たとえ世界が音を失ったとしても

 しばらく泣き続けた私はようやく少し落ち着き佳奈の腕から体を起こす。

「もういいの?」
「……うん。ありがとう、佳奈」
「どういたしまして。瑠夏が少しでも落ち着けたなら良かった」

 佳奈は花が咲いたようにパッと表情を綻ばせる。そして私の隣に座り直すとじっと私の顔を見てきた。

「……なに?」

 年甲斐もなく泣きじゃくったことが恥ずかしくていつもの笑顔を貼り付けることもできず、ついそっけない態度をとってしまう。佳奈は私の態度に嬉しそうに目を細めると「瑠夏はどうして風間くんに手を伸ばすの?」と尋ねてくる。

 私はまた『どうして』か、と思いながらもゆっくりと考え始める。だけど自分の気持ちなんて長いことちゃんと向き合ってこなかったから、佳奈が満足するような答えを出せる気がしなかった。私の横で佳奈はクスッと笑うと「ねぇ、瑠夏」と話しかけられる。

「いいんだよ、私の前では正しくあろうとしなくても」

 思いがけない佳奈の言葉にハッと目を見開く。その瞳の奥には、隠し切れない動揺が走った。

「……なんで」

 なんでそのことを知っているのか。

 そう続けるはずだった言葉は佳奈の包み込むような微笑みを見たことで私の胸の内にしまわれた。

「わからないけど、わかるよ。三年間ずっと一緒に過ごしてたんだもん。……瑠夏はいつだって正解を選ぼうとしてた。最初は間違えるのが怖いのかと思ってたけど、多分違うよね」

 そこで佳奈は言葉を切ると、少しだけ考え込むように口を閉じた。逡巡するように視線を伏せたが、すぐに力強い瞳を私にぶつける。


「瑠夏は間違えるのが怖いんじゃない——間違えた先で一人になるのが怖いんでしょ?」

「——!」


 私も自覚していない、私が必死で隠してきたものを暴かれて、佳奈のことが怖くなった。表面上の私という殻を壊されたら、私はどうやってこの先生きていけばいいのか。

「なんで瑠夏がそう思うようになったのかはわからないけど。私も、瑠夏の友達も、多分風間くんも、瑠夏が失敗しても見捨てたりしないよ」
「佳奈……」
「だから、一緒に考えるよ。瑠夏が本当はどうしたかったのかを」

 ニッと笑い肩と肩をぶつけながら佳奈は私の肩に手を回す。ぎゅっと近くなった二人の間。まるで欠けていた最後の一片が、ぴたりと収まったような感覚に近かった。

 たくさんいる友達の中の一人だと無意識に線を引いていたのは私の方だった。

 佳奈はずっと、私のことを見ていてくれた。私と向き合おうとしてくれていた。

 そのことに気がついた私は自然と頷く。

「それで、瑠夏はどうしたかったの?」
「どうって……わからないよ」
「でも風間くんの助けになりたかったんじゃないの?」
「そうだけど……。でも、結局うまくできなくて、風間くんを怒らせちゃったし」

 先ほどの風間くんの歪んだ表情を思い出して、私の心はズーンっと重くなる。その横で佳奈はキョトンと目を丸くした。

「怒る……? 風間くんが……?」
「そうだよ。勝手に気持ちを想像してわかった気になるなって怒ってたじゃん」
「うーん? 私から見た風間くんは怒ってるっていうより…………いや、この際、風間くんの気持ちは一旦脇に置いておこうよ」

 見えない箱を動かすような仕草を見せる。そして話は元の話題に戻ってきた。

「瑠夏に必要なのはきっと、他人がどう思うかを考えることじゃなくて、瑠夏自身がなにをしたいのか自覚をすることじゃないかな」

 誰かのためではない、自分のためになにがしたいのか。
 佳奈が首を傾けて「どう?」と促してくれるが、やっぱり私にはよくわからなかった。

 そもそも、『私のために』何かをして良かった経験が少ない。だからなのか、自分を表に出すということがとても苦手なのだ。

 誰かに合わせて生きれば、とりあえず間違えても挽回が効く。周囲の人が望むように動けば、それだけで安心してもらえる。

 自分を殺して、自分を小さな箱の中に押し込めて、そしていつも元気で笑顔な私を表に見せればあの人は喜んでくれた。そうすることで怒られることも、責められることも、格段に減ったのだ。


 あの人——?

 ふと何かが引っかかった。

 私は一体誰のためにこんなに必死に取り繕っていたんだっけ。


 そこに私の原点があるような気がして、心に引っかかった何かを拾い上げようとしたがうまくいかない。あまりにも馴染みすぎていて、よくわからないのだ。

「まぁ、今すぐ答えを見つける必要もないか」
「……え?」

 ぐるぐると考えていた私の思考の中に一つの石が投げ込まれたようだった。

 てっきりここで自分のしたいことを見つけなければいけないのだと思っていたが、そうしなくてもいいと佳奈は言う。

 戸惑う私の様子を感じ取った佳奈は「やっぱり。また正解を探してるでしょ」と笑う。私はその指摘にハッとした。

 たしかに私は正解を探していた。それは長年の行いの癖のようなものだ。

「私は高校生になってからの瑠夏しか知らないけど、きっとずっとそうやって正解を探してきたんでしょ? ずっとやってきたことをいきなり無かったことにして、新しい自分になってくださいっていっても、多分無理だよ」

 佳奈は私の手を拾い上げると優しく握りしめる。

「だから、ゆっくりでいいんだよ。さっきも言ったけど、瑠夏が失敗しても、答えを間違えても、瑠夏を見捨てたりしないんだから」

 安心させるような柔らかい笑みを浮かべると「むしろ失敗してなんぼでしょ! 私なんて何度怒られたことか……」と冗談のように言った。あっけらかんとし、堂々と失敗したことを語る佳奈に自然と私の口角は上がっていた。

「……ふっ、あはは! 佳奈は逆に失敗しすぎなんじゃない?」

 知らず知らずのうちに笑みが溢れ、私は声を上げて笑う。佳奈は一瞬呆けたような表情を見せた後、すぐに唇をアヒルのように尖らせた。

「そんなことありませーん! 私の失敗は人並みだからいいんですー!」
「……でも、この間の……ふふ、小テストで名前を書き忘れたのは……」
「そのことはいいでしょ! 誰だってやる間違いなんだから!」

 私の言葉に被せるように佳奈が声をあげる。ジトっとした目で睨まれたが、不思議と怖いと思わなかった。

 二人は目を見合わせて、次の瞬間、同時に吹き出していた。

「あはは! ……ありがとう、佳奈」
「あはは! 気にしなくていいって」

 二人で話し合っていると校舎の方から予鈴が鳴る。

 今から走ってもきっと授業には間に合わない。

 それがわかっていたから私は佳奈にこう言った。


 「次の授業、サボっちゃおうか」と。