たとえ世界が音を失ったとしても

 震える声で伝えられた言葉に、私は静かに頷くと、ゆっくりと目を閉じた。

 そして、自分の気持ちを整理しながら目を開く。目の前には幼い自分はもういない。ただ心配そうに私を見ている佳奈がいるだけだ。

「……私ね」

 自分のことを振り返ってみる。本当はどうしたかったのか——『私』が何を望んでいたのかを考える。

 長年の癖があるからか、考えはうまくまとまらない。でも、もう無理に正解を見つけようとは思わなかった。


「本当は……寂しかったんだと思う」
「瑠夏……!」
「お母さんに、『私』を見て欲しかった。いい子じゃなくても、笑っていなくても、うまくできなくても。それでも、『私』のことを好きでいて欲しかった」

 ただそれだけだったのに、お母さんとはすれ違ったままだ。そのせいで、お母さんはお父さんの過去から抜け出せず、理想の『私』を押し付けてくる。

 あの時、私がすべきだったのは、辛くても、お母さんを傷つけることになったとしても、ちゃんと向き合って、本心をぶつけることだったんだ。

「……今からでも、まだ間に合うかな?」
「当然でしょ。ちょっとスタートが遅れたからって、人生それだけで手遅れになったりしないんだから」

 佳奈は当たり前と言うように私の額にデコピンを贈った。じんわりとした痛みが額から伝わってくる。その痛みは、心の痛みよりも遥かに弱いはずなのに、なぜか再び涙がこぼれ落ちそうになった。

「それで? 瑠夏はどうしたい?」

 もう一度同じ質問を佳奈は口にする。お母さんへの気持ちは聞いたから、次は風間くんの番だというように。
 私は、浅く息を吸って、深く息を吐き出した。

「私は……」

 どれだけ時間が経っても、感情も考えもまとまらない。

 風間くんを助けたい。
 風間くんを支えたい。
 風間くんに立ち直ってほしい。

 今まで使ってきた風間くんのための言葉が頭に思い浮かぶ。


 ——本当は?


 何度も繰り返し問いかけてきた言葉が、もう一度私の前に立ち塞がる。

「私が、風間くんを一人したくなかったんだ」

 言葉にすれば簡単なことだ。誰かのためという免罪符を外せば、残っていたのは私の望みだけだった。

『僕のためなんかじゃない。全部自分のためだろ』

 風間くんの静かな叫びが頭に蘇る。その通りだと思った。

 私はずっと一人で頑張ってきた風間くんを知っていた。

 だから、あの日——事故のことを知った日、風間くんを一人にしたらいけないと、どうしてか強く思った。


 それはたぶん——私たちが似ていたからだ。


 誰にも本当の気持ちを言えないまま、一人で耐えていた私と。
 ピアノを失って、自分自身の価値まで見失いかけていた風間くんが。


 だから私は私のために風間くんに手を差し伸べた。
 そうすることで、本当はあの日の自分にも手を伸ばしていたのかもしれない。

 空を掴もうとした、音楽室にいた自分へ。


「私……最低だ。風間くんのためなんて言いながら、本当は自分のために怪我して傷ついていた風間くんを利用したんだ」
「うん、そっか。でもそれの何が最低なの?」
「……え?」
「風間くんを一人にしたくないっていう気持ちに、自分の気持ちが入ってたっていいじゃん」

 あっけらかんと言う佳奈に私は開いた口が塞がらない気持ちだった。予想に反した言葉に私の涙も思わず止まってしまう。

「善意が百パーセント誰かのためになんかなるわけないんだから、自分の気持ちが混ざってたっていいじゃん。風間くんを一人にしたくなかった。それで、瑠夏も救われたかった。どっちも間違ってなくて、どっちも大事な瑠夏の気持ちでしょ」
「そう、なのかな……?」
「そうそう。深く考えず、そういうもんだと思っておきなよ。瑠夏は考えすぎると変な方向に思考が飛んでいくんだから」

 的確な指摘に私はぐうの音も出なくなる。いや、実際、「うぐっ」と呻き声を出していた。

「あはは。でも、今すぐガラッと変わる必要もないんじゃない? 気楽にいこうよ、ね?」
「……そう、だね。佳奈の言う通りだよ」

 佳奈の言葉に甘えるように私は小さく頷く。正直に言えば、私にはこれから変わっていける自信がまだ全くなかった。人生の大半を人の顔色を気にして生きてきたのだ。今更、自分のために、自分のしたいことをしてもいいと言われても、どうしたらいいのかわからない。さっき自分の本当にしたかったことを考えるだけでも相当な時間を使った。それを思えば、佳奈の言う通り、地道に少しずつ変わっていくしかないのだろう。

「あとは、一人で抱え込まないこと!」
「……はい」
「次、一人で抱え込んでるのを見つけたら、もれなく全身くすぐりの刑に処します!」
「えぇ……それ、地味に嫌なやつだね」

 腰に手を当てながら佳奈は堂々と胸を張る。私は引き攣った笑みを浮かべながら、くすぐりの刑はなんとしてでも回避しなければ、と考える。

「よし! 瑠夏の涙も止まったことだし、今日はもう寝るよ! スマホはもう見ない、いいね」
「うん、そうするよ」

 私が素直に頷いたのを見て佳奈は満足そうに笑った。そして、自分の布団に戻るのかと思ったら、なぜか私が使っている布団に体を滑り込ませてきた。


「実はね、友達とお泊まり会するのも、こうやって一緒に寝るのも初めてなんだ」


 内緒話をするように佳奈は小さな声でこそっと教えてくれる。私もだよ、と言う言葉は伝えなくてもきっと佳奈にはわかっただろう。

「瑠夏がいい夢を見られるように、星に願ってあげるね」
「私も……私も、一緒に願うね」


 そして二人はお互いの顔をじっと見つめ合ったあと、同時に笑い出したのだった。