たとえ世界が音を失ったとしても

 二階に上がるとピアノの音は先ほどよりもはっきりと聞こえてきた。激しく、荒々しい、繊細な風間くんのピアノとは程遠い音だ。まるで、小さな子供が癇癪を起こしているかのような音の散らかりように私は一瞬眉を顰める。

「事故に遭ってから、晴政の音楽は変わってしまったわ」

 私が心のうちで思った疑問に答えるように優奈さんは消え入りそうな声で呟く。その声はわずかに震えていて、優奈さんが風間くんの変わってしまったピアノの音に心を痛めていることが伝わってきた。

「あの子が一番大変だってわかってるのに……。何もできない私は、本当にダメな母親ね」

 自嘲するように引き攣った笑みを浮かべる優奈さんを見て、私の心はぎゅうっと締め付けられるようだった。それは、風間くんを思う優奈さんの辛さを感じ取ったのか、それとも自分のお母さんと比べて痛くなったのか。

どちらにしても私は優奈さんに「そんなことありません。きっと、風間くんはお母さんの支えを必要としているはずです」と励ましの気持ちを伝える。優奈さんは一瞬目を逸らした後、「そうね。そうだと嬉しいわ」と小さな声で呟いた。

 私たちの間に沈黙が落ちるが、沈黙を破るようにまたピアノの音が聞こえてくる。何度も何度も、同じフレーズだけが繰り返されていて、まるで壊れた音楽を聴いているようだった。

「ここが晴政の練習部屋よ。……ねぇ、瑠夏さん」

「?」

「もしも、辛いと感じたらすぐに晴政のそばを離れるのよ。きっと晴政は瑠夏さんに辛い態度を取ると思うから。しんどいなとか、一緒にいたら辛いなって少しでも思ったら、まずは瑠夏さんの心を守るのよ」

「私の、心……?」

「そうよ、瑠夏さんの心。無理をする必要はないからね」

 疲労を押し隠すように浮かべた笑みは、けれど隠したはずのものをかえって色濃く滲ませていた。


 私は優奈さんの言葉を頭の中で反芻させる。


 辛い。

 しんどい。

 でも、それを表に出すのは。自分の心を守ろうとするのは——。


 脳裏に私に縋り付いて泣いているお母さんの姿が思い浮かぶ。



 だって、自分を守ってたって——。



 目の前で優奈さんがゆっくりと部屋の扉を開ける。隙間から直接聞こえるピアノの音は耳にまとわりつき、ざわつく私の心を逆撫でするように不快に感じた。



 ——何も変わらないのに。



 少しだけ顔を俯かせれば、廊下の光が私の顔に仄暗い影を落とす。すうっと冷めた瞳は目の前にいる優奈さんにも気づかれることはなかった。

 私はすぐに気を持ち直して、暗い考えを心の奥底にしまいこむ。こんなことを考えていたって現実は変わらないのだから、今は風間くんのことに集中するべきだと考える。

 そう思って顔を上げた瞬間、強い衝撃音が耳を貫いた。

 ついで「晴政!」と慌てる優奈さんの声がキーンとした耳鳴りと共に聞こえてくる。

 私は何が起きたのかよくわかっておらず、半開きになった扉の前で狼狽えた。


「違う、違う!」


 風間くんの慟哭が扉の向こうから聞こえてきて、私は咄嗟に部屋の中に駆け込んだ。

 部屋の中は明るい照明で覆われ、中心には立派なグラウンドピアノが置かれている。ピアノの奥は円形のバルコニーがあり、窓ガラスから見える空は真っ暗だった。

 ピアノの前には風間くんが何度も何度も鍵盤に左手を叩きつけていた。まるでその手が全ての元凶かのように、憎らしげに執拗にピアノに叩きつける。そんな風間くんの行動を止めようと優奈さんがその手を握るが、風間くんはそれすらも振り払って自分の左手を責め続けた。


「こんなんじゃない! こんなんじゃないんだよ……! 僕のピアノは! 僕の…………音はっ!」


 全身で怒りをあらわにする風間くんに私はかける言葉を完全に失う。その後ろ姿は完全に私のお母さんと重なり、お母さんの声が、言葉が頭の中に蘇ってくるようだった。それと同時に、私は私にしか風間くんを受け止められる人はいない、と考えた。お母さんと同じように話を聞いて、その気持ちを受け止めて、それで風間くんを助けたいと思った。

 だから一歩踏み出した時、風間くんが勢いよく掴んで投げ捨てた楽譜が足元に散らばった。その瞬間、私はハッとして足を止めて、息を呑んだ。楽譜に書かれたメモ書き。指揮者の指示。風間くんの気付き。どうすればもっとこの音楽が良くなるのかと研究された風間くんの努力の結晶を見て、私は開きかけた口をギュッと強く噛み締めた。

 恐る恐る風間くんの方を見れば、獣のように鋭く、一歩でも動けば射殺されるような視線に私は心臓が速くなっていくのがわかった。それでも私はその場にしゃがみ込み、床に落ちている風間くんのカケラを拾い上げようと手を伸ばす。



「勝手に触るな!」



 椅子から降りた風間くんは荒い足音を立てながら私の方へと向かってくる。鬼気迫る表情に私は何か間違えてしまったのかと思い、体を固まらせた。まるでその場に根が張ってしまったかのように、体はいうことを聞かなかった。
 目の前に立った風間くんの凍てついた眼差しが、突き刺すようにこちらへ降り注いでいた。その瞳は私を責めるお母さんと同じ目をしていた。

「……ご、ごめ」

「なんでお前がここにいるんだ。お前も僕のことを笑いにきたのかよ!」

「ち、違うよ! ……私はただ、風間くんのことが心配で……!」

「心配……? 今、心配だと言ったのか?」

 風間くんの瞳の中には苛立ちや憎しみ、悔しさなどのいろいろな感情が入り混じり、以前見た黒曜石のような輝く瞳はドス黒い深淵へと変わっていた。私はその瞳に見つめられ、お前が悪いのだと言われているような気分になる。そこには真剣にピアノに向き合っていた風間くんの面影はまるで見えなかった。


「お前のはただの無遠慮な同情だろ! 心配してやってるっていう自分が好きなだけだろ!」


「晴政!」


 風間くんの後ろで様子を伺っていた優奈さんが風間くんの言動を非難するように声を上げる。母親の制止すら鬱陶しいのか、風間くんは髪を乱暴に掻きむしると「あーー! もう!」とやり場のない怒りをあらわにする。

「もう帰ってくれ! 今は……誰にも会いたくないんだよ」

 両手で顔を覆った風間くんはその手の下で泣いているようだった。そこでようやく私は声を取り戻したかのように口を開く。


「……嫌だ、って言ったら? 風間くんのそばにいたいって言ったらそばにいさせてくれる?」


 緊張から震える声に心の中で叱咤する。辛いのは風間くんであって、私じゃないのだから。しっかりしろと気合を入れ直そうとするが、先ほどの視線を思い出し指先を小刻みに震わせた。

 風間くんは指の隙間から鬼のように私のことを睨んでいた。その視線は私の言葉の真意を測りかねているようだった。


「なんのつもりか知らないけど、僕はそんなことを頼んだ覚えはない。僕が今望んでいるのは、今すぐ、お前たちがここから出ていくことだけだ」


 消えなかった怒りの灯火が私の方にまで伝わってくる。それほど風間くんは私の行いが許せないようだった。

「瑠夏さん、行きましょう。今は晴政の言う通りに」

「…………はい」

 いつの間にか横に立っていた優奈さんに手を引かれながら風間くんの部屋から廊下へと出る。重たい扉が閉まる瞬間、扉の向こうで風間くんが力無く項垂れていたのがいつまでも脳裏に焼き付いて離れなかった。


 風間くんが一番辛いのはわかる。だからこそ何かしてあげたくてここにきたのだから。


 あの春休みの日。風間くんが私を助けてくれたように、私も風間くんの助けになれたなら。それだけでよかったのに、私はどうやら何かを間違えてしまったみたいだ。


 そのことを自覚した瞬間、私は足元から這い上がってくる悍ましい感覚に体を支配される。



 なんて声をかければよかったのだろうか。


 どうやって風間くんの心に寄り添えばよかったのだろうか。



 私にできた最善はなんだったのだろうか。




 頭の中でぐるぐると考えても、結論は一向に出る気がしない。目尻にじんわりと涙が浮かんでくる。

 だめだ。泣いたらだめだ。だって辛いのは風間くんなんだから。

 わかっていても足に力が入らなくなり、私は扉を背にその場にずるずるとしゃがみ込んだ。その横に優奈さんがそっと寄り添った。風間くんのことで神経をすり減らしているはずなのに、赤の他人の私にまで優奈さんは気を配ってくれた。彼女の優しさが風間によって切り付けられた心を抉るようだった。


 無責任な励ましや同情は相手を傷つけるだけ。


 クマちゃん先生の言葉が頭によぎった。

 完璧でいなければ。相手の求めるような自分でなくてはいけないのに。




 今の私は、何もできない、ただの子供に過ぎなかった。