華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

寧々は早まる鼓動を鎮めながら、慶喜の寝所へと向かった。襖の前に膝をつき、ゆっくりと襖を開く。

「失礼いたします。夜伽にお伺いいたしました」
「待っておったぞ。では、こちらへ参るがよい」

行燈の灯が揺らぐ寝所で、慶喜は胡坐をかいて待っていた。その瞳は薄闇の中でも爛々と輝いて見える。

寧々は決心を固めると立ち上がり、一思いに布団へ滑り込んだ。

「おおっと、威勢の良い奥方だな」

寧々は寝間着をまとったまま布団の上で仰向けになり、すっかり体を強張らせていた。その様子は、まるで化粧箱に納められた日本人形のようである。

「身を捧げると決心したからには、後には引けません。さあ、どうぞお召し上がりください」

床入りには初心で、不器用さを隠せないまま、それでも必死に声を絞り出した。

「では、しばし待たれよ――」

そう言うと、慶喜は両手を二度打ち鳴らした。乾いた音が響くと、隣の障子がすっと開く。

姿を現したのは、影丸であった。寧々は、障子の奥に影丸がいたことにぎょっとする。

そういえば聞いたことがある。夜伽の折には、寝所の外で御次が控えているということを。そうだとすると、自分の声まで聞かれてしまうのか――それは恥ずかしかったが、それ以上に影丸に聞かれるということが、あまりにも耐えがたかった。

影丸はそろそろと部屋へ入り、慶喜の隣に腰を下ろした。

まさか、二人がかりで私を召し上がるというのでは――?

生唾をごくりと呑み込み、二人の挙動を注視する。二人は横たわる寧々をまじまじと眺めている。

これは、視線で相手を辱める、床入りならではの手管なのか――?

「さあ、煮るなり焼くなり、お好きになさってくださいませ!」

裏返った声で叫ぶと、二人はとうとう堪えきれないというように笑い出した。

「はっはっは。覚悟を決めたところで申し訳ないが、今夜はまだ、夜伽をするつもりなど毛頭ない」
「は?」

あまりにも意外な返答だった。まさか、自分には女としての魅力がまるでないということか――?

寧々の思考は、すっかり混迷を極めていた。

「それでは何故、私を娶ったのでございましょうか?」

すると、慶喜は笑みを収め、半身を乗り出して寧々を見据えた。

「おぬしには、余の手足となってほしいのだ」
「ど……どういう意味でございましょうか?」

寧々は身を起こして膝を正し、慶喜と向き合った。行燈の光に照らされた寧々の無垢な顔には、疑念と興味が入り混じっている。

「過日、余の子が早世したのは承知しているであろう?」
「はい。奇病に冒されたと、侍女の一人からうかがいました。心中をお察し申し上げます」
「奇病か。だが、もしそれが『呪い』だとしたら――おぬしはどう思う?」

呪い――?

もしも一橋家が悪霊に憑かれ、子が呪い殺されたということであれば――。

誰もが恐怖し、子をもうけることなどできなくなってしまう。つまり――。

「その呪いの正体を突き止めて解決しなければ、一橋家の血が途絶えてしまうということですね」
「流石だ、理解が早いな」

慶喜の漆黒の双眸が、いっそう鋭く輝いた。

「ということは、私に呪いの正体を解き明かせ、と?」
「そういうことだ」

そう言われると確かに腑に落ちる。家臣や侍女たちは誰が悪霊に憑かれているかわからない。一方で寧々だけは清廉潔白(・・・・)なのだ。

「そのような理由で、私を側室にされたのですね」
「おぬしは肝が据わっておるだけでなく、優れた洞察力も持ち合わせておるようだな」
「お褒めにあずかり、嬉しゅうございます」

そこで寧々は、しばし思案した。もしかしたら――。そう思い、覚悟を決めて尋ねる。

「あの、不躾なお願いでございますが、呪いが解決できるまでは……夜伽をご勘弁いただけないでしょうか」

慶喜の口元が、むっとへの字に曲がる。

「おぬし、それほどに余が気に入らぬと言うのか!」
「殿の問題ではございません。殿は魅力的でございます!」
「魅力的とは、お世辞なのが見え見えじゃろうが!」
「ただ、私が殿方のお殿様(・・・)を受け入れられないのでございます!」
「お……お殿様、とな?」

寧々の返事に、慶喜は面食らった顔をした。一方で、隣にいた影丸は声を殺して笑い出した。

「くくく、これは寧々殿に一本取られましたな。もはや夜伽どころではありますまい」

ひとしきり笑いが収まると、影丸は口元を押さえながら言った。

「どうやらこの娘は、殿方を受けつけない体質のようです。隠れていた折、私に触れるなと言った理由がようやく分かりました」
「そこまで頑なに拒むとは、よほどの理由があるのじゃな」

寧々は黙ってうなずいた。慶喜は少し気の毒そうな顔をする。かたや影丸は、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。

「殿、これでは側室として迎えたものの、まるで姫でございます」
「ははっ、姫でおるか。仕方ない。寧々のことは一橋家の姫として扱うとしよう」

まるで子供をからかうような言い方に、寧々は顔を紅潮させ、頬を膨らませた。けれど、それで夜伽を免じてもらえるのであれば、このうえなくありがたい。

寧々は深く安堵の息を吐き、胸を撫で下ろした。

「ただし、表向きにはおぬしは余の側室じゃ。姫として扱っていることは口外いたすでない。あくまで我々と長十郎の間だけの秘密としよう」
「無論、承知しております。姫としての務め、しかとお引き受けいたします」

深々と頭を垂れながら、寧々は内心、この役目のほうが奥方よりよほど性に合っていると思わずにはいられなかった。

☆彡

それから影丸が、一橋家の事情を詳しく話してくれた。

四か月ほど前、慶喜の正室である美賀子は女児を産んだ。

生まれた当初は元気に泣き、乳母の乳も勢いよく飲んでいた。けれど、生後三日ほど経つと、まるで何かに憑かれたかのように苦しげに泣き出すようになった。

床に寝かせれば、わずかな間は眠る。だが、誰かが近づくだけで苦しみにもだえるような泣き声を上げるようになった。実母である美賀子が抱こうとしても、触られるだけで雄叫びのような泣き声をあげて嫌がった。

目も当てられぬ凄惨な有様に、上臈御年寄の尼音は、由緒ある寺より高名な僧を招き、祈祷を頼んだ。

訪れたのは、時海という耳のない老僧であった。

祈祷を終えた時海は、

「政争に倒れ、無念のうちに命を落とした武士たちの怨霊が、一橋家に呪いをかけている」

と、重々しい口調で告げた。

そして、幼子が泣き叫ぶのは、悪霊の姿が見えているためなのだ、とも。

時海は悪霊祓いを試みたものの、力及ばなかった。

「怨念はあまりにも深く、一橋家の血筋を絶やそうとしております」

老僧はそう告げた。

その話は噂好きの奥女中たちによってたちまち屋敷中に広まり、ほどなく一橋家の誰もが、その呪いを真実と信じるようになった。

やがて子は息を引き取った。

子は徳川将軍家ゆかりの墓所へ葬られ、それがせめてもの供養となった。

しかし美賀子はむせび泣き、いくら涙を流しても子は戻らなかった。以来、食事ものどを通らず、自室に閉じこもったまま日に日にやつれていった。

以来、慶喜は美賀子の心情を慮り、夜伽は一度も行われなかった。

けれど、一橋家の将来を危惧したのは家臣たちだった。

「このままでは、一橋家が慶喜様の代で途絶えてしまう!」
「家臣として、先代の御当主様方に申し訳が立ちませぬ!」
「そのような事態になれば、皆で自害するほかあるまい!」

暗礁に乗り上げた世継ぎの問題に終止符を打つべく、家臣たちは策を練った。そして、慶喜に提言し、新たな側室を迎えることとなったのだった。

☆彡

しばし訪れた沈黙を破り、最初に口を開いたのは寧々だった。

「子に触れることすらできないとは……美賀子様もまた、さぞ心苦しかったことでしょう」
「確かにそうだろうな。だが、余は側室ではなく、美賀子に子をもうけてもらいたいと思っている」
「殿は、美賀子様を愛しておられるのですね」
「ふふ、否定はせぬな」

慶喜は照れを隠すように威勢よく立ち上がった。手にした扇子をばさっと開き、寧々へ向けて言う。

「だからこそ、余はその提言を受けたときに考えたのだ。真に必要とされるのは、子を産むための新たな側室ではなく、呪いの正体を解き明かすことのできる賢者であろうと」

寧々は、厳しい見極めで問われた資質が何であるか、ようやっと理解した。

それは鋭い洞察力と、嘘偽りなき誠意であった。そして寧々は、呪いを解くための隠密として雇われた。しかも、側室という立場であれば、誰にも疑われることはない――そういうことだ。

側室として子をもうけ、将軍家に近づき、江戸幕府の中枢へ深く食い込む――その本来の使命は遠のいた。

けれど一方で、己の意思を殺して殿方を受け入れることを避けられたのは安堵であった。

それに、もしこの呪いを解いて認められれば――幕府と縁深い一橋家の中で、確かな立場を築くことができるはずだ。

だが、その前に入念に確かめなければならないことがある。寧々は影丸の説明に、いくつかの違和感を覚えていたからだ。

「ところで影丸殿にお尋ねしたいことがございます」
「何だ、申してみよ」
「なぜ、病ではないかとは考えなかったのですか」

影丸の答えに迷いはなかった。

「それは、病としては子の様子が尋常ではなかったからだ。誰かが近づくだけで泣き叫び、実母すら触れることができなかったのだから」
「実母すら触れられなかったとは……それほど異様な様子だったのですね」
「うむ、高名な医師ですらまるで見当がつかないと、匙を投げたくらいだ」

たしかに、そのような症状の病は聞いたことがない。

「それでは、誰かが殺めた、という可能性は?」

子が人の気配に怯えて泣き出すのであれば、誰かから虐げられていたと考えるのが自然だ。ところが――。

「遺体は調べられたが、傷や痣ひとつない、綺麗な躯だった」
「外傷がないならば、毒殺の可能性はあるのでは?」
「いや、毒殺は難しいだろう」
「なぜです?」
「生後四日であるぞ。生まれたての子なのだから、乳以外のものを口にすることはないであろう」

聞いて寧々の詰問はぴたりと止まる。

「しかも、この屋敷へ持ち込まれる荷物は厳格に改められている。家臣や侍女の持ち物も毎日調べられているほどだ。この屋敷に毒物を隠す場所などあるはずがない」

食事のたびに毒味を欠かさず、毎日冷や飯に耐えているくらいなのだから、それほど厳重なのも当然なのであろう。

そうなると、毒殺も考え難い。呪い以外の可能性は、完全に八方塞がりだ。

「ですが、たとえ呪いだとしても、ご息女様が命を狙われる理由などあるのでしょうか」

すると、影丸は慶喜を見やり、慶喜が肯くのを確かめてから話し始めた。

「もともと、一橋家は将軍継嗣問題をめぐって紀州派と激しく対立し、多くの者がその争いに巻き込まれていた。結局は、血筋を重んじる紀州派の慶福が第十四代将軍に定まり、争いは表沙汰になることなく収束したのだが――」
「そうすると、僧侶の言う『政争に倒れ、無念のうちに命を落とした武士たちの怨霊が、一橋家に呪いをかけている』というのは、その政争で命を落とした者たちのことを指しているのですね」
「そういうことになるな」

そこまで説明したところで、影丸は一息ついた。少し間を置いてから、慶喜が寧々に問いかける。

「ところで寧々よ、おぬしはこの呪いの話を信じたか?」

しかし寧々は、ゆっくりと首を横に振った。

「いえ。呪いなどが本当にあるのでしたら、将軍様は皆、とっくに亡くなっているはずです」

慶喜は、その的を射た答えに、いささか驚嘆の色を浮かべた。

「確かにな。では、おぬしは子が誰かに殺められたと思うのか?」

寧々は無言で肯いた。一橋家の血を根絶やしにするため、誰かが呪いになぞらえて仕組んだことのように思えたのだ。

「そうか、おぬしもそう思うか……」
「ということは、慶喜様もそのようにお考えなのですね」
「ああ……」

ふたたび会話が途切れると、寧々は頭の中で思考を巡らせた。

一橋家の血を継ぐ者が狙われる理由は、確かにある。だが、この呪いのような奇妙な死に方の理由も、子を殺めた真の下手人も、まるで見当がつかない。

ただ、その謎を解かなければ、一橋家の未来は潰えるのだ。

まるで雲を掴むような推察を強いられる。それでも――どこかに必ず解決の糸口はあるはずだ。

寧々は慶喜をまっすぐ見据え、はっきりと言い切った。

「悪霊は足跡を残しません。けれど、人は必ず痕跡を残すものです。私が必ずや、姫君様の無念を晴らしてご覧に入れます」

今一度、深々と頭を下げる。すると慶喜が意外な提案を持ち掛けた。

「しかし、この責務を姫一人に負わせるには、さすがに荷が重かろう。よって、余が最も頼りとする家臣に、おぬしの手伝いをさせるとしよう」

慶喜はそう言うと、影丸へ目を向けて口の端を上げた。影丸の驚いた表情が、その提案が慶喜の思いつきであったことを物語っていた。

「影丸よ、どうか余の側室の力となってくれたまえ。寧々、それでよいな?」

寧々と影丸は互いに驚いた顔を見合わせた。見つめ合ってから同時に頷くと、正面へ向き直り、ゆっくりと頭を垂れた。

「「承知いたしました」」

その提案が、やがて江戸幕府の未来を大きく変えることになるとは、このときの慶喜でさえ想像していなかったのである。