あの時——あの時って……?
風間くんの言葉を心の中で反芻させて、不意に視界の端でチカっと何かが光る。思わずそちらに目を向ければ、地面の水たまりが目に入る。水たまりは私たちの世界を反射して映しており、その先にはあの日見たような綺麗な光があった。
あの日、学校の音楽室でその光に焦がれた私の気持ちは——?
どれだけ考えてもその時の気持ちを思い出すことができない。たしか、たいそうな理由なんてなかったはずだ。風間くんのような辛い現実も、全てを捨てたくなるようなどうしようもない現状も、何もなかった。あの時、音楽室に着くまでは飛び降りる気なんてなくて。ただ、私は風間くんに——彼のピアノを聴きたかっただけだった。
「——わからない。あの時の自分の考えなんて、私には……」
風間くんの質問の意図がわからないわけでない。彼が求めている答えはこんな曖昧なものではないことも。だけど、本当にわからなかったのだ。いや、なんて言葉に表せばいいのかがわからない、と言う方が正しいか。
「……お前は僕の話ばかり聞こうとする。今度はお前の番だ。お前が僕のことを知りたいと思うように、僕もお前に興味が湧いた」
「なんで、そんなに急に……」
「急なんかじゃない。使い物にならなくなった僕のところに懲りずに毎日やってくる変人はお前くらいだったから」
風間くんは一呼吸置くと、意を決したようにゆっくりと口を開く。
「それに、お前と僕は、その……友達、なんだろ」
「——!」
友達、と言う単語に私は大きく目を見開いて息を呑む。風間くんは自分で言って恥ずかしくなったのか首筋まで真っ赤に染めながらそっぽを向いてしまった。
あの音楽室で過ごした日々を思い出す。一時間弱の短い関わりは私の中だけじゃなくてちゃんと風間くんの中にも残っていたのだ。そのことがわかって私の方が救われたような気持ちになった。
「友達、なんだから知りたいと思うことはおかしなことじゃないはずだ」
「……なら、名前で呼んでよ、風間くん」
口をついてでた言葉に風間くん以上に私自身が驚いた。だけど、一度声にしてしまったことを取り消すことはできないから、私はどうにでもなれという気持ちで思ったままの気持ちを曝け出すことにした。いつもだったら絶対に口にしないような、心の根っこの部分をそっと持ち上げる。
「私、風間くんに名前で呼ばれたい。それで、私ももっと風間くんのことを知りたい。知って、風間くんの支えになりたい」
もしかしたら風間くんは私の名前を知らないのかもしれない、という考えはこの時の私の頭の中にはなかった。私はブランコを揺らすのをやめて、膝の上で握り拳を作る。風間くんがなんて答えるのかわからなかったから、緊張で小さく震えているのがわかった。
しばらくの沈黙。
風間くんは小さくため息を吐いた。その音で私は『また、間違えた』と反射的に思い、目を強く瞑った。
「——瑠夏」
小さな声で優しく囁かれたその名前に、私はハッとして閉ざした目を見開く。ぽかんと間抜けにも口を開いた顔を風間くんに向ければ、彼はどことなく不満そうに口を尖らせていた。
「なにか反応くらい見せろよ」
「え、あ……。まさか本当に名前を呼んでくれるなんて思わなくて……。ていうか、風間くん、私の名前知ってたんだね」
「当然だろ、僕をなんだと思ってるんだ? あんな出会い方をして、毎日のように音楽室にやってくるやつの名前くらい流石に覚えてる」
心外だというように風間くんは眉を顰める。意外な返答に私の頭の中はいろんな言葉が浮かんでは消えていく。こういう時になんて答えればいいのか、私は知らなかった。
「……あはは、なんだ——」
——私の一方通行だったわけじゃないんだ。
そのことがわかって私は素直に嬉しいと思った。
笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を人差し指で拭う。
「ねぇ、風間くん」
話しかければ風間くんは視線だけで続きを促した。
「私にも、本当にわからないの」
あの日のことを思い出しながら、私は震えそうになる声でそう伝える。風間くんは黙って私の方を見つめていた。
「だけど、風間くんのピアノに、あの時間に救われていたのは本当だよ」
あの時間。
誰もいない教室で風間くんのピアノを聴く時間。
昼休憩に風間くんと一緒に世間話をする時間。
風間くんと話をしたくて毎日家まで通った時間。
どの時間も私にとっては救いだったのだ。
そのことに本人の言葉で気がつくなんて、私らしいのかもしれないと思ったけど。
風間くんは釈然としないのか、眉を顰めたままだったが、私の気持ちを受け入れるように小さく頷いてくれた。
そのことに気がついた時、胸の奥にずっと引っかかっていた何かが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
風間くんは何もしていない。ただ、私の話を聞いて小さく頷いてくれただけなのに。
風間くんの言葉を心の中で反芻させて、不意に視界の端でチカっと何かが光る。思わずそちらに目を向ければ、地面の水たまりが目に入る。水たまりは私たちの世界を反射して映しており、その先にはあの日見たような綺麗な光があった。
あの日、学校の音楽室でその光に焦がれた私の気持ちは——?
どれだけ考えてもその時の気持ちを思い出すことができない。たしか、たいそうな理由なんてなかったはずだ。風間くんのような辛い現実も、全てを捨てたくなるようなどうしようもない現状も、何もなかった。あの時、音楽室に着くまでは飛び降りる気なんてなくて。ただ、私は風間くんに——彼のピアノを聴きたかっただけだった。
「——わからない。あの時の自分の考えなんて、私には……」
風間くんの質問の意図がわからないわけでない。彼が求めている答えはこんな曖昧なものではないことも。だけど、本当にわからなかったのだ。いや、なんて言葉に表せばいいのかがわからない、と言う方が正しいか。
「……お前は僕の話ばかり聞こうとする。今度はお前の番だ。お前が僕のことを知りたいと思うように、僕もお前に興味が湧いた」
「なんで、そんなに急に……」
「急なんかじゃない。使い物にならなくなった僕のところに懲りずに毎日やってくる変人はお前くらいだったから」
風間くんは一呼吸置くと、意を決したようにゆっくりと口を開く。
「それに、お前と僕は、その……友達、なんだろ」
「——!」
友達、と言う単語に私は大きく目を見開いて息を呑む。風間くんは自分で言って恥ずかしくなったのか首筋まで真っ赤に染めながらそっぽを向いてしまった。
あの音楽室で過ごした日々を思い出す。一時間弱の短い関わりは私の中だけじゃなくてちゃんと風間くんの中にも残っていたのだ。そのことがわかって私の方が救われたような気持ちになった。
「友達、なんだから知りたいと思うことはおかしなことじゃないはずだ」
「……なら、名前で呼んでよ、風間くん」
口をついてでた言葉に風間くん以上に私自身が驚いた。だけど、一度声にしてしまったことを取り消すことはできないから、私はどうにでもなれという気持ちで思ったままの気持ちを曝け出すことにした。いつもだったら絶対に口にしないような、心の根っこの部分をそっと持ち上げる。
「私、風間くんに名前で呼ばれたい。それで、私ももっと風間くんのことを知りたい。知って、風間くんの支えになりたい」
もしかしたら風間くんは私の名前を知らないのかもしれない、という考えはこの時の私の頭の中にはなかった。私はブランコを揺らすのをやめて、膝の上で握り拳を作る。風間くんがなんて答えるのかわからなかったから、緊張で小さく震えているのがわかった。
しばらくの沈黙。
風間くんは小さくため息を吐いた。その音で私は『また、間違えた』と反射的に思い、目を強く瞑った。
「——瑠夏」
小さな声で優しく囁かれたその名前に、私はハッとして閉ざした目を見開く。ぽかんと間抜けにも口を開いた顔を風間くんに向ければ、彼はどことなく不満そうに口を尖らせていた。
「なにか反応くらい見せろよ」
「え、あ……。まさか本当に名前を呼んでくれるなんて思わなくて……。ていうか、風間くん、私の名前知ってたんだね」
「当然だろ、僕をなんだと思ってるんだ? あんな出会い方をして、毎日のように音楽室にやってくるやつの名前くらい流石に覚えてる」
心外だというように風間くんは眉を顰める。意外な返答に私の頭の中はいろんな言葉が浮かんでは消えていく。こういう時になんて答えればいいのか、私は知らなかった。
「……あはは、なんだ——」
——私の一方通行だったわけじゃないんだ。
そのことがわかって私は素直に嬉しいと思った。
笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を人差し指で拭う。
「ねぇ、風間くん」
話しかければ風間くんは視線だけで続きを促した。
「私にも、本当にわからないの」
あの日のことを思い出しながら、私は震えそうになる声でそう伝える。風間くんは黙って私の方を見つめていた。
「だけど、風間くんのピアノに、あの時間に救われていたのは本当だよ」
あの時間。
誰もいない教室で風間くんのピアノを聴く時間。
昼休憩に風間くんと一緒に世間話をする時間。
風間くんと話をしたくて毎日家まで通った時間。
どの時間も私にとっては救いだったのだ。
そのことに本人の言葉で気がつくなんて、私らしいのかもしれないと思ったけど。
風間くんは釈然としないのか、眉を顰めたままだったが、私の気持ちを受け入れるように小さく頷いてくれた。
そのことに気がついた時、胸の奥にずっと引っかかっていた何かが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
風間くんは何もしていない。ただ、私の話を聞いて小さく頷いてくれただけなのに。



