風間くんと私の関係が友達へと変わった頃。私はいつものように誰も教室にいない時間に登校してきた。部活動に励む運動部の声が遠くで聞こえ、鳥の囀りがそこに混じっている。
いつもの定位置のように私は一番後ろにある窓へと寄りかかると特別校舎の方を見下ろした。私の教室からはちょうど音楽室が見えて、いつもならそこに風間くんがいるはずだった。
「……今日、風間くんはお休みなのかな?」
だけど、今日は風間くんが音楽室にいなかった。朝の日課になっていた彼のピアノを静かに聴く時間は、彼がいないことで達成できそうにない。
そういう日もあるか、と思いながら私は不意に空を見上げる。
分厚い雲が空を覆い、世界全体を暗くしていた。梅雨の時期は湿っぽくて、うまく気持ちの切り替えができなくなるから私は苦手だった。
そんなことを考えていると、一つ、また一つと空から雨が降ってくる。この様子だと、今日も一日中雨なんだろうな、と私は小さくため息を吐いた。
しとしとと雨が降る音を聞きながら私は購買で買ったパンを口に含んだ。
「雨の日って嫌だよね。湿気で髪の毛ぐちゃぐちゃになるし。ジメジメしてて無性にイラつくし」
やる気がなさそうに手で頬を支えた佳奈が口を尖らせる。
「そうだね、私も天気が悪いと偏頭痛がするから好きじゃないな」
「えー、それって最悪じゃん」
口先では心配そうにしながらも佳奈の口元には笑顔が浮かべられる。嫌味な感じではなく、純粋に雨が嫌いなことを共感してくれて嬉しいという感じだ。
佳奈はよく悪くも素直で、隠し事ができないタイプだった。その性格のせいで思ったことはすぐに口にするし、他者への配慮が欠けるところもあった。だけど、そういう佳奈の素直さが私にとっては繕っている感じがなく、息がしやすいと思うところでもある。佳奈のように裏表のない人は珍しく、好ましいと思うのだ。
「そういえば、今日はどこか行かなくていいの?」
「え? あー、うん。今日は大丈夫」
最近は昼ご飯を食べればすぐに音楽室に向かっていたからか、佳奈が不思議そうに首を傾けた。佳奈は私の答えに「そっかー」と聞いてきた割に興味がなさそうに呟く。
「そういえば今日は風間くんのピアノの音、聞こえないね」
佳奈が手元のスマートフォンから顔を上げて音楽室の方を見つめる。
「いつも何気なく聞いてたけど、なくなっちゃうとそれはそれで寂しいね」
「……そうだね。でも、風間くんも忙しいだろうし。そういう日もあるんじゃないかな」
「風間くんの忙しさは普通の高校生じゃわからないもんね」
佳奈が口元を手で覆いながらくすくすと笑う。嫌味な感じはしなかったが、佳奈の言い方に私は少しだけ眉を顰める。
「前も言ったけど、それじゃあ、まるで風間くんは普通じゃないみたいだよ。風間くんだって、私たちと同じ高校生なのに……」
「え? うーん、そうじゃなくて……言葉にするのは難しいけど、少なくとも風間くんは特別でしょ?」
人差し指を頬に当てて佳奈は当然のように話した。佳奈が風間くんを特別だと思うのは、彼にピアノの才能があるからだろうか。それとも、彼がずっと一人で努力を続けることができる人だからだろうか。
どちらにしても、私はそんな訳ない、と胸の中で反論した。
たしかに、風間くんは私たちにはない才能を持っている。だけど、どんなにすごい才能があっても、風間くんは風間くんだ。特別という線を引いて、向こう側に追いやっていい人なんかじゃない。
それをどうやって佳奈に伝えようかと考えていると、佳奈はクスリと笑った。
「瑠夏はそう思わないんだね」
「——え?」
「だって、瑠夏、すごく不満そうな顔してるよ」
佳奈に指摘されて私は思わず口元を手で覆った。思ったことが顔に出ていたことへの羞恥よりも、バレてしまったことへの恐怖が足元からバッと駆け上がってきた。私は手の下で魚のように口をパクパクとさせる。違う、と言わなければいけないのに、真っ白になった頭では言葉は泡のようになって消えていくばかりだった。
「あはは、そんなに切羽詰まった顔しないでよ。別にいいんじゃないの。瑠夏の思ったこともきっと間違いじゃないんだから」
「佳奈、私…………」
「みんな同じ意見じゃ、逆に怖いじゃん。私は風間くんを特別だと思うし、瑠夏は風間くんを特別だとは思わない。それでいいじゃん」
ニッと笑った佳奈に私は少しだけ目を見開いた。そして、佳奈はおもむろに私の頬に手を伸ばすと、私の手を避けるように頬を摘む。口角を上げるように頬を持ち上げると「ほら、頬の筋肉も硬いよ」と楽しげに笑い飛ばす。私は呆然と佳奈のすることを黙って受け入れた後、目元を緩め「何それ」と言って小さく笑った。
「笑えば幸せが自然と寄ってくるの。だから瑠夏ももっと心から笑うといいよ」
私みたいに、というように佳奈は自分自身のことを指差す。自信満々な様子に私は肩を竦めながら「佳奈みたいに可愛く笑えないよ」と呟くと佳奈は「可愛さは関係ないの!」と頬を膨らませた。
呆れたように笑った佳奈を他の生徒が呼んだ。佳奈は私に「ちょっと行ってくる」というとさっさとクラスメイトの方へと向かってしまう。
私は佳奈の後ろ姿を目で追いかけながら自分の頬に手を添える。佳奈がやってくれたように人差し指で口角を上げてみた。普段から全く笑わないなんてことはなくて、むしろ周りに合わせてよく笑っているはずなのに、なぜか頬の筋肉が引き攣るような気がした。
いつもの定位置のように私は一番後ろにある窓へと寄りかかると特別校舎の方を見下ろした。私の教室からはちょうど音楽室が見えて、いつもならそこに風間くんがいるはずだった。
「……今日、風間くんはお休みなのかな?」
だけど、今日は風間くんが音楽室にいなかった。朝の日課になっていた彼のピアノを静かに聴く時間は、彼がいないことで達成できそうにない。
そういう日もあるか、と思いながら私は不意に空を見上げる。
分厚い雲が空を覆い、世界全体を暗くしていた。梅雨の時期は湿っぽくて、うまく気持ちの切り替えができなくなるから私は苦手だった。
そんなことを考えていると、一つ、また一つと空から雨が降ってくる。この様子だと、今日も一日中雨なんだろうな、と私は小さくため息を吐いた。
しとしとと雨が降る音を聞きながら私は購買で買ったパンを口に含んだ。
「雨の日って嫌だよね。湿気で髪の毛ぐちゃぐちゃになるし。ジメジメしてて無性にイラつくし」
やる気がなさそうに手で頬を支えた佳奈が口を尖らせる。
「そうだね、私も天気が悪いと偏頭痛がするから好きじゃないな」
「えー、それって最悪じゃん」
口先では心配そうにしながらも佳奈の口元には笑顔が浮かべられる。嫌味な感じではなく、純粋に雨が嫌いなことを共感してくれて嬉しいという感じだ。
佳奈はよく悪くも素直で、隠し事ができないタイプだった。その性格のせいで思ったことはすぐに口にするし、他者への配慮が欠けるところもあった。だけど、そういう佳奈の素直さが私にとっては繕っている感じがなく、息がしやすいと思うところでもある。佳奈のように裏表のない人は珍しく、好ましいと思うのだ。
「そういえば、今日はどこか行かなくていいの?」
「え? あー、うん。今日は大丈夫」
最近は昼ご飯を食べればすぐに音楽室に向かっていたからか、佳奈が不思議そうに首を傾けた。佳奈は私の答えに「そっかー」と聞いてきた割に興味がなさそうに呟く。
「そういえば今日は風間くんのピアノの音、聞こえないね」
佳奈が手元のスマートフォンから顔を上げて音楽室の方を見つめる。
「いつも何気なく聞いてたけど、なくなっちゃうとそれはそれで寂しいね」
「……そうだね。でも、風間くんも忙しいだろうし。そういう日もあるんじゃないかな」
「風間くんの忙しさは普通の高校生じゃわからないもんね」
佳奈が口元を手で覆いながらくすくすと笑う。嫌味な感じはしなかったが、佳奈の言い方に私は少しだけ眉を顰める。
「前も言ったけど、それじゃあ、まるで風間くんは普通じゃないみたいだよ。風間くんだって、私たちと同じ高校生なのに……」
「え? うーん、そうじゃなくて……言葉にするのは難しいけど、少なくとも風間くんは特別でしょ?」
人差し指を頬に当てて佳奈は当然のように話した。佳奈が風間くんを特別だと思うのは、彼にピアノの才能があるからだろうか。それとも、彼がずっと一人で努力を続けることができる人だからだろうか。
どちらにしても、私はそんな訳ない、と胸の中で反論した。
たしかに、風間くんは私たちにはない才能を持っている。だけど、どんなにすごい才能があっても、風間くんは風間くんだ。特別という線を引いて、向こう側に追いやっていい人なんかじゃない。
それをどうやって佳奈に伝えようかと考えていると、佳奈はクスリと笑った。
「瑠夏はそう思わないんだね」
「——え?」
「だって、瑠夏、すごく不満そうな顔してるよ」
佳奈に指摘されて私は思わず口元を手で覆った。思ったことが顔に出ていたことへの羞恥よりも、バレてしまったことへの恐怖が足元からバッと駆け上がってきた。私は手の下で魚のように口をパクパクとさせる。違う、と言わなければいけないのに、真っ白になった頭では言葉は泡のようになって消えていくばかりだった。
「あはは、そんなに切羽詰まった顔しないでよ。別にいいんじゃないの。瑠夏の思ったこともきっと間違いじゃないんだから」
「佳奈、私…………」
「みんな同じ意見じゃ、逆に怖いじゃん。私は風間くんを特別だと思うし、瑠夏は風間くんを特別だとは思わない。それでいいじゃん」
ニッと笑った佳奈に私は少しだけ目を見開いた。そして、佳奈はおもむろに私の頬に手を伸ばすと、私の手を避けるように頬を摘む。口角を上げるように頬を持ち上げると「ほら、頬の筋肉も硬いよ」と楽しげに笑い飛ばす。私は呆然と佳奈のすることを黙って受け入れた後、目元を緩め「何それ」と言って小さく笑った。
「笑えば幸せが自然と寄ってくるの。だから瑠夏ももっと心から笑うといいよ」
私みたいに、というように佳奈は自分自身のことを指差す。自信満々な様子に私は肩を竦めながら「佳奈みたいに可愛く笑えないよ」と呟くと佳奈は「可愛さは関係ないの!」と頬を膨らませた。
呆れたように笑った佳奈を他の生徒が呼んだ。佳奈は私に「ちょっと行ってくる」というとさっさとクラスメイトの方へと向かってしまう。
私は佳奈の後ろ姿を目で追いかけながら自分の頬に手を添える。佳奈がやってくれたように人差し指で口角を上げてみた。普段から全く笑わないなんてことはなくて、むしろ周りに合わせてよく笑っているはずなのに、なぜか頬の筋肉が引き攣るような気がした。



