華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

「寧々様、お届け物がございます」

朝食が終わり自室に戻ると、侍女の志乃が、大きな包みと封筒を抱えて寧々のもとへやってきた。その後ろには、届け物の検分を任された長十郎も控えている。

上屋敷へ持ち込まれる品は、すべて改めを受ける――影丸はそう言っていた。寧々宛ての届け物であっても例外ではなく、書状ですら中身を確認される。

封を開くと、源三からの文だった。

「寧々、元気でやっておるか。
寧々が嫁いでからというもの、同心の男どもはすっかりやる気を失くしてしもうたようだ。発破をかけてはおるが、今さらながら、おぬしの人望を思い知っておる。
ところで、一橋家での暮らしはうまくいっておるか。悩みがあれば、書状の一通でもよこせばよい。
それから、ささやかながら差し入れを送る。同心たちの手柄じゃ。ありがたく頂くがよい」

寧々は読み終わった書状を丁寧に折り畳み、そっと懐へしまった。

「では、改めさせていただきます」

長十郎が風呂敷を広げると、中には包み紙で幾重にも包まれた塊があった。紐をほどき、包みを開くと、現れたのは大ぶりな肉の塊だった。

寧々は身を乗り出し、すん、すん、と鼻を鳴らす。

「猪肉の燻製でございます」

その香りを嗅いだ途端、寧々の胸は密かに躍った。しかし、長十郎は対照的に眉をひそめる。

「むぅ……心遣いはありがたいが、外から持ち込まれた食べ物、それも動物の肉を口にするなど、危険極まりないことだ」
「食べ物ではございませぬ。薬でございます。猪肉を用いた滋養強壮の薬にございます」

肉食は江戸幕府によって忌避されていたが、薬用として口にすることは認められていた。

「保存も利きます。せめて、ご一考だけでもお願いしたいです」
「このまま捨ててしまうのも忍びない。だが、畑の肥やしくらいにはなるだろう」
「畑の肥料……?」

思わず聞き返した声は裏返っている。

長十郎が「うむ」と肯くや否や、寧々は弾かれたように肉へ飛びついた。包み紙を手早く巻き直すと、誰にも渡すまいと胸に抱え込み、そのまま懐へ押し込める。

「これは私が責任をもって、余さず己の肥やしにいたします!」

ぎゅっと包みを抱えたまま一歩後ずさる寧々は、まるで獲物を奪われまいと身構える獣そのものだった。

あまりに頑なな寧々の態度に、長十郎は呆れたように肩をすくめた。

「……そこまでされると、取り上げるほうが悪者のようではないか」

そうして結局、猪肉の処遇は寧々に任されることとなったのである。

★

誰もいない自室で、寧々は行灯に火を灯した。

部屋は静まり返り、梢の音だけが微かに聞こえる。寧々を見下ろすように広がる影が揺らめいている。

寧々は懐から源三の書状を取り出し、静かに広げた。

文面の下には、不自然なほど広い余白が残されている。その余白を行灯の火へゆっくりとかざす。

白い紙が熱を帯び、何もなかったはずの余白に淡い茶色い文字が浮かび上がる。一文字、また一文字と。

炙り出しによる密書――源三の筆跡だった。

『──同業の情報によると、幕府の大老、井伊直弼が家茂公の正室を探し始めているらしい。
家茂公は第十四代将軍となったとはいえ、まだわずか十三歳。もしおぬしが娘を授かったならば、いずれ家茂公へ嫁がせることもできるやもしれぬ』

その一文を目にしたとき、寧々の胸に鈍い痛みが走った。

寧々に課せられた使命――それは、主上の命により、幕府から政の実権を奪うこと。すなわち、江戸幕府を内核から崩すことである。

子が将軍の正室となれば、奥向きから政に影響を及ぼすことも不可能ではない。

だが、そのために、望まぬ相手へ娘を嫁がせる前提で子をもうけるなど、あまりにも酷なことに思えた。

寧々は、いつの間にか呼吸が浅く、早くなっていることに気づいた。

――影丸なら、何と言うだろう。

ふと、そんな考えが胸をよぎる。

寺を巡った日の夕暮れ以来、影丸とは挨拶を交わす程度で、まともに言葉を交わしてはいない。

あの日、心が弱っていた寧々は、影丸の背に顔を埋め、声を殺して涙を流した。自分でも知らなかった弱さを、すべて見られてしまったような気がした。

あのときの温もりを思い出すたび、胸の奥が微かに熱を帯びる。

大きな手の感触。背中から伝わる体温。それは、どれほど時が過ぎても消えることなく、寧々の心の奥に残っていた。

迷い、苦しみ、心が揺れるたび――影丸の面影が、まるでそこにいるかのように蘇ってくるのであった。

★

さて、送られてきた猪肉の燻製を、一体どこへ保管すればよいのか――。

せっかく祖父から届けられた大切なものだ。粗末には扱いたくない。

肉の塊を抱えたまま、寧々は上屋敷の中をあてもなく歩き回っていた。

ふと、廊下の先の和室から微かな気配を感じた。見ると、一人の女性が厳かな所作で神棚へ向かい、手を合わせている。

神棚には、毎朝新しい水と榊が供えられている。寧々は以前から、その細やかな心遣いに気づいていた。

そこにいたのは、祝言の折に挨拶へ訪れた女性、徳信院だった。寧々は気持ちを整えると、徳信院へ向き直った。

「すみません、徳信院様。少々お尋ねしたいことがございます」
「あら、寧々。どうなされたのでしょう」

徳信院は穏やかな笑みを浮かべる。その優しげな表情に、寧々の張り詰めていた心が少し緩んだ。

「祖父から送られてきた、大切なものがございます。大事に保管できる場所はございませんでしょうか」

遠慮がちに尋ねると、徳信院は少し考えるように首を傾げた。

「大切なもの……でしたら、こちらはいかがでしょう」

そう言って、神棚の観音開きの扉をそっと開いた。その中には、灰白色の母岩に、鮮やかな紅色の結晶がいくつも顔を覗かせていた。

まるで宝玉のような輝きで、寧々は思わず息を呑んだ。

「綺麗……。これは、何という石なのですか」
「縁起物の石と聞いております。紅玉ではないかしら」

徳信院は曖昧に微笑む。

「大切なものでしたら、この隣に置いておけば、きっと失くすことはありませんよ」

どうやら、徳信院は寧々の言う“大切なもの”を、宝石や宝物の類だと思ったらしい。寧々は慌てて首を横に振った。

「いえ……その、大切なものというのは……」

一瞬ためらった後、正直に告げる。

「猪肉の燻製なのです」
「……え?」

徳信院は目を丸くした。

「肉の……燻製?」

そして、しばし沈黙した後、口元に手を当てて小さく笑った。

「あら、そうでしたか。それは神棚には少々不釣り合いな貴重品ですね」
「ええ。まあ……私にとっては、確かに貴重品なのですが」

一橋家へ嫁いでから、猪肉を口にしたことは一度もない。あの濃厚な味わいを思い出すだけで、自然と頬が緩みそうになる。

「元は生き物の命ですもの。粗末に扱えば、罰が当たりますね」
「はい。昔の仲間が狩ってくれたものなんです」

寧々は、再び神棚の中の石へ目を向けた。灰白色の石から伸びる紅い結晶は、神聖な力を宿しているようにも見える。

もし、この石に本当に呪いを退けるほどの力があるのなら――。

そう願わずにはいられなかった。

「でも……どうして、この石は神棚の中にしまわれているのですか」

尋ねると、徳信院は少し声を落とした。

「光に当てると、効力が失われてしまう石だと聞いております」
「光に当てると……効力がなくなる?」

寧々は眉をひそめた。

そんな宝石の話は聞いたことがない。宝玉というものは、むしろ光を受けてこそ美しく輝くものではないのか。

寧々が疑問を抱いた、そのときだった。徳信院が、ふと思い出したように両手を打ち鳴らした。

「そうでした。保管場所のことでございましたね」

徳信院は柔らかく微笑む。

「土蔵がございます。あそこなら涼しく、保存には向いているでしょう。ご案内いたします」
「そうですか。よろしくお願いいたします」

寧々は胸に抱いた包みを大切に抱え直した。

案内された土蔵は、厚い土壁に囲まれた重厚な造りだった。

扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ出てくる。あたたかな光が差す庭とは別世界の、静かで薄暗い空間だった。

壁際には刀剣や甲冑、古い調度品が整然と並べられ、その奥には数多くの書物が収められている。

「書物を拝見してもよろしいでしょうか」
「構いませんよ。ただし、持ち出される際には、侍女を通して私に一声かけてくださいませ」
「承知しました」

寧々は並べられた書物へ目を向けた。

一冊ずつ丁寧に埃を払いながら、表紙に記された文字を追っていく。古い随筆や伝記もあったが、寧々が興味をそそられたのは『本草書』であった。

『本草書』は薬となる植物、動物、鉱物について記された書物である。頁を開くと、そこには、薬の調合について記された一節があった。

『柳の葉を煎じて飲むべし。土瓶にて煎じたる苦茶は、熱を下げ、痛みを和らげる効がある』

その文字を見た瞬間、幼い頃の記憶が蘇った。熱を出して寝込んだ時、母が飲ませてくれた苦い茶。

幼い寧々は顔をしかめながら飲んだものだった。だが、不思議なことに、その後は次第に熱が引き、身体が楽になっていった。

元気を取り戻した後、母に尋ねたことがある。

「あれは柳の葉を煎じたものなのよ」

母はそう教えてくれた。そして、もうひとつ。

「でも、たくさん飲んではいけませんよ。量を違えれば、薬も毒になるのですから」

優しかった母。けれど、間違いを許さぬ厳しさも持っていた母。その声が、今も耳の奥に残っている。

寧々は静かに顔を上げた。

「この本をお借りしてもよろしいでしょうか」
「構いませんよ。どうぞお持ちになってください」
「ありがとうございます」

寧々は土蔵の隅へ猪肉の燻製を丁寧に置き、かわりに本草書を胸に抱く。

まるで母の記憶を抱きしめるかのように。

★

本草書は、薬学や地学に関する知識が詰まっており、寧々にとって興味の尽きない書物だった。一頁、また一頁と読み進めるうち、すっかり夢中になっていた。

そのため、人の気配が近づいていることに気づくのが遅れた。

「失礼いたします」

はっとして振り返ると、襖の向こうで毒見役の夢桜が正座をしていた。

寧々と目が合った瞬間、夢桜は口元に笑みを浮かべる。そして、まるで獲物を狙う猫のように、音もなく近づいてきた。部屋へ入るなり、すっと襖を閉める。次の瞬間――。

「寧々様ーっ!」

夢桜は勢いよく寧々の目前へ滑り込んだ。

「本がお好きでいらっしゃるなら、こちらなどいかがでございましょう。あちきが選んだ、とっておきの一冊でございますよ」
「とっておきの本……?」

夢桜が差し出した一冊を、寧々は受け取った。表紙には、重々しい筆致で題が記されている。

『夜の戦 四十八手全巻』

四十八手――。

その名からして、体術に関する秘伝書に違いない。

寧々は表紙を眺めながら考える。

これほど堂々とした題名の書物だ。きっと、知られざる技や戦術が記されているに違いない。

だが、同時に疑問が湧いた。

なぜ、侍女である夢桜が、わざわざこのような体術の書を自分へ?

まさか――。

夢桜は、自分が一橋家へ潜り込んだ隠密であることに気づいたのではないか。そして私に探りを――?

正体を悟られるような失態はしていないはずだ。けれど、相手が同業であれば、わずかな仕草や違和感から見抜かれる可能性もある。

そう考えると、夢桜の明るい笑顔さえ、そら恐ろしく感じる。背中に冷たい汗が浮かぶ。

寧々は最大限の警戒を保ったまま、夢桜の動きを見つめる。夢桜は躊躇なく本の表紙に指をかけた。

「では――ご開帳でございます!」

勢いよく開かれた頁。そこに描かれていたのは、二人の男女が組み合う姿だった。

それは体術の指南書などではない。男女の秘め事を描いた、艶画の類だった。

「なっ……なんですか、これは……!」

寧々は思わず紅潮した顔を背ける。その反応を見て、夢桜は楽しそうに笑った。

「あら、寧々様。ところで……殿との夜伽のほうは、いかがでございましょうか?」
「えっ……!? そ、それは……まあ、ほどほどに……」
「あちきが気になりますのは……殿のほうが、ご満足いただけておるかどうかということです」
「そ、それは……私には何とも分かりませぬ……」

突然の問いに、寧々は必死に言葉を選ぶ。

夜伽は免じられているが、それは慶喜の命を受け、呪いの真相を探っているからである。誰が敵なのか分からぬ状況で、そのことを悟られるわけにはいかない。

しかし――。

「あらまあ、まさか殿にすべてお任せしておいでではございませんよね? 夜のひとときは、こちらから仕掛けることも大切にございます」
「じ、自分から、仕掛けるのでございますか!?」

寧々は目を二倍に見開いた。

男女の営みとは、ただ相手に身を委ねるものだと思っていた。それなのに、自ら動き相手を導くなどという考えは、まったく持っていなかった。

まさか、この『夜の戦 四十八手全巻』とは――。

夜伽における技の数々を記した秘伝書なのではないか。

羞恥心に抗い、恐る恐る頁へ目を落とす。そこには、寧々の知らない床の世界が広がっていた。

ああ、夜の戦とは、かくも奥深いものなのか。

寧々は衝撃を受けた。しかし同時に悟る。

この技を知らずして、一橋家の奥方として務めを果たすことはできないのではないか。

逡巡は一瞬だった。寧々は息を整え、姿勢を正し、夢桜へ向き直った。三つ指をつき、深々と頭を下げる。

「夢桜師匠……どうか私に、その秘技をご伝授ください」
「夜伽で殿方のお心を満たすには、それ相応の心得と鍛錬が要るものでございますよ」

夢桜は胸を張った。

その堂々たる姿に、寧々は元遊女として培った技術への誇りを感じ取った。

「気持ちはすでに固まっております、師匠」
「覚悟さえ決まれば、遊里で鍛えたこのあちきが、責任をもってお教えいたします」

寧々にとって、夜伽はもはや戦であった。

床の間の戦いは、桶狭間の戦いよりもはるかに過酷なものに思えた寧々なのであった。

★

「それでは、次は流鏑馬という型でございます」

夢桜は寧々を相手役に見立て、自ら動きを示してみせた。寧々は真剣な表情で、その一挙一動を観察する。

「お、奥方は……このような姿勢で相手に向かわれるのですか……」

あまりにも想像とかけ離れた動きに、寧々の頬が赤く染まる。

「私には、到底できるとは思えません……」
「まあまあ、最初から上手くできる者などおりませんよ。何事も精進次第でございます」

夢桜の励ましを受けながら、寧々は必死に型を覚えようとしていた。

「それから、この姿勢から足を使うことで、宝船という技へ移ります」
「もう……刺激が強すぎます。翌日には身体が動かなくなってしまいそうです」
「そんなことはございません。あちきもこうして無事に務めを果たしてまいりましたから」
「師匠は……数々の試練を乗り越えてこられたのですね」
「もちろんでございます。生き残るためには、身につけねばならぬ技もございますから」

夢桜はそう言うと、いくつかの型の実演を終え、畳の上へ仰向けになった。

「では次は、寧々様が今のあちきを手本にして、組み合いの実践をなさりましょう」
「わ、分かりました。それでは失礼いたします……」

寧々は慎重に夢桜の上に跨り、夢桜の示した型を再現しようとした。

その瞬間――。

襖が勢いよく開いた。

「「――っ!」」

二人が振り向くと、そこには険しい形相をした影丸が立っていた。

まさか、このような恥ずかしい姿を見られるとは思わなかった。

寧々の顔は一瞬で真っ赤になる。

「おぬしら……一体、何をして――」

影丸が眉をひそめて問いかけた、そのときだった。

寧々は反射的に夢桜の襟を掴んだ。鍛錬で身につけた動きが、とっさに出る。

「てええいっ!」

次の瞬間、夢桜の身体は大きく宙を舞った。

「きゃあっ!」

身体が反転し、背中から畳に叩きつけられた。

「あいたたた……」

夢桜は首をさすりながら、ゆっくりと起き上がった。しかし寧々は夢桜には構わず、すぐに身を正し、影丸へと向き直る。

「ただいま、技を習得していたのでございます!」

寧々は真剣な顔で続けた。

「いざ敵が攻め込んできた折、自分の身を守れるようにと、鍛錬していたのです」
「……変わった鍛錬もあるものだな」
「はい。近頃、新たに生まれた柔術にございます!」

しばしの沈黙が流れた。

影丸は何か言いたげな顔をしていたが、やがて気を取り直す。

「それは構わない。だが――」

影丸の表情が険しくなる。

「実は、厄介なことになった」
「え……?」

寧々と夢桜は同時に影丸を見る。その顔には、いつもの余裕は浮かんでいない。

影丸は夢桜へ一瞬視線を向けた後、寧々へ向き直る。

「美賀子様までもが、呪いにかかったらしい」
「……え? 呪い……ですか?」
「ああ」

その一言で、部屋の空気が凍りついた。寧々の表情も否応なしに強張る。

美賀子までもが倒れた。

それは、呪いにまつわる一連の出来事が、さらに深刻な段階へ進んだことを意味しているに違いなかった。