俺のこと好きなんだもんな。
そんなにしたいんだったら‥‥いいぜ。
キスくらいなら、してやっても」
その言葉に、レイジの瞳孔が開く。
「‥本気で言ってる?それ」
「‥‥なんだよ、その目は。
どうせずっとそれが目的だったんだろ、お前。
それとも‥‥キスよりもっと先のことがしたいとか?
‥‥はは。別にいいよ。
なんかもう、どうでもいいから。
‥‥最後に一発やってみる?」
「‥‥!!!!」
レイジは反射的にハジメの頬をぶった。
「お前、ふざけんな‥‥!」
レイジは肩で息をしながら、必死に言葉にならない様子で怒りに震えている。
「あ‥‥‥」
目がチカチカして、めちゃくちゃ痛い。
目の覚めるようなビンタをくらって、ハジメはただ呆然としている。
「‥‥‥」
赤く腫れた頬を抑えてポロポロと涙を流す表情を見て、思わずレイジは我に返るように、ハジメを掴んでいた手を離した。
「‥‥‥‥違う。
ちがう。俺、最低だ‥‥ごめん‥‥」
レイジはそう小さく呟くと、苦しそうにうつむいた。
「レイジ‥‥」
ハジメは呆然としたまま名前を呼ぶ。
しかし、次の言葉が出てこない。
何か話さなきゃと思うのに、何もできない。
「‥‥ごめん。ちょっと無理。
頭ぐちゃぐちゃで、整理できない‥‥」
と、うつむいたままポツリと言うと、レイジはとぼとぼと、静かにその場から去っていく。
「レイジ、待って‥‥」
「‥‥ううん、もういい。
‥‥‥‥‥着いてこないで」
その言葉に、ハジメは体が棒切れのように固まってその場から動けなくなる。
二人はそれっきり、別れた。
一人取り残された準備室で、ハジメはやり場のない思いを壁にぶつける。
「‥‥くそおっ!‥‥」
でも、気持ちなんて晴れるわけない。
ハジメは乱暴に物に当たる自分に、ますます嫌気がさす。
「‥‥なんでだよ‥どうして‥‥。
どうしてこんな事になっちゃうんだよ‥‥」
そのままハジメは、その場でうずくまり、しばらくの間大声をあげて子供のようにわんわんと泣いた。
その泣き声は、窓の外の土砂降りと壁を隔てた向こうにある展示を見にきた人々の賑わいに、すべてかき消された。
