たとえ世界が音を失ったとしても

「いいなぁ、私も混ぜて」

 風間くんと話していると急に佳奈が私の腕に手を伸ばしてくる。

「瑠夏と風間くんが仲直りしたのは嬉しいけど、瑠夏は私の友達でもあるんだからね」

 なんの対抗意識だ、と思っていると風間くんは小さく鼻で笑った。

「別に取ったりしないから安心しろ」

 目を細めて風間くんに佳奈はジトっとした視線を向けながら「本当かなー?」と口を尖らせる。ほぼ話したことがないであろう二人が仲良くしているところを見ると、私の方も嬉しくなってくる。

 そうやってふざけながら歩いていると、一緒に帰れる時間はあっという間に終わってしまう。それぞれの家に帰るべく、分かれ道に立った時、佳奈が私の方を心配そうに見つめた。

「今日も泊まっていく?」
「……ううん。今日は帰るよ」
「なんだ、お前家出中なのか?」

 事情を知らない風間くんが驚いたように目を見開いた。私は頬をかきながら返答に迷ってしまい、曖昧に笑うしかなかった。

「まあ、その、うん。昨日は家には帰ってない、かな」
「ふーん。……別にいいんじゃないか。ちょっとくらい」

 あっさりとした返事に今度は私の方が目を見開く番だった。風間くんは「誰だって家にいたくない時くらいあるだろ」と平然と言ってのけ、私の心に燻っていた気持ちが少しだけ軽くなった気がした。

「そうそう、私のお母さんもいっつもぐちぐちうるさいしね」

 冗談めかして佳奈が笑うから、私は佳奈のお母さんのことを思い出して思わず口元を緩めた。たしかに、佳奈のお母さんは少し口うるさそうだったが、佳奈が言い返しても怒らずにちゃんと受け入れてくれる二人の関係にはどうしても憧れてしまう。私とお母さんもそうなれたらいいな、と思うが、今のところそんな未来が来るとは思えない。

「事情は知らないけど、何かあれば話くらいは聞いてやる」
「うんうん、私も!」

 風間くんと佳奈の言葉が私の背中を押してくれる。一人じゃないと言葉と態度で示してくれるからこそ、私は嬉しくて目元を和らげた。そして、小さく頷き「ありがとう」と私も言葉で気持ちを返す。

「何もなくても、何かあっても連絡ちょうだいね!」
「うん、わかったよ」

 そうして私たちはそれぞれの家に向かって別れていった。


 二人に「バイバイ」と手を振ってから一人で歩き出す。一人になった途端、気持ちが一気に急降下するような感覚に陥る。二人と過ごす時間は楽しかったのに、家で待っているお母さんのことを考えると、次第に歩くスピードはゆっくりになった。


 家に帰りたくない。


 最初に頭に浮かんだのはそんな思いだった。次に思ったのは、お母さんが怒ってないかな、という心配だ。できることなら怒られたくないし、責められたくもない。昨日はお母さんに反抗してしまったが、それが本当に良かったのかはわからない。

 だけど、と私は夕暮れと夜が溶け合う空を見つめる。

 いつまでもこのままじゃダメだ。私も、お母さんも。

 美しい空のグラデーションを見ていると、少しだけ気持ちが上を向いた気がした。

 だからといって足取りが軽くなることはない。


 暗いリビング。
 お母さんの声。
 鈍く光る包丁。


『瑠夏はお母さんの味方でしょう?』


 昨日の出来事を思い出せば、向き合うのが怖いという気持ちが足を引き留めてくる。

 無駄なことはするな。お母さんに逆らうな。
 そんな弱い自分の声が聞こえてくるようだった。

 やっぱり今からでも佳奈に家に泊めてほしいって言いに行こうか。今ならきっと二人に追いつけるだろうから。


 私はどうしたい? 私は、どうありたい——?

『お母さんに『私』を見て欲しかった』


 昨日佳奈に伝えた気持ちは紛れもない私の本音だ。お母さんと気まずいままでいたいわけでも、これまでのようにお母さんにとって都合のいい私でいたいわけでもない。お母さんが変わってくれるのかはわからないけれど、風間くんや佳奈と向き合うことができたように、お母さんともちゃんと話がしたい。

 『私』にも伝えたい思いがあるってことを、少しでも知ってほしい。

「怖い……怖いけど、嘘をついて生きるのはもっと辛いから」

 俯きかけていた顔を少しだけ持ち上げる。そして、意識して足を前に大きく踏み出した。その一歩は他の人から見れば小さな一歩だったかもしれない。


 でも、今の私にとっては、昨日までの自分から抜け出すための、大切な一歩だ。


 正しい道を歩くためじゃない。
 私が、自分で選んだ道へ進むための——。