たとえ世界が音を失ったとしても

 背後から今一番聞きたくなかった人の声が聞こえてくる。私は腕を掴む手に力を込める。


 振り返りたくない。会いたくない。


 ——でも、風間くんとはちゃんと向き合いたい。

 私は意を決してゆっくりと後ろを振り返った。足元に向けていた視線を少しずつ上に戻せば、眉間に皺を寄せて泣きそうな顔で私を見ている風間くんが立っていた。握られた右手が小刻みに震えていることから、彼もまた押し寄せる感情の波を必死に耐えていることがわかった。

 そんな顔をさせてしまった自分のことが情けなく感じ、「風間くん」と私が声をかけるよりも前に風間くんが一歩前に進み出る。


「何もわかってないのは、瑠夏、お前だって同じだ」
「!」
「僕の気持ちを想像して、わかった気になるな。僕の気持ちは、僕だけのものなんだから」


 声を荒げることなく、静かに風間くんは私に感情をぶつけてくる。

 怒りか、悲しみか。それとも呆れか。

 風間くんが何を考えているのか私はわからなくなり、彼から逃げるように一歩後ろに下がった。

「わた、私は、ただ、風間くんのために……!」
「それは、僕のためなんかじゃない。全部自分のためだろ……!」
「……違う」

 風間くんのナイフのように鋭い指摘に、私は小さな子供のように何度も首を振って必死に否定しようとする。みっともなくて、惨めな私のことを風間くんや先生、他の生徒たちが穴が開くほど見てきた。その視線の中に悪意が込められているようで、途端に息ができなくなる。

 視線が。スマートフォンのカメラが。囁き声が。


 私に『独りよがりな旭川瑠夏』と言いながら刺してくるようだった。


 私は頭を抱え込みながら、フラフラとその場で足踏みをする。

「違う、違うよ。そんなわけない……。そんな自分勝手なことを私が…………!」

 するわけがない、という言葉は声になることはなかった。

 風間くんの指摘を認められなくて私は唇を強く噛み締めると、周囲の人たちを押し除けてその場から走って逃げた。後ろから風間くんの「瑠夏!」と呼び止める声が聞こえたが、走り出した私はもう止まることができなかった。


 ひたすら走って、走って、走って——。


 特別校舎の裏側の本校舎から死角になっているところまで来るとようやく足を止めた。

「うぅ……!」

 緊張の糸が切れたのか、私の足は使いもにならなくなり校舎の壁に体を預けるようにしてその場に崩れ落ちる。

 私は風間くんのために手を差し伸べ続けたのに、当の本人から『自分のためだろ』と言われてしまった。そうじゃないのに、と頭の中で反論するが、口をついて出てくるのは嗚咽だけだった。

「うぅ、なんっで……!」


 なんで。
 どうして。


 私の大嫌いな言葉が何度も頭の中で繰り返される。


 なんで。
 どうして。


 誰も正解を教えてくれないのに、間違えた時だけ後ろ指をさして。


 なんで。
 どうして。


 私だって、こんなに一生懸命頑張ってるのに。


 なんで。
 どうして。


 風間くんのためにやったことすら裏目に出て。


 なんで。
 どうして。
 なんで。
 どうして。



「ごめんね、瑠夏」
「——っ!?」

 頭の中に溢れた『なんで』『どうして』の言葉の隙間を縫うようにその声が私の耳に届いた。

 ハッとして目を見開いたと同時に、私の視界は何かに塞がれる——正しくは、誰かに頭を抱きしめられていた。

 柑橘系のいい香りが鼻腔をくすぐる。その香りに私は覚えがあった。それはいつも一緒に過ごす、佳奈がつけている香水と同じだった。

「……か、な…………?」
「うん。なぁに、瑠夏」
「なんで……ここに…………?」
「瑠夏が泣いてたからかな」

 意味がわからなかった。誰も私のことなんて追いかけてこないと思ったのに、佳奈はすぐに私のところに駆け寄ってくれた。いつもなら佳奈の優しさに感謝をするところだが、今の私には佳奈ですら敵に見えていた。

「わかんない……わかんないよっ! 全部、全部! 私は、私だってっ——!」
「そうだね。その通りだ。風間くんもあんな言い方しなくても良かったのにね」

 否定することなく優しく私の言葉を肯定してくれる佳奈のせいで私の涙腺は本格的に決壊した。コップに並々に注がれた水が、最後一滴を垂らしたことで溢れるみたいに、私は佳奈の腕の中でわんわんと泣く。私が泣いている間も佳奈は心の細波を落ち着けるように背中や頭を撫でてくれる。