「多分このあたりだと思うんだけど……」
授業が終わった後、私は佳奈に「また明日」と簡単な挨拶だけして学校を飛び出した。外は朝から同じように雨が降っており、校舎を出た瞬間からむわっとした蒸し暑さが全身に襲いかかってきた。私は先生に書いてもらった風間くんの家の住所をスマートフォンで検索し、地図を頼りに向かった。
その一帯は丘のようにすこし高い位置にあり、幾つもの大きな家々が建ち並んでいる。表札は小洒落た筆記体で書かれたローマ字で作られていたり、逆に達筆な漢字で作られたりしていた。その表札の一つ一つをチラチラと確認し、風間くんの家を探す。
バタバタと傘に叩きつけるように大粒の雨が降っている。足元は雨水で濡れ、靴下も湿っぽくて気持ち悪かった。早く風間くんの家をみつけよう、と思った時、うるさい雨の音の隙間からピアノの音が聞こえたような気がした。
私は導かれるように顔を上げて周囲を確認すると、高級住宅街の中でも一際目を引く洋館が目に入ってくる。白い塀の向こうには手入れの行き届いた庭が広がり、玄関へ続く石畳の先には重厚な木製の扉が佇んでいる。二階まで届く大きな窓からは、黒く艶めくグランドピアノの姿が見えた。まるで、この家そのものが音楽のために建てられたかのようだった。
「これが、風間くんの……?」
私は唖然とした気持ちで間抜けにもぽかんと口を開いたまま閉じられなくなる。まるで映画の中に出てくるような立派な家だった。表札を何度確認しても『風間』とローマ字で書かれており、目の前の家が風間の家だと示していた。
「こんなに大きなお家だったなんて……私、もしかしてとても場違いなところに来てるんじゃないかな」
今更になって制服を着たただの女子高生が——しかもクラスメイトでもない——風間くんに会うために高級住宅街に足を踏み入れたことがおかしいのではないかと思えた。だけどここまで来てしまったのだから、当初の目的を果たそうと私は深呼吸を数回繰り返し気持ちを落ち着ける。
インターフォンを押そうとした指が震えたが、仕方がないと自分に言い聞かせた。
ピンポーン。
数秒待ってからインターフォン越しに『はい、どちら様ですか』と若い女性の声が聞こえてきた。
「あ、あの、私……その、風間くんの友達で…………」
『あら、あらあら。それはまぁ、よく来てくれたわね。今玄関を開けるから、中まで入っていらっしゃい』
用意してきた言葉はすっかり頭から出ていってしまったようで、私はしどろもどろになりながら伝えると女性は機械の向こうでクスッと笑った。うまく話せなかったことで恥ずかしくなり、私は湿気で直しても仕方がない前髪を指でいじる。
そうこうしているうちに女性が玄関に回って出てきた。
四十代前半くらいだろうか。肩まで伸びた黒髪を綺麗にまとめ、淡いベージュのワンピースを身にまとっている。姿勢はすっと伸びていて、一目で育ちの良さが伝わる女性だった。けれど、その瞳だけはひどく疲れているように見えた。
女性は口元に笑みを浮かべると、私を部屋の中へと通してくれた。そして、玄関にあらかじめ用意してあったのか、ふんわりと柔らかく温かいタオルを貸してくれる。一旦は「大丈夫です」と断ったが「風邪をひいたら大変だわ」と言われやや強引にタオルを押し付けられる。そして、優しい手つきで私の髪を拭いてくれた。誰かに髪の毛を拭かれたことがなかった私は初めての経験にどうしたらいいのかわからず、視線を彷徨わせ続けるしかなかった。
「うん、これでいいわね。さぁ、こっちへ来てちょうだい」
一通り雨水を拭き終えると女性は私の手を取ってリビングに案内する。「好きなところに座っていてね」と言い残すとキッチンの方へと消えていく。キッチンは私の家と同じようにリビングからでも見られるようになっており、女性がテキパキとお茶の準備をしているのが見えた。
その間、私は部屋の中を軽く確認する。
白いサークルのラグは新品のようにふわふわとして汚れひとつなく、その上に置かれた木製のテーブルの中心にはかすみ草が活けられていた。壁には幾つもの写真と賞状が飾られている。写真に写っているのは風間くんがほとんどで、賞状の数もあいまって小さい頃からピアノの世界で活躍していたことが伺えた。
ここが風間くんに取っての原点なのか。
そう考えると、私は何気にすごいところにお邪魔しているのではないかと思えてくる。
「これは全部、晴政が頑張ってきた証なのよ」
ぼうっと壁を見つめていた私の目の前に女性が陶磁器のティーカップを静かに置く。隣には数枚のクッキーが乗った小皿を置いて、にっこりと笑った。
「私は晴政のお母さんの優奈っていうの。よろしくね、可愛らしいお嬢さん」
「……あ、え、えっと、私は風間くんと同じ高校に通う旭川瑠夏って言います!」
優しい微笑みに見惚れていたせいで反応がすこしだけ遅れてしまったが、優奈さんは気にした様子は見せなかった。優奈さんも椅子に座るとティーカップを口元まで持っていく。優雅な手つきに生まれや育ちが現れており、優奈さんが生まれながらのお嬢様であることがわかる。
「晴政は私たちの自慢の息子なの。ずっと努力を惜しまず、妥協することもなかったの」
口元には笑顔を浮かべているのに、瞳はゆらゆらと揺れ、押し寄せてくる感情を無理やり押さえ込んでいるようだった。私はその瞳をどこかで見たことがあるような気がしたが、どこだったか思い出すことができない。
優奈さんは壁にかけられた思い出たちをしばらくじっと見つめた後、不意に私の方へと顔を向ける。
「瑠夏さんは今日は晴政に会いにきたのかしら?」
「……はい。その、怪我をしたって聞いて、何かできればいいなと思って」
「そう、ありがとうね。晴政もきっと喜ぶわ」
口元に微笑を浮かべたまま優奈さんは上を向く。きっとその視線の先に風間くんがいる部屋があるのだろう。私が視線を追いかけるように顔をあげると、シンとしたリビングに微かだがピアノの音が聞こえてくる。久しぶりに聞く風間くんの音はいつも聞いていた音と少しだけズレがあるように感じた。
「それじゃあ、晴政のところへ案内するわね」
音の違和感の正体を突き止める前に優奈さんが立ち上がる。私は慌ててお茶を飲み干すと、優奈さんの後ろをついて歩き出した。
授業が終わった後、私は佳奈に「また明日」と簡単な挨拶だけして学校を飛び出した。外は朝から同じように雨が降っており、校舎を出た瞬間からむわっとした蒸し暑さが全身に襲いかかってきた。私は先生に書いてもらった風間くんの家の住所をスマートフォンで検索し、地図を頼りに向かった。
その一帯は丘のようにすこし高い位置にあり、幾つもの大きな家々が建ち並んでいる。表札は小洒落た筆記体で書かれたローマ字で作られていたり、逆に達筆な漢字で作られたりしていた。その表札の一つ一つをチラチラと確認し、風間くんの家を探す。
バタバタと傘に叩きつけるように大粒の雨が降っている。足元は雨水で濡れ、靴下も湿っぽくて気持ち悪かった。早く風間くんの家をみつけよう、と思った時、うるさい雨の音の隙間からピアノの音が聞こえたような気がした。
私は導かれるように顔を上げて周囲を確認すると、高級住宅街の中でも一際目を引く洋館が目に入ってくる。白い塀の向こうには手入れの行き届いた庭が広がり、玄関へ続く石畳の先には重厚な木製の扉が佇んでいる。二階まで届く大きな窓からは、黒く艶めくグランドピアノの姿が見えた。まるで、この家そのものが音楽のために建てられたかのようだった。
「これが、風間くんの……?」
私は唖然とした気持ちで間抜けにもぽかんと口を開いたまま閉じられなくなる。まるで映画の中に出てくるような立派な家だった。表札を何度確認しても『風間』とローマ字で書かれており、目の前の家が風間の家だと示していた。
「こんなに大きなお家だったなんて……私、もしかしてとても場違いなところに来てるんじゃないかな」
今更になって制服を着たただの女子高生が——しかもクラスメイトでもない——風間くんに会うために高級住宅街に足を踏み入れたことがおかしいのではないかと思えた。だけどここまで来てしまったのだから、当初の目的を果たそうと私は深呼吸を数回繰り返し気持ちを落ち着ける。
インターフォンを押そうとした指が震えたが、仕方がないと自分に言い聞かせた。
ピンポーン。
数秒待ってからインターフォン越しに『はい、どちら様ですか』と若い女性の声が聞こえてきた。
「あ、あの、私……その、風間くんの友達で…………」
『あら、あらあら。それはまぁ、よく来てくれたわね。今玄関を開けるから、中まで入っていらっしゃい』
用意してきた言葉はすっかり頭から出ていってしまったようで、私はしどろもどろになりながら伝えると女性は機械の向こうでクスッと笑った。うまく話せなかったことで恥ずかしくなり、私は湿気で直しても仕方がない前髪を指でいじる。
そうこうしているうちに女性が玄関に回って出てきた。
四十代前半くらいだろうか。肩まで伸びた黒髪を綺麗にまとめ、淡いベージュのワンピースを身にまとっている。姿勢はすっと伸びていて、一目で育ちの良さが伝わる女性だった。けれど、その瞳だけはひどく疲れているように見えた。
女性は口元に笑みを浮かべると、私を部屋の中へと通してくれた。そして、玄関にあらかじめ用意してあったのか、ふんわりと柔らかく温かいタオルを貸してくれる。一旦は「大丈夫です」と断ったが「風邪をひいたら大変だわ」と言われやや強引にタオルを押し付けられる。そして、優しい手つきで私の髪を拭いてくれた。誰かに髪の毛を拭かれたことがなかった私は初めての経験にどうしたらいいのかわからず、視線を彷徨わせ続けるしかなかった。
「うん、これでいいわね。さぁ、こっちへ来てちょうだい」
一通り雨水を拭き終えると女性は私の手を取ってリビングに案内する。「好きなところに座っていてね」と言い残すとキッチンの方へと消えていく。キッチンは私の家と同じようにリビングからでも見られるようになっており、女性がテキパキとお茶の準備をしているのが見えた。
その間、私は部屋の中を軽く確認する。
白いサークルのラグは新品のようにふわふわとして汚れひとつなく、その上に置かれた木製のテーブルの中心にはかすみ草が活けられていた。壁には幾つもの写真と賞状が飾られている。写真に写っているのは風間くんがほとんどで、賞状の数もあいまって小さい頃からピアノの世界で活躍していたことが伺えた。
ここが風間くんに取っての原点なのか。
そう考えると、私は何気にすごいところにお邪魔しているのではないかと思えてくる。
「これは全部、晴政が頑張ってきた証なのよ」
ぼうっと壁を見つめていた私の目の前に女性が陶磁器のティーカップを静かに置く。隣には数枚のクッキーが乗った小皿を置いて、にっこりと笑った。
「私は晴政のお母さんの優奈っていうの。よろしくね、可愛らしいお嬢さん」
「……あ、え、えっと、私は風間くんと同じ高校に通う旭川瑠夏って言います!」
優しい微笑みに見惚れていたせいで反応がすこしだけ遅れてしまったが、優奈さんは気にした様子は見せなかった。優奈さんも椅子に座るとティーカップを口元まで持っていく。優雅な手つきに生まれや育ちが現れており、優奈さんが生まれながらのお嬢様であることがわかる。
「晴政は私たちの自慢の息子なの。ずっと努力を惜しまず、妥協することもなかったの」
口元には笑顔を浮かべているのに、瞳はゆらゆらと揺れ、押し寄せてくる感情を無理やり押さえ込んでいるようだった。私はその瞳をどこかで見たことがあるような気がしたが、どこだったか思い出すことができない。
優奈さんは壁にかけられた思い出たちをしばらくじっと見つめた後、不意に私の方へと顔を向ける。
「瑠夏さんは今日は晴政に会いにきたのかしら?」
「……はい。その、怪我をしたって聞いて、何かできればいいなと思って」
「そう、ありがとうね。晴政もきっと喜ぶわ」
口元に微笑を浮かべたまま優奈さんは上を向く。きっとその視線の先に風間くんがいる部屋があるのだろう。私が視線を追いかけるように顔をあげると、シンとしたリビングに微かだがピアノの音が聞こえてくる。久しぶりに聞く風間くんの音はいつも聞いていた音と少しだけズレがあるように感じた。
「それじゃあ、晴政のところへ案内するわね」
音の違和感の正体を突き止める前に優奈さんが立ち上がる。私は慌ててお茶を飲み干すと、優奈さんの後ろをついて歩き出した。



