家の前に着いた。玄関の扉に手を伸ばすが、それを開ける勇気はなかなか生まれなかった。
この向こうにお母さんがいると思うと、どうしても足が竦む。
本当の『私』を見せて、嫌われたらどうしよう。見捨てられたらどうしよう。
いろんな不安が頭を駆け巡る。でも、その度に風間くんや佳奈の言葉を思い出した。二人の存在が、私に一人じゃないと背中を押してくれていた。
私は大きく深呼吸をする。ざわざわと揺れる心が、完全に落ち着くことはないけれど、足の震えはだいぶ良くなった。
もう一度大きく深呼吸をする。心の奥底で、小さな勇気が芽生えたような気がした。
その勇気の芽を大切に守りながら、私は玄関の扉を開く。
「…………た、だいま」
家の中は暗く、誰もいないようにシンとしていた。だけど、お母さんの靴が乱雑に脱ぎ捨てられているのを見て、お母さんがこの先にいることを悟る。ここまで来てしまったら、もうなるようになるしかないと考え、私は綺麗に靴を並べて脱いだ。
リビングに繋がる扉を恐る恐る開ける。リビングにも電気はついていなくて、カーテンまで閉めていたからとても暗かった。
「……お母さん」
その部屋には、ソファに深く腰をかけ、顔を覆っているお母さんがいた。泣いているのか、嗚咽と鼻を啜る音が時折聞こえてくる。お母さんは私の声に少し遅れて反応すると、手の下から真っ赤になった瞳を私に向けた。私が帰ってきたことにようやく気づくと、お母さんは勢いよく立ち上がって私の元まで駆けてきた。そして、その場に崩れ落ちながら、私の両腕にしがみつく。
「瑠夏……! 瑠夏ぁ!」
恥も外聞もかなぐり捨てて泣きじゃくるお母さんの姿は、なぜかとても小さく見えた。
「なんで、あなたは……私のことをこんなに困らせるの! まさか、私のことを、お父さんみたいに見捨てる気じゃないでしょうね!?」
「お母さん……あのね、私——」
興奮するお母さんに対して、なるべく冷静に対応しようと頑張る。
「うるさい、うるさい! なんで、私のために『いい子』でいてくれないの!?」
幼い子供のように癇癪を起こしながら、涙をいっぱいに溜めた瞳で私のことを睨みあげる。
「なんで、あなたも私のことを置いていくのよ!?」
「……お母さん」
声が震えるのを抑えられない。掴まれた腕は力がどんどん加えられ痛くなる。今すぐにもこの手を振り払って、逃げ出したくなった。だけど、私はあえてその手を外すことなく、ゆっくりとその場にしゃがみ込むとお母さんと目線の高さを合わせた。泣きすぎてボロボロになったお母さんの顔を見た時、ようやく、私は私の知らない皺がいくつも刻まれていることに気がついた。
『私』を偽るたびに、私は無意識のうちにお母さんのことをちゃんと見るのを避けていたのかもしれない。
お母さんと向き合っているつもりが、全然向き合えていなかった。
「お母さん」
もう一度声をかける。やっぱり声は震えたが、構うもんかと知らないふりをする。
お母さんの目を見て、はっきりとお母さんのことを呼んだ。
目の前にいる『私』にちゃんと気がついてもらうために。
「お母さん、お願い……ちょっとでいいから、私の話を聞いてよ」
「……っ! ……いや、いやよ! どうせ、あなたも——!」
「——怖いのはお母さんだけじゃない!」
私の叫びに、お母さんの声がようやく止まる。まるで何を言ってるのかわからないというように、お母さんは大きく目を見開いていた。
「私だって、本当はすごく怖い。怖いんだよ、お母さん」
失敗することが。
嫌われることが。
見捨てられることが。
「ほら、見て。こんなに私の手、震えてる」
掴まれている手が少し弱まった隙に私は手を引き抜くと、お母さんによく見えるように持ち上げた。いろんな感情が混ざり合って、もはやなんで震えているのかもわからなかったけど。お母さんは小刻みに震える私の手に視線を向けて、その後、ゆっくりと私の——『私』の方を向いた。
「私だって、本当はとっても怖い」
「…………瑠夏?」
「お父さんが出て行った時……大切な人がずっとそばにいてくれるんじゃないんだって知った時、置いていかれることが初めて怖いと思った」
ずっと思い出さないようにしていた、お父さんが出て行った日のことを思い出す。あの日も、こんな風にお母さんは声を荒げていて、お父さんもつられるように大きな声を出していた。私は自分の部屋で布団に丸まって、二人が落ち着くのを待っていた——その時は来なかったけど。
出ていくお父さんに、必死に謝っているお母さん。私がリビングに出ていくと、そんな二人が玄関にいた。
私が最後に見たお父さんの表情は、玄関の向こうから漏れる光でよく見えなかった。
「お父さんが出て行ったみたいに、お母さんにも見捨てられたらどうしようとか。お母さんの望む『いい子』でいられなくなったらどうしようとか」
大好きだった家族が、バラバラになって。
次第に歯車は噛み合わなくなって、私もお母さんもお互いの上辺しか見なくなった。薄氷の上を歩くように、いつ水に落ちるかわからない状況に怯えた。そして、神経をすり減らして暮らす毎日は、息が詰まって仕方がなかった。
「失望されるのが怖かった。ため息を吐かれるのが怖かった。期待に応えられなかったら、みんなの望む私じゃなくなったらって思うと怖かった」
いつもならすぐに言葉を被せてくるのに、今日は違った。お母さんがようやく『私』を見ようとしていた。
「何より、お母さんが『私』を見てくれなくなったことがどうしようもなく怖かった……!」
お母さんが小さく息を呑む。流れる涙をそのままに、わなわなと唇を震わせた。
同じなんだ、とふと思った。
風間くんと私の根っこにある気持ちは、きっと同じなんだ。本当の自分を見てほしい。愛してほしい。そうやってずっと本音の後ろで声を張って、手を伸ばそうとしてできなくて。今、限界が来たのだ。
お母さんに見て欲しかった私は、自分からお母さんに手を伸ばすことはしなかった。お互いに依存し合う関係になりたいわけではなかったから。
私が覚悟を持ってお母さんの瞳をじっと見つめれば、お母さんは狼狽えたように視線を彷徨わせる。そして、私の視線から逃げるように俯くと、弱々しい声で話し始めた。
「……なら、どうして何も言ってくれなかったのよ」
この向こうにお母さんがいると思うと、どうしても足が竦む。
本当の『私』を見せて、嫌われたらどうしよう。見捨てられたらどうしよう。
いろんな不安が頭を駆け巡る。でも、その度に風間くんや佳奈の言葉を思い出した。二人の存在が、私に一人じゃないと背中を押してくれていた。
私は大きく深呼吸をする。ざわざわと揺れる心が、完全に落ち着くことはないけれど、足の震えはだいぶ良くなった。
もう一度大きく深呼吸をする。心の奥底で、小さな勇気が芽生えたような気がした。
その勇気の芽を大切に守りながら、私は玄関の扉を開く。
「…………た、だいま」
家の中は暗く、誰もいないようにシンとしていた。だけど、お母さんの靴が乱雑に脱ぎ捨てられているのを見て、お母さんがこの先にいることを悟る。ここまで来てしまったら、もうなるようになるしかないと考え、私は綺麗に靴を並べて脱いだ。
リビングに繋がる扉を恐る恐る開ける。リビングにも電気はついていなくて、カーテンまで閉めていたからとても暗かった。
「……お母さん」
その部屋には、ソファに深く腰をかけ、顔を覆っているお母さんがいた。泣いているのか、嗚咽と鼻を啜る音が時折聞こえてくる。お母さんは私の声に少し遅れて反応すると、手の下から真っ赤になった瞳を私に向けた。私が帰ってきたことにようやく気づくと、お母さんは勢いよく立ち上がって私の元まで駆けてきた。そして、その場に崩れ落ちながら、私の両腕にしがみつく。
「瑠夏……! 瑠夏ぁ!」
恥も外聞もかなぐり捨てて泣きじゃくるお母さんの姿は、なぜかとても小さく見えた。
「なんで、あなたは……私のことをこんなに困らせるの! まさか、私のことを、お父さんみたいに見捨てる気じゃないでしょうね!?」
「お母さん……あのね、私——」
興奮するお母さんに対して、なるべく冷静に対応しようと頑張る。
「うるさい、うるさい! なんで、私のために『いい子』でいてくれないの!?」
幼い子供のように癇癪を起こしながら、涙をいっぱいに溜めた瞳で私のことを睨みあげる。
「なんで、あなたも私のことを置いていくのよ!?」
「……お母さん」
声が震えるのを抑えられない。掴まれた腕は力がどんどん加えられ痛くなる。今すぐにもこの手を振り払って、逃げ出したくなった。だけど、私はあえてその手を外すことなく、ゆっくりとその場にしゃがみ込むとお母さんと目線の高さを合わせた。泣きすぎてボロボロになったお母さんの顔を見た時、ようやく、私は私の知らない皺がいくつも刻まれていることに気がついた。
『私』を偽るたびに、私は無意識のうちにお母さんのことをちゃんと見るのを避けていたのかもしれない。
お母さんと向き合っているつもりが、全然向き合えていなかった。
「お母さん」
もう一度声をかける。やっぱり声は震えたが、構うもんかと知らないふりをする。
お母さんの目を見て、はっきりとお母さんのことを呼んだ。
目の前にいる『私』にちゃんと気がついてもらうために。
「お母さん、お願い……ちょっとでいいから、私の話を聞いてよ」
「……っ! ……いや、いやよ! どうせ、あなたも——!」
「——怖いのはお母さんだけじゃない!」
私の叫びに、お母さんの声がようやく止まる。まるで何を言ってるのかわからないというように、お母さんは大きく目を見開いていた。
「私だって、本当はすごく怖い。怖いんだよ、お母さん」
失敗することが。
嫌われることが。
見捨てられることが。
「ほら、見て。こんなに私の手、震えてる」
掴まれている手が少し弱まった隙に私は手を引き抜くと、お母さんによく見えるように持ち上げた。いろんな感情が混ざり合って、もはやなんで震えているのかもわからなかったけど。お母さんは小刻みに震える私の手に視線を向けて、その後、ゆっくりと私の——『私』の方を向いた。
「私だって、本当はとっても怖い」
「…………瑠夏?」
「お父さんが出て行った時……大切な人がずっとそばにいてくれるんじゃないんだって知った時、置いていかれることが初めて怖いと思った」
ずっと思い出さないようにしていた、お父さんが出て行った日のことを思い出す。あの日も、こんな風にお母さんは声を荒げていて、お父さんもつられるように大きな声を出していた。私は自分の部屋で布団に丸まって、二人が落ち着くのを待っていた——その時は来なかったけど。
出ていくお父さんに、必死に謝っているお母さん。私がリビングに出ていくと、そんな二人が玄関にいた。
私が最後に見たお父さんの表情は、玄関の向こうから漏れる光でよく見えなかった。
「お父さんが出て行ったみたいに、お母さんにも見捨てられたらどうしようとか。お母さんの望む『いい子』でいられなくなったらどうしようとか」
大好きだった家族が、バラバラになって。
次第に歯車は噛み合わなくなって、私もお母さんもお互いの上辺しか見なくなった。薄氷の上を歩くように、いつ水に落ちるかわからない状況に怯えた。そして、神経をすり減らして暮らす毎日は、息が詰まって仕方がなかった。
「失望されるのが怖かった。ため息を吐かれるのが怖かった。期待に応えられなかったら、みんなの望む私じゃなくなったらって思うと怖かった」
いつもならすぐに言葉を被せてくるのに、今日は違った。お母さんがようやく『私』を見ようとしていた。
「何より、お母さんが『私』を見てくれなくなったことがどうしようもなく怖かった……!」
お母さんが小さく息を呑む。流れる涙をそのままに、わなわなと唇を震わせた。
同じなんだ、とふと思った。
風間くんと私の根っこにある気持ちは、きっと同じなんだ。本当の自分を見てほしい。愛してほしい。そうやってずっと本音の後ろで声を張って、手を伸ばそうとしてできなくて。今、限界が来たのだ。
お母さんに見て欲しかった私は、自分からお母さんに手を伸ばすことはしなかった。お互いに依存し合う関係になりたいわけではなかったから。
私が覚悟を持ってお母さんの瞳をじっと見つめれば、お母さんは狼狽えたように視線を彷徨わせる。そして、私の視線から逃げるように俯くと、弱々しい声で話し始めた。
「……なら、どうして何も言ってくれなかったのよ」



