初夏の澄んだ青空。ほんのりと熱を帯びた風が青葉の匂いを運んでいる。
木漏れ日がちらちらと揺れる並木道を歩きながら、私は夏が近づいてきているのを肌で感じていた。
いつもの癖で、教室にまだ誰もいない時間に到着すると鞄を自席に置いて窓際に立つ。そこからは特別校舎にある音楽室がよく見えた。普通だったら誰もいないはずの音楽室からは、ぎこちないピアノの音が響いている。以前に比べれば随分とぎこちない演奏だったが、それでも、彼——風間くんの想いが籠ったピアノの音であることに変わりはなかった。
風間くんはあの日、私に伝えてくれたことを実行するように、毎日の練習を再開した。朝早くに学校に来てピアノを練習して、昼休憩の時間もピアノと向き合っていた。本人が言うには、思うように動かなくなってしまった左手はまだ回復しているとは言い難いらしい。それでも、諦めることなく、毎日練習とリハビリを続ける姿を見ていると、やっぱり風間くんはすごいなぁ、というありきたりな感想が頭に浮かんでくる。
風間くんのピアノに対する気持ちが変わったからなのか、風間くんの奏でる音楽は前とは少し違っていた。
前は、風間くんの荒々しい感情がそのままピアノの音に乗っていた。だけど今は、その痛みさえ抱きしめるような優しさが旋律に宿っている気がした。彼のどこか晴れやかな気持ちが一音一音に滲んでいる。私は、そう思った。
私はルーティン化している風間くんの観察を終えると、教室を出てぶらぶらと意味もなく校舎の中を歩き回った。
「お、旭川。お前、学校にくるのが早いな」
職員室前を通ったら、偶然にも中からクマちゃん先生が出てきて声をかけられる。私は「おはようございます」と軽く会釈をしながら足を止めた。クマちゃん先生は両手でダンボールの箱を抱えており、私はもしかして、と顔を顰める。クマちゃん先生の言いたいことに気がついた私は、逃げるように一歩後ろに下がった。そのことに気がついたクマちゃん先生は「旭川、今、暇だよな?」とニヤリと笑った。
「これ、実験室に持って行ってくれないか?」
笑顔の裏には「いいよな」と無言の圧力があった。私は一瞬頷きかけてから、はたと立ち止まる。
ダンボールの箱を押し付けようとしたクマちゃん先生をひらりと躱すと、私は廊下を走って逃げていく。
「あ、おい! 旭川、なんで逃げるんだ!」
「……ちょっと用事思い出したので! 先生の手伝いはできませーん!」
本当は用事なんて何もなかったが、実験室まで道のりを考えて面倒くささが勝った。だから、私は仕事を任される前に逃げ出すことにしたのだ。
後ろでクマちゃん先生が悔しげに「廊下は走るな!」と怒っていたが、私は特に気にしなかった。誰もいない廊下を全力で走っているからか、それとも先生のお願い事を断ることができたからか。どちらにしても、私の心は澄み渡る空のように晴れやかだった。
*
「ていうことがあったんだ」
「待て待て」
昼休憩に風間くんと一緒に音楽室で過ごしていた。私がふと、この間あった嬉しかったことを風間くんに話せば、風間くんはものすごい勢いで顔を顰めた。私が「どうしたの、そんな顔して」と呑気に尋ねれば、風間くんはこめかみをぴくりと動かす。
「瑠夏……お前、毎朝僕のピアノを聴いてるのか?」
木漏れ日がちらちらと揺れる並木道を歩きながら、私は夏が近づいてきているのを肌で感じていた。
いつもの癖で、教室にまだ誰もいない時間に到着すると鞄を自席に置いて窓際に立つ。そこからは特別校舎にある音楽室がよく見えた。普通だったら誰もいないはずの音楽室からは、ぎこちないピアノの音が響いている。以前に比べれば随分とぎこちない演奏だったが、それでも、彼——風間くんの想いが籠ったピアノの音であることに変わりはなかった。
風間くんはあの日、私に伝えてくれたことを実行するように、毎日の練習を再開した。朝早くに学校に来てピアノを練習して、昼休憩の時間もピアノと向き合っていた。本人が言うには、思うように動かなくなってしまった左手はまだ回復しているとは言い難いらしい。それでも、諦めることなく、毎日練習とリハビリを続ける姿を見ていると、やっぱり風間くんはすごいなぁ、というありきたりな感想が頭に浮かんでくる。
風間くんのピアノに対する気持ちが変わったからなのか、風間くんの奏でる音楽は前とは少し違っていた。
前は、風間くんの荒々しい感情がそのままピアノの音に乗っていた。だけど今は、その痛みさえ抱きしめるような優しさが旋律に宿っている気がした。彼のどこか晴れやかな気持ちが一音一音に滲んでいる。私は、そう思った。
私はルーティン化している風間くんの観察を終えると、教室を出てぶらぶらと意味もなく校舎の中を歩き回った。
「お、旭川。お前、学校にくるのが早いな」
職員室前を通ったら、偶然にも中からクマちゃん先生が出てきて声をかけられる。私は「おはようございます」と軽く会釈をしながら足を止めた。クマちゃん先生は両手でダンボールの箱を抱えており、私はもしかして、と顔を顰める。クマちゃん先生の言いたいことに気がついた私は、逃げるように一歩後ろに下がった。そのことに気がついたクマちゃん先生は「旭川、今、暇だよな?」とニヤリと笑った。
「これ、実験室に持って行ってくれないか?」
笑顔の裏には「いいよな」と無言の圧力があった。私は一瞬頷きかけてから、はたと立ち止まる。
ダンボールの箱を押し付けようとしたクマちゃん先生をひらりと躱すと、私は廊下を走って逃げていく。
「あ、おい! 旭川、なんで逃げるんだ!」
「……ちょっと用事思い出したので! 先生の手伝いはできませーん!」
本当は用事なんて何もなかったが、実験室まで道のりを考えて面倒くささが勝った。だから、私は仕事を任される前に逃げ出すことにしたのだ。
後ろでクマちゃん先生が悔しげに「廊下は走るな!」と怒っていたが、私は特に気にしなかった。誰もいない廊下を全力で走っているからか、それとも先生のお願い事を断ることができたからか。どちらにしても、私の心は澄み渡る空のように晴れやかだった。
*
「ていうことがあったんだ」
「待て待て」
昼休憩に風間くんと一緒に音楽室で過ごしていた。私がふと、この間あった嬉しかったことを風間くんに話せば、風間くんはものすごい勢いで顔を顰めた。私が「どうしたの、そんな顔して」と呑気に尋ねれば、風間くんはこめかみをぴくりと動かす。
「瑠夏……お前、毎朝僕のピアノを聴いてるのか?」



