華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

西の空が茜色に染まり、日本橋川の水面がゆらゆらと赤く揺れている。日本橋の街並みは、朝とはまた違った活気に包まれていた。

行灯(あんどん)に火が灯り、光と影が入り混じる幻想的な時間。仕事帰りの職人、買い物を終えた町人、芝居帰りの男女が行き交い、食事処からは人々の笑い声が漏れている。

乾いた秋風が吹き抜け、寧々は小さく身震いした。

「冷えてきましたね」
「冬が近づいているな」

目に留まった蕎麦屋の屋台には、湯釜が据えられ、白い湯気が絶え間なく立ち上っている。鰹節の香ばしい匂いが、夜の通りに流れていた。

「それでは、ここにしましょうか」
「……本当に、ここでよいのか」
「私は構いませんよ」

屋台の客は皆、男ばかりだった。着物には仕事の汚れが残り、ほのかに汗の匂いが漂っている。

しかし寧々は、同心たちとの稽古場を思い出していた。荒々しくも活気のある空気はどこか懐かしさがあり、決して嫌なものではなかった。

二人は屋台の腰掛けに腰を下ろした。寧々は端の席を選ぶ。

「かけをふたつ、頼む」
「あいよっ。旦那の奢りかい?」
「当然だ」
「気前がいいねぇ」

店主は寧々を一瞥して笑みを見せたあと、手際よく蕎麦を湯にくぐらせる。濃いめのつゆを張った丼へ、滑らかな麺を落としていく。

「へい、お待ちい」

目の前に置かれた熱々の蕎麦を見て、寧々の瞳が輝いた。

立ち上る湯気。その温かな熱気を感じるのは、久しぶりのことだった。

「では、いただきます!」

箸を取り、両手を合わせる。麺を口へ運ぶと、鰹の出汁と醤油の塩味が一気に広がった。夢中になって蕎麦をすすり、噛みしめる。

「美味しい……! やはり蕎麦というものは、熱々のつゆに浸かってこそ、真価を発揮するものですね」

影丸は、庶民の食べ物などと少し訝しげな顔をしていた。

だが、一口すすった瞬間――その動きが止まった。

「……何だ、これは」

目を見開き、丼の中を見つめる。

「旨い! 際立つ鰹節の香り、それに心地よい麺の歯触り。今まで味わったことがないほどの極上の蕎麦だ!」
「ふふ、そうでしょう」
「くっ……やるな。庶民の食文化が、ここまで進んでいたとは……」

屋敷では毒味が必要なため、出されるのはつけ蕎麦ばかりだった。ましてや、できたての熱いかけ蕎麦など、ほとんど口にしたことがなかった。

影丸は衝撃を受けたようで、夢中になって蕎麦をすすっている。庶民育ちの寧々は、その様子を見て自然と頬が緩んだ。

「ほら、来てよかったでしょう? 立ち寄るのを渋っていたご自分を、少しは反省してください」
「待て、どこの誰が渋っていたというのだ」
「さては記憶喪失なのは、影丸のほうではございませんか」

周囲の客たちは、駆け抜けるような勢いで蕎麦をすすり終えると、十六文を置いて次々と立ち去っていく。

しかし、寧々と影丸だけは、急ぐことなく蕎麦の味を楽しんでいた。そのため、いつしか後ろには数人の待ち客ができていた。

寧々は背後に立つ男たちの視線に気づいた。

一人は巨漢の男で、その後ろには、小柄な男が二人付き従っている。三人は明らかに苛立ちを隠せず、落ち着きなくこちらを見ていた。

「兄貴ぃ、やけに長居している奴らがいますぜ」
「蕎麦ってのは、さっと食って立ち去るのが粋な江戸っ子ってもんだ。あいつらは何も分かっちゃいねえ」
「そもそも、ここは女が来るような場所じゃねえですよね」

わざと聞こえるように吐き捨てる。聞いた寧々と影丸は、ちらりと目を合わせ小声で話す。

「千載一遇の機会です。あんな者たちのことなど、気にする必要はありません」
「そうだな。この極上のつゆを残すなどという罪だけは、犯すわけにはいかぬ」

影丸は両手で丼を持ち、残ったつゆをすすった。

寧々もまた、つゆに沈んだ最後の蕎麦を丁寧に探りながら、口へ運んでいく。その間も、寧々は背後の男たちに神経を尖らせていた。

すると――。

巨漢の男が、ついに堪えきれなくなったように低い声で唸った。

「喋ってる暇があるなら、さっさと口を動かしやがれ。この若造と小娘が!」

突然、男の大きな手が、ぬっと寧々の首元へ伸びてきた。その指が、小袖の襟を掴む。

そして、わずかに――寧々のうなじへ触れた。その瞬間――。

男の手は、乾いた音を立てて弾き飛ばされた。まるで何かに打ち払われたように、寧々の襟元から離れていく。

男は何が起きたのか理解できず、目を見開いた。ゆっくりと寧々を見下ろすと、そこには先ほどまでと変わらぬ姿で蕎麦屋に座る娘がいた。

ただ、その瞳は鋭く、冷たい光を宿して男を突き刺している。

次の瞬間――。

巨漢の顔から血の気が引いた。

「う……うおっ……うおおっ!」

腹を押さえ、苦悶の声を漏らしながら後ずさる。

二歩、三歩。足元がおぼつかなくなり、その巨体がゆっくりと傾いた。そして、どすん、と地面に崩れ落ちる。

「げほっ……!」

湿った音とともに、胃の中のものが吐き出された。周囲から小さなどよめきが起こる。

男の手を払いのけた刹那、寧々の中節突きが、正確にみぞおちを穿っていた。あまりにも速く、誰の目にも映らなかった。

「お、おやびん!?」

取り巻きの男たちは慌てて巨漢へ駆け寄る。しかし寧々は、何事もなかったかのように、箸を休めず蕎麦をすすり続ける。

異様な雰囲気に気づき、影丸は丼を置いて振り返る。そして、倒れた男たちを冷めた目で眺めた。

「何だ、こいつ。こんなところで卒倒するなんて」
「おそらく、昼間から酒でも飲み過ぎたのでしょう」
「まったく……吐くなら(かわや)へ行け。飯の途中だというのに、気分が悪い」

その言葉に、取り巻きの一人が顔を真っ赤にして食ってかかった。

「親分は飲んでねえぞ! この女が親分に何かしやがったんだ!」
「汚い手を払っただけでございます」
「汚い手だと!?」

男の顔が醜く歪む。

「てめえ、何様のつもりだ!」

怒りに任せ、男は寧々へ手を伸ばした。その狙いは、結わえた髪だった。

「きゃっ! 何をするんですか!」

寧々はとっさに身をかわし、席を立って距離を取る。

すぐさま、影丸が二人の間へ割って入った。

「貴様、往来で女に手を出すとは、随分と粋な真似をするものだな」
「何だ、威勢のいい若造が。女に格好いいところでも見せたいってところか」

男は影丸の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。だが、影丸は一瞬で男の手首を取り、素早く捻り上げて動きを封じた。

「いててててっ! 何しやがる! 放せ、放せってんだよ!」
「この娘に因縁をつけた代償は、高くつくぞ」

影丸は刃を差し向けるようにそう告げ、手を離したと同時に男の背中を蹴り飛ばした。

男は勢いよく前へつんのめり、足元にあった親分の吐瀉物に足を滑らせる。そのまま巨漢の背中へ倒れ込んだ。

「ぐえっ!」

巨漢は蛙が潰れたような声を上げた。

影丸は素早く懐から銭を取り出し、屋台の台へ置く。

「釣りはいらぬ」

店主が目を丸くした。置かれた銭は、一朱銀だった。

残った一人の男が、憎々しげに影丸を睨みつけた。

「てめえ……舐めやがって」

男は懐から小刀を抜く。その瞬間、周囲の町人たちから悲鳴が上がった。

「怪我をしたくなかったら、詫びとして残った金を置いていきな」

皆、巻き込まれぬように後ずさる。影丸は反射的に左腰へ手をやったが、今日は刀を持っていない。

男は小刀を構え、じりじりと近づいてくる。

寧々は拳を握った。人目さえなければ、すぐに制圧できる。

しかし今は違う。影丸がいる。町人たちが見ている。自分の正体を知られるわけにはいかないのだ。

頬に、わずかに汗が浮かんだ、そのときだった。

影丸が、屋台の蕎麦丼を掴み、男の足元へ投げつける。

「なっ!?」

丼が派手な音を立てて砕け散る。

男が一瞬ひるんだ隙を逃さず、影丸は寧々の手を掴んだ。

「逃げるぞ!」

突然のことに、寧々は目を見開いた。

だが、不思議なことに抵抗する気持ちは湧かなかった。

影丸に掴まれた手。そこから伝わる温もりが、嫌ではなかった。

背後から男の怒声が響く。二人は振り返ることなく、暗がりの日本橋を駆け抜けた。

薄暗い路地裏へ入り、積まれた置き樽の陰に身を潜める。

しばらくすると、追ってきた男は足を止め、周囲を見回した。そして見当違いの方向へ走り去っていく。

「……撒けたようですね」
「……ああ」

影丸は息を整えながら肯いた。

「しかし、すまなかった。思わず手を掴んでしまった。男に触れられるのは……嫌だったのではないか」
「いえ……」

寧々は、影丸に掴まれた手をそっと撫でる。そこに残る温もりを確かめるように。

「なぜか……大丈夫でした」

影丸は少し黙った後、探るように尋ねた。

「ならば……殿との夜伽も受け入れられるのではないか」

影丸のその一言は、錆びた釘を胸に打ち込まれるように感じられた。

誰が相手でも構わない女だと、そう思われているようで胸が痛い。寧々は唇をきゅっと結び、影丸を見つめた。

「影丸は……私が殿と夜伽をすることを、どう思われますか」

その問いに、影丸は目を見開いた。答えを探すように、唇がわずかに動く。

寧々自身、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。ただ――影丸がどう思うのか。それだけが、どうしても知りたかった。

自分が、この男にどう見られているのか。それが気になって仕方なかったのだ。

駆けていた時よりも、ずっと胸の奥が煩い。息が切れているわけではない。ただ、影丸の答えを待つ時間が、ひどく長く感じられた。

けれど影丸は、しばし黙り込んだ後、まるで自分自身に言い聞かせるように口を開いた。

「おぬしは慶喜殿の側室という立場であろう」

低く落ち着いた声だったが、影丸の視線は寧々の意図をはぐらかすように地を彷徨っている。

「夜伽について俺がどう思おうと……おぬしには関係のないことだ」

その言葉は、正しい。正しいはずなのに――寧々の胸には、なぜか切り傷の痛みのように感じられた。

「……そうですか」

思わず頬を膨らませる。自分でも、なぜ不満なのか分からなかった。ただ、影丸なら何か違う言葉をくれるのではと期待している自分がいた。

寧々は小さく息を吐くと、今度は自分から影丸の手を強く握った。

影丸が驚いたように目を向ける。しかし、寧々はその手を離さなかった。そのままそっと引き寄せ、自分の頬へと当てた。

掌から伝わる温もり。確かな血の通った、人の体温。その熱に触れた瞬間、寧々の心に張りつめていたものが、ゆっくりと消えていくような感覚に包まれた。

まるで長い冬の凍土が、春の日差しを浴びて溶けていくように。

「あったかい手……」
「どうしたんだ」
「いずれ触れられることに、慣れないといけませんから」

深まる秋の夜は、思った以上に早く闇へと沈んでいく。いつの間にか日は落ち、路地裏は群青色の静寂に包まれていた。乾いた冷たい風が吹き抜ける。

影丸は何も言わなかったが、そっとその手を動かし、寧々の頬を撫でた。その仕草はあまりにも優しく、不思議なほど温かかった。

気づけば、寧々の頬を伝うものがあった。涙だった。

両親を失ってから、寧々は人の温もりを忘れて生きてきた。

強くあらねばならない。弱さを見せてはいけない。そう言い聞かせながら、心の奥に押し込めてきた孤独。今になってその蓋が開き、心が流れ出してきたのだ。

「影丸……聞いてほしいことがあります」
「なんだ。何でも言ってみろ」

影丸の声は、いつになく穏やかだった。その声に背中を押されるように、寧々はゆっくりと口を開く。

「私……両親を亡くしました」

一度言葉にすると、止めることができなかった。

「それからずっと……寂しかったのだと思います」

母が男たちに襲われ、命を奪われたこと。その出来事が心に深い傷を残し、男に触れられることを恐れるようになったこと。そして、父までもが仇討ちの末に帰らぬ人となったこと。

ただひとつ――自分が隠密として生きてきたことだけは、伏せた。

影丸はただ静かに、すべてを受け止めるように聞いていた。

寧々が話し終えると、しばらくの沈黙の後、影丸はぽつりと言った。

「その男たちのせいで、寧々が一生苦しみ続ける必要はない」
「……はい」
「無理に忘れろとは言わぬ。だが、少しずつでいい。人の温もりに慣れていけばいい」

その言葉の後、影丸は何も言わずに背中を差し出す。

「……影丸には、そんな気遣いの心もあるのですね」
「今さら強がる必要はないぞ」
「ありがとうございます……嬉しいです」

寧々はそっと、その背中へ身を預けた。そして顔を埋め、声を殺して泣いた。

今まで流すことのできなかった涙で、ようやく寂しさを洗い流すように。

影丸が見上げる日本橋の夜空では、二羽の鴉が群青の空を泳ぐように飛んでいた。