華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

「では、今度はこちらにも行ってみましょう」

寧々が向かったのは屋敷の裏手だった。塀と屋敷の壁に挟まれた細い空間は昼なお薄暗く、湿った土には羊歯(しだ)が生い茂り、獣道のような細道が奥へと続いている。

寧々は草をかき分けながら、その道を進んでいった。

「ここには何もないぞ。奥方が来るような場所でもない」
「相手は亡霊ですからね。こういうところが好きかもしれませんよ」
「おぬしは呪いを信じていないのではなかったか」
「呪いは信じなくても、霊は存在するかもしれません」
「その境目がどこにあるのか、むしろ教えてほしいものだな」

寧々は両手を胸の前にだらりと垂らし、腰を折ると、音も立てずにすうっと滑るように歩き始めた。

「こうやって亡霊のふりをすれば、悪霊が仲間だと思って姿を現すかもしれません」
「おぬし、知恵者か、とぼけ者か、どちらなのだ」
「知恵者ととぼけ者は紙一重でございます。それでは影丸もご一緒にどうぞ」

両手を垂らしたまま振り返ると、影丸は呆れ半分の表情で寧々を見つめていた。

「だが俺は遠慮させてもらおう。亡霊に懐かれたら困るからな」
「なるほど、影丸は見かけによらず臆病なんでございますね」
「誤解だ。亡霊など怖るるに足らん。真に恐ろしいのは人間そのもののほうであろう」
「同感です。意外に的を射たことを仰るのですね」
「意外にとは失敬な。第一、殿方に臆病なおぬしに臆病などと言われたくはない」
「それは悪うございました」

影丸の反撃に、寧々は顔を赤らめ、ぷうっと頬を膨らませた。

そのとき、影丸の足元の脇に一輪、菊の花が横たわっているのに気づいた。

その後ろには、こんもりと土が盛られ、塔婆代わりと思しき小さな木の板が立てられている。板には『小次郎』とだけ記されていた。

「それ……何の墓でしょうか?」

影丸も盛り土へ視線を落とし、しばらく眺めてから口を開いた。

「ああ、おそらく飼い犬の墓だろう」
「ここに亡骸を埋めたということですね」
「犬を飼っている者も多いからな。死後は敷地内に埋葬することを殿は許しておられるのだ」
「犬も家族ですものね」

その言葉を口にした途端、寧々の胸に父と母の面影が浮かんだ。隠密の家に生まれなければ、今も穏やかな日々が続いていたのだろうか――そんな叶わぬ想像が脳裏をよぎる。

「どうかしたのか」
「いえ、何でもございません。参りましょう」

寧々は寂しさを振り払うように微笑み、再び歩き出した。そんな寧々の後ろ姿を、影丸は何も言わず静かに見つめていた。

しばらく進むと、同じような盛り土がいくつも並ぶ場所へ出た。どれも同じほどの大きさで、名が刻まれた塔婆のような板が立てられている。

「ここにもありますね」
「確かに……しかし、やけに多いな」

影丸は腕を組み、しばらく考え込む。そして何かを思い出したように口を開いた。

「そういえば、しばらく前に犬の死が相次いだことが噂になっていたな」
「犬の死が、相次いだんですか?」

滅多に起こらぬ出来事が立て続けに起きたということだろう。その偶然が、寧々には妙に引っかかった。

「今思えば――それも呪いだったのではないかと囁かれていたな」
「呪いは一橋家の者だけに降りかかるわけではないのでしょうか」
「そう聞かれても、俺は悪霊ではないから分からんな」
「一度、悪霊になってみれば気持ちが分かるかもしれませんね」

寧々は再び両手を胸の前へ垂らし、亡霊の真似をしてみせた。

「もしも私が亡霊になったら、憑かれたいですか?」

真顔で尋ねると、影丸は一瞬だけ言葉に詰まり、やがてぷいと視線を逸らした。

「それはご遠慮願いたいことだ」
「でも、返事まで一拍ありましたよね?」

悪戯っぽい上目遣いで影丸の顔を覗き込む。今度は寧々の反撃である。

影丸は堪りかねたように、突然、両手を伸ばして寧々を捕まえようとした。寧々は弾かれたように身を引き、その手をひらりとかわす。

「影丸、不意打ちとは卑怯でございます。油断も隙もありませんね!」
「おぬしは殿の奥方であろう。我々が親しくしていれば、それだけで火種になるかもしれぬ」

言われてみれば、その通りだった。噂は一度立てば、たちまち屋敷中へ広まってしまう。

寧々は辺りを見回し、誰もいないことを確かめると、ほっと胸を撫で下ろした。

「はい、今後は自重いたします」

そう答えながらも、胸の鼓動は今までにないほど激しく打っていた。もし先ほど、あの手に触れられていたら――そう思うだけで息苦しくなる。それなのに胸の奥では、人の温もりを求めている自分も確かにいた。

両親を亡くして以来、人の体温に触れた記憶といえば、修業での組み合いと侍女による身繕いくらいしかない。

寧々は小さく息を吐き、きゅっと口元を引き締めて表情を改めた。

「ところで話は戻りますが、誰が最初に呪いだと言い出したのでしょうか」
「名を時海という、高名な僧侶だ。だから皆、信じたようだな」

影丸は迷いなく答えた。

「その時海という僧侶は、どこの寺の方なのでしょうか」
「さあな。だが、尼音が見つけて連れてきたはずだ」
「尼音……あの蜜柑ばら撒きおばあさんですね」
「その賄賂のような言い方は語弊があるぞ」

影丸は寧々の奔放な表現に、苦笑混じりの表情を浮かべた。

「失礼しました。でも、尼音は屋敷の内情に詳しいのですね」
「ああ。侍女たちの噂話のほとんどは尼音の耳に入るらしい」

それに、慶喜が家主となる以前から一橋家に仕えていたのだから、屋敷の事情を知り尽くしているのも肯ける。

「それなら、呪いや悪霊については、その時海という僧侶に尋ねてみましょう。耳がないと聞いておりますから、見つけるのも難しくはないはずです」
「なるほどな。では、尼音に聞いてみるか」



「殿、失礼いたす」

慶喜はふんどし姿でうつ伏せになり、床に横たわっていた。背中には細い針が十数本、まっすぐ立てられている。

ちょうど尼音が慶喜の背に鍼を施しているところだった。屋敷には鍼灸を心得た者が何人かおり、尼音もまた、侍女でありながら鍼灸の心得があったのだ。

寧々は裸体を直視できず、顔を赤らめて目を背けた。

「こんな極上の時間に割り込んでくるとは、どうしたんだ影丸」
「少々、尼音に聞きたいことがありまして」
「ひっひっひ、今いいとこでなぁ。もう少し待ってもらえんかの」

尼音は桐箱から細い鍼を取り出し、金属製の鍼管を背に当てる。とんとんと指先で軽く叩くと、鍼は音もなく皮膚へ吸い込まれていった。鍼の頂には温めたもぐさで灸を据える。

灸の匂いが漂う床の間で、寧々と影丸は待ち続けた。

鍼の入った桐箱に目をやると、そのほとんどは糸のように細い針であった。だが、中にはいくつか太いものもある。これを刺されてはさぞ痛かろうと思い、寧々はつい眉をしかめてしまう。

しかし、なぜそこまで太い針が必要なのかと、寧々は疑問を抱いた。

鍼を打ち終えると、尼音は正座のまま後ずさりし、くるりと二人の方へ向き直った。

「では、あたしに何か用でございましょうか」

寧々は待ちかねたように尋ねた。

「姫君が亡くなる前、その異変が呪いによるものだと言っていたのは僧侶の方だと聞きました。その僧侶は、どちらの寺から来られた方だったのでしょうか」

尼音はしばし視線を漂わせ、「どこじゃったかなぁ……」と記憶の糸を手繰るような表情を見せた。

「増上寺だったか、寛永寺だったか、はたまた長安寺であったか……そのどれかだとは思うんじゃが……」

どうやら記憶は定かではないようだった。

「そのどれかに間違いはないでしょうか」
「ほかの寺に行くことはないから、そのどれかだとは思うんじゃが……すまんのう、齢には勝てんわい」
「いえ、それだけ分かれば十分です。ありがとうございます」

寧々は丁重に礼を述べた。慶喜へ視線を向けると、慶喜は黙って肯いた。呪いを解くために尽力しているのを感じ取ったからであろう。

寧々もまた、慶喜に視線でお辞儀をし、踵を返した。



「これがあれば迷わないだろう」

影丸が書斎から地図を持ち出してきた。その地図を畳の上に広げ、尼音の言った寺の場所を指で差して確認する。

「増上寺、寛永寺、それに長安寺ですか。回るとなると一日がかりになるぞ」
「それでは明日、影丸は時間が取れますか」
「ちょっと待て。俺も行くことになっているのか」
「当然でございましょう。それとも、力を貸すようにと仰せになった殿の御命に背くおつもりでございますか」
「いや……屋敷を出るのを承知した覚えはないぞ」

影丸は寺に出向くことではなく、屋敷を出ること自体を嫌がっているようだ。

「もしかして、影丸は引籠りなのでございますか」
「誤解だ。俺がそのような陰気な人物に見えるわけはないだろう」
「では、なぜ屋敷を出たくないのでございます?」

影丸は不自然なほど言葉に詰まった。そんな困惑を見せるのは初めてだった。

「武士たる者、外の世界には七人の敵を持つものだからな」
「仰る意味が分かりません」
「とにかく遠慮願いたい」

頑として拒む理由は不明だが、寧々はしばし考えを巡らせ、影丸に尋ねた。

「でもそれなら、武士でなければよろしいのですね」
「……どういうことだ?」
「刀を外し、町人の身なりをすればよいのではありませんか。誰も武士とは思いませぬ」
「俺が、町人の恰好をするだと? だが、なるほどな……」

影丸は真顔になり、真剣に悩んでいるようだった。しばらく俯いて考えた後、覚悟を決めたように顔を上げた。

「ならば、その案に乗ることとしよう」

なぜ武士として屋敷の外に出るのをためらうのかは分からなかったが、寧々は心の中でしてやったりという気持ちであった。

なぜなら、江戸に上京してから初めて、街中を散策する口実を得ることができたのだから。

寧々は地図をそっと畳みながら、胸の奥で明日への期待を燻ぶらせていた。