たとえ世界が音を失ったとしても

 しばらく自室で過ごしていると、お母さんがキッチンの方から私のことを呼んだ。私は重い腰を上げてお母さんの元へと向かうと、お母さんは時計と玄関の方を交互に見つめながら「お父さん、今日は遅いのかしら」と焦ったように呟いた。そんなお母さんに私はこのパターンか、と思いながらかける言葉を失う。

「瑠夏、お父さんが帰ってくるまで少し待てる? どうせなら一緒にご飯食べたいじゃない。もう少し待てば、お父さん帰ってくるかもしれないし……」

 困ったように頬に手を添えながら首を傾けるお母さんに私は素直に頷こうとして失敗した。


 どれだけ待ってもお父さんは帰ってこないのに。


 そう考えて、一瞬返答に悩んでしまったことで、いつも通りの返事ができなかったのだ。たった少し隙をお母さんは見逃さず、先ほどまでの上機嫌な様子から一変し、鋭い目つきで私のことを睨みつける。

「お父さんのこと、待てないの? ちょっとのことなんだから、少しは我慢しなさい!」

「いや、そういうわけじゃなくて……」

「だいたい瑠夏、あなたはいつだって自分勝手なんだから。少しは相手の気持ちを考えたらどうなの! お父さんだって、疲れて帰ってくるんだから、少しくらい労う気持ちを持ってあげてもいいじゃない!」

「お、お母さん、落ち着いて……!」

「あなたがそうやって自分勝手にするから、お父さんも嫌気がさして早く帰って来ないんじゃない!」

「わ、私が悪かったから……お母さん、お願い…………」


 怒りに我を忘れかけているお母さんは怖い顔で私の方に詰め寄ってくる。そんなお母さんから逃げるように下がれば、すぐに壁にぶつかってしまう。憎しみのこもった視線が、私のことを見下ろしていた。その視線からは『お前のせいだ』という怖い声が聞こえてくるようだった。私を責め立てる声に頭が真っ白になりながら視線を足元に向け、お母さんにひたすら謝る。


「……っお母さん! ご、ごめんなさい、だから——」

「瑠夏のせいで、お父さんがこの家から出ていっちゃったんじゃない!」


 ハッとして顔を上げれば、お母さんはボロボロと子供のように泣きじゃくっていた。現実逃避をするようにお父さんの幻影を追いかけ続けていたお母さんが、この瞬間、ようやく現実を思い出したのだ。お母さんは何度も「瑠夏のせいよ」と私のことを責め続ける。私は耐えるようにグッと唇を噛み締めると手に力を込めた。

 お父さんが出ていったのは紛れもなくお母さんのせいなのに、お母さんはそのことを受け入れられていなかった。それどころか、私に責任を押し付けて、自分は都合よく現実から逃げる。私の人生はお母さんの言動に左右され、ちっとも自分で決めて歩くことはできなくなっていた。

 泣きじゃくるお母さんを前に私の心は急速に冷めていく。泣きじゃくるお母さんは私のことなんて見ていないとわかっていたから、私はお母さんにとって都合のいい娘を演じるのをやめる。そして、窓の方へと視線を向けて遠い空を虚な瞳で見つめた。

 夕暮れの空を眺めながら、なぜか無性に風間くんのピアノが聴きたいと思ってしまった。

 私が耳に残ったピアノの音を追いかけるように窓に向かって手を伸ばせば、それに気がついたお母さんがその手を叩き落とす。痛みで顔を歪めれば、お母さんは焦ったように何度も私に謝ってくる。


「瑠夏も、私のことを置いていくの……?」


 涙で濡れた瞳が不安げに揺れている。私はお母さんの顔を見て、口からこぼれそうになった本音を飲み込むと、また笑顔を貼り付けた。


「置いていかないよ、お母さん。私はいつだって、お母さんの味方だから」

「そう、そうよね。瑠夏は優しくて自慢な娘だもの。あの人みたいに私を置いて行ったりなんてしないわよね」


 安心したように涙を拭うお母さんを見ながら、私は自分の心の蓋を一生懸命に抑え続ける。



 これでいい。

 これでいいんだ。



 お母さんの望んだようにいい娘であれば、きっとお母さんは私を見捨てないはずだから。



 そんなことを頭の中で考えつつ、これじゃあどっちが依存しているのか分からないな、と苦笑いを浮かべる。お母さんと違って私は状況を正しく理解している分、余計にタチが悪いのだろう。わかっていても今更本当の自分を表に出す勇気はなかった。


 仮初だったとしても、本心を表に出さなければ、本当の自分が傷つくことはないと思ったから。


 泣き疲れたのかお母さんは私の分のご飯を机に並べると「先に休むね」と言って寝室へと向かった。一人リビングに取り残された私はお母さんの姿が完全に見えなくなってからようやく詰めていた息をゆっくりと吐き出す。湯気のたちのぼる味噌汁と白いご飯。お父さんが好きだったアスパラベーコンが花柄の皿の上に乗っている。この食卓に並ぶのはお父さんの好物ばかりで、声も笑顔も忘れたのにお父さんの面影だけはいつまで経っても消えることはなかった。

 私は小さな声で「いただきます」と手を合わせると一人でご飯を食べ始める。ご飯は水っぽいし、味噌汁もアスパラベーコンもしょっぱかった。一生懸命作ってくれたお母さんには悪いが、お世辞にも美味しいとは言えないご飯を私は必死に喉の奥へと押し込む。

 どれだけ一生懸命でも、結果が伴わなければ結局意味なんてないのだな、と不出来な料理とお父さんがいない現実を見比べてそう考えた。


「……今日は風間くんのピアノ、聴けなかったなあ」


 無意識にこぼれた呟きはすこしの寂しさを含んでいた。風間くんの心のこもったピアノを聴くのが毎日の日課になっていたからか、全く彼のピアノの音を聴かない日は珍しいといってもよかった。風間くんは早退することはあっても、毎日欠かさず登校はしている。大抵は朝に学校にいることが多く、朝の人の少ない学校で一分とも無駄にできないというように繰り返し同じ練習を続けているのだ。

 本校舎から音楽室で練習する風間くんを見てきたからこそ、私はそのことをよく知っていた。


「明日になったら、風間くん、いつもみたいにピアノを弾いてくれるかなぁ」


 徐々に冷めてきたご飯を口に運びながら、そんなことを呟く。その呟きは誰に拾われることなく。




 そして、明日になっても風間くんは学校にやってこなかった。