幸福な王子の恋人

君がぼくを忘れても、ぼくは君を覚えている。

川底から見た太陽はキラキラと眩しくて、泡が空に向かって登っていく。必死にもがきながら水面に手を伸ばす。

苦しさを越えてぼんやりとする水の中で、ぼくを呼ぶ名前の断片が聞こえる。

『‥‥じ、』

君は強く手を引いて、ここから救い出してくれた。
ぼくは、真っ先に泣いている君を抱きしめる。

生命力に満ちた君の体。
分かち合うぬくもりに、その瞬間からぼくは君への抑えきれない思いに気づいたんだ。

──だけど、ぼくたちは一緒にいられない。

でも、そうだとしても。
この先何があってもぼくは君の幸福を思い続けるよ。

『‥‥つばめ‥』

だって君は、ぼくの王子さまだから。




「あ、雨」

練習終わりのグラウンドで、ボールカートを押していたヨウジの頬に、小さな雨粒が落ちた。

「降水確率、四時から九十パー。
しかも、かなりやばい雨らしいよ」

ヨウジの隣で、コーンの束をかかえたつばめが返す。

「え、マジで?」

「マジマジ。って、ずっと前からニュースで騒いでたじゃん。‥ヨウジみてないの?」

「え──!そうなの?知らない!オレ傘持ってきてねえよー」


落ち込むヨウジの顔を覗き込むと、つばめが言う。

「しゃーないな。
おれの傘、貸そうか?」

「‥‥‥‥‥‥うん!」

さっきまで絶望的だったヨウジの表情は一瞬で明るくなる。

「ありがとー!助かったわ!さすが、オレのつばめだな」

「なんだよそれ‥‥ま、いいや。
雨ひどくなる前に、サッサと終わらそーぜ」


他愛のないやりとりを交わしながら、二人はグラウンド脇の用具庫の扉を開けると、つばめは慣れた手つきでチェックシートのバインダー取り出しコーンの数を書き込む。

1、2、3、4‥‥。
と、つばめが手際よくボールを数える横で、ヨウジは手持ち無沙汰にくるくるとペンを回しながら呟いた。

「ニーナちゃんってさー‥‥彼氏いんのかな。
オレああいう子めっちゃタイプ。特に目元がいい」

‥‥また出た。その話。
と言わんばかりに、ヨウジを横目につばめはボールを数え続ける。

「あー?ニーナね。あいつ昔っから男っ気ないよ。
意外とガサツな所あるし、部屋着ダサいし」

「はー!勝者のコメント!いいよなお前は‥‥。
あんな可愛い子といとこで幼なじみだから。

‥‥つばめはさ、ニーナちゃんにドキッとしたこととかないのかよ?」

──ボールを数える手が止まる。
つばめは、バカバカしいと言わんばかりの口調で返す。

「ないね。まったく」

「いーや絶対ウソ!強がんなって。
誰にもいわねえから正直になれよー。本当はあるだろ?"禁断の恋"的なさあ!‥‥‥なあって!」

「ッ、しつけーな!
だから、本当にないって言ったんだろ!」

ヨウジのまくし立てに、つばめは思わず語気を強める。

「‥‥‥‥‥なんだよ、冗談じゃんか‥‥」

その様子に、ハッとしたようにヨウジは固まり、バツが悪そうにまごついた。

「あ‥‥ごめん。つい、おれもカッとなった‥‥」

さっきまでポツポツ降りだった雨は急激に勢いを増し、あっという間に用具庫の天井を殴りつけ始める。

「‥‥アイツは、妹みたいなもんだから。
それにいとこ同士は結婚できるから禁断の恋でもなんでもないし。それに‥‥‥‥」

怒鳴った言い訳をするようにつばめは言葉を続ける。

激しく雨の打ち付ける音が倉庫内に響く。
ふと、つばめはそこまで言ってつぶやいた。

「‥‥‥‥‥あ。どこまで数かぞえたか、忘れた‥‥」



「あーあ。ひでー雨」

ボールをイチから数え直し、最終チェックをして用具庫から出る頃には、雨はすっかり土砂降りへと変わっていた。

扉の前の小さなひさしの下で、つばめと身を寄せ合うヨウジは容赦なく降る雨を見上げた。
遠くからかすかに雷鳴の音まで聞こえる。

「悪い。おれがモタモタしちゃっから‥‥‥」

申し訳なさそうにつばめが言う。

ヨウジは、そんな彼をじっと見た後、何かを思いついたように、にやりと笑った。

「んー。そうだな‥。
‥‥‥そんじゃ、最初に部室に着いた方がアイスおごりで!」

そういうと間髪入れずに、ヨウジは雨の中を走り出す。

「え?あっ、ずる!フライング!」

急いでつばめもその後を追う。

「人生、先に走ったモン勝ち!」
「なんだそれ、意味わかんねーし!」

「勝てば官軍!」
「絶対意味違う!」

雷の音が遠くで聞こえる度、ぎゃーぎゃーと声を上げながら二人は土砂降りのグラウンドを駆け抜ける。

ヨウジはさすがエースストライカーと言わんばかりに、段違いの足の速さでぐんぐん差を広げていく。

「おい!遅いぞつばめ!早く!」

雨で前髪が額に張り付くのも気にせず、ヨウジは振り返って笑う。

「お前が速すぎんだよ、ばーか!」

つられてつばめも笑顔になり、その背中を捕まえようと必死に走る。

あとちょっと。

グラウンドの真ん中あたりで、つばめはあと少しの所でヨウジの背中をとらえた。

必死に手を伸ばす。
指先が届きそうになった、その瞬間。

「あっ!」

つばめはぬかるみにすべって転んでしまう。

「つばめ?!」

とっさにヨウジは振り返る。
泥まみれのつばめを見つけると、呆れた様子でドジだなー、と笑い、彼の元へ引き返す。

「何やってんだよ、大丈‥‥‥」

──それっきり。

そう言って手を差し伸べようとして、それっきり。
突然、すべてが稲光にかき消された。

何も見えない。

一瞬のうちに、世界を砕くような轟音を上げて、大きな雷が二人の近くにある欅(けやき)の木に落ちたのだ。

つばめはなにが起きたのか何もわからぬまま、そのままぷっつりと意識が途絶えた。



次に目を覚ますと、保健室のベッドにいた。

「先生!大河原君が目を覚ましました‥」

だれかが養護教諭を呼ぶ声をぼんやりと聞きながら、つばめはゆっくりと体を起こした。

「‥‥ここは‥‥?」

「つばめ!」

ヨウジは椅子から転げ落ちる勢いで、一目散につばめの肩に飛びつく。

「‥‥‥‥よかった‥‥‥!」

その声は柄にもなく震えていた。

「あれ‥‥おれ一体‥‥‥」

つばめは、うすぼんやりする頭で記憶を辿ろうとするが全然まとまらない。

「覚えてないのか?
部室に戻る時、近くにでっかい雷が落ちたんだよ‥‥‥。
オレも一瞬動けなくなったけど、つばめはずっと倒れたまま動かなくてさ‥‥。

何度も名前呼んでも、目を覚まさなくて‥‥‥‥。
オレ、‥‥」

そこまで言うとヨウジは言葉に詰まり、つばめの肩を借りたまま静かに絞り出すような声で一言、

「‥‥‥よかった、目を覚まして‥‥‥‥」

とだけ言うと、堪えきれない様子で泣き出した。

「心配かけてごめん。
そばにいてくれて、ありがと‥‥」

「そんなの当たり前だろ、バカっ!」

ヨウジが自分の肩を抱きしめながら、顔を真っ赤にさせてこちらを睨みつける。

‥‥‥あれ?

その表情を見たつばめは、胸の奥で何かが小さくぎゅーっと震えるのがわかった。

ぐしゃぐしゃの表情なのに、それすら魅力的に見えるのは、ただ単に"ヨウジの顔が整っている"という一言では片付けられない感情だった。

「‥‥‥‥‥‥」

なんだ?この気持ち‥‥。


「あ。よかった。目が覚めたのね」

密かに戸惑いを覚えるつばめをよそに、突如カーテンが開く。そこには報告を受けてやってきた養護教諭が、血圧計を持って立っていた。

「このままいくつかちょっと質問するね。
まず、君の名前は?」

養護教諭はつばめの腕に手際よく血圧計を巻きながら聞く。

「‥‥大河原つばめです」

「今日は何曜日かわかる?」
「月曜日です」
「うん。次は目を見るね」

養護教諭は、手に持っていたペンライトでつばめの目元を照らす。
何度か光の当たる角度を変えて確認するとライトを消して言った。

「よしよし。
酸素濃度も正常値。
瞳孔も異常なし。
血圧も‥‥‥オッケー。

うん。典型的な軽い脳震盪だね」

「よかったあ‥‥‥」

かたわらのヨウジはその言葉に安心すると、またべそべそと泣き出す。

「でも。これはあくまで応急処置だから。
頭を打ってる可能性もあるから、この後病院でしっかり見てもらうのよ。親御さんには連絡入れておくから。迎えが来るまで休んでなさい」

「ありがとうございます。
‥‥‥あ。でも、病院は自分で行けます。
うち共働きで忙しいので‥」

「あのね?先生そういうこと言ってんじゃないの」

養護教諭がピシャリとさえぎる。

「付き添いも無しに、もし万が一何かあったらどうするの?頭を強く打ってる場合はね、急に容体が変わることだってあるのよ」

「すみません。でも‥‥‥‥」

シーツを握りしめながら、つばめはどうしたらいいかわからず途方にくれる。

「先生!だったらオレが付き添います。
‥‥‥それならいいですよね?」

二人のやりとりに横入りするように、ヨウジがキッパリと言った。

「オレが責任持って連れてきますから」

泣き腫らして真っ赤になった目が、まっすぐに養護教諭を見すえる。その眼差しは真剣そのものだった。

「まあ‥‥‥‥‥。
そこまで言うなら‥‥先生としては別に問題ないけど」

ヨウジの勢いに押され、養護教諭はしぶしぶ折れる。

「ありがとうございます!」

ヨウジはつばめの方を見ると、小さくガッツポーズした。

「じゃあ、"病院はヨウジ君が付き添う"って、先生から親御さんには伝えておくからね?
いい?ちゃんと連れてくのよ!」

「はい!もちろんです!」


「‥‥あ、そうそう。
二人の荷物を持ってきてくれた山岸君には、今度あったらお礼言っておくのよ。

あと!ちゃんと病院には着替えてから行くこと。
わかった?」

それだけ言うと、再び勢いよくカーテンを閉じると養護教諭は出て行った。

「あ、そういえば、そうだった‥‥‥」

二人はハタと気づく。

自分たちがまだ泥だらけのユニフォーム姿のままであることに。




「とりあえず、着替えるか」

ヨウジはそういうと、カーテンの隙間から自分のカバンを引き寄せてタオルと制服を出すと、何の迷いもなくその場で服を脱ぎ出した。

「わっ!!!」

突然目の前に飛び込んでくるヨウジの下着姿に、つばめは思わず大声を上げた。

「なんだよ急にデケー声出して。あ、そうだタオル濡らそうっと」

ヨウジはつばめの大声には気にもとめず、そのままズカズカと保健室の流し台まで歩くと、タオルを濡らして体を拭いた。

「‥‥‥‥‥‥」

無駄な脂肪が一切ない、日焼けをしたしなやかな筋肉をまとったヨウジの体の上を、白いタオルが乱暴に滑っていく。

おかしい。

いままでずっと部室で見ていたはずなのに。
それまで何とも思わなかったはずなのに。 

‥‥‥‥なのに。

何故だか釘付けになってしまう自分がいる。
それははじめての感情だった。


「悪い、つばめ。手が届かなくて。
‥‥‥ちょっと拭いてくれね?」

ふいに、ずいっとヨウジがそのまぶしい背中を自分に向けて迫ってくる。

「あ‥‥‥」

恥ずかしくて、直視できない。
おれ一体どうしちゃったんだよ‥‥‥。

「ん?つばめ?どうかした?」

こっちの気持ちなどわかるわけもないヨウジは、いつもの様子で背中ごしに聞いてくる。

「‥‥ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

言えるわけがない。
つばめは戸惑う気持ちを抑えて、なんとか平常心を保ちながら背中を拭く。

「んっ‥‥ありがと。
あー‥力加減キモチいい‥‥」

「‥‥‥?!」

タオルで背中をゴシゴシと撫でた瞬間、うっとりとしたような声でヨウジが言うのに、思わずつばめは突き飛ばしてしまう。

「お、おい!なにすんだよ一体」

ヨウジが振り返って抗議する。

「ほ、ほんとごめん‥‥。
さっき虫が手に止まって‥‥」

「ったく」

つばめは言い訳をすると、今度は目をぎゅっと閉じて、ヨウジの背中を拭きながら心の底から思った。

(あ───‥‥‥。
いま、心拍数測られなくて、よかった‥‥)



なんとか着替えを済ませて、すぐ近くの市民病院までタクシーで向かう。
そこでさまざま問診や検査、CTなどをひと通り行った結果、

「ん。特に問題ありません。
軽い脳震盪ですね」

というお墨付をもらう事ができた。

つばめはようやく、一人胸を撫で下ろす。

──よかった。
自分は何もおかしくなんて、なってない。
‥‥なんにも。


「ありがとうございました。失礼します‥」

そのまま足早に診察室を出ると、すぐ近くの待合室には心配した様子でポツンと座るヨウジの姿が見えた。

「‥‥おーい」

つばめはそう言うと、ヨウジに向かっておどけるようにピースサインをしてみせる。その姿を見て、ふっ。とそれまで不安げだったヨウジの顔がほころんだ。


「ホラ。帰るぞ」

病院を出ると、ヨウジは自分が濡れるのも構わずに手に持った傘をつばめの方に寄せる。

「う、うん‥‥」 

何故だか、自分に優しいヨウジを見るたびにつばめは妙にどぎまぎしてしまう。

でも‥。

あいつが優しいのは、ある意味当たり前だ。
だっていまのおれって、一応怪我人だし。
ヨウジはいい加減でガサツな奴だけど、そういうところは昔から面倒見のいいやつだ。

だから、相合傘なんてどうってことない。

そうつばめは思うのに、ヨウジと1つの傘を分け合って、肩と肩が触れ合うくらいに体を寄せ合うのは、体が近くてやけに気恥ずかしい。

なんでだろう、わからない。
おれって、こんなだったっけ‥‥?


「‥‥あの、ごめんな。今日」

つばめは、ぐるぐると感情が巡る頭の中で冷静になろうと、とっさに頭にうかんだ言葉を切り出す。

「お、お前だって、予定があったのに‥‥‥。
こんなことになっちゃって‥‥」

つばめはヨウジの顔が直視できなくて、自分の足元をじっと見つめたまま言う。

「‥‥そんなの、ぜんぜん気にすんなよ。
つばめの方が大事だから。お前が元気ならそれでいい」

「えっ」

何気ない一言に、余計に胸が高鳴ってしまう。

落ち着け。

大した意味なんてない。
ただの心配だ。

──だって、ヨウジは友達なんだから。

「はは。ありがとう‥‥」

そう思おうとしてるのに、胸の奥にいるもう1人の自分がどうしても納得してくれない。

つばめは空返事をするように笑った。