たとえ世界が音を失ったとしても

 カラスが鳴いていた。

 雨上がりの地面に水たまりがいくつもできていて、登校中の私はたまたまそれを踏んでしまい靴下が濡れてしまった。

 その割に、その日は照りつけるような太陽が空に輝き、いつもより空が近く感じた。

 友達といつも通り楽しく話して、いつも通り勉強や部活に勤しんだ。

 代わり映えのしない日常を送って、ふと私は窓の外を見つめる。

 自由に空を飛ぶカラスが羨ましかったのかもしれない。
 眩しく光る太陽に恋焦がれたのかもしれない。
 何も変わらない日々に退屈していたのかもしれない。

 私は窓辺からゆっくりと身を乗り出した。あとすこし。もう少しでその鳥を掴めそうだと思った時、私の体は後ろへ思いっきり引っ張られた。

 黒い絵の具を溶かしたような瞳。何にも染まらない黒曜石のような色持つ彼が私をじっと見ていた。


「そんなことをしても空には届かないぞ」

「……あはは、確かにそうだね」


 私は不意に泣きたくなる気持ちを必死に隠しながら笑みを浮かべる。彼は気に食わなさそうに鼻を鳴らすと、音楽室に置かれたグラウンドピアノの前に座った。

 鍵盤のカバーを開けて、そっと手を添える。

 彼の手から紡がれる音は、胸の奥の古傷をそっと撫で回すような旋律だった。泣き出したくなるほど美しい音色は私のぐちゃぐちゃになった心に形を与えて、一人じゃないと伝えてくれていた。

 彼が生み出す音の世界はひどく鮮やかに映って見えて、ほんの少しだけ憎たらしかった。