たとえ世界が音を失ったとしても

 午後の授業が終わり、私は一人で音楽室にやってきていた。音楽室には鍵がかかっておらず、簡単に中に入ることができた。

 教室の真ん中に置かれた一台のグラウンドピアノ。私はピアノを覆っていた布を取り払うと、事前に勉強していた通りにピアノの蓋をあげる。初めて動かしたピアノの蓋はとても重くて、腕が震えた。その重みは、音楽に命をかける人たちの重さに近いのかもしれない、とふと思った。

 ピアノの準備が終わると、私は椅子に深く腰掛けた。高さが合っていないのか、つま先しか床につかなかった。だけど、椅子の調整の仕方は調べてきていないから、仕方なく私は足を浮かせたまま鍵盤に自分の手を置いた。

 音楽なんてやったことない。せいぜい授業でちょっと齧った程度で、もしも楽譜が目の前にあっても、音符と鍵盤の位置を一致させることはできないだろう。


 それでも、私は人差し指で白い鍵盤を押した。
 ポーン——。


 同じピアノのはずなのに、風間くんが弾くピアノの音とはどこか違う気がした。やっぱり素人が弾いても風間くんのようにはなれないのだ。

 でも、それの何がいけないのだろうか。

 昨日の夜、佳奈と話し合って私はようやく自分の間違いに気がつけた。

 私はいつも誰かのためと綺麗事を並べて、本当はただ自分の気持ちを曝け出すのが怖かっただけだった。だって、本当の『私』を好きになってくれる人なんていないと思っていたから。『私』が間違えればため息が聞こえ、『私』が失敗すれば嘲笑が聞こえた。でも、それは本当は私の思い込みだったのかもしれない。自分で自分のことを何もできない人と決めつけて、周りの人と向き合う勇気が出ない免罪符にしていた。

 そうすれば楽だったから。そっちの方が生きやすいと勘違いしていたから。


「私は、私のために……」


 小さく呟きながら隣の鍵盤を押した。
 ポーン——。


 次から次へと鍵盤を駆け上がっていく。繋げて弾けば音階が出来上がり、簡単な曲を弾けた気分になる。

 私は最初に弾いた鍵盤に戻るともう一度鍵盤を登っていく。他にできることもなかったから、同じことを何度も繰り返す。だけど、それもすぐに飽きてしまう。

「やっぱり、風間くんはすごいや」

 何時間も同じことができること。ピアノに対して妥協しない姿勢。どれをとっても風間くんはすごいという感想に行き着く。

 だが、それは風間くんが特別だということではない。じゃあ、普通なのかと聞かれたらそうでもない。

 そもそも、他人が人のことを普通とか特別だと決めつけること自体が間違いなのではないか、と今ならそう思う。


「自分のために生きていいなら、自分の価値だって自分で決めていい——ねぇ、そう思わない? 風間くん」


 鍵盤から手を離し、私は振り返って音楽室の入り口に立っている風間くんを見る。風間くんは私が気づいていたことに驚いたのか、小さく目を見開いたが、すぐに仏頂面に戻った。