たとえ世界が音を失ったとしても

 それから私は毎日風間くんの家に通った。流石に何度も家にお邪魔するから簡単な手土産を持って行った日もある。

 風間くんに会えるかどうかはその日の風間くんの様子によって変わった。最初の日のように激しく荒れることはなくても、風間くんの心には波があるようで会ってくれる時と部屋にすら入れてくれない日の両極端だった。

 優奈さんも風間くんとどう接したいいのかわからないようで、ある日、私が帰る時に頭を下げられたこともあった。


「毎日晴政の様子を見にきてくれて本当にありがとうね」
「い、いえ……! そんな、頭下げられるようなことは何も……」
「本当は私がしっかりして晴政を支えなければいけないのはわかっているのだけれど。私がどんなに言葉をかけても、晴政には重たいみたいで」
「そんな……でも、きっと、風間くんはわかってくれていると思います」
「……そう、言ってもらえると心が救われるようだわ」


 顔を上げた優奈さんは目尻に涙を溜めながら力なく微笑んだ。きっと風間くんの家族は彼を中心に回っていたのだろう。いや、正確には風間くんのピアノ、か。

 風間くんのピアノを応援するかのような防音室が完備された大きな家。風間くんのために用意されたピアノも、楽譜も、音楽に関する全てのものが、風間くんがピアノを弾けなくなったことで意味を失おうとしている。おそらく、その中には献身的に支えるお母さんとしての優奈さんも含まれているではないか。それほど優奈さんが風間くんのピアノの才能に期待を寄せていたことは、リビングに綺麗に飾られた風間くんの実績の数々が物語っていた。

 私は優奈さんになんて声をかけるのが正しいのかわからなかった。なぜなら私のお母さんも私に期待をしているが、優奈さんのような純粋な気持ちとは全然違ったからだ。私のお母さんの期待は、もっと泥臭くて、醜いものだから。

 風間くんの家に通い始めて一週間が経った頃、いつものように風間くんの家のインターフォンを鳴らすと優奈さんが対応してくれた。そのまま玄関の前で待っていると、扉を開けてくれたのは優奈さんじゃなかった。


「……風間くん!」


 目の前に現れた風間くんに驚いていると、彼は小さく「……ん」と答えながら首の後ろを掻いた。


「てっきり、風間くんのお母さんが出てくると思ってた」
「……聞きたいことがあったから、出てきたんだよ」


 目を伏せながら風間くんがボソボソと喋る。堂々とはっきりと喋る風間くんにしては珍しい反応で、私は少しだけ新鮮な気持ちになった。私は「聞きたいことって?」と質問しながら、心の中では少しだけ期待をしていた。その期待の正体がなんなのかは自分でもよくわからなかった。ただ、風間くんが少しでも前向きに現実を受け止められているのなら、いいなと思った。



「……お前、いつまでこんなこと続けるつもりなんだよ」



 不意に風間くんが視線を私の方に向ける。真っ直ぐに向けられた彼の瞳を見て私は一瞬息を呑んだ。適当なことを言ったら許さない、とその瞳は雄弁に語っている。私は溢れていく言葉を必死に繋ぎ合わせながら、風間くんの求めている答えを渡そうとする。


「風間くんが、前を向いて……ううん、こうやって私とちゃんと向き合ってくれるまで、かな」


 風間くんの支えになりたいんだ——その気持ちを伝えようとして私はやめた。もちろん支えたい気持ちも嘘じゃない。だけど、そうでもない気がしたのだ。私が風間くんに嫌がられてもこうやって会いに来る理由は、自分の言葉で表現できない気持ちの隙間にあるのだろう。

 そんなことを考えていると風間くんが小さく鼻で笑い、ついで口元を手で隠しながら肩を小刻みに揺らし始めた。


「はは……なんだよそれ。やっぱりお前、変なやつだな」


 久しぶりに見た風間くんの笑顔に私はつい見惚れてしまった。同時に、風間くんのためにしてきたことが、無意味じゃなかったと証明されたようで私の方こそ涙が滲んでくるようだ。

 呆然と笑っている風間くんを見ていると彼も自分の状況を理解したのか、ハッと目を見開いて固まった。そして小さく咳払いをすると「話はそれだけだ」と言って玄関の扉を閉めようとした。


「ま、待って! 風間くん!」

「……なんだよ。まだ何かあるのかよ」


 耳をほんのりと赤く染めた風間くんが、口を尖らせながら私の方へ向き直る。私は何かを言わなければと思い、咄嗟に「よければ一緒にちょっと歩かない?」と口走っていた。

 風間くんは何を言ってるんだ、と言うように目を大きく見開いたが、すぐに「ここで待ってろ」と言って家の中へと消えていく。

 数分待った後、風間くんは一応の身だしなみを整えてから私のところに戻ってきた。どうやら一緒に行く気になってくれたみたいだった。

 これまでの風間くんからはとても考えられない変化に、私は思わず心の中で手を叩いて喜んだ。警戒心の強い地域猫が気を許してくれたみたいな。そんな嬉しさがあった。


「それで、どこ行くんだよ」
「あー、コンビニ行って、公園行こうよ」


 風間くんともっと話がしたい。そう考えて出た提案だった。