事務的に前から流れてくるプリントを受け取り、後ろへと流す。担任である熊谷湯治(くまがいとうじ)が新学期を迎えた生徒に対していろんな説明をしていたが生徒はこそこそと囁き合っていてまともに話を聞いている生徒は少ない。だけど熊谷先生は自分の話がちゃんと生徒に届いているかどうかは気にしていなかった。大雑把な性格と熊のようにいかつい見た目をした担任のことを生徒たちは愛を込めてクマちゃん先生と呼んでいた。
「話を聞いてない奴のことは、俺は知らんからな。いいか、この一年が大事なんだからな。将来の運命を分けると言っても過言じゃない!」
配布物であるプリントの山を机に叩きつけるようにして整える。ざわつく教室の中でもうるさく聞こえるほど、その音は大きく、友達と話に咲かせていた一部の生徒がびくりと体を震わせていた。
「高校生としての青春を送るのもいいが、勉強は疎かにしないように。わかってるな?!」
クマちゃん先生の言葉に誰も返事をしないどころか、まるで本物の熊のような鋭い視線に一瞬の間があいた後、ドッと笑い声がクラスに湧き起こる。クマちゃん先生は去年も私たちの学年を受け持っていたからか、真面目に話を聞く生徒の方が少ないことをわかっていた。茶化すように笑い続ける生徒にクマちゃん先生は呆れた様子で、ため息を吐いている。
「ねぇねぇ、瑠夏。この後どうする? 久しぶりに、駅前の服屋さんでも見に行かない?」
私の後ろの席で、仲のいい友達の一人である相澤佳奈(あいざわかな)が控えめに肩を叩いてきた。私は顔だけ佳奈の方へと向けると「今日は早く帰らないといけないから」と申し訳なさそうな顔を作る。それだけで佳奈は「そっか、ならまた今度ね」とすぐに他の子を誘い始めた。佳奈とは仲がいいが、佳奈の交友関係はとても広い。私はその広く浅い友達の中の一人で、どちらかといえば都合のいいタイプの友達だろう。
卑屈な考えが頭に浮かんで、私はすぐにその考えを振り払った。佳奈の性格的に友達の優劣はきっとつけていないだろうから。
「それじゃあ、明日からも元気に勉学に励むように!」
ほとんど聞いていなかったクマちゃん先生の話がいつの間にか締め括られ、長かった始業式は終わりを迎える。クマちゃん先生が解散を告げると生徒たちは三々五々に散っていく。新入生の部活動勧誘に向かう生徒もいれば、早々に帰宅する生徒もいる。私はそんな生徒たちのことを横目に見ながら、机の下でスマートフォンの電源を点ける。
友達と呼べる人はそこそこいたが、いつも一緒に帰る友達はいなかった。手の中の小さな箱を眺めても、やっぱり私を誘うメッセージは届いていない。そのことに一瞬心が揺らいだ気がしたが、私はそれでいい、と思いながら席を立つと誰にも声をかけることなく教室から出ていった。
部活もやっていない私は寄り道することもないので、まっすぐに昇降口に向かう。いつも通りの景色がそこに広がっていたはずなのに、異質な存在が私の下駄箱のそばに立っていた。
「よう、ちょっと付き合えよ」
「……なんのよう、風間くん」
吊り目がちできつい印象を与える漆黒の瞳が私の方を向いている。彼が何も考えていないとしても、その瞳にじっと見られるのはなんだか落ち着かなくなるからやめて欲しかった。
彼の名前は風間晴政(かざまはるまさ)という。将来ピアニストを目指しているとかで、さまざまなコンクールでも優勝している実力者だ。高校卒業したら音楽系の大学に進学するとか、すでにプロデビューの手前にいるだとか。いろんな噂が彼の周りを取り囲んでいる。学校側も風間くんの才能を応援しており、風間くんの生活はピアノを中心に回っていると言っても過言ではない。
風間くんとはクラスが違い、学生生活を送っていて関わることはまずない。それに、彼は時間があれば音楽室にこもってピアノの練習をしており、音楽室に用のない私は高校三年目にしてもなお彼とまともに話したことがなかった。
そんな雲の上の存在がなぜ私に話しかけてくるのか。
それはとても単純な話だ。
私は心のうちで小さくため息を吐く。彼のムスッとした表情から何を言われるのかなんて、分かりきっていた。
きっと春休みのあの件のことだ。
「お前、もう二度とあんなことするなよ。学校から飛び降りるなんて、しかも音楽室からなんて洒落にならないんだからよ」
「別に……それは風間くんの誤解で、私には飛び降りるつもりはなかったよ」
「僕にはそう見えなかった。あの瞬間、お前は確かに死のうとしていたはずだ」
風間くんの言葉に私は返す言葉を失う。何も知らないはずなのに、風間くんは全てお見通しだというように断言する。その傲慢さが鼻につき、私は一刻も早く彼から離れたくなった。
「死ぬなんて、そんな大袈裟な。ちょっと体が窓の外に出過ぎただけで……」
「言い訳なんていくらでもできるだろ。死ぬやつは大抵そうやって嘘をつくんだから」
酷い言い方に思わず眉間に皺を寄せてしまう。たった一度の過ちをこんな風に責められたら、普段から温厚な私だって流石に嫌気を覚える。だけど、風間くんは人の感情に疎いのか、私の気持ちには気がつかないように顔を歪めて睨みつけてきた。
「とにかく、あんなこともうやめろよ」
言いたいことを言い終えると私に用がなくなったのか、風間くんは踵を返して帰路に着こうとする。私はムカムカとした気持ちが抑えられなくなり、その背中に向かって「いいよね、何も知らない人は」と小さく嫌味を口にした。その言葉が聞こえたのか、風間くんは足を止めたかと思えば、くるりと体を反転させ私に向かってズカズカと近づいてきた。
「何も知らないのはお前だって一緒だろ。自分だけが特別だと思うなよ」
私よりも高い位置から風間くんが睨み下ろす。その鋭い視線が私の柔らかい心にナイフを突き立てるようだった。
だけど、風間くんの言葉にも一理あった。風間くんが私の事情を何も知らないように、私は風間くんのことを何も知らない。私があの日、音楽室に行かなければ、きっとこうやって彼と話すことだってなかったのだろうから。
私は言い返す言葉も思いつかないまま、じっと風間くんを見つめるしかなかった。黙り込んだ私を見て風間くんは苛立たしげに鼻を鳴らすと、今度こそ私に背を向けて歩き出す。
嵐が去ったような気分だった。
でも、きっとこれっきりだろうから。
私は自分にそう言い聞かせて、下駄箱から自分の靴を取り出した。
「話を聞いてない奴のことは、俺は知らんからな。いいか、この一年が大事なんだからな。将来の運命を分けると言っても過言じゃない!」
配布物であるプリントの山を机に叩きつけるようにして整える。ざわつく教室の中でもうるさく聞こえるほど、その音は大きく、友達と話に咲かせていた一部の生徒がびくりと体を震わせていた。
「高校生としての青春を送るのもいいが、勉強は疎かにしないように。わかってるな?!」
クマちゃん先生の言葉に誰も返事をしないどころか、まるで本物の熊のような鋭い視線に一瞬の間があいた後、ドッと笑い声がクラスに湧き起こる。クマちゃん先生は去年も私たちの学年を受け持っていたからか、真面目に話を聞く生徒の方が少ないことをわかっていた。茶化すように笑い続ける生徒にクマちゃん先生は呆れた様子で、ため息を吐いている。
「ねぇねぇ、瑠夏。この後どうする? 久しぶりに、駅前の服屋さんでも見に行かない?」
私の後ろの席で、仲のいい友達の一人である相澤佳奈(あいざわかな)が控えめに肩を叩いてきた。私は顔だけ佳奈の方へと向けると「今日は早く帰らないといけないから」と申し訳なさそうな顔を作る。それだけで佳奈は「そっか、ならまた今度ね」とすぐに他の子を誘い始めた。佳奈とは仲がいいが、佳奈の交友関係はとても広い。私はその広く浅い友達の中の一人で、どちらかといえば都合のいいタイプの友達だろう。
卑屈な考えが頭に浮かんで、私はすぐにその考えを振り払った。佳奈の性格的に友達の優劣はきっとつけていないだろうから。
「それじゃあ、明日からも元気に勉学に励むように!」
ほとんど聞いていなかったクマちゃん先生の話がいつの間にか締め括られ、長かった始業式は終わりを迎える。クマちゃん先生が解散を告げると生徒たちは三々五々に散っていく。新入生の部活動勧誘に向かう生徒もいれば、早々に帰宅する生徒もいる。私はそんな生徒たちのことを横目に見ながら、机の下でスマートフォンの電源を点ける。
友達と呼べる人はそこそこいたが、いつも一緒に帰る友達はいなかった。手の中の小さな箱を眺めても、やっぱり私を誘うメッセージは届いていない。そのことに一瞬心が揺らいだ気がしたが、私はそれでいい、と思いながら席を立つと誰にも声をかけることなく教室から出ていった。
部活もやっていない私は寄り道することもないので、まっすぐに昇降口に向かう。いつも通りの景色がそこに広がっていたはずなのに、異質な存在が私の下駄箱のそばに立っていた。
「よう、ちょっと付き合えよ」
「……なんのよう、風間くん」
吊り目がちできつい印象を与える漆黒の瞳が私の方を向いている。彼が何も考えていないとしても、その瞳にじっと見られるのはなんだか落ち着かなくなるからやめて欲しかった。
彼の名前は風間晴政(かざまはるまさ)という。将来ピアニストを目指しているとかで、さまざまなコンクールでも優勝している実力者だ。高校卒業したら音楽系の大学に進学するとか、すでにプロデビューの手前にいるだとか。いろんな噂が彼の周りを取り囲んでいる。学校側も風間くんの才能を応援しており、風間くんの生活はピアノを中心に回っていると言っても過言ではない。
風間くんとはクラスが違い、学生生活を送っていて関わることはまずない。それに、彼は時間があれば音楽室にこもってピアノの練習をしており、音楽室に用のない私は高校三年目にしてもなお彼とまともに話したことがなかった。
そんな雲の上の存在がなぜ私に話しかけてくるのか。
それはとても単純な話だ。
私は心のうちで小さくため息を吐く。彼のムスッとした表情から何を言われるのかなんて、分かりきっていた。
きっと春休みのあの件のことだ。
「お前、もう二度とあんなことするなよ。学校から飛び降りるなんて、しかも音楽室からなんて洒落にならないんだからよ」
「別に……それは風間くんの誤解で、私には飛び降りるつもりはなかったよ」
「僕にはそう見えなかった。あの瞬間、お前は確かに死のうとしていたはずだ」
風間くんの言葉に私は返す言葉を失う。何も知らないはずなのに、風間くんは全てお見通しだというように断言する。その傲慢さが鼻につき、私は一刻も早く彼から離れたくなった。
「死ぬなんて、そんな大袈裟な。ちょっと体が窓の外に出過ぎただけで……」
「言い訳なんていくらでもできるだろ。死ぬやつは大抵そうやって嘘をつくんだから」
酷い言い方に思わず眉間に皺を寄せてしまう。たった一度の過ちをこんな風に責められたら、普段から温厚な私だって流石に嫌気を覚える。だけど、風間くんは人の感情に疎いのか、私の気持ちには気がつかないように顔を歪めて睨みつけてきた。
「とにかく、あんなこともうやめろよ」
言いたいことを言い終えると私に用がなくなったのか、風間くんは踵を返して帰路に着こうとする。私はムカムカとした気持ちが抑えられなくなり、その背中に向かって「いいよね、何も知らない人は」と小さく嫌味を口にした。その言葉が聞こえたのか、風間くんは足を止めたかと思えば、くるりと体を反転させ私に向かってズカズカと近づいてきた。
「何も知らないのはお前だって一緒だろ。自分だけが特別だと思うなよ」
私よりも高い位置から風間くんが睨み下ろす。その鋭い視線が私の柔らかい心にナイフを突き立てるようだった。
だけど、風間くんの言葉にも一理あった。風間くんが私の事情を何も知らないように、私は風間くんのことを何も知らない。私があの日、音楽室に行かなければ、きっとこうやって彼と話すことだってなかったのだろうから。
私は言い返す言葉も思いつかないまま、じっと風間くんを見つめるしかなかった。黙り込んだ私を見て風間くんは苛立たしげに鼻を鳴らすと、今度こそ私に背を向けて歩き出す。
嵐が去ったような気分だった。
でも、きっとこれっきりだろうから。
私は自分にそう言い聞かせて、下駄箱から自分の靴を取り出した。



