「……勝手にピアノ触るなよ」
「ごめん。でも一度弾いてみたかったから」
鍵盤に視線を送りながら、そっとその上を撫でるように触る。そして、もう一度ピアノに向き合って座り、そこから見える景色を想像する。
熱いくらいのスポットライト。緊張感が漂い、耳に突き刺さる静けさ。たくさんの観客の視線。
そして、終わった後の、割れんばかりの歓声を。
そうだ。
私はここに座って、ピアノに触れて、風間くんのことを少しでも理解したかったのだ。
「私は、ここに座って、風間くんのことを少しでも知りたかった」
「僕のことを……?」
風間くんは訝しげに私の方を見た。どうしてそんなことをする必要があるのか、と視線で問われているようだった。
「ねぇ、風間くん」
私はすぐにその問いに対して答えたりしなかった。椅子から立ち上がると音楽室の入り口で立ち尽くす風間くんのことをまっすぐ見つめる。
短く整えられた黒髪は、動くたびにさらりと揺れる。切れ長の瞳は黒曜石のように深く、こちらの心の奥まで見透かしてしまいそうな鋭さを湛えていた。スッと通った鼻筋から唇に至るまで、どこをとってもきれいに整っていた。
何度も見てきたはずなのに、初めてちゃんと風間くんのことを見たような新鮮な気分だった。
「ここにくれば、ちょっとでも風間くんのことがわかると思ってた」
「…………」
「でも、ごめん。やっぱり、私にはよくわからなかった」
風間くんのことをちゃんと理解したいからこそ、この場限りの言葉を投げかけるのではなくて、ちゃんと『私』の言葉で伝えるのだ。風間くんは私の言葉の意味を計りかねているのか、眉間に深い皺を作っていた。真面目な話をしているのに、その表情がなんだかおかしくて私は思わず口元を緩めた。
「わからないから、教えて欲しい。風間くんが何を思って、どんな景色を見てきて——何がしたいのかを」
「……そんなもの知って何になるんだよ」
「そんなの、わかんないよ」
「なら、なんで知りたいんだよ! 何にもならないのに! 今更、僕のことを理解したって——分かろうとしたって、何もかも遅いのに!」
悲しみも、怒りも、悔しさも、行き場のない虚しさも。何もかもが堰を切ったように風間くんの口から溢れ出す。行き場を失った感情を、風間くんはきっとずっと一人で抱えていたのだろう。彼は全てを吐き出すように、声の限り叫んでいた。失ったものは何一つ戻ってこない。その事実に首を絞められ続けていた。
ずっと、ずっと風間くんはどうしようもない現実から抜け出そうと、一人でもがき続けていたのだ。
だけど、と私は思った。
ピアノにぶつけた想いも、蓋をするようにピアノにかかった布も。
夕陽をつかもうとして伸ばした手も。
本当は、彼なりの『助けて』だったのかもしれない——と。
でも、本当のところは私にもわからない。だからこそ、知りたいと心から思った。
風間くんのためという偽善を取り払えば、それは実に簡単な話だった。
私がちゃんと風間くんを見ようとしていなかっただけで。風間くんの方を向いたつもりになっていただけで。
風間くんは、天才ピアニストでもなければ、同級生よりも達観した大人でもない。
私たちと同じ、ただの高校生だ。
楽しいことがあれば笑って、辛いことがあれば苦しんで。
私の目の前にいるのは、そんな、ただの『風間晴政』なのだ。
「——でも、知りたいんだよ!」
「……っ!」
私が繰り返し同じことを伝えれば、風間くんは信じられないものを見るかのように顔を歪めた。
「だから! なんでだよって、言ってるだろっ…………!」
風間くんは右手で顔を覆うと、左手を憎たらしげに睨みつける。思うように動かない、全ての元凶を。
「僕にはピアノしかなかった! ピアノがあるからやってこれたし、ピアノがあったから一人でも大丈夫だった!」
公園で風間くんが話してくれた言葉が頭によぎった。
『僕の気持ちを正しく伝えてくれるのが、ピアノだけだったんだ』
私たちが言葉で人と繋がるように、風間くんにとってピアノは自分を表現する大事な場所だった。ずっとそうやって自分と向き合い続けてきた風間くんだからこそ、ピアノが弾けなくなってどうやって自分のことを伝えればいいのかわからなくなったのだろう。それはきっと、登っていた梯子を急に外された感覚に近いのではないかと思った。
『音楽だけは僕を裏切らない』
風間くんはそう信じて生きてきた。なら、私ができることは——。
「私は知りたいよ。風間くんの今の苦しさも、辛さも。だって一人で抱えて欲しくないから。これ以上苦しい思いをして欲しくないから」
「だから! そうやって手を差し伸べる自分がかっこいいみたいなものに、僕を——」
「違うっ! 私は! ……私は、私がそうしたいから、風間くんのこと理解したいの!」
風間くんの叫びに引きずられるように、私も声を張り上げていた。
独りよがりだと言われても、知って欲しかった。
「私は、私の気持ちで風間くんと向き合ってる! ピアノが弾ける風間くんでもない。天才で特別な風間くんじゃない——『風間晴政』に話しかけてるんだよ!」
風間くんが小さく息を呑んだ。わなわなと唇を震わせて、「なんで」と消え入りそうな声で囁きながら、一筋の涙を流す。
「ごめん。でも一度弾いてみたかったから」
鍵盤に視線を送りながら、そっとその上を撫でるように触る。そして、もう一度ピアノに向き合って座り、そこから見える景色を想像する。
熱いくらいのスポットライト。緊張感が漂い、耳に突き刺さる静けさ。たくさんの観客の視線。
そして、終わった後の、割れんばかりの歓声を。
そうだ。
私はここに座って、ピアノに触れて、風間くんのことを少しでも理解したかったのだ。
「私は、ここに座って、風間くんのことを少しでも知りたかった」
「僕のことを……?」
風間くんは訝しげに私の方を見た。どうしてそんなことをする必要があるのか、と視線で問われているようだった。
「ねぇ、風間くん」
私はすぐにその問いに対して答えたりしなかった。椅子から立ち上がると音楽室の入り口で立ち尽くす風間くんのことをまっすぐ見つめる。
短く整えられた黒髪は、動くたびにさらりと揺れる。切れ長の瞳は黒曜石のように深く、こちらの心の奥まで見透かしてしまいそうな鋭さを湛えていた。スッと通った鼻筋から唇に至るまで、どこをとってもきれいに整っていた。
何度も見てきたはずなのに、初めてちゃんと風間くんのことを見たような新鮮な気分だった。
「ここにくれば、ちょっとでも風間くんのことがわかると思ってた」
「…………」
「でも、ごめん。やっぱり、私にはよくわからなかった」
風間くんのことをちゃんと理解したいからこそ、この場限りの言葉を投げかけるのではなくて、ちゃんと『私』の言葉で伝えるのだ。風間くんは私の言葉の意味を計りかねているのか、眉間に深い皺を作っていた。真面目な話をしているのに、その表情がなんだかおかしくて私は思わず口元を緩めた。
「わからないから、教えて欲しい。風間くんが何を思って、どんな景色を見てきて——何がしたいのかを」
「……そんなもの知って何になるんだよ」
「そんなの、わかんないよ」
「なら、なんで知りたいんだよ! 何にもならないのに! 今更、僕のことを理解したって——分かろうとしたって、何もかも遅いのに!」
悲しみも、怒りも、悔しさも、行き場のない虚しさも。何もかもが堰を切ったように風間くんの口から溢れ出す。行き場を失った感情を、風間くんはきっとずっと一人で抱えていたのだろう。彼は全てを吐き出すように、声の限り叫んでいた。失ったものは何一つ戻ってこない。その事実に首を絞められ続けていた。
ずっと、ずっと風間くんはどうしようもない現実から抜け出そうと、一人でもがき続けていたのだ。
だけど、と私は思った。
ピアノにぶつけた想いも、蓋をするようにピアノにかかった布も。
夕陽をつかもうとして伸ばした手も。
本当は、彼なりの『助けて』だったのかもしれない——と。
でも、本当のところは私にもわからない。だからこそ、知りたいと心から思った。
風間くんのためという偽善を取り払えば、それは実に簡単な話だった。
私がちゃんと風間くんを見ようとしていなかっただけで。風間くんの方を向いたつもりになっていただけで。
風間くんは、天才ピアニストでもなければ、同級生よりも達観した大人でもない。
私たちと同じ、ただの高校生だ。
楽しいことがあれば笑って、辛いことがあれば苦しんで。
私の目の前にいるのは、そんな、ただの『風間晴政』なのだ。
「——でも、知りたいんだよ!」
「……っ!」
私が繰り返し同じことを伝えれば、風間くんは信じられないものを見るかのように顔を歪めた。
「だから! なんでだよって、言ってるだろっ…………!」
風間くんは右手で顔を覆うと、左手を憎たらしげに睨みつける。思うように動かない、全ての元凶を。
「僕にはピアノしかなかった! ピアノがあるからやってこれたし、ピアノがあったから一人でも大丈夫だった!」
公園で風間くんが話してくれた言葉が頭によぎった。
『僕の気持ちを正しく伝えてくれるのが、ピアノだけだったんだ』
私たちが言葉で人と繋がるように、風間くんにとってピアノは自分を表現する大事な場所だった。ずっとそうやって自分と向き合い続けてきた風間くんだからこそ、ピアノが弾けなくなってどうやって自分のことを伝えればいいのかわからなくなったのだろう。それはきっと、登っていた梯子を急に外された感覚に近いのではないかと思った。
『音楽だけは僕を裏切らない』
風間くんはそう信じて生きてきた。なら、私ができることは——。
「私は知りたいよ。風間くんの今の苦しさも、辛さも。だって一人で抱えて欲しくないから。これ以上苦しい思いをして欲しくないから」
「だから! そうやって手を差し伸べる自分がかっこいいみたいなものに、僕を——」
「違うっ! 私は! ……私は、私がそうしたいから、風間くんのこと理解したいの!」
風間くんの叫びに引きずられるように、私も声を張り上げていた。
独りよがりだと言われても、知って欲しかった。
「私は、私の気持ちで風間くんと向き合ってる! ピアノが弾ける風間くんでもない。天才で特別な風間くんじゃない——『風間晴政』に話しかけてるんだよ!」
風間くんが小さく息を呑んだ。わなわなと唇を震わせて、「なんで」と消え入りそうな声で囁きながら、一筋の涙を流す。



