クマちゃん先生の言葉が、音として耳に入ってくるが、意味として理解できそうになかった。
私は間抜けにも「……え」と呟いて、その場でふらついた。磯貝先生が慌てた様子で私の体を支えてくれなければ、きっと崩れ落ちていたかもしれない。
風間くんが、ピアノを弾けない。
風間くんが、音楽を、何よりも大切にしていたピアノを失ってしまった。
私の脳裏に真っ暗な部屋でさめざめと泣くお母さんの姿がよぎる。
その後ろ姿が、なぜか私の前では一度も泣いたことのない風間くんの背中と重なって見えるようだった。そんなわけないのに。お母さんと風間くんが同じになるわけないのに。
「旭川……? 旭川!」
「……っ!」
自分のよくない思考に囚われたかけたところでクマちゃん先生が私の肩を軽く叩く。小さな衝撃は私の心を今に戻すのには十分だった。私は大きく目を見開きながら目の前のクマちゃん先生を見つめる。隣にいた磯貝先生も心配そうに私の顔を覗き込んでいて、私は咄嗟に顔を俯かせて隠した。
「すみません。ちょっと驚いちゃって」
「大丈夫ならいいのよ。それよりも顔色がだいぶ悪いわ。よかったらここに座って」
磯貝先生に手を引かれながら近くにあった椅子に座る。
「急なことで驚いてしまったのね。ゆっくり深呼吸をして……そう、ゆっくりと吸って、吐いて」
背中を上下に摩ってもらいながら私は磯貝先生の指示に従うように呼吸をした。痛いほど早く脈打っていた心臓は徐々に落ち着きを取り戻し、私の頭の中もようやくはっきりとしてくる。
「……風間くんに会いに行きたいんですけど、家の場所とかって教えてもらえませんか?」
「まぁ! 会いに行ってどうするつもりなの?」
「どう、って……お見舞いをしたいなって」
本当はお見舞いだけではなく、今一番苦しんでいるであろう風間くんをそばで支えなければと考えていた。お母さんのように風間くんが崩れていくとは思わないが、それでも苦しみを誰かと共有できたらきっと風間くんもすこしは楽になれるだろうと思った。だけど先生たちはあまりいい顔をしなかった。
クマちゃん先生は眉間に深い皺を作り厳しい顔をしており、磯貝先生も戸惑った様子を見せながら目尻を下げていた。私はなんで先生たちがそんな表情をするのかわからず首を傾ける。
「お見舞いはダメですか……?」
「ダメ、というわけではないけど……。今はあまりお勧めしないかな」
「どうしてですか? 辛い時にお見舞いに来てもらえたら、すこしは元気が出ると思うんですけど」
「うーん、でも、風間くんだからなぁ。もしかしたら逆効果になるかもしれないわ」
私の考えをやんわりと否定し続ける磯貝先生に私は不満な気持ちを押し隠す。磯貝先生はどうしても風間くんのことを今は放っておいてほしいと考えているようだった。私はチラッとクマちゃん先生の方を見て助けを乞う。その視線に気がついたクマちゃん先生は険しい表情のまま大きなため息を吐き、その音に無意識に体が揺れてしまった。
「旭川、お前が風間の元に行きたいのは純粋な心配からか? それとも同情からか?」
「……純粋に心配しているからなんですけど」
「そうか。なら行けばいいさ」
クマちゃん先生はそう言うと机に置かれたクラス名簿を開いた。その横で磯貝先生が「熊谷先生!」と非難の声をあげていたがクマちゃん先生は気にしていないかのように名簿を捲る手を止めない。
「行ってみればいいんですよ、磯貝先生。どうせ旭川も自分の目で確かめないと納得しないだろうから」
「でも、それじゃあ風間くんは……」
小さなメモ紙に名簿の中から見つけた風間の住所がスラスラと転記されていく。私はその様子を見つめながら先生たちの会話に耳を傾けた。正直に言えば、先生たちがどうしてそこまでお見舞いに行くことを止めるのかがわからなかった。ただ辛い思いをしている風間くんに会って、一人じゃないことを、何かあれば支えるということを伝えたいだけなのに。
しばらく磯貝先生はクマちゃん先生を睨んでいたが、やがて諦めたように肩を落とした。その頃には住所の転記も終わっており、クマちゃん先生は私に小さなメモ紙を渡す。そこに書かれた住所はこの町の中でも高級住宅が建ち並んでいるところを指していた。
私はクマちゃん先生に「ありがとうございます」と言おうとしたが、それよりも先にクマちゃん先生が口を開いた。
「旭川、一つだけ気をつけろよ。いいか、無責任な励ましや同情は相手を傷つけるだけだ。くれぐれも、風間の事情に踏み込みすぎるなよ」
真剣な表情をするクマちゃん先生だが、私がその言葉の意味を理解するのはもう少し後のことだった。



