初めて授業をサボった。
自分から友達まで巻き込んで。でも、一緒に過ごした一時間弱は生まれた初めて息をしたかのようで、呼吸がしやすくて心から楽しかったと言えた。
風間くんは私が会いに行った時には早退しており、会うことができなかった。結構な勇気を出して会いに行ったからこそ、本人がいなくて拍子抜けした。残っていた生徒に聞くと、体調が悪化したわけではなく、音楽関係でやるべきことがあったそうだ。私のせいで体調を崩してしまっていたら、と考えているとついてきてくれていた佳奈が「それは自意識過剰すぎるってば」と笑い飛ばしてくれる。ケラケラと笑う佳奈につられるように私も口元に笑みを浮かべた。
そうして、私は帰路についた。
久しぶりに寄り道をせずに家に帰ったからか、日が沈みきる前に家に着くことができた。
いつもと同じように家の中に入る。廊下が暗いのはいつものことだが、今日はリビングの方にも電気が点いていなかった。
「お母さん、今日はまだ帰ってないのかな」
仕事によるけれど、たいていお母さんは私が帰宅する前後に帰ってくる。だから私は今日は遅い日なんだな、と思うだけで明かりが点いていないことに対して深く考えることはなかった。なにも考えずリビングに入ると電気をつける。
「今日は早いのね、瑠夏」
「……っ!?」
横から——キッチンの方から粘ついた声が肌を這うように耳へと届く。私は口から溢れそうになった悲鳴をなんとか飲み込んでから、恐る恐る顔を声のした方へと向ける。
そこにはお母さんが顔を伏せていた。お母さんはひどく静かな佇まいで、目と鼻の先に立っていた。表情は前髪に隠れてしまい伺うことができない。けれど、お母さんが纏う静かさの奥には、触れてはいけない何かが息を潜めていた。料理の途中だったのだろうか。その手には、包丁が握られたままだった。刃先は私の方に向けられており、それが料理のためのものだと、なぜか素直に思えなかった。
「……お、母さん」
なにしてるの、という言葉は前髪の隙間からギョロリと向けられた視線に呑まれて消えた。
「昨日も、一昨日も、その前も! 帰りが遅くて! なのに連絡の一つも寄越さない、ごめんなさいもない!」
お母さんが私の方へと一歩踏み出す。今までに見たことのないお母さんのヒステリックな様子に私は心から恐怖を覚える。何よりもその手の中にある包丁がいつ自分に振りかぶらられるのかと想像すると、下手なことはなにも言えなかった。
「私がどれだけ心配して瑠夏の帰りを待ってたか! せっかく温かいご飯を用意しても、冷めて台無しになって!」
一歩、また一歩。お母さんに追い詰められた私の背中が壁にドンッと当たる。私は壁を背にして、ずるずるとその場に崩れ落ちていく。お母さんは上から憎らしげに私のことを睨みつけていた。手の中にある包丁はお母さんの感情の昂りに合わせるように小刻みに震えている。その切先が私の目と鼻の先にある。
「……お、お母さん……あの、あのね、お母さん……」
「ねぇ、瑠夏」
目の前の包丁が鈍く光る。お母さんの瞳にその光が反射する。だけど、お母さんの瞳は真っ黒な闇を見ているように、一切の光も許さなかった。
「ねぇ、瑠夏」
もう一度、確かめるように名前を呼ばれる。悲鳴をあげたはずだった。だけど実際は、私の喉は引き攣り、声にならない息だけが漏れただけだった。
「瑠夏はお母さんの味方でしょう?」
声が毒のように全身を巡り、体の自由を奪っていく。
「私を置いていかないでしょう?」
耳にまとわりついた声が、じわじわと身体の奥まで染み込んでくる。
「私のために、『いい子』でいてくれるでしょう?」
刀身に私の顔が映る。引き攣った笑みを浮かべ、目には涙を浮かべる、ちぐはぐな自分が。
結局、何も変われない自分が、お母さんの言葉に頷こうとした時、そこにいるはずのない声が聞こえた。
『自分だけが特別だと思うなよ』
それは風間くんの声だった。
『僕のためじゃない』
私は張り付いた喉を潤すように、無理やり唾を飲み込む。
『全部自分のためだろ——!』
「——っ私は!」
パッと目を見開いてお母さんのことを見上げる。包丁を持っている腕を掴むと、無理やり押し返しながら立ち上がる。
「私は、私は……!」
私よりも身長の低いお母さんのことを今度は上から見下ろす。
「私はお母さんの、都合のいい娘なんかじゃない!」
その時、場違いにもふと、お母さんはこんなに小さくて頼りなかったっけ、と思った。
お母さんは言い返されるとは思っていなかったのか、驚いたように目を見開きその場に固まっていた。その隙をついて私はお母さんの包囲網から抜け出し、床に落ちたスクールバッグを掴んで家を飛び出す。
行く当てなんてなかった。
でも、家にも帰れなかった。
少なくとも、私の中で答えが見つかるまでは、お母さんと向き合うことなんてできないと思った。
自分から友達まで巻き込んで。でも、一緒に過ごした一時間弱は生まれた初めて息をしたかのようで、呼吸がしやすくて心から楽しかったと言えた。
風間くんは私が会いに行った時には早退しており、会うことができなかった。結構な勇気を出して会いに行ったからこそ、本人がいなくて拍子抜けした。残っていた生徒に聞くと、体調が悪化したわけではなく、音楽関係でやるべきことがあったそうだ。私のせいで体調を崩してしまっていたら、と考えているとついてきてくれていた佳奈が「それは自意識過剰すぎるってば」と笑い飛ばしてくれる。ケラケラと笑う佳奈につられるように私も口元に笑みを浮かべた。
そうして、私は帰路についた。
久しぶりに寄り道をせずに家に帰ったからか、日が沈みきる前に家に着くことができた。
いつもと同じように家の中に入る。廊下が暗いのはいつものことだが、今日はリビングの方にも電気が点いていなかった。
「お母さん、今日はまだ帰ってないのかな」
仕事によるけれど、たいていお母さんは私が帰宅する前後に帰ってくる。だから私は今日は遅い日なんだな、と思うだけで明かりが点いていないことに対して深く考えることはなかった。なにも考えずリビングに入ると電気をつける。
「今日は早いのね、瑠夏」
「……っ!?」
横から——キッチンの方から粘ついた声が肌を這うように耳へと届く。私は口から溢れそうになった悲鳴をなんとか飲み込んでから、恐る恐る顔を声のした方へと向ける。
そこにはお母さんが顔を伏せていた。お母さんはひどく静かな佇まいで、目と鼻の先に立っていた。表情は前髪に隠れてしまい伺うことができない。けれど、お母さんが纏う静かさの奥には、触れてはいけない何かが息を潜めていた。料理の途中だったのだろうか。その手には、包丁が握られたままだった。刃先は私の方に向けられており、それが料理のためのものだと、なぜか素直に思えなかった。
「……お、母さん」
なにしてるの、という言葉は前髪の隙間からギョロリと向けられた視線に呑まれて消えた。
「昨日も、一昨日も、その前も! 帰りが遅くて! なのに連絡の一つも寄越さない、ごめんなさいもない!」
お母さんが私の方へと一歩踏み出す。今までに見たことのないお母さんのヒステリックな様子に私は心から恐怖を覚える。何よりもその手の中にある包丁がいつ自分に振りかぶらられるのかと想像すると、下手なことはなにも言えなかった。
「私がどれだけ心配して瑠夏の帰りを待ってたか! せっかく温かいご飯を用意しても、冷めて台無しになって!」
一歩、また一歩。お母さんに追い詰められた私の背中が壁にドンッと当たる。私は壁を背にして、ずるずるとその場に崩れ落ちていく。お母さんは上から憎らしげに私のことを睨みつけていた。手の中にある包丁はお母さんの感情の昂りに合わせるように小刻みに震えている。その切先が私の目と鼻の先にある。
「……お、お母さん……あの、あのね、お母さん……」
「ねぇ、瑠夏」
目の前の包丁が鈍く光る。お母さんの瞳にその光が反射する。だけど、お母さんの瞳は真っ黒な闇を見ているように、一切の光も許さなかった。
「ねぇ、瑠夏」
もう一度、確かめるように名前を呼ばれる。悲鳴をあげたはずだった。だけど実際は、私の喉は引き攣り、声にならない息だけが漏れただけだった。
「瑠夏はお母さんの味方でしょう?」
声が毒のように全身を巡り、体の自由を奪っていく。
「私を置いていかないでしょう?」
耳にまとわりついた声が、じわじわと身体の奥まで染み込んでくる。
「私のために、『いい子』でいてくれるでしょう?」
刀身に私の顔が映る。引き攣った笑みを浮かべ、目には涙を浮かべる、ちぐはぐな自分が。
結局、何も変われない自分が、お母さんの言葉に頷こうとした時、そこにいるはずのない声が聞こえた。
『自分だけが特別だと思うなよ』
それは風間くんの声だった。
『僕のためじゃない』
私は張り付いた喉を潤すように、無理やり唾を飲み込む。
『全部自分のためだろ——!』
「——っ私は!」
パッと目を見開いてお母さんのことを見上げる。包丁を持っている腕を掴むと、無理やり押し返しながら立ち上がる。
「私は、私は……!」
私よりも身長の低いお母さんのことを今度は上から見下ろす。
「私はお母さんの、都合のいい娘なんかじゃない!」
その時、場違いにもふと、お母さんはこんなに小さくて頼りなかったっけ、と思った。
お母さんは言い返されるとは思っていなかったのか、驚いたように目を見開きその場に固まっていた。その隙をついて私はお母さんの包囲網から抜け出し、床に落ちたスクールバッグを掴んで家を飛び出す。
行く当てなんてなかった。
でも、家にも帰れなかった。
少なくとも、私の中で答えが見つかるまでは、お母さんと向き合うことなんてできないと思った。



