たとえ世界が音を失ったとしても

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 小さな箱の中には何も届いていなかった。
 それが、お母さんの答えだった。

「瑠夏? 寝れない……って、瑠夏!? 大丈夫?」
「……え?」
「気がついてないの……瑠夏、泣いてるよ」

 悩んだ末に伝えられた佳奈の指摘に、私はゆっくりと自分の頬に手を添えた。指先が冷たく濡れた感触に初めて自分が泣いていることに気がついた。悲しいとか、辛いとか思うよりも、涙の方が先に溢れていたようだ。

「なんで……っ、泣いてるんだろ……私。おかしい、よね……こんな、わかってたこと、なのにっ」

 吐き出した吐息が熱く、声が情けなく震える。自覚した途端に込み上げる嗚咽を噛み殺し、ちゃんと息をしようとして何度も咳き込む。

「何も……うまくいかない……。お母さんのことも、風間くんのこともっ! 私はっ……私はただ…………!」

 布団の上で起き上がった佳奈が顔を覆って泣きじゃくる私のそばに来てくれる。そして、肩を優しくさすると、「うん」と小さく頷いた。

「瑠夏は、本当はどうしたかったの?」

 どうしたい……?
 どうって、私は……。

 脳裏にリビングに伏せて置かれた写真立てが浮かんでくる。埃を被ったそれは、私とお母さんがあの日から進めていない証拠だ。

 次に風間くんの泣きそうな顔を思い出す。あの時、どうして風間くんはあんなこと言ったのか。何もわからないままだ。


 だけど、私は……。


「お母さんに、元気になって欲しかった……」
「うん……それで?」
「風間くんの辛い気持ちを一緒に背負ってあげたかった……」
「うん」
「だから……二人のために…………私はっ……!」


 目を押さえる手の隙間からボロボロと涙と嗚咽がこぼれ落ちる。それでもちゃんと言葉にしようと頑張っていれば、佳奈が急に私の口元を手で隠した。まるで、話を聞いて、というように。


「瑠夏」


 静かで、慈愛に満ちた瞳が私の瞳を覗き込む。


「私は、瑠夏のお母さんや風間くんがどうなって欲しかったかを聞いてるんじゃないよ」
「——!」
「私は、瑠夏がどうしたかったかを聞きたいの。瑠夏の言葉で、瑠夏の本当の気持ちを知りたいんだよ」


 誰かに合わせた答えでも、誰かに気を使った答えでもない。

「綺麗な言葉じゃなくていい。うまく話そうとしなくていいの。どれだけ格好悪くてもいいから。だから、瑠夏のことを教えてよ」

 ぽたっと私の額に何かが落ちてくる。それが何かと気がついた時、私はハッとして目を見開いた。


 泣いているところなんて、一度も見たことなかったのに。佳奈の目尻から、一筋の涙が静かに零れ落ちていた。


「……あはは、だめだね。瑠夏のことを支えたくて頑張ってたけど、瑠夏の辛さやしんどさ考えたら、こっちまで泣けてきちゃったよ」
「そんなこと……!」
「でも、勘違いしないでね。この涙は瑠夏のせいじゃないから。……なんだろうね。悲しいのか、嬉しいのか、自分でもよくわからないや。ただ、やっと瑠夏の心に少しでも近づけた気がして。それが、嬉しいんだと思う」

 涙を拭きながら恥ずかしそうに笑った佳奈の言葉を聞いて、私は目を見開いて固まる。

 迷いなんてないように見えた佳奈でも、自分自身の感情がわからなくなることがあることが意外だった。自分のことはちゃんと理解していて、その上でコントロールをしているのだと思っていた。


 でも、よく考えればそんなわけないのだ。


 佳奈は大人じゃない。私と同じ、十七歳の高校生なんだから。


 迷うことは当たり前で、不安を抱えたり悩みを抱くのは当然のことなのだ。
 私は私のことで必死で、そんな当たり前のことですら気がついていなかった。


 じゃあ、私は——?


 自分のこれまでを振り返れば、幼い私が唇をキュッと噛み締めながら、肩を震わせている。周囲の人に鬱陶しがられないように、失敗しないように、必死に涙を堪えているのが私にもわかった。私はその子に走り寄って、衝動的にその手を掴んだ。

 かける言葉なんて思いつかない。それでも、私はその子に伝えなければいけない。


 失敗したっていいんだ。
 泣いたっていい。
 怒っても、馬鹿みたいに笑っても。
 誰かの期待に応えられなくたって、もちろんいい。


 だって私の世界は、きっと、自分が思うよりもずっと、優しいんだから。


「私のために頑張ってくれてありがとう」

 ずっと一人で、耐えていてくれた幼い私。

「ずっと向き合わなくてごめん」

 見て見ぬふりをして、『助けて』という言葉も聞こえないふりをし続けた。

「でも、いいんだよ」
 もう、いいんだよ。

「自分のことを、好きになっていいんだよ」


 あなたが他の人にかけてきた言葉を、自分のために使ってもいいんだよって——。


 幼い自分の方が大きく揺れる。大きくて丸い瞳に輝きが戻り、じんわりと涙が浮かんだ。

 その子は何度も何かを言いかけて、失敗する。

 でも、私はその子が話し始めるまでちゃんと待った。どんな言葉でも受け入れるつもりで、静かにその子を見守る。

 私に大切なことを教えてくれた人たちが、そうしてくれたように。

 やがて小さく息を吸う音がした。


「お姉ちゃんも」


 その子が話し始めたかと思ったら、私の胸に勢いよく飛び込んできた。温かい体温が心に染み渡る。

 肩のところに顔を埋めたその子は、抱きしめる手に力を込めると、泣きながら笑った。


「自分のこと、嫌いにならないでね」