翌日、朝食を済ませた寧々は軽い足取りで正門へと向かった。辰五つの刻に影丸と待ち合わせをしていたのだ。影丸は寧々よりも先に準備を済ませていたようだった。
「来たな」
「お待たせいたしました。この恰好、似合いますでしょうか」
寧々は小袖の袖口を指先で押さえ、両手を広げて軽やかに一回転して見せた。
「あっ、ああ……悪くはない、な」
影丸は返答に窮したように言葉を濁し、目をそらした。その影丸は、腹掛けを締め、股引に草鞋、そして紺木綿の半纏姿である。
「影丸も似合っておりますよ。職人の姿そのものです。刀よりも金槌が合いそうです」
「そう言われるのは、武士として屈辱感を覚えるな。だが、羽織袴よりはよほど動きやすいものだ」
苦笑しながらも、体を軽く動かして納得した様子だった。
二人は不思議そうな顔をした門番を無言でやり過ごし、街中へと歩み出る。しばらく歩き、日本橋に差しかかると、目の前に繁華街が広がった。
道沿いには桶屋、呉服屋、米屋、薬種屋など、さまざまな店が肩を寄せ合うように並んでいる。格子戸の奥では商人たちが店の準備に勤しんでいた。
「わぁ……」
寧々は思わず感嘆の息をもらした。柔らかな朝陽に照らされた江戸の街は、寧々の目には華やかな縁日のように映った。
軒下に揺れる藍染めの暖簾、橙色に輝く屋根瓦、魚売りの威勢のよい声、荷を積んだ大八車が軋む音、そして子どもたちの笑い声。
「これぞ江戸、まさに江戸、やっぱり江戸――江戸の三三七拍子ですね!」
「どうやら殿はあの見分で壊れ物を拾ってしまったようだ。その旨、お伝えせねばなるまい」
「あー、それは酷い言い草です。影丸も私で納得されたではありませんか。殿と同罪です。……あっ!」
焼き味噌や炭火の香りが漂い、鼻をくすぐった。
「影丸、私はおなかが空いてきました」
「さっき食べたばかりだ。おぬしは記憶喪失か? 第一、毒見がされてないであろう」
「町民は毒見などいたしませぬ。冷えた料理には、もううんざりでございます」
寧々は屋敷で供される料理が冷えていることを常々残念に思っていた。どうにかして熱々の料理を食べたい――だからこそ、この寺への参詣は格好の機会だと考えていたのだが――。
「寧々、余計なことは後回しだ。本分は寺への参詣であろう」
影丸は寧々の渇望を断ち切るようにそう言い放ち、背を向けて歩みを早めた。
「はい、さようでございますね」
寧々は未練を残しながらも、小走りで影丸を追いかけていった。
増上寺に着いたところで一礼し、山門をくぐる。手水で手と口を清め、参道を並んで歩き本堂へ進む。
二人は賽銭箱へ銭を納め、合掌して目を閉じた。寧々が願うのは、呪いの解決である。影丸もまた、何かを心に念じている様子だった。影丸の願いにも興味はあったが、敢えて聞かなかった。願いを他人に語れば、仏の御情を十分に享受できなくなる――そう聞いたことがあったからだ。
「礼拝を欠かさないなんて、影丸は律儀なんですね」
「武士として礼を尽くすのは当然だ。俺はそう教えられてきた」
時折見せる、芯の通った言葉と視線。寧々は遠くを見やる影丸の横顔を見上げながら、巷の武士とは違った雰囲気を感じ取っていた。
それから寺の僧侶たちを尋ねて回る。時海という「耳のない僧侶」がこの寺に在籍しているか、そうでなければその僧侶を知っている者はいないか。
だが、誰も「耳のない僧侶」に心当たりはないようだった。
「ところで影丸はその僧侶を見たのですか」
「一目だが見たぞ。確かに両耳がなかった。齢は五十ほどであった」
「それなら、髷はどうでしたか」
「僧侶だぞ。髷があると思っているのか」
「申し訳ございません、髷ではなく禿でございましたね」
寧々が笑いを堪えていると、影丸が冷たい視線で突き刺した。寧々は笑みを消して言い返す。
「大志を抱く者であれば、冗談のひとつやふたつ受け入れる器が必要でございます」
「受け入れておる。あまりに可笑しくて声を失っておっただけだ」
「やはりそうでございますか。安心いたしました」
二人は軽口を交わしながら、次の寺、また次の寺へと向かってゆく。
しかし、いずれの寺にも「耳のない僧侶」はおらず、その手掛かりすら掴めなかった。
二人は境内の石段に並んで腰を下ろし、途方に暮れた。
「本当にどこかの寺にいるのでしょうか」
「その前に、僧侶ということ自体、怪しく感じるぞ」
「なぜです?」
「気になっていたのだが、公的な処罰で耳を切られることはない。そのような罰を受けるのは、おそらく盗賊や逆臣、それに隠密といったところだ。奴らに容赦など不要だからな」
隠密――影丸の一言に、寧々の背筋が冷たくなる。母もまた、隠密と知られて殺されたのだ。
「どうかしたのか」
「いっ……いえ、なんでもございません」
もしも自分が隠密だと気づかれたら、やはり命はない――寧々は胸の奥で静かに覚悟を固めた。
わずかに橙を帯びた太陽の光が、木々の間から寧々の足元を照らす。そのとき、寧々の腹の虫がぐうと鳴き声をあげた。
「あっ……お恥ずかしい」
寧々は両手で腹を押さえ、気まずそうに俯いた。
「仕方ない、そろそろ帰るとするか」
影丸は立ち上がり、衣の埃を払った。寧々はその背に声をかける。
「その前に、もう一度、日本橋に寄っていきましょう」
影丸は半眼になり、振り返った。
「なぜだ」
「だって、日本橋は『天下の台所』ですから」
寧々は期待に満ちた笑みを浮かべる。一方の影丸は呆れたように眉を寄せた。
「まさか、諦めてはいなかったのか」
「もちろんです。私は熱々の蕎麦を食べたいのでございます。江戸で有名な、屋台の二八蕎麦というものです」
「おぬしは当主の奥方であろう。そのような下賤の者の食は口にするな」
「私はもともとただの平民です。何の躊躇もございません」
寧々の瞳は、朝陽よりも明るく輝いていた。影丸はため息をひとつ漏らす。
「忍耐せい。武士は食わねど高楊枝というではないか」
「私は武士ではございません。耐える理由などどこにもございません!」
「むぅ、猫の皮を被っていた姫よ、じゃじゃ馬ぶりを発揮してきたな」
「猫の皮などかぶっておりません。じゃじゃ馬なのを、影丸が気づいていなかっただけでございます」
そのとき、影丸の腹の虫がぐうと鳴った。影丸は一瞬で言葉を失い、視線を逸らした。寧々は口元を押さえ、くすりと笑う。
「己に正直に生きよ。それが武士道ではないでしょうか」
影丸は腹に手を当てて撫で、しばし考え込んだ。
「確かに一理あるな。では今日ばかりは労いを込めて、おぬしの願いを聞くとしよう」
その言葉を聞いた瞬間、寧々の頬はにんまりと緩んだ。寧々は立ち上がり、「では参りましょう」と言ってそばに駆け寄る。
影丸の隣に並び立つと、二人の影が夕陽の中でひとつに寄り添うように伸びていった。
「来たな」
「お待たせいたしました。この恰好、似合いますでしょうか」
寧々は小袖の袖口を指先で押さえ、両手を広げて軽やかに一回転して見せた。
「あっ、ああ……悪くはない、な」
影丸は返答に窮したように言葉を濁し、目をそらした。その影丸は、腹掛けを締め、股引に草鞋、そして紺木綿の半纏姿である。
「影丸も似合っておりますよ。職人の姿そのものです。刀よりも金槌が合いそうです」
「そう言われるのは、武士として屈辱感を覚えるな。だが、羽織袴よりはよほど動きやすいものだ」
苦笑しながらも、体を軽く動かして納得した様子だった。
二人は不思議そうな顔をした門番を無言でやり過ごし、街中へと歩み出る。しばらく歩き、日本橋に差しかかると、目の前に繁華街が広がった。
道沿いには桶屋、呉服屋、米屋、薬種屋など、さまざまな店が肩を寄せ合うように並んでいる。格子戸の奥では商人たちが店の準備に勤しんでいた。
「わぁ……」
寧々は思わず感嘆の息をもらした。柔らかな朝陽に照らされた江戸の街は、寧々の目には華やかな縁日のように映った。
軒下に揺れる藍染めの暖簾、橙色に輝く屋根瓦、魚売りの威勢のよい声、荷を積んだ大八車が軋む音、そして子どもたちの笑い声。
「これぞ江戸、まさに江戸、やっぱり江戸――江戸の三三七拍子ですね!」
「どうやら殿はあの見分で壊れ物を拾ってしまったようだ。その旨、お伝えせねばなるまい」
「あー、それは酷い言い草です。影丸も私で納得されたではありませんか。殿と同罪です。……あっ!」
焼き味噌や炭火の香りが漂い、鼻をくすぐった。
「影丸、私はおなかが空いてきました」
「さっき食べたばかりだ。おぬしは記憶喪失か? 第一、毒見がされてないであろう」
「町民は毒見などいたしませぬ。冷えた料理には、もううんざりでございます」
寧々は屋敷で供される料理が冷えていることを常々残念に思っていた。どうにかして熱々の料理を食べたい――だからこそ、この寺への参詣は格好の機会だと考えていたのだが――。
「寧々、余計なことは後回しだ。本分は寺への参詣であろう」
影丸は寧々の渇望を断ち切るようにそう言い放ち、背を向けて歩みを早めた。
「はい、さようでございますね」
寧々は未練を残しながらも、小走りで影丸を追いかけていった。
増上寺に着いたところで一礼し、山門をくぐる。手水で手と口を清め、参道を並んで歩き本堂へ進む。
二人は賽銭箱へ銭を納め、合掌して目を閉じた。寧々が願うのは、呪いの解決である。影丸もまた、何かを心に念じている様子だった。影丸の願いにも興味はあったが、敢えて聞かなかった。願いを他人に語れば、仏の御情を十分に享受できなくなる――そう聞いたことがあったからだ。
「礼拝を欠かさないなんて、影丸は律儀なんですね」
「武士として礼を尽くすのは当然だ。俺はそう教えられてきた」
時折見せる、芯の通った言葉と視線。寧々は遠くを見やる影丸の横顔を見上げながら、巷の武士とは違った雰囲気を感じ取っていた。
それから寺の僧侶たちを尋ねて回る。時海という「耳のない僧侶」がこの寺に在籍しているか、そうでなければその僧侶を知っている者はいないか。
だが、誰も「耳のない僧侶」に心当たりはないようだった。
「ところで影丸はその僧侶を見たのですか」
「一目だが見たぞ。確かに両耳がなかった。齢は五十ほどであった」
「それなら、髷はどうでしたか」
「僧侶だぞ。髷があると思っているのか」
「申し訳ございません、髷ではなく禿でございましたね」
寧々が笑いを堪えていると、影丸が冷たい視線で突き刺した。寧々は笑みを消して言い返す。
「大志を抱く者であれば、冗談のひとつやふたつ受け入れる器が必要でございます」
「受け入れておる。あまりに可笑しくて声を失っておっただけだ」
「やはりそうでございますか。安心いたしました」
二人は軽口を交わしながら、次の寺、また次の寺へと向かってゆく。
しかし、いずれの寺にも「耳のない僧侶」はおらず、その手掛かりすら掴めなかった。
二人は境内の石段に並んで腰を下ろし、途方に暮れた。
「本当にどこかの寺にいるのでしょうか」
「その前に、僧侶ということ自体、怪しく感じるぞ」
「なぜです?」
「気になっていたのだが、公的な処罰で耳を切られることはない。そのような罰を受けるのは、おそらく盗賊や逆臣、それに隠密といったところだ。奴らに容赦など不要だからな」
隠密――影丸の一言に、寧々の背筋が冷たくなる。母もまた、隠密と知られて殺されたのだ。
「どうかしたのか」
「いっ……いえ、なんでもございません」
もしも自分が隠密だと気づかれたら、やはり命はない――寧々は胸の奥で静かに覚悟を固めた。
わずかに橙を帯びた太陽の光が、木々の間から寧々の足元を照らす。そのとき、寧々の腹の虫がぐうと鳴き声をあげた。
「あっ……お恥ずかしい」
寧々は両手で腹を押さえ、気まずそうに俯いた。
「仕方ない、そろそろ帰るとするか」
影丸は立ち上がり、衣の埃を払った。寧々はその背に声をかける。
「その前に、もう一度、日本橋に寄っていきましょう」
影丸は半眼になり、振り返った。
「なぜだ」
「だって、日本橋は『天下の台所』ですから」
寧々は期待に満ちた笑みを浮かべる。一方の影丸は呆れたように眉を寄せた。
「まさか、諦めてはいなかったのか」
「もちろんです。私は熱々の蕎麦を食べたいのでございます。江戸で有名な、屋台の二八蕎麦というものです」
「おぬしは当主の奥方であろう。そのような下賤の者の食は口にするな」
「私はもともとただの平民です。何の躊躇もございません」
寧々の瞳は、朝陽よりも明るく輝いていた。影丸はため息をひとつ漏らす。
「忍耐せい。武士は食わねど高楊枝というではないか」
「私は武士ではございません。耐える理由などどこにもございません!」
「むぅ、猫の皮を被っていた姫よ、じゃじゃ馬ぶりを発揮してきたな」
「猫の皮などかぶっておりません。じゃじゃ馬なのを、影丸が気づいていなかっただけでございます」
そのとき、影丸の腹の虫がぐうと鳴った。影丸は一瞬で言葉を失い、視線を逸らした。寧々は口元を押さえ、くすりと笑う。
「己に正直に生きよ。それが武士道ではないでしょうか」
影丸は腹に手を当てて撫で、しばし考え込んだ。
「確かに一理あるな。では今日ばかりは労いを込めて、おぬしの願いを聞くとしよう」
その言葉を聞いた瞬間、寧々の頬はにんまりと緩んだ。寧々は立ち上がり、「では参りましょう」と言ってそばに駆け寄る。
影丸の隣に並び立つと、二人の影が夕陽の中でひとつに寄り添うように伸びていった。



