たとえ世界が音を失ったとしても

 その日の授業後、私は早速風間くんの家へと向かった。どんよりとした雲が私の覚悟を押しつぶそうとしていたが、私は負けずに風間くんの家のインターフォンを押す。

 対応してくれたのはこの間と同じように優奈さんだった。優奈さんは相変わらず綺麗な笑みを浮かべていたが、目の下のクマは濃くなっており、目尻の皺も増えたように見えた。やつれている、と言うほどではないが、健康的かと聞かれると違うと即答できるくらいには調子が悪そうだった。


「会いにきてくれてありがとうね。きっと晴政も喜ぶわ」


 以前訪問した時と同じことを優奈さんは言う。だけど、あの日の風間くんを知ってしまったからこそ、私は手放しに優奈さんの言葉を受け取ることはできなかった。

 きっと風間くんは私のことを鬱陶しがるに違いない。口では『帰れ』とまた言われるかもしれないが、私は諦めるつもりはなかった。


 風間くんが立ち直るまで、彼のためにできることをやるのだ。


 それがあの日、風間くんが助けてくれたことへの答えになると信じていたから。

 私は前と同じ部屋に案内された。だけど、この間と違ったのは優奈さんが案内した後すぐに離れて行ったことだ。まるで逃げるような足取りに私は首を傾げる。疑問に感じたのも一瞬のことで、私はすぐに部屋の扉をノックした。


「風間くん……」


 防音室の扉だからかノックをしても部屋の中まで響いた感じはしない。私は仕方なく、そっと扉を開けた。

 扉の向こうでは部屋の中心にグランドピアノが置かれていたが、前とは違い黒い布でピアノは覆われていた。ピアノの周りにはたくさんのメモ書きが残された楽譜たちが散乱している。整頓されていたはずの部屋は、主人の心を示すように散らかっていた。そして、奥のバルコニー型の窓辺に風間くんがぼんやりと空を眺めながら座っている。

 荒れ狂った様子とは正反対な、虚ろな様子に私は思わず息を呑む。その時の空気が揺れる音を聞き逃さなかった風間くんがゆっくりと私の方へ顔を向けた。


「……お前、なんでここにいるんだ」


 一瞬見開かれた目はすぐに鋭い視線に変わる。まるでナイフのように尖った目つきと『なんで』という問いかけに用意していた言葉を見失った。だけど、ここですごすごと引き下がるわけにはいかないと、頭を懸命に回転させる。


「風間くんに会いにきたんだよ」
「どうして」
「えっと、風間くんに元気になって欲しくて……?」
「なら、僕は元気だ。それじゃあ、帰ってくれ」
「ちょ、ちょっと待って! そうじゃなくて……私は…………!」
「……はぁ。言葉にしないとわからないなら、はっきりと言ってやる。僕はお前なんかの助けはいらない。だから帰ってくれ。そして二度とここには来るな」

 風間くんは言いたいことだけ言うとまた窓の外へと視線を戻す。その横顔からはこれ以上話すことはないという、彼なりの拒絶の意思が確認できた。私は何か声をかけようとして、口を閉ざした。


 今日もだめだった——でも。


「明日も、来るから」


 小さな声でそう告げれば、風間くんの肩が少しだけ揺れたような気がした。


「風間くんが話したくなるまで、私、待ってるから」


 私は形だけのお辞儀をしてから部屋の外へと出る。扉が閉まる直前に後ろを振り返れば、信じられないものを見るかのような顔でこちらをみていた風間くんが見えた。その時、『なんで』と口が動いたような気がしたが、扉が閉まってしまい真偽を確認することはできなかった。