たとえ世界が音を失ったとしても

 公園で二人で話し合あった翌日から風間くんは少しずつ学校に来るようになった。左手の障害があるから何もかもが同じとはいかなくても、風間くんなりに前に進めたのだと思うと私は嬉しい気持ちになった。毎日風間くんの家に通って良かったと、そう考える。


 学校に来るようになった風間くんだが、早朝や昼休憩に音楽室にくることはなかった。思うようにピアノが弾けないからか。それともピアノそのものが嫌になってしまったのかもしれない、と想像すると私の中で膨らんでいた気持ちは針を刺した風船のように一瞬で萎んでしまう。風間くんがこの先ピアノとどう向き合うのかはわからないが、彼の中で納得のいく答えが身つかるまで支え続けようと決意を新たにする。


 以前のように音楽室で話すことはなくなったが、姿を見付ければ挨拶をしてたわいもない世間話をするようになった。ピアノの話や音楽の話には触れない。お互いの好きなものや、得意な科目の話など、雑談の延長線のような内容ばかりだった。私は風間くんが自分からピアノの話をするまでは極力その話題に触れないように気をつけていた。きっと彼の中でも折り合いをつける時間が必要だと思ったから、風間くんのために口を閉ざす。



 そうやって見かけ上は全てがうまいこといい方向に転がっているように見えたある日のこと。


 私と佳奈は授業と授業の間の休憩時間に一緒にお手洗いに行った。数の少ないお手洗いは他のクラスの女子たちも使用しており、並んでいた。私が先に使わせてもらい、佳奈が後でお手洗いに入る。その関係で、先に廊下に出てきた私は、邪魔にならない隅の方で佳奈が終わるのを待っていた。

 なんとなく窓の外を見て、薄い雲が空を覆っているのに気がつくと「今日も天気よくなさそう」と独り言を呟く。でもこの調子なら、きっと雨は降らないだろう、と予測しながら生徒たちの喧騒に耳を傾け、ぼんやりとして過ごした。


「なぁ、あいつ、風間がもうピアノ弾けないのってマジ?」


 だからたまたま近くで聞こえた他クラスの男子生徒の会話に私は目を見開いた。私は無意識に男子生徒たちの方へと顔を向けると、自然と耳を澄ます。


「そうらしいよ。噂だけど、根を詰めすぎて意識失ったらしい。その時に舞台から転落して頭をぶったんだって」
「はぁー、そりゃ可哀想じゃん。せっかくあんなに頑張ってやってたのにな」


 男子生徒たちはそばで私が会話を聞いていることに気がついていなかった。どちらにしても、根も葉もない噂話をするのは不快だからやめて欲しいと感じた。

「あいつの手を見たんだけど、こんな風にプルプル震えてたんだぜ」
「本当かよ。お前、大袈裟にやってるだろ」
「嘘じゃねぇよ、本当だわ」

 風間くんのモノマネをして二人はゲラゲラと笑い合っている。とても不愉快で、気持ちが悪い。なんで他人の傷を抉るような真似ができるのか、私には微塵も理解できなかった。自分が同じ目にあって、同じように噂の中心に立たされたら嫌じゃないのだろうか。

 沸々とした怒りが足元から湧き上がってくる。でも、ここで揉め事を起こしては彼らと同じになってしまう、と我慢をする。


 冷静になれ、私。


 そう言い聞かせて唇を強く噛み締めたが、その努力が無駄になることをすぐに理解した。


「じゃあ、もうあいつのこと特別扱いしなくてもいいんだな」
「そうそう。ピアノの弾けない風間なんて俺たちみたいな普通の生徒と同じなんだから」



 プツン——。

 男子生徒の会話はハサミとなって私の耐えていた糸を簡単に切り落とした。




「……取り消して」



 気がついた時には男子生徒たちの前に立って、彼らを睨み上げていた。男子生徒たちはなんだこいつというような目で私を見てきた。いつもならそんな無遠慮な視線は苦手で、避けていたはずなのに、今の私には気にならなかった。


「取り消してって言ったの。今の風間くんへの侮辱を」

「侮辱って……俺たち、別に何も言ってないだろ」

「言った……! 言ったじゃない! 風間くんが特別だとか、ピアノがなければ普通だとか! ……風間くんのこと何も知らないくせに、勝手な評価を風間くんに押し付けないでよ!」


 人生でも数えるほどしかしたことのない怒声を男子生徒に浴びせる。男子生徒は一瞬怯んだが、すぐに持ち直して私のこと睨みつけた。

 相手も私も苛立ち、怒っている。もしかしたら殴られるかもしれない。それでも良かった。


 だってそれほど彼らの言葉は酷かったから。

 ピアノがあれば特別なのか。
 ピアノを失えば普通なのか。

 風間くんをそんな単一方向からだけで見て欲しくなかった。彼の魅力は、ピアノが弾けることだけじゃないから。

 そのこともわからない人たちに、風間くんを貶されるのはどうしても許せないと思った。


「風間くんはピアノがあるからすごいんじゃない。ピアノだけが彼の全てじゃない!」

「……っお前の意見なんてこっちは聞いてないの、わかる? 俺たちがあいつに対してどう思ってたとしても俺たちの勝手で、本人でもない他人にあれこれ言われる筋合いはないんだよ!」


 お互いにヒートアップし、声は大きくなり最終的には怒鳴り合いになる。周囲にいた生徒たちも何ごとかと好奇心に満ちた目で私たちを見てきた。普段の私だったら、針の筵のような状態になればそそくさと逃げ出すのだが、今だけは逃げちゃダメだと足をその場で踏ん張った。ここで引き下がれば、相手の言葉を受け入れたことになる。それだけはしたくなかった。

「風間くんがどれだけ努力して、どれだけ苦しんで! どんな気持ちでピアノに向き合ってきたのか知ろうとしないくせに、悪口だけは平気て口にして!」

「それがなんだっていうんだ! あいつが周りからチヤホヤされて特別扱いを受けて、怪我して全部ダメにしたのも全部本当のことだろ!」

 彼の言うことは間違っていない。全部本当のことだ。

 だけど、本当のことならなんでも口に出していいのか。
 相手が傷つくのに、茶化すような真似をして貶めていいのか。

 言い訳がない。そんなのを許してはいけないんだ。

 カッとなった頭でさらに言い返そうとした時、「おいおい、なんの騒ぎだこれは」と大柄な先生と小柄な先生が観客の間を割って入ってきた。

「……クマちゃん先生」