たとえ世界が音を失ったとしても

 二人は一番近いコンビニに行ってそれぞれアイスを買ってから、近くの公園に移動した。砂場とシーソー、それからブランコと滑り台があって、小さなグラウンドがあるだけの小さな公園だ。日も沈み始めているのか、分厚い雲の切れ間から鮮やかなオレンジ色の光が住宅街の間を縫うようにして公園全体を照らしている。時間も時間だからか、公園には誰もおらず貸切状態だった。

 私と風間くんはブランコにそれぞれ座ると足でなんとなく揺らしながらアイスの袋を開ける。私が買ったのはオレンジのアイスバーで風間くんが買ったのは飲むタイプのシェイクアイスだった。

 食べている時は二人の間に会話はなく、カラスの鳴き声や遠くで車が走る音などの喧騒が聞こえてくるだけだった。

 私はぼんやりと公園を見つめながらアイスを頬張る。この公園には来たことはなかったはずだが、どことなく記憶の中にある家族の思い出の場所に類似していた。

 まだ、両親が揃っていて、幸せと呼べたあの頃の記憶だ。

 この公園のように小さな砂場で泥団子を真剣に作る幼い私と同じくらい真剣に娘を手伝う父。そしてそれを見て今からは考えられないほど穏やかに笑い、見守るお母さん。私の家族としての幸せが、そこに詰まっていた。今はもう戻らないその景色を、私は初めて訪れた公園で思い描く。


 あの頃に戻りたいとは思わない。だけど、もしも少しだけ許されるのなら——。


「なに考えているんだよ」

「……!」


 記憶の海に沈んでいると横から風間くんが声をかけてきた。その声で私の意識は遠い過去から今に引き戻される。いつの間にか風間くんはアイスを食べ終わっており、食べる手が止まっていた私の方を訝しげに覗き込んでいる。

 私は慌てて残りのアイスを食べて、頭に強い痛みが走った。冷たいものを勢いよく食べた時によく起こる、あれだ。

 鋭い痛みに私が頭を抱えていると、風間くんが慌てたように立ち上がった。

「おい! 大丈夫かよ!」
「……だ、大丈夫。……一気にアイス食べてちょっと頭が痛いだけだから」
「それならいいけど……。別にお前が急いでないなら、ゆっくり食べればよかっただろ」

 呆れたような視線に私は茶を濁すように笑みを浮かべる。私としては風間くんが早く帰りたいと考えていると思っていたからこそ、早く食べ終わらなければと思っただけだったのだが。

 そんな私の考えを見通したように、風間くんは気に入らないという様子で鼻を鳴らすともう一度ブランコに座った。ブランコの遊び方を知らないのか、その時になって初めて風間くんは私のように揺らすことはなくただの椅子としてブランコを使っていることに気がついた。

「ブランコ、漕いでみたら?」
「漕ぐ……?」
「揺らすってこと、こんな風に」

 アイスの頭痛から解放された私は助走をつけてブランコを思いっきり動かす。慣性の法則に則って上下に動く私を風間くんは「なるほど、そういう遊びか」と呟く。数回上下に揺られた後、私は風間くんにどうぞという視線を投げかける。彼は私の真似をして膝立ちになる程後ろに下がると思いっきり地面を蹴った。


「わっ! ……あはは! なんだこれ!」


 風間くんは初めてのブランコが気に入ったのか年相応の楽しげな笑顔を見せながら揺られている。新しい彼の一面に私は少しだけ目を見開いた。他人を寄せ付けようとしない風間くんとは思えないような気の抜けた様子に私の口元にも自然と笑みが広がる。

 思いつきで来た公園だったが、こんな一面が見れるなら来てよかったと素直に思えた。

 その後も風間くんは楽しそうにブランコに揺らし続け、ひとしきり遊び尽くすとようやく地面に足をついた。そこからは私と同じように足でブランコをゆりかごに揺られるように上下に動かしていた。


「……こんなこと、初めてだ」

「ブランコのこと?」

「それもそうだけど、こうやって誰かと公園で買い食いすることとか。……あー、そうか」


 風間くんは何かを思い出すように遠くを見つめると、降り注ぐ夕陽に眩しそうに目を細めた。その瞳には憧れや羨望の気持ちがこもっているように見えた。



「友達……と、こうやって遊ぶのがそもそも初めてなんだな」

「——え?」



 風間くんの告白に私の心臓は大きく跳ねた。風間くんのこれまでがピアノ一筋なのはわかっていたつもりだが、彼の人生は私が思っているほど自由のない生活だったのかもしれない、と初めて思い至った。


 物心ついた時から音楽の世界に生きていた風間くん。


 私が過去に佳奈に言った『高校生活を犠牲にして』という言葉はあながち間違いではなかったのだ。そして、おそらく佳奈が言った『普通じゃない』や『特別』という言葉こそ風間くんの本質を捉えていることにようやく気がつく。

 風間くんは普通の高校生なのに、何一つ普通じゃない。

 友達と過ごす休憩時間も、誰かと学校終わりに遊びに行くことも。

 私たちが当たり前に経験してきていることを彼は何一つ知らないのだ。

 それが不幸だったとは思わない。それは風間くんのピアノが証明している。



 なら、音楽に——ピアノだけに価値を見出してきた風間くんは、今、何に縋って生きているのだろうか。




「別になくてもいいと思ってたけど、案外こういう生活も悪くないのかもな」

 風間くんの声に被さるように、夕方の空をカラスが鳴き声を上げながら数羽飛んでいる。地平線に沈みかけているのか、雲の切れ間から覗く温かい光は今までで一番優しく、鮮やかなオレンジ色をしている。どこまでも優しく美しい景色の中で、風間くんの左手だけが不自然に揺れていた。その手に、この世界のすべての残酷さが詰まっているようで、私は思わず顔を顰めてしまった。

 私の些細な変化は、夕陽だけをじっと見つめる風間くんには気づかれなかった。



「——ずっとピアノと一緒だったんだ。寝る間も惜しんで、友達もろくに作らないで。ただずっと、ピアノを弾いてきた」

「…………うん」

「ピアノの音が好きだ。優しい気持ちも、荒々しい気持ちも、どんな気持ちもピアノは受け止めてくれる。音楽だけは僕を裏切らない、そう思ってたし今も思ってる」

「…………」



 胸の内を吐露するように風間くんは震える声で私に想いをぶつけてくれる。この時ばかりは、私は何か言葉を返そうとは思わなかった。それが正解なのかどうかなんて考えるまでもない。風間くんの言葉に何かを返すことは彼の人生に対して失礼だとわかったから。


「僕の気持ちを正しく伝えてくれるのが、ピアノだけだったんだ」


 感情に伴うように左手の震えがひどくなる。風間くんはそれを無理やり押さえ込むように反対の手で抑える。その時、風間くんは何かに気がついたようにハッと目を見開いた。自分の左手に視線を向けていた風間くんは再び顔を上げる。夕陽に照らされた彼の横顔がとても綺麗だ、と場違いにも思った。

 風間くんは抑えていた右手を外すと、震える左手を慎重に目の高さまで持ち上げる。そして、遠くで輝く太陽に焦がれるように、その手に収めようとして——失敗する。
 風間くんの手は力なく落ちていく。彼はわかっていたように引き攣った笑みを浮かべると、私の方を見た。





「なぁ、お前もあの時、こんな気持ちだったのか?」