たとえ世界が音を失ったとしても

「……え?」


「寂しいなら寂しいって、怖いなら怖いって……どうしてお母さんに言ってくれなかったの!?」


「言えるわけないじゃん!」


 考えるよりも先に声が出ていた。お母さんが驚いてハッと顔を上げたが、私は構うもんかと思った。

「お母さんが苦しそうだったから! 私まで泣いたら、お母さんがもっと苦しくなると思ったから! 私が『いい子』でいれば、お母さんが笑ってくれたから!」
「そんなの……!」

「それに、言ったら嫌われると思ってた!」


 お母さんが完全に言葉を失う。


「お母さんに嫌われたくなかったんだよ……!」

 結局、私がお母さんのためだと思ってやっていたことは、全部自分のためだったのだ。そのことに今になって気がつくなんて、ほんの少し、自分が情けなく思えた。でも、昔はできなかったけどその情けなさも含めて私なのだと認めることが、今の私にはできる。弱さを否定するのではなく、少しずつ受け入れること。それは風間くんたちが教えてくれたことだった。

 本気で向き合うことや自分を曝け出すことはいつだって怖いままだ。正直に言えば、それが本当に正しいのかとか、その道を選んで後悔しないのか、とか。いろんなことを考えて、足踏みしそうになるけど、少なくとも今は——今だけは、ほんの小さな勇気を振り絞ってお母さんと向き合いたい。お母さんの弱さを『私』が受け入れたいのだ。

 お母さんは私の本当の気持ちに目がこぼれ落ちそうなほど大きく見開いていた。震える唇の隙間から浅い呼吸を繰り返し、私の腕を掴む手が力なく床に落ちる。

 どれだけ時間が経ったことだろうか。しばらく二人の息遣いだけがリビングに響き、やがてお母さんが何かを言いたそうに口を動かした。最初はかける言葉に迷っていたのか声にならなくて、何度か同じことを繰り返してからようやく言葉が私の耳に届いた。


「……わ、私は。瑠夏が、笑ってたから」


 迷うように視線が左右に動くが、お母さんは言葉を止めなかった。あのお母さんがちゃんと考えて、私と向き合おうとしてくれていた。それがわかったから私は今度は遮ることなくお母さんの気持ちを受け止める姿勢を作る。

「だって、あの人が…………お父さんが、全部悪くて、それで……瑠夏が笑って許してくれたから」

 じわじわとお母さんの目に新しい涙が溜まっていく。それは瞬きをするたびにはらりと顔を伝って落ちていった。

 お母さんの認識はやっぱりお父さんが中心だった。覚悟していたからか、そこまで私の気持ちが揺れ動くことはない。ただ、どうしようもなくしょうがない人だな、と思うだけで。

「そうだね、私も良くなかったね。辛い時は辛いって言って、泣きたい時に泣いて、笑いたい時に一緒に笑って。そうやってお母さんとちゃんと向き合えばよかった」

 無理して笑って取り繕うのではなく。もっと早く勇気が持てていたなら、私とお母さんの関係も変わっていたのかもしれない。


 だけど、それは仮定の話しで、現実は泥臭くて、もっとめんどくさい。


 お母さんだけが特別にめんどくさいわけじゃない。みんなどこかしらでめんどくさい一面を持っているのだ。私も、風間くんや佳奈も、みんな。


「お父さんはもう戻ってこない。でも、私はここにいるよ。お父さんの代わりにも、お母さんが望むような『いい子』にもなれないけど、その分お母さんの話を聞くから」

「瑠夏、あなた…………」

「だからさ、お母さんも少しずつ自分の人生を取り戻していこうよ」


 お父さんの過去に囚われ続けるのではなくて、お母さんの足で、お母さんの未来を歩いて。

 私はそんな願いを込めてお母さんの反応を窺った。お母さんは幾重にも頬を濡らす涙を拭うことなく、呆然と私の方をじっと見つめている。


 どれだけの時間が経っただろうか。

 お母さんのことを待っていると、お母さんはようやく体を揺らし、唇をきつく引き結ぶ。そして、口の端から深く息を吐き出すと、シワのよった目元を緩ませる。お母さんは綺麗に笑おうとしたが、上手くいかずくしゃっと顔を歪めた。


「……私には、よくわからない。瑠夏がどうして突然そんなことを言うのか。瑠夏が何を考えているのか」


 静かに語られたお母さんの言葉に私の胸がツキっと痛む感覚がする。この話し合いで、今すぐにお母さんが変わるとは思っていなかったけど、それでも言葉にされると辛いと感じるものがあった。

 お母さんは私の表情から何かを察したのか、腕を掴んでいた手をゆっくりと離すと私の手に自分の手を重ねた。柔らかく、温かい手に私は昔、お母さんと繋いだ手の感覚を思い出しハッと目を見開く。


「そうね…………帰ってこないお父さんじゃなくて、今こうしてそばにいてくれる瑠夏のことをちゃんと見ないとダメね」
「お母さん……!」
「でも、もう少し時間が欲しいかな。瑠夏がせっかくこうして話してくれたんだもの。……ダメな母親だけど、それでもいい?」


 ダメなんかじゃない。何もダメなところなんてない。お母さんはお母さんなりに必死だっただけで。少しだけ、向き合い方が下手くそだっただけで。

 咄嗟にそう言おうとして、私はグッと踏みとどまった。相手に合わせて言葉を返すことだけが、正しいわけじゃないことを私はもう知っていたから。

 何を伝えようか、と頭で考えるよりも前に私は口を開く。こういうのは案外、考えすぎないほうがちゃんと自分の気持ちが伝わるような気がした。


「『それでもいい』じゃないよ。『それがいい』んだよ」


 お母さんの手を握り返す。お母さんが驚いたように固まったから、私は思わず笑みをこぼしていた。


「ダメな娘とダメなお母さん。ダメダメ同士で、ちょっとずつ変わっていこう」


 お母さんの体が一瞬小さく揺れたのが握った手から伝わってくる。だけど次の時にはお母さんは今までに見せたことのない、ぎこちない笑みを浮かべた。

「瑠夏、なんだかとっても変わったね」
「私も一人だったら、こんなこと言えなかった。でも、私に勇気をくれた友達がいたから」

 面倒くさい私に最後までそばで話を聞いてくれた佳奈。
 私に自分の気持ちは自分だけのものだと教えてくれた風間くん。

「いいお友達がいるんだね」
「……うん! 自慢の友達なの——また、今度、紹介するね!」

 お母さんとの関係が劇的に変わったわけじゃなかった。
 だけど、今の私は、それでいいと胸を張って言うことができた。それだけで、私は少しだけ息がしやすくなったから。




 
「……ところで、瑠夏」
「どうしたの、お母さん?」
「昨日はどこで夜を過ごしたの?」
「…………あー、っと。友達の家……?」
「そんな……急に押しかけて泊まらせてもらったの!? なんで、そんな迷惑なことをしたの!」
「えっ、今、それを気にするところなの!?」

 それよりももっと大事な話をしていたはずなのに、と私は目の前でぐちぐちと親しい仲にも礼儀が必要なのだと語り続けるお母さんに呆れたような視線を向ける。だけど、決して間違っていることを言ってるわけじゃないから、口を挟むことはできなかった。


 ——まぁ、でもいっか。


 私はお母さんの話を右から左に聞き流しながら、「ほら、そろそろ夕ご飯の時間だよ」と床に座り込んでいたお母さんの体を引っ張り上げる。

「今日は、お母さんが作るハンバーグが食べたい気分だなぁ!」

 取り繕った笑顔じゃない。胸の内から込み上げる気持ちに身を任せるように、私は自然と頬を綻ばせた。


 誰かのためでも、自分を守るためでもない。ただ、嬉しいから笑う——そんな、ひどく素直な笑顔をお母さんに贈った。