華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

寧々一行は中野宿の本陣で一泊し、翌朝早くに発った。夕方には祝言が執り行われるとのこと。半蔵門を経て一橋邸へ向かう。昼過ぎには江戸城に着いた。

「うわぁ……ここが江戸城かぁ」

幾重にも築かれた石垣が秋空の下に重々しく連なり、城門が堂々と立ちはだかる。寧々は思わず息をのむ。これほど巨大な城郭を目にしたのは、生まれて初めてだった。

「でも……天守が見当たらないですね。どこにあるのでしょうか」
「じつは江戸城に天守はないのです。明暦の大火で焼失してから二百年、再建されませんでした」

尋ねると、志乃は当然のように答えた。

「なぜです?」
「江戸の町の大部分が焼失した大火事でしたので、徳川様は町の復興を優先すべきと判断なされたと聞いています」

江戸の者であれば皆知ることなのだろう。

「『火事と喧嘩は江戸の華』と言いますが、大火の後の復興によって、江戸の町はさらに発展したと聞いています。けれど……本当は火事も喧嘩も、華とは呼べない災難でございます」

そう語る志乃の表情には、どこか暗い影が差していた。その様子に、寧々は引っかかりを覚える。

「もしかして、何か一橋家で困りごとがあるのですか」

すると志乃は、寧々が心中を察したことに気づき、はっとした。

「はい、そうなんです。今の一橋家は、火事で焼かれ、喧嘩で虐げられたようなものでございます。そのせいで、慶喜様がどれだけ不遇な思いをなさっていることか……」
「慶喜様の、不遇な思い?」
「じつは、江戸幕府の大老である井伊直弼様が、慶喜様を蟄居(ちっきょ)にしているのでございます」

蟄居とは、厳しい謹慎刑で、自宅の一室に閉じ込められ、外出を禁じられるものだ。慶喜様が刑罰を受けている身だとは思いもしなかった。

「慶喜様はなぜ、そのような処罰を?」

尋ねると、志乃はさも深刻そうな顔をした。

「慶喜様は何も悪いことなどしておりません。ただ……移り変わる世の荒波に呑まれただけでございます」

荒波に呑まれた――一体、これまでに何があったのだろう?

混沌の中での側室の迎え入れ、それも厳しい見分による人選。

かつての寧々にとっては、幕府に繋がりのある人々の揉め事など、別世界の出来事としか思えなかった。

けれど寧々は、これから自身がその渦中へ飛び込むことになるのだ。そして、選ばれたのは世継ぎを生むためという以外にも、重要な理由があるのではないかと考え、心をさらに引き締めた。

一橋家は江戸城外郭にある、高い塀と堀に囲まれた小さな城のような屋敷だった。

門番は志乃の姿を見ると、「お疲れ様です」と挨拶をした。その様子はどこか浮き立っているようだった。一番に新しい側室を見られるからであろう。挨拶を終えると、興味深そうに寧々のそばへ駆け寄ってきた。

「ややっ、あなたが新しい奥様でございますか!」
「はい、寧々と言います」
「存じております。今、案内の者をよこしますので、少々お待ちを!」

門番は寧々の姿を頭から足先まで一目すると、嬉しそうに敷地の中へ走り去っていった。

それから侍女が三人、寧々を迎えに来た。皆、色めき立った様子で「あら、色艶の良い奥様ですね」「まだ奥様ではございませんよ」「でも今宵にはそうなっているんですから……ね」と意味深に言いながら、寧々を囲んで連れてゆく。

「それでは、まずは湯船に浸かって身を清めましょう。今日ばかりは奥向きの湯殿ではございませんが、ご容赦ください」
「侍女の方々とご一緒でも、私は構いません」
「そうはいきません。なにせ寧々様は、慶喜様がお手を付けられる(・・・・・・・・)方なのですから」

やはり、侍女たちは寧々を、世継ぎを授かるための奥方として見ているようだ。まだ子がいないのだから、寧々に対する期待も大きいはずだ。

侍女たちは寧々を檜の香りが満ちる静かな湯殿へ連れていった。寧々は言われるがままに衣を脱ぐ。侍女が湯加減を確かめ、ゆっくりと湯に身を沈める。

ゆったりと湯に浸かると、湯気の向こうでは今日の婚礼衣装が整えられていた。

しばらく温まった後、侍女たちが寧々の身体を拭い、長い髪を柔らかな手つきで梳き、椿油を軽くなじませる。慣れない身づくろいをされながら、ぼんやりと大きな懸念を思い浮かべる。

これから祝言――ということは、今夜は初夜となるのだろうか。

寧々は女性に触られる分には何とも思わないのに、殿方の指が触れた瞬間、体が拒絶を示してしまう。寧々にとって一番の不安は、床入りで己がどうなってしまうのか、想像もつかないことだった。

源三の懸念が脳裏をよぎる。

『くれぐれも、殿方の御殿様(・・・)を蹴り飛ばすことのないようにな』

もしも慶喜様の御殿様を潰すようなことになれば、己の命はない。それどころか身内の者が調べ上げられ、素性がばれてしまう可能性すらある。

自分はまな板の上に横たわる魚に過ぎない。殿方のなすがままにされればいい――そう言い聞かせて感情を律する。

これからの夜は、意志を押し殺し、絶対に拒絶することなく耐え忍ばなければならない。

☆彡

奥向きの庭園は西日に染まり、木々の影が長く庭石の上へと落ちていた。奥書院へと続く廊下には、すでに行灯がともされ、橙色の柔らかな明かりが板敷きを照らしている。

寧々は婚礼衣装に身を包み、侍女に付き添われながら座敷へと導かれた。

襖が音もなく開かれると、畳敷きの広間が目前に広がる。そこには、祝いの膳が整然と並べられていた。居並ぶのは十数名の家臣と侍女たち。その視線はいっせいに寧々へと注がれた。

寧々はしずしずと座敷へ歩み入った。

床の間には季節の掛け軸が掛けられ、白菊が楚々(そそ)と生けられていた。室内には(こう)がほのかに薫り、祝言にふさわしい厳かな空気が漂っている。

上座に座しているのは、寧々がこれより側室として仕える家主、一橋慶喜であった。

寧々は畳に両手をつき、深々と頭を下げる。

「寧々にございます。本日より、お仕え申し上げます」

慶喜は静かにうなずいた。

「面を上げられよ」

低く落ち着いた声には、人を威圧する響きはない。むしろ口元にはかすかな笑みさえ浮かび、どこか面白そうに寧々を見つめている。

――やはり、今宵を楽しみにしておられるのであろうか。

そう思うと、胸の奥に湛える不安が波となって心を覆う。

媒役を務めるのは、奥方の見分を取り仕切っていた長十郎である。長十郎は一歩前へ進み出ると、両家を代表して祝いの口上を述べた。

「本日ここに、良きご縁が結ばれましたこと、まことに慶賀の至りにございます」

穏やかな口調ではあったが、その顔には意味ありげな笑みが浮かんでいる。

続いて三方に載せられた三つ組の盃が運ばれ、静かに祝い酒が注がれた。

媒役の合図に合わせ、寧々と慶喜はそれぞれ盃を手に取り、三度に分けて酒を口へ運ぶ。

そのときだった。

廊下を駆ける足音が近づき、襖が勢いよく開かれた。祝言の場へ、門番の男が血相を変えて飛び込んでくる。

「目付の者が参りました! 不意打ちにございます!」
「何だと!」

その一声で、室内の空気は一変した。

家臣も侍女も申し合わせたように立ち上がり、まだ箸もつけられていない祝い膳を手際よく片付け始める。先ほどまでの厳かな祝言は跡形もなく消え去り、広間は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

長十郎はすぐさま慶喜のもとへ駆け寄る。

「殿、こちらに!」
「承知しておる!」

二人は迷いなく部屋の奥へ向かって駆け出した。

寧々には何が起きたのか理解できなかったが、ただならぬ気配を感じ、婚礼衣装の裾を押さえながら二人のあとを追う。

幾重もの襖をくぐり抜け、ようやく奥向きの最も奥まった一室へたどり着いた。

そこには清潔な布団が一組、敷かれている。慶喜はためらうことなくその布団へ身を滑り込ませると、掛け布を胸元まで引き上げ、まるで最初から床に就いていたかのように目を閉じた。

☆彡

「目付方より参った。慶喜様ご在邸の由、見分に参った。お取り次ぎ願いたい」

家臣たちが必死に引き止めるのも意に介さず、目付役一行はずかずかと奥向きへ踏み込んでくる。

そのころ奥書院では、吹き荒れる嵐の勢いで片付けが進められていた。祝い膳は運び出され、盃も掛け軸も人目につかぬよう片づけられる。

目付役が広間へ足を踏み入れたときには、そこは祝いの痕跡ひとつない、ひっそりとした部屋へと姿を変えていた。

先頭の目付は鼻をひくつかせ、すんすんと室内の匂いを嗅ぐ。

「……妙だな」

祝い酒と香の残り香を感じ取ったのか、訝しげに眉をひそめると、そのままさらに奥へ歩みを進めた。

最奥の部屋で、寧々は戸惑いながら長十郎へ小声で尋ねる。

「長十郎殿、一体何が起きたのですか」

「寧々殿はお隠れくだされ。そのお姿を見られてはなりませぬ。決して見つかってはなりませぬぞ」

祝言の最中であることを知られてはならない――。寧々がそう察したそのとき、不意に着物の袖を軽く引かれた。

「寧々殿、こちらへ」

聞き覚えのある男の声に驚いて振り向くと、そこにいたのは影丸であった。

影丸は寧々を納戸へ導くと、自らも身を滑り込ませ、静かに戸を閉めた。突然のことで拒む暇もなかった。

暗く狭い納戸に、殿方と二人きり。その状況に気づいた途端、寧々の胸に緊張が走る。

「申し訳ございませんが……私には決してお手を触れませぬよう」
「心得ております。慶喜様の奥方に、不埒な真似などいたしませぬ」

落ち着いた返答に、寧々はひとまず胸をなで下ろす。

それでも、狭い納戸では互いの距離があまりにも近い。影丸の静かな吐息がかすかに頬へ触れ、そのたびに寧々の胸は小さく高鳴った。

襖のわずかな隙間から様子をうかがう。

慶喜は布団へ横たわり、掛け布を顎まで引き上げている。傍らには長十郎が控え、神妙な面持ちで座していた。

やがて廊下に重い足音が響き、目付役の男たち三人が部屋へ踏み込んでくる。

「失礼いたす。慶喜様がおられるか、見届けに参った」
「はっ。慶喜様はご気分を悪くなされ、ただ今ご静養中にございます」
「げほっ、ごほっ……うおっほ、うおえっほ……」

布団の中から激しい咳が響く。

「む……。ご病気か」
「はい。流行り風邪と思われましたが、一向に快方へ向かわず……」
「医師には診せたのであろう。何と申しておる」

長十郎は一瞬ためらう素振りを見せてから、小さく声を落とした。

「……あるいは、労咳(ろうがい)やもしれぬ、と」
「なに、労咳だと!?」

その言葉を聞いた目付役たちの顔色がみるみる変わる。伝屍病として恐れられる病と聞けば、誰しも近づきたくはない。

三人は思わず袖で口元を覆い、身体を半歩退いた。布団の中から慶喜が苦しげに顔をのぞかせる。

「お主たちに……頼みがある……。もし私に万一のことがあれば……どうか将軍様へ、一橋の者どもを見捨てぬよう、お伝えくだされ……。げほっ、ごほっ……」

遺言を思わせる言葉に、目付役たちは顔を見合わせた。

「後生の頼みだ……ごほっ、ごほっ!」

慶喜が身を起こしかけ、大きく咳き込む。目付役は慌てて後ずさった。

「わ、分かった。承知したゆえ、こちらへ向かって咳き込まれぬよう!」
「……かたじけない」
「慶喜様ご在邸、確かに見届けた。もはや用はない。引き揚げるぞ!」

目付役たちは逃げるように踵を返し、足早に去っていった。

その姿が見えなくなるまで、長十郎は深刻な面持ちで手を合わせ、まるで病魔を祓う祈祷のように、低く経文めいた言葉を唱え続けていた。

☆彡

「はっはっはっ! 目付の連中め、労咳と聞いた途端、腰を抜かさんばかりであったな!」
「まったくじゃ。戦国を生き抜いた武士の末裔ともあろう者が、平和に毒されてしもうたみたいだな」

目付役を見事に追い払った慶喜と長十郎は、膝を叩きながら声を上げて笑った。

侍女や家臣たちも皆、してやったりと顔を見合わせ、安堵したように頬を緩めている。中断されていた祝言も、何事もなかったかのように再び始まった。

慶喜の隣に座る寧々は、その様子をぽかんと眺めていた。

あれほど息の合った芝居である。目付が現れた時の対処は、あらかじめ皆で申し合わせていたに違いない。

そのとき、ふと志乃の話が脳裏によみがえる。

井伊直弼が慶喜を蟄居の身とし、目付を差し向けて厳しく監視している――。

――そうか。

一橋家の人々は皆、慶喜を守るため、一丸となって目付を欺いているのだ。

理不尽な処分によって自由を奪われた主君を支えるため、家臣も女中も、それぞれが己の役目を果たしている。

人の情がもたらす嘘だと思うと、寧々の胸は不思議と温まる。

「ところで、奥方の見分のときは、屋敷を出ることができたのでしょうか」

尋ねると、慶喜は悪戯に気づかれた子供のような顔で告白した。

「ふふっ、無論、お忍びではあるがな。流石に一橋家へ迎え入れる者が、余の満足できる者かどうか、確かめなければ納得できるはずもない」

どうやら、見分のときだけ屋敷を抜け出してきたらしい。万一、目付役に見つかったら大事になるはずだ。

やがて祝言の席も落ち着きを取り戻し、家臣や女中たちが代わる代わる寧々へ挨拶に訪れた。

落ち着いた物腰の女性がしずしずと歩み寄り、寧々の前で膝をつく。

「徳信院と申します。よう参られました。これから一橋家の一員として、お力添えをくださいますよう」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

徳信院は、亡き先々代当主の正室であったという。慶喜にとっては養祖母にあたるが、祖母と呼ぶにはあまりにも若い。穏やかで親しみやすい雰囲気が姉のような安心感を与えてくれる。

次に、腰の曲がった老女が、杖代わりの手を膝に添えながら、にこやかに歩み寄ってくる。

「あっ、見分の折に、道へ蜜柑をばらまいていたお婆様ですね」
「ひっひっひ。わたくしは奥年寄の尼音と申します。どうぞ、お見知りおきを」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

尼音は、先君・一橋慶寿の代から奥に仕え続けている女中だという。

長年の奉公ぶりを認められ、奥年寄を任されているのであろう。一橋家の内情を最もよく知る人物に違いなかった。

その尼音と入れ替わるように、小柄な侍女が待ちかねていたように飛び出してきた。猫のようにつり上がった目を細め、人懐こい笑みを浮かべる。

「あちきは夢桜って申しんす。今は毒見役なんぞを務めておりんす。どうぞよろしゅう」

そう言うなり、寧々の手を握り、ぶんぶんと勢いよく振った。

「あ……寧々と申します。よろしくお願いいたします」
「お任せくだせぇまし。一橋様のお料理は、あちきがきっちり毒見いたしんす」

その明るさに、寧々も思わず笑みを浮かべる。だが夢桜は、不意に声を潜め、悪戯っぽく上目遣いになった。

「それとなぁ、夜伽のことなら、あちきが何でも教えて差し上げんす。遠慮はいりんせんよ」
「えっ……?」

思わぬ言葉に、寧々は頬を赤らめた。その口ぶりと物怖じしない様子から、夢桜はかつて遊郭に身を置いていたのだろうと察する。

遊女から毒見役へ――。

苦界とは、毒を口にすることよりなお過酷な場所だったのかもしれない。それでも夢桜は、そんな過去を微塵も感じさせないほど朗らかに笑っている。

(ねや)のことなら、きっと誰よりも心得ているに違いない。そう思うと、寧々は少しだけ心強く感じるのだった。

膳に並んだ料理を口へ運ぶ。

鯛の姿焼きも、きのこの吸物も上品な味わいであった。しかし、口にした頃にはすっかり冷めきっている。祝言の途中で騒ぎになったためもあるが、毒見を済ませる以上、料理が冷めるのは避けられないのであろう。

寧々の脳裏に、源作たちと囲んだ熱々の猪鍋がよみがえった。

湯気を立てる鍋を囲み、同心たちと汗を流した稽古の後に食べたあの味。あれほど何気ないひとときが、今となってはひどく懐かしい。

これからは、あのような熱い料理を口にすることもなくなるのかもしれない。そう思うと、胸の奥に寂しさが込み上げた。

もう一つ、気がかりなことがあった。

正室・美賀子のことである。

幼子を亡くした悲しみが癒えぬうちに、夫が新たな側室を迎える――。

この祝言の席に姿を見せぬのも当然の立場である。だが、その胸中はいかばかりであろう。寧々は、美賀子の悲しみを思うと、いたたまれない気持ちになった。

そのとき、影丸が静かに歩み寄り、寧々の傍らに片膝をつく。周囲に聞こえぬよう、低く囁いた。

「では、今宵、殿の御寝所へお越しくだされ」

どくん――。

胸が大きく脈打つ。それは、初夜の支度をせよという意味にほかならなかった。

ついに、この時が来た。慶喜殿との初夜。

何としても感情を押し殺し、何事もなく切り抜けなければならない。

殿方に牙をむくような真似をすれば、自らの素性を疑われる。

それだけは、何としても避けねばならないのだから――。