たとえ世界が音を失ったとしても

「旭川、今、手が空いているならこれを実験室に運んでおいてくれないか?」

 たまたま職員室前を通りかかったら、クマちゃん先生に呼び止められた。私は「えー、特別校舎って地味に遠いんですけど」と返せば、クマちゃん先生は豪快に笑った。

「善行を積むこともいいことだぞ、旭川。というわけで、さぁ、これを持って出発だ」

 クマちゃん先生は私に意見なんてまるで聞く気もない様子で、いろんな器具の入った段ボール箱を押し付けてきた。拒否権もなく与えられた仕事に内心大きくため息を吐いているとクマちゃん先生は「実験室の鍵は空いてるから、そのまま行っても大丈夫だぞ」と的外れな激励を飛ばしてくる。そういうことじゃないんだよ、という文句は口から出ることはなく、仕方なく私は特別校舎に向けて歩き出す。

 昼休憩ということもあり、特別校舎にはほとんど人がいなかった。節電を心がけている学校では基本的に特別校舎内に電気はついていない。加えて、校舎の半分は木々に覆われていることもあって、校舎内は薄暗かった。私は恐る恐る特別校舎の扉を開けて中に入り込むと、ひんやりとした空気が全身にまとわりつき、鳥肌がゾワっと立つ。廊下の先にある消火栓の赤いランプが不気味に光っているのも、私の心を震えがらせた。一人で移動する特別校舎の中は何かが出てきそうで正直に言えば長居したくなかった。

 私はさっさと用事を済ませて立ち去ろうと、特別校舎の三階にある実験室まで足早に移動する。

 実験室は言葉通りの教室で、科学の実験をするための様々な器具が揃っている教室だ。ただ、どの棚にも個別の鍵がかかっており、また危険な薬品などは準備室の方に保管されているため、実験室に入るだけなら何の問題もなかった。別途ある生物室には古い人体模型があるため、私は密かにお使い先が実験室でまだ良かったと思っていた。

 実験室にたどり着くと、段ボールで塞がった手でなんとか扉を開けて中に入る。置く場所の指定は受けなかったから、とりあえず教壇に段ボールを置くと私はようやく一息ついた。


 その時、廊下の方からガタンという物音がした。


 ハッとして体を硬直させる。
 何かが教室の外にいる。

 そう思うと、途端に足が竦むようだった。

 しばらく身動きひとつせず外の様子を伺っていたが、それ以上物音がすることはなかった。私はずっとここにいるわけにもいかず仕方なく、教室の入り口から廊下を覗き込んだ。

 廊下には当然のように何もいなくて、私はほっと胸をなで下ろす。しかし、その瞬間、また同じ音が廊下に響いた。

「ひっ…………!」

 口から出かかった悲鳴を手で抑えることで堪える。私がゆっくりと音のした方へと顔を向けると、視線の先には第一音楽室があった。そのことに気がついた時、私の脳裏に一つの答えが思い浮かんだ。いつもこの音楽室で過ごす人物に、一人だけ心当たりがあったのだ。

 ゆっくりと足音を立てないようにすり足で音楽室の前まで移動する。そして、ごくりと口の中に溜まった唾を飲み込んでから、そろそろと扉を開けた。

 音楽室の中には私が想像した人物——風間くんがいた。
 お化けとかではなくて安心した時、バァーン!という大きな不協和音が鼓膜を強く揺らした。突然の衝撃に私の頭はクラクラと回っているような感覚に陥る。思わず入り口の扉を支えにした時、ガタンと大きな音を立てた。その物音で風間くんはようやく私のことに気がついたようで、私の方を振り返る。


「お前……何でここに……」


 風間くんは何故か信じられないというような瞳で私を見てくる。音楽室は実験室のように常時施錠されているわけではなく、生徒であれば誰でも入ることができた。だから、私が音楽室にきたとしてもなんら問題はないはずだ。ただ、第一音楽室はほとんど風間くんの練習場になっているというだけで。

「ちょ、ちょっと隣の教室に用があって……そしたら、物音がするから気になって」

 頭の中に響く不協和音が離れて消えてくれない。耳の奥に残るキーンとした音が残り続ける。

 私の様子に気がついた風間くんは少しだけ言い淀むと「……悪かった。突然大きな音出して」と素直に謝ってきた。

「いいよ、私が勝手に入ってきただけだから」

 軽く頭を振って、残響音を振り払う。改めて風間くんの方を見ると、彼は罰の悪そうな顔をして視線を逸らしていた。まるで親に叱られるのを渋々受け入れている幼い子供のようで、私は気がつけば吹き出してしまった。

「何だよ。やっぱり言いたいことがあるなら、はっきりと……」
「あはは、風間くんも子供みたいな顔できるんだなって思ったら何だかおかしくて」
「お前、僕のことを何だと思ってるんだ? 僕だってお前と同じただのガキだぞ」
「ただの子供はピアノのコンクールを総なめしたりしないよ、きっと」

 私の指摘は風間くんの図星をついたようで、彼は不満そうに口を尖らせながら黙り込んだ。風間くんは顔を歪めたまま、そっと白鍵を指先でなぞる。何か言いたそうな顔だったが、風間くんがそのことで口を開くことはなかった。

 しばらくして彼は諦めたように息を吐き出すと、スッと音楽室にある椅子を指差す。

「えっと、何かな……?」
「お詫びに一曲弾いてやる。だからそこに座れ」

 突然の申し出に私は目を丸くし、手をぱたぱたと横に振る。だけど風間くんは無言で椅子を指し続けた。

「僕の気が済まない。だから、聞いていけ」

 もはや脅迫に近い物言いに何故か私の口元は自然と緩んでいく。風間くんの新しい一面を知ることができる喜びが胸の中に広まっていくのを感じ、同時にその感覚に戸惑う自分もいた。


 なぜ私は風間くんのことを知りたいと思うのか。


 教室から彼のピアノの音が聞こえればそれで良かったはずなのに。


 その答えは見つからないまま、私は指示されたように椅子に腰掛けた。風間くんはそれを確認すると、ゆっくりと黒い椅子に腰を下ろす。


 あ——っと思った瞬間、音楽室に流れる空気が変わった。


 聞き逃すことは許されない、張り詰めた空気に私は知らずうちに息を呑む。
 サッと振り上げられた風間くんの手が、鍵盤に吸い寄せられるように落とされた。

 最初に一音が落ちた時、さっきまで薄暗かったはずの音楽室の輪郭が変わった。


 真剣な眼差しの奥に隠された焦燥感。
 もしくは手の届かない何かに対する憧憬の念。


 それらは彼を突き動かす原動力となり、また聞く人の心を震わせる源にもなっていた。

 風間くんの演奏する姿から視線を逸らすことができない。

 教室から聞いていた時とは違う、間近で感じる風間くんの生命の息吹に、私はようやく知った。
 遠くから聞いていた音が、彼の中から削り出されてできていることを。

 数分という短い時間を風間くんの音楽に支配された。演奏が終わると風間くんは鍵盤を静かに見つめ、一息つく。そして、私の方を見て「どうだ」というように首を傾けた。

「……すごい、と思う。音楽とか、あまり聞かないけど、うん。風間くんの音楽はとても、私の中に響く感じがする」
「それなら良かったな。最低限の感性は持ち合わせてる証拠だ」
「その言い方はあまり好きじゃないけど」
「事実を言っただけだろ? それを好きじゃないと言われてもな」

 昇降口で言い争った時から思っていたことだが、風間くんはあまり人との付き合いに慣れていないようだった。こう言ったら相手が不快になるとか、嫌な思いをするとか、そういう普通の人ならわかることがわかっていない。

 そこまで考えて、「あっ——」と私は小さく声をあげた。


 普通の人なら。


 それは言い換えれば普通じゃないと一緒だ。


 私は佳奈に言ったくせに、自分では無意識に風間くんを普通の人とは違うと思ってしまっていた。私の尺度で、風間くんを普通じゃないと。

 周囲の勝手な評価を何よりも嫌っていたはずなのに、私も風間くんに対して勝手な評価をつけていた。そう考えると、風間くんだけではなく、もっといろんな人に同じことをしていたんじゃないかと心が落ち着かなくなった。

「急に黙り込んで、どうしたんだ?」
「あ、ううん。何でもない」
「……そろそろ、午後の授業が始まる。三年の教室までは遠いんだから早く帰れよ」
「風間くんは一緒に行かないの?」

 ピアノに置かれた楽譜や床に散らばった楽譜を一枚ずつ集めながら風間くんが言う。私はどうせなら一緒にと思って声をかけたが、風間くんは一瞬手を止め私を見て、仕方がないとでもいいたげに肩を竦めて笑った。

「僕はこの後、早退するんだ。演奏会の打ち合わせに行かなきゃいけないから」
「そ、っか。そうなんだね。なんかごめん。忙しいのに私のためにピアノを弾いてくれて」
「気にしなくていい。僕がやりたくてやったんだから。それに、驚かせたお詫びだって言っただろ」

 風間くんはそう言うとまた楽譜集めに戻った。私は「手伝おうか?」と声をかけようとして、口を噤んだ。ピアノを弾いていた時の風間くんはいつもより近くに感じていたのに、黙々と楽譜を拾う彼はまるでいつもの風間くんのようだった。

 音楽と向き合っていた時の柔らかい雰囲気とは打って変わった様子に、ただ呆然と立ち尽くす。仲の良い友人ではないから気を許していないと思えば仕方がないのだろうが。

 あの春休みの一件や今回ピアノを演奏してくれたこと、そしてこれまでの朝の日課から私は勝手に風間くんと少し距離が縮まっているのではないかと勘違いをしていただけだった。風間くんにはそんな気持ちはさらさらなくて、たまたま居合わせただけの同級生の一人でしかないのだろう。

 思い上がりもいいところだ、と私は自嘲気味に口元を歪めると、「それじゃあ、私、行くね」と消え入りそうな声で呟く。

 音楽室を出ようとした時、「旭川!」と後ろから声をかけられた。名前を呼ばれたことに驚いて振り返ると、風間くんはじっと私の方を見てこう言った。

「また、聞きにこいよ」
「……いいの?」
「ダメだったらこんなこと言ってない」

 風間くんは集めた楽譜を机の上に置くと、ピアノの側面を優しく撫でる。そして、私を見てニヤッと笑った。

「それに、ちょうどコンクールに向けて一般人の意見が欲しかったんだ」

 私じゃその役は荷が重すぎる。

 そう答えたかったのに、気がつけば私は「わかった」と返していた。私が頷いたのを見て、彼は晴れやかに笑う。自然に溢れたというようなその表情に私は何度目かの衝撃を受けた。


 風間くんとの関係が明確に変わったのは、きっとこの時だろう。


 変わらない明日が続くのだと、何も疑うことのなかったこの時の私たち。


 退屈で、平凡な日常がどれほどの奇跡の上で成り立っていたのかを知らなかった私は「またね」と手を振って今度こそ音楽室から立ち去った。