たとえ世界が音を失ったとしても

 朝、部活動に参加していない生徒のほとんどがまだ登校していない時間に私は登校する。誰もいない教室でぼんやりと空を見上げる時間が好きだった。その時間だけは、平凡な私も特別な人になれるような気がするからだ。

 私はいつも通りに教室に入って荷物を片付けると、窓辺に寄りかかって空を見上げる。その時、部活動に勤しむ声に混じってどこからかピアノの音が聞こえてくる。美しい音色が生徒たちの声と混じり合う。その音色には風間くんの感情そのものが現れており、いつだってそれはほんの少しの焦りを帯びている。だけど、それは聞いた全ての人の心に、懐かしさと憧れを抱かせるだけの力強さもあった。そして、その旋律は立ち止まることを許していなかった。

 私の視線は特別校舎にある音楽室に向けられた。窓の向こうでは風間くんらしき人が黙々とピアノと向き合っていた。


 朝の誰もいない教室で、ぼんやりとそのピアノの音を聴くと、私の心は少しだけ救われたような気分になる。


 何にもなれない自分が。
 唯一、その音色に許されたような気になるのだ。


 昇降口で風間くんと言い合いになってからも私と風間くんの関係は変わらなかった。ただ同じ高校に通う生徒同士という関係のまま。

 ほとんど他人と言ってもいい私が、彼のピアノの音色を知ったかぶるのはおかしいと分かっていても、彼の音には人を動かすだけの力があるのだと言いたかった。

 朝のたった数十分の時間。

 教室の窓辺にもたれかかって過ごす時間は私にとって大きな意味を持っていたから。

 まぁ、きっと彼は私が聴いているなんて思ってもみないだろうけど。
 それでいい。それだからいいのだ、と思い、耳心地のいい旋律に体を委ねながら、私は静かに目を閉じた。




 高校三年生にもなると、一部の生徒と先生の勉強に対する気合の入り方が違っていた。ことあるごとに先生たちは受験の話をして、ここがテストに出るだとか、こんなひっかけがあるだとか、まとまりのない情報を都度教えてくれた。

「この文法はよく問題に出されやすいのでしっかりと覚えるように」
「ここの計算はこっちの問題にも応用できるから、ちゃんと理解しておけよー」

 先生が大事だと言ったところに形だけの線を引く。

「ねね、瑠夏。ここの計算って何を使うんだっけ?」
「えぇ、私に聞かないでよ。ただでさえ、訳わからない数字見てると頭が痛くなるんだから」
「でも、私よりも頭いいじゃーん。その代わり生物科目は教えるからさ」
「生物科目ってほぼ覚えるだけの暗記科目じゃん」

 後ろの席の佳奈をジトっと見つめれば、佳奈は愛らしい笑顔を浮かべて誤魔化すように舌をぺろっとだした。私よりも成績がやや劣る佳奈は授業中にも関わらず私にいつも助けを求めてくる。教えることに抵抗はないが、私自身も勉強が得意ではないから聞かれても困ることが多い。佳奈はそれをわかっているのに、なぜか私を頼ってくる。

「ね、お願い、瑠夏」
「……もう、仕方がないなぁ」

 黒板に向かって計算式を書き込む先生の隙を見計らって私は佳奈のノートを見る。ノートには一生懸命板書した跡があるが、先生の言って書いたことをそのまま写してあるだけで、自分なりに理解しようという形跡が見当たらなかった。

 佳奈らしい素直なノートを見て私はクスリと笑う。そして、佳奈がつまずいているポイントを探して、教科書をめくった。

「ここの公式が基本になってて、それを応用したのがこれだと思う」
「なるほど……って、でもよくわかんないや」

 照れたように頬を赤く染めながら佳奈が笑うのを見て、私は思わず「えぇー」と呆れる。佳奈は文系科目の成績はトップクラスで良かったが、理詰めで語る理系科目の成績は目も当てられなかった。そんな彼女に、彼女と似たり寄ったりな成績な私がこれ以上教えるのはきっと無理だ、と早々に白旗をあげるように両手を上げる。

「そこ、何かわからないことがあれば先生に聞きなさい」

 黒板と睨めっこをしていた先生が話し合っている私たちに気がつく。生徒の視線がチラチラと私たちに向けられ、少しだけ体が硬直した。

「あはは、先生ー! 今先生が説明してくれたやつ、ほとんど理解できませーん」

 ケラケラと笑いながら佳奈は簡単にそう言った。するとクラスがドッと笑いの渦に呑まれた。佳奈は恥ずかしそうに頭をかきながら、「だって、数学嫌いなんだもん」と近くのクラスメイトと一緒に笑い合っていた。その場の空気に物怖じしないところも、当たり前のようにクラスの中心に立てるところも、私は佳奈のことをなんだかんだといって尊敬している。こういうのもきっと才能の一部なのだろう。

「はぁ、相澤。後でみっちり教えてやるから、授業後にこっちに来なさい」
「えー、それは遠慮しますー!」

 佳奈が先生の提案をすげなく断るとまたクラスに笑いが起こる。


 私は、これ以上佳奈の方を向いている理由も無くなったから静かに前を向く。周りに合わせるように口元に微笑を浮かべながら、クラスの雰囲気に溶け込んだ。

 無い物ねだりをしたって仕方がない。

 私は心の底から湧き上がりそうになった感情をグッと押し戻した。