どうしてピアノの弾けない自分なんかを見るのか。
どうして何も返せない自分に手を伸ばすのか。
なんで。
どうして。
その言葉が頭の中で反芻する。
私が大嫌いな言葉。私を苦しめた言葉。
——でも、私を見つけるきっかけになった言葉でもあった。
私はもう一度私の気持ちを考える。本当の気持ちを自分の中から拾い上げるのは、まだ難しい。ずっと周囲の人に合わせて、自分の気持ちに蓋をし続けていたから。怖い気持ちはある。でも、『私』を伝えることで風間くんに気持ちを伝えられるのなら、きっと大丈夫だと思えた。
「私は……」
綺麗な言葉。取り繕った嘘。正論のような正解。
いろんな言葉が頭を駆け巡っていく。それらを選ぶこともできた。
だけど、もう私は正しい答えに縋ったりしない。自分の言葉で、自分の想いを風間くんに届けるのだ。
私は大きく深呼吸をすると、震える声を叱咤するようにか細い声でありったけの気持ちを伝える。
「——だって、私は、風間くんの生き方に救われたんだから」
「僕の…………?」
私の言いたいことが風間くんには理解できないようで、目を丸くしていた。私は小さく頷くと、音楽室をぐるりと見渡す。そして、窓の方を向いて、本校舎にある自分の教室を見る。いつも同じ場所からこの音楽室を見ていた日々を思い出す。
「最初は、風間くんのピアノに救われたんだと思ってた」
「…………」
「でも、違ったみたい」
誰もいない早朝の教室から私は毎日のように風間くんの音楽を聴いていた。
繰り返されるフレーズ。
納得するまで鍵盤に向かい続ける風間くんの背中。
まっすぐにピアノだけを見つめるその姿に、私は憧れた。羨ましいと思った。
そして、ずるいと思ったのだ。
「好きなものを好きだって言えて、そのために一生懸命になれる風間くんが……私にはずっと眩しかった」
だってそれは私が欲しくても手に入らないものだったから。
春休みのあの日。
風間くんが弾いて聴かせてくれたピアノの音は、私の世界に色を落としたのと同時に、ほんの少しだけ憎たらしかった。そう思ったのは、私が風間くんのようになりたくてもなれなかったからだということにようやく気がついた。
「私はピアノが弾ける風間くんじゃなくて、自分が好きなものを好きだって言って、そのために必死になって。失ったらこんなに泣けるくらい大切にしてた——そんな風間くんの生き方に救われていたんだよ」
「……っでも! もう、僕には何もない……。そんなふうには生きられない」
お前が憧れたような『風間晴政』はいないのだ、と風間くんは言外に伝えていた。だけど、私はそうじゃないと伝えるように小さく首を横に振った。
「風間くんが教えてくれたんじゃない——私の想いは私だけのものだって。だから、風間くんは私がどうするかじゃなくて、風間くんが、どうしたいのかを考えればいいんだよ」
佳奈が私に伝えてくれたように。風間くんが教えてくれたように。
誰かのためじゃない。何よりも大切な自分自身のために。
「あの日言われたことを、風間くんに返すよ——『自分だけが特別だと思わないで』って」
「……!」
「ねぇ、教えてよ。風間くんが思ってきたこと、風間くんが本当はどうしたいのか」
風間くんは震える唇から吐息を漏らすと、眉間に皺を寄せたまま私のことを見つめた。目の端からいくつも流れる涙が風間くんの本当の心をうつしているようで、息を呑むほど綺麗だった。
「……僕は…………どうすればいいんだ」
ピアノという拠り所を失って。
「音楽だけが、全てだったのに……!」
心に大きな穴がぽっかりと開いてしまった。
「みんなが期待してくれてたのに」
その穴を埋める方法を、きっと風間くんは知らないのだろう。だって人生の大半をピアノに注いでいたのだから。
「母さんも……父さんも……。先生もオケのみんなも、みんなみんなっ」
私は何度も頷きながら風間くんのそばに寄る。涙でぐしゃぐしゃになっても風間くんは隠すことも拭うこともしなかった。恥も外聞も捨てて、ありのままの姿を私にぶつけてくれていた。
でも、きっとこれは本当に言いたいことじゃないんだろう。だから私は——。
「——本当は?」
「……っ勝手に期待して、勝手に失望されたくなかったっ…………!」
胸の奥に押し込めていた感情が剥き出しになる。吐き出された想いは紛れもない『風間晴政』の本心であり、魂の叫びでもあった。
私は風間くんの手を——あの日、掴めなかった手を優しく握った。
それが私なりの答えでもあった。
「僕だって、好きでこうなったんじゃない……。みんなの期待に応えたくて、必死に努力して、頑張って、友達と遊ぶのも、学校生活も、何もかも、何もかも捧げてきたのに……! なのに、なんで……どうして、音楽がなくなった瞬間、手のひらを返すんだ……どうして、『僕』を見てくれないんだ……!」
なんで、も、どうして、も私たちの中で永遠の命題のようにぐるぐると巡り続けている。なのに、誰もヒントすらくれないのだから、答えが見つからないのも仕方がないことなのかもしれない。いや、そもそも、答えなんて最初からないのかもしれない。
「僕は、どうすればよかった……?」
「……私にも、わからないよ」
「…………は?」
風間くんは一瞬何を言われたのか理解できないというように、呆然と瞬きを繰り返した。私はうまく握り返せなくなってしまった風間くんの左手に自分の手を当てる。繋がったところから、二人の体温が混ざり合い、お互いの気持ちが伝わるようだった。
「私にもわからない。だって私だって、自分がどうすればよかったのかなんてわからないんだもん」
「……お前、じゃあ、なんで」
「何もわからないけど——答えは教えてあげられないけど、一緒に考えることはできると思ったから」
風間くんの背負っているもの全部を肩代わりしようなんて、もう思わない。それは風間くんが抱えて、悩んで、進んでいかなくてはいけないものだから。
じゃあ、私にできることはなんだろう、って考えてみて、佳奈の姿が頭に浮かんだ。そして次に、あの春休みの日の風間くんが頭をよぎる。
二人ともやり方は違っていたが、どちらも私の心に寄り添ってくれた。佳奈は言葉で、風間くんはピアノで。
一人じゃないって分かれば、それだけであと一歩頑張ろうと思える。
「風間くんの問題は風間くんだけの、私の問題は私だけのもの。でも、支え合っちゃダメなんてルール、ないから」
風間くんの手から自分の手を離す。私はその手をもう一度風間くんに向けて差し出す。
「だから、私のために、生きて。私のために、お互いの問題について一緒に考えようよ」
「——!」
風間くんは私の手をじっと見つめた。その瞳は何かに迷うように揺れ動いていたが、やがて強い光を宿して止まった。
彼は目元を和らげ、かすかに口角を持ち上げる。そして、今度は風間くんの意思で、私の手を握り返した。
「やっぱり、変なやつだな、瑠夏は」
「そんな私も、嫌いじゃないでしょ?」
しばらく見つめあったあと、どちらからともなく小さく吹き出した。それにつられて、笑い声は次第に大きくなっていった。
どうして何も返せない自分に手を伸ばすのか。
なんで。
どうして。
その言葉が頭の中で反芻する。
私が大嫌いな言葉。私を苦しめた言葉。
——でも、私を見つけるきっかけになった言葉でもあった。
私はもう一度私の気持ちを考える。本当の気持ちを自分の中から拾い上げるのは、まだ難しい。ずっと周囲の人に合わせて、自分の気持ちに蓋をし続けていたから。怖い気持ちはある。でも、『私』を伝えることで風間くんに気持ちを伝えられるのなら、きっと大丈夫だと思えた。
「私は……」
綺麗な言葉。取り繕った嘘。正論のような正解。
いろんな言葉が頭を駆け巡っていく。それらを選ぶこともできた。
だけど、もう私は正しい答えに縋ったりしない。自分の言葉で、自分の想いを風間くんに届けるのだ。
私は大きく深呼吸をすると、震える声を叱咤するようにか細い声でありったけの気持ちを伝える。
「——だって、私は、風間くんの生き方に救われたんだから」
「僕の…………?」
私の言いたいことが風間くんには理解できないようで、目を丸くしていた。私は小さく頷くと、音楽室をぐるりと見渡す。そして、窓の方を向いて、本校舎にある自分の教室を見る。いつも同じ場所からこの音楽室を見ていた日々を思い出す。
「最初は、風間くんのピアノに救われたんだと思ってた」
「…………」
「でも、違ったみたい」
誰もいない早朝の教室から私は毎日のように風間くんの音楽を聴いていた。
繰り返されるフレーズ。
納得するまで鍵盤に向かい続ける風間くんの背中。
まっすぐにピアノだけを見つめるその姿に、私は憧れた。羨ましいと思った。
そして、ずるいと思ったのだ。
「好きなものを好きだって言えて、そのために一生懸命になれる風間くんが……私にはずっと眩しかった」
だってそれは私が欲しくても手に入らないものだったから。
春休みのあの日。
風間くんが弾いて聴かせてくれたピアノの音は、私の世界に色を落としたのと同時に、ほんの少しだけ憎たらしかった。そう思ったのは、私が風間くんのようになりたくてもなれなかったからだということにようやく気がついた。
「私はピアノが弾ける風間くんじゃなくて、自分が好きなものを好きだって言って、そのために必死になって。失ったらこんなに泣けるくらい大切にしてた——そんな風間くんの生き方に救われていたんだよ」
「……っでも! もう、僕には何もない……。そんなふうには生きられない」
お前が憧れたような『風間晴政』はいないのだ、と風間くんは言外に伝えていた。だけど、私はそうじゃないと伝えるように小さく首を横に振った。
「風間くんが教えてくれたんじゃない——私の想いは私だけのものだって。だから、風間くんは私がどうするかじゃなくて、風間くんが、どうしたいのかを考えればいいんだよ」
佳奈が私に伝えてくれたように。風間くんが教えてくれたように。
誰かのためじゃない。何よりも大切な自分自身のために。
「あの日言われたことを、風間くんに返すよ——『自分だけが特別だと思わないで』って」
「……!」
「ねぇ、教えてよ。風間くんが思ってきたこと、風間くんが本当はどうしたいのか」
風間くんは震える唇から吐息を漏らすと、眉間に皺を寄せたまま私のことを見つめた。目の端からいくつも流れる涙が風間くんの本当の心をうつしているようで、息を呑むほど綺麗だった。
「……僕は…………どうすればいいんだ」
ピアノという拠り所を失って。
「音楽だけが、全てだったのに……!」
心に大きな穴がぽっかりと開いてしまった。
「みんなが期待してくれてたのに」
その穴を埋める方法を、きっと風間くんは知らないのだろう。だって人生の大半をピアノに注いでいたのだから。
「母さんも……父さんも……。先生もオケのみんなも、みんなみんなっ」
私は何度も頷きながら風間くんのそばに寄る。涙でぐしゃぐしゃになっても風間くんは隠すことも拭うこともしなかった。恥も外聞も捨てて、ありのままの姿を私にぶつけてくれていた。
でも、きっとこれは本当に言いたいことじゃないんだろう。だから私は——。
「——本当は?」
「……っ勝手に期待して、勝手に失望されたくなかったっ…………!」
胸の奥に押し込めていた感情が剥き出しになる。吐き出された想いは紛れもない『風間晴政』の本心であり、魂の叫びでもあった。
私は風間くんの手を——あの日、掴めなかった手を優しく握った。
それが私なりの答えでもあった。
「僕だって、好きでこうなったんじゃない……。みんなの期待に応えたくて、必死に努力して、頑張って、友達と遊ぶのも、学校生活も、何もかも、何もかも捧げてきたのに……! なのに、なんで……どうして、音楽がなくなった瞬間、手のひらを返すんだ……どうして、『僕』を見てくれないんだ……!」
なんで、も、どうして、も私たちの中で永遠の命題のようにぐるぐると巡り続けている。なのに、誰もヒントすらくれないのだから、答えが見つからないのも仕方がないことなのかもしれない。いや、そもそも、答えなんて最初からないのかもしれない。
「僕は、どうすればよかった……?」
「……私にも、わからないよ」
「…………は?」
風間くんは一瞬何を言われたのか理解できないというように、呆然と瞬きを繰り返した。私はうまく握り返せなくなってしまった風間くんの左手に自分の手を当てる。繋がったところから、二人の体温が混ざり合い、お互いの気持ちが伝わるようだった。
「私にもわからない。だって私だって、自分がどうすればよかったのかなんてわからないんだもん」
「……お前、じゃあ、なんで」
「何もわからないけど——答えは教えてあげられないけど、一緒に考えることはできると思ったから」
風間くんの背負っているもの全部を肩代わりしようなんて、もう思わない。それは風間くんが抱えて、悩んで、進んでいかなくてはいけないものだから。
じゃあ、私にできることはなんだろう、って考えてみて、佳奈の姿が頭に浮かんだ。そして次に、あの春休みの日の風間くんが頭をよぎる。
二人ともやり方は違っていたが、どちらも私の心に寄り添ってくれた。佳奈は言葉で、風間くんはピアノで。
一人じゃないって分かれば、それだけであと一歩頑張ろうと思える。
「風間くんの問題は風間くんだけの、私の問題は私だけのもの。でも、支え合っちゃダメなんてルール、ないから」
風間くんの手から自分の手を離す。私はその手をもう一度風間くんに向けて差し出す。
「だから、私のために、生きて。私のために、お互いの問題について一緒に考えようよ」
「——!」
風間くんは私の手をじっと見つめた。その瞳は何かに迷うように揺れ動いていたが、やがて強い光を宿して止まった。
彼は目元を和らげ、かすかに口角を持ち上げる。そして、今度は風間くんの意思で、私の手を握り返した。
「やっぱり、変なやつだな、瑠夏は」
「そんな私も、嫌いじゃないでしょ?」
しばらく見つめあったあと、どちらからともなく小さく吹き出した。それにつられて、笑い声は次第に大きくなっていった。



