ザアザアと窓を叩きつけるような激しい雨が降っている。この雨のせいで交通機関は遅延し、一限目が始まっているというのに登校している生徒たちはまばらだった。私は普段から自転車で通学しており、雨に濡れないように雨合羽を着て登校したが、案の定、雨合羽で覆えなかったところは雨でびしょ濡れになった。朝一番に整えた前髪は水に濡れたせいでボサボサになっており、またせっかく頑張って登校したのに授業が自習に変わったことで気分は落ちていく一方だ。
それでもなんとかいつもと同じ時間に教室に着いたのだが、今日もピアノの音は聞こえなかった。風間くんのピアノの音が途切れてしまってから早くて一週間が経とうとしていた。コンクールや演奏会の準備などが重なっているのだろうか、と考えてみるが、それにしてもこんなに長い間学校でピアノの音が聞けないのは初めてだったからすこしの不安がじわじわと心に広がっていく。
どんよりとした空に、雨が続いているせいもあるのだろう。風間くんのピアノの音がないと、どうにも調子が狂うようだった。失って初めて人は大切なものに気がつくと言うが、まさに彼の音楽こそ私にとって支えの一つになっていたことにようやく気がつく。
だけど、私は風間くんのクラスまで行って彼がいるかどうかを確認することはしなかった。というよりも、あとすこしの勇気が出なくてできなかった。
風間くんと私の関係を知っている人はおそらくいない。一緒に過ごすことの多い佳奈も、一々報告をしていないからきっと私たちの奇妙な関係は知らないはずだ。
誰も私たちの関係を知らないのに急にクラスに訪ねて行って、周囲の注目を浴びたくはなかったし、もしもそこに風間くんがいたら迷惑をかけるかもと思うとクラスにまで押しかける勇気は生まれそうにない。きっと風間くんなら周囲の視線など気にしたりしないのだろうが、どうしても私が気にしてしまうのだ。
風間くんのピアノを聴きたいと思うのに、自分の欲に従って行動できないのがもどかしいと感じる。当たり前のようにあったものが急になくなると人はこんなにも不安に襲われるものなんだなんと頭の片隅で思いながら、私は日直の仕事として日誌を職員室に届けに行っていた。
「……聞いたか、風間のこと」
職員室に向かう廊下ですれ違った男子生徒が他の生徒に向かって内緒話をするかのように声を顰めて囁いている。風間くんのことを考えていたからか、私にはその生徒の声が昼休憩の喧騒に包まれた廊下でもはっきりと聞こえてきた。私は死角になる位置で足を止めて男子生徒たちの会話に耳を傾ける。
「知ってるよ、あいつ、最近ずっと休んでるんだろ」
「そうだけど、それだけじゃないんだ」
「それだけじゃないって?」
話を振られた男子生徒は続きを促すように首を傾ける。もう一人の男子生徒は一瞬周囲を確認すると、より顔を近づけて声のトーンを落とした。
「……風間、事故ったらしい」
「まじかよ!」
話を聞いていた男子生徒が驚いて大きな声を上げると、周囲の生徒が何事かと振り返る。話をしていた男子生徒は「バカ! 声が大きい!」とそれ以上に大きな声で頭をパシンと心地いい音を響かせながら叩いた。
その後も二人は風間くんのことを話していたようだが、私の耳には一つも入ってこなかった。
風間くんが事故に遭った。
男子生徒の噂が真実かどうか確かめなければいけない、と思い踵を返して職員室に向かう。腕の中に抱えた日誌を手が白くなるほどきつく握りしめながら足早に進む。普段から廊下を走らないように気をつけていた私でも、この時ばかりは走らずにはいられなかった。
職員室に着くと私は勢いのまま扉を開ける。立て付けの悪い扉がガタガタっと大きな音を立て、中に居た先生たちの視線を一気に集めた。
「……旭川、そんなに慌ててどうしたんだ」
クマちゃん先生が目を丸くしながら私の方へと声をかける。私は早くなった呼吸を整えながら、クマちゃん先生に日誌を押し付け、隣に座る磯貝先生に駆け寄った。
磯貝先生は定年間際の女性の先生で、風間くんが在籍するクラスの担任だった。長い髪を首元で一つのお団子にまとめ、キリッとした鋭い目つきは一見すると厳しそうな印象を与えている。
「あらあら、どうしたの? 旭川さん、そんな慌てて」
だけど厳しそうな顔つきとは裏腹に、磯貝先生はとても優しい先生であった。額に汗を浮かべ息を整えている私に磯貝先生は困ったように眉を顰めている。
「授業でどこかわからないことがあったのかな? それなら、なんでも聞いてちょうだいね」
「……いいえ、風間くんのことです」
「……!」
私のそばでクマちゃん先生が息を呑む音がする。目の前に座る磯貝先生も驚いたようにすこしだけ目を見開いた。そして私の声が聞こえた先生たちの一部は何かまずいことでも聞かれたかのようにぎくりと体を硬くさせる。
先生たちのそれぞれの反応を見て、私は先ほどの男子生徒の噂話が間違いではないことを悟る。事故の程度はわからなくても、確実に風間くんに何かあったのだ、と先生たちの態度が物語っていた。
「すみません。風間くんが、ここ最近来てないみたいだったからちょっと心配で。磯貝先生の知っていることを教えてくれませんか?」
「……ごめんなさいね、旭川さん。でも、風間くんはきっと戻ってくるから。もう少し、待っていてあげれるかな?」
「…………風間くんが事故に遭ったっていうのは本当ですか?」
いつもの私なら先生に食い下がることなんてしなかっただろう。だけど、この時の私はどうしても本当のことが知りたかった。たとえ風間くんの身に何かあったとしても、私にできることなんて何もないとわかっていた。何もできないなら、黙って引き下がっておくほうが不要な衝突にならなくていいのに、私の口は勝手に開く。
「風間くんは大丈夫なんですか。命に関わるような怪我にはなっていませんか」
「旭川さん。一体どこでそんな話を……」
「そうだぞ、旭川。噂を聞いたんだろうが、風間の事情を勝手に詮索しようとするな。風間に失礼だろ」
「なら、どうして風間くんは学校に来ないんですか。どうしていつもみたいにあの音楽室でピアノを弾いていないんですか」
普段おとなしい私が先生たちに噛み付くように言い返してくるとは思っていなかったのか、クマちゃん先生も磯貝先生も驚いたように目を見開く。うまく誤魔化せばいいのに、二人とも思わず口を閉ざしてしまい、それが返って噂が本当だと裏付けているようだった。
「風間くんは……風間くんは、無事なんですか……!?」
スカートをぎゅっと握りしめる。しわが寄ってこのままだと跡がついてしまう、と分かっていても自分の湧き上がってくる感情をコントロールするためにはこうするしかなかった。せめて風間くんの無事を知りたいと思いながら先生たちの言葉を待っていると、先生たちは顔を見合わせる。
「旭川さん、ほら、手の力を抜いて」
「別に風間に命の別状はないんだ。だから、そんなに泣きそうな顔をするな、旭川」
磯貝先生に解くように手を握られ、クマちゃん先生はガシガシと自分の頭を乱暴に掻きむしっていた。先生たちの言葉に私は思わず「本当ですか……?」と聞き返す。
「ええ、本当ですよ。風間くんはもう少し復帰するまでに時間がかかりますが、ちゃんと学校に戻ってきますよ」
「そう、ですか……。よかった……」
力強い磯貝先生の励ましにほっと胸を撫で下ろす。自分が思っていた以上に私は風間くんのことが心配だったようだ。
「それにしても、旭川が風間と仲がいいなんてな。クラス、一緒になったことあるのか?」
「いいえ。でも、最近昼の休憩に風間くんのピアノを聴かせてもらってて。風間くんの音楽が本当に好きなんです」
先ほどとは打って変わって落ち着いた心で私は笑顔を浮かべる。頭の中では風間くんの優しくも力強いピアノの音が響いていた。
先生たちもすぐに返事をくれると思っていたのに、予想に反して二人は困ったように言葉を詰まらせていた。私が不思議そうに首を傾けると、クマちゃん先生が「あー」と言いにくそうに首の後ろを掻く。
「あー、そのなんだ……風間が学校に戻ってきても、あまりピアノの話はしないでやってくれ」
「え?」
「旭川なら言いふらすことないと思うから先に伝えておくが——」
言い淀みながらもクマちゃん先生は私から視線を逸らすことなくはっきりと言葉を紡ぐ。
「——風間はもう、ピアノが弾けないかもしれないんだ」
それでもなんとかいつもと同じ時間に教室に着いたのだが、今日もピアノの音は聞こえなかった。風間くんのピアノの音が途切れてしまってから早くて一週間が経とうとしていた。コンクールや演奏会の準備などが重なっているのだろうか、と考えてみるが、それにしてもこんなに長い間学校でピアノの音が聞けないのは初めてだったからすこしの不安がじわじわと心に広がっていく。
どんよりとした空に、雨が続いているせいもあるのだろう。風間くんのピアノの音がないと、どうにも調子が狂うようだった。失って初めて人は大切なものに気がつくと言うが、まさに彼の音楽こそ私にとって支えの一つになっていたことにようやく気がつく。
だけど、私は風間くんのクラスまで行って彼がいるかどうかを確認することはしなかった。というよりも、あとすこしの勇気が出なくてできなかった。
風間くんと私の関係を知っている人はおそらくいない。一緒に過ごすことの多い佳奈も、一々報告をしていないからきっと私たちの奇妙な関係は知らないはずだ。
誰も私たちの関係を知らないのに急にクラスに訪ねて行って、周囲の注目を浴びたくはなかったし、もしもそこに風間くんがいたら迷惑をかけるかもと思うとクラスにまで押しかける勇気は生まれそうにない。きっと風間くんなら周囲の視線など気にしたりしないのだろうが、どうしても私が気にしてしまうのだ。
風間くんのピアノを聴きたいと思うのに、自分の欲に従って行動できないのがもどかしいと感じる。当たり前のようにあったものが急になくなると人はこんなにも不安に襲われるものなんだなんと頭の片隅で思いながら、私は日直の仕事として日誌を職員室に届けに行っていた。
「……聞いたか、風間のこと」
職員室に向かう廊下ですれ違った男子生徒が他の生徒に向かって内緒話をするかのように声を顰めて囁いている。風間くんのことを考えていたからか、私にはその生徒の声が昼休憩の喧騒に包まれた廊下でもはっきりと聞こえてきた。私は死角になる位置で足を止めて男子生徒たちの会話に耳を傾ける。
「知ってるよ、あいつ、最近ずっと休んでるんだろ」
「そうだけど、それだけじゃないんだ」
「それだけじゃないって?」
話を振られた男子生徒は続きを促すように首を傾ける。もう一人の男子生徒は一瞬周囲を確認すると、より顔を近づけて声のトーンを落とした。
「……風間、事故ったらしい」
「まじかよ!」
話を聞いていた男子生徒が驚いて大きな声を上げると、周囲の生徒が何事かと振り返る。話をしていた男子生徒は「バカ! 声が大きい!」とそれ以上に大きな声で頭をパシンと心地いい音を響かせながら叩いた。
その後も二人は風間くんのことを話していたようだが、私の耳には一つも入ってこなかった。
風間くんが事故に遭った。
男子生徒の噂が真実かどうか確かめなければいけない、と思い踵を返して職員室に向かう。腕の中に抱えた日誌を手が白くなるほどきつく握りしめながら足早に進む。普段から廊下を走らないように気をつけていた私でも、この時ばかりは走らずにはいられなかった。
職員室に着くと私は勢いのまま扉を開ける。立て付けの悪い扉がガタガタっと大きな音を立て、中に居た先生たちの視線を一気に集めた。
「……旭川、そんなに慌ててどうしたんだ」
クマちゃん先生が目を丸くしながら私の方へと声をかける。私は早くなった呼吸を整えながら、クマちゃん先生に日誌を押し付け、隣に座る磯貝先生に駆け寄った。
磯貝先生は定年間際の女性の先生で、風間くんが在籍するクラスの担任だった。長い髪を首元で一つのお団子にまとめ、キリッとした鋭い目つきは一見すると厳しそうな印象を与えている。
「あらあら、どうしたの? 旭川さん、そんな慌てて」
だけど厳しそうな顔つきとは裏腹に、磯貝先生はとても優しい先生であった。額に汗を浮かべ息を整えている私に磯貝先生は困ったように眉を顰めている。
「授業でどこかわからないことがあったのかな? それなら、なんでも聞いてちょうだいね」
「……いいえ、風間くんのことです」
「……!」
私のそばでクマちゃん先生が息を呑む音がする。目の前に座る磯貝先生も驚いたようにすこしだけ目を見開いた。そして私の声が聞こえた先生たちの一部は何かまずいことでも聞かれたかのようにぎくりと体を硬くさせる。
先生たちのそれぞれの反応を見て、私は先ほどの男子生徒の噂話が間違いではないことを悟る。事故の程度はわからなくても、確実に風間くんに何かあったのだ、と先生たちの態度が物語っていた。
「すみません。風間くんが、ここ最近来てないみたいだったからちょっと心配で。磯貝先生の知っていることを教えてくれませんか?」
「……ごめんなさいね、旭川さん。でも、風間くんはきっと戻ってくるから。もう少し、待っていてあげれるかな?」
「…………風間くんが事故に遭ったっていうのは本当ですか?」
いつもの私なら先生に食い下がることなんてしなかっただろう。だけど、この時の私はどうしても本当のことが知りたかった。たとえ風間くんの身に何かあったとしても、私にできることなんて何もないとわかっていた。何もできないなら、黙って引き下がっておくほうが不要な衝突にならなくていいのに、私の口は勝手に開く。
「風間くんは大丈夫なんですか。命に関わるような怪我にはなっていませんか」
「旭川さん。一体どこでそんな話を……」
「そうだぞ、旭川。噂を聞いたんだろうが、風間の事情を勝手に詮索しようとするな。風間に失礼だろ」
「なら、どうして風間くんは学校に来ないんですか。どうしていつもみたいにあの音楽室でピアノを弾いていないんですか」
普段おとなしい私が先生たちに噛み付くように言い返してくるとは思っていなかったのか、クマちゃん先生も磯貝先生も驚いたように目を見開く。うまく誤魔化せばいいのに、二人とも思わず口を閉ざしてしまい、それが返って噂が本当だと裏付けているようだった。
「風間くんは……風間くんは、無事なんですか……!?」
スカートをぎゅっと握りしめる。しわが寄ってこのままだと跡がついてしまう、と分かっていても自分の湧き上がってくる感情をコントロールするためにはこうするしかなかった。せめて風間くんの無事を知りたいと思いながら先生たちの言葉を待っていると、先生たちは顔を見合わせる。
「旭川さん、ほら、手の力を抜いて」
「別に風間に命の別状はないんだ。だから、そんなに泣きそうな顔をするな、旭川」
磯貝先生に解くように手を握られ、クマちゃん先生はガシガシと自分の頭を乱暴に掻きむしっていた。先生たちの言葉に私は思わず「本当ですか……?」と聞き返す。
「ええ、本当ですよ。風間くんはもう少し復帰するまでに時間がかかりますが、ちゃんと学校に戻ってきますよ」
「そう、ですか……。よかった……」
力強い磯貝先生の励ましにほっと胸を撫で下ろす。自分が思っていた以上に私は風間くんのことが心配だったようだ。
「それにしても、旭川が風間と仲がいいなんてな。クラス、一緒になったことあるのか?」
「いいえ。でも、最近昼の休憩に風間くんのピアノを聴かせてもらってて。風間くんの音楽が本当に好きなんです」
先ほどとは打って変わって落ち着いた心で私は笑顔を浮かべる。頭の中では風間くんの優しくも力強いピアノの音が響いていた。
先生たちもすぐに返事をくれると思っていたのに、予想に反して二人は困ったように言葉を詰まらせていた。私が不思議そうに首を傾けると、クマちゃん先生が「あー」と言いにくそうに首の後ろを掻く。
「あー、そのなんだ……風間が学校に戻ってきても、あまりピアノの話はしないでやってくれ」
「え?」
「旭川なら言いふらすことないと思うから先に伝えておくが——」
言い淀みながらもクマちゃん先生は私から視線を逸らすことなくはっきりと言葉を紡ぐ。
「——風間はもう、ピアノが弾けないかもしれないんだ」



