華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

秋の深まる肌寒い曇天の朝、寧々の家に一橋家から迎えが来た。

正室の奥入りは婚礼行列ができ、輿(こし)が運ばれ、多くの供侍や女中がお供する盛大なものになると聞いたことがあった。けれど、側室の奥入りは質素だった。

駕籠かきが二人と、女中が一人だけ。

「志乃と申します。寧々様をお迎えに上がりました」
「ご足労くださり、ありがとうございます」

志乃という女中は齢三十ほどで、いくぶんふくよかな体つきをしていた。

身支度は、稽古場の女中たちが「最後の奉公ですから」と言いながら整えてくれた。控えめに化粧を施し、髪を結い上げ、縮緬(ちりめん)の小袖をまとわせる。稽古着とは違う着心地に違和感はあるが、これからは奥方として、この正装にも慣れなければならない。

さして多くない荷物を携え、源三に別れの挨拶をして家を発つ。

駕籠に乗るよう促され、「べつに歩いて参りますので」と遠慮した。

けれど志乃は、「そのような扱いは滅相もございません。どうか私の役目もお察しください」と言って折れなかったため、申し訳なく思いながらも駕籠に乗り込んだ。

揺られる駕籠の中から、隣を歩く志乃に話しかける。

「志乃に尋ねたいことがございます」
「なんでございましょう」

志乃は寧々のそばへ寄る。

「一橋家の奥方として選ばれたことは光栄ですが、どうして側室が必要になったのでしょうか」

志乃は少し困ったような顔をしたが、しばし思案したのち、

「寧々様にもお知りおきいただきたいことですので、簡単にお話しいたします」

と言って話し始めた。

「しばらく前、正室の美賀子様は長女を出産されました。けれど、その姫君は原因も分からぬまま、生後四日で夭折(ようせつ)してしまいました。悲嘆に暮れた美賀子様は、それ以来ふさぎ込んでおられるのです」
「それは悲しいことですね」
「このまま美賀子様のお心の傷が癒えるのを待っていては、お世継ぎが誕生するのはいつになるか分かりません。ですから、一橋家の存続のために、新しい奥方が必要だったのではないかと思います」

それならば事情は理解できる。けれど腑に落ちないのは、なぜ由緒ある家柄ではなく、一般の民の中から選んだのかということだ。尋ねると志乃は首を傾げた。

「さあ、その理由は私にも分かりません。ただ……厳しい見分があったと聞いておりますので、それだけの理由が必要だったのかと思います」

多勢の中から選ばなければならない理由があるとすれば――相応の資質を備えた者、一橋家の内情を知らぬ者、あるいは――捨て駒にしても構わない者、ということだろうか。

「認められた寧々様は、すばらしい教養と健康をお持ちなのでしょうね」

志乃は敬意を込めた眼差しで寧々を見て、やさしく微笑んだ。

人選の見分を思い返すと、教養と健康はたしかに試されていた。しかし、それだけでは説明のつかない何かを求められていたような気がしてならない。

寧々は駕籠に揺られながら、ぼんやりと見分の日のことを思い返していた。

☆彡

お触書に記された桜田門には、寧々と同じくらいの年頃の娘が百人以上集まっていた。奥方の人選を仕切っていたのは、長十郎という名の五十代ほどの武士である。無精ひげの似合う精悍な顔つきだが、その落ち着いた立ち居振る舞いには高い知性が感じられた。

「皆の者よ、よくぞ参られた。これより一橋家の奥方としての見分を始めますぞ」

期待と不安を抱いた娘たちは、長十郎の指示に従いぞろぞろと歩き出す。

案内された長安寺は、黒塀に囲まれたさほど広くない寺であった。山門をくぐると、ひっそりとした静けさが漂っている。踏み固められた白砂の参道に、若い娘たちの足音が重なってゆく。

本堂では何人かの若い僧侶が待ち構えていた。娘たちは振り分けられ、順番に本堂へ上がってゆく。寧々も言われるがまま本堂へ上がり、ひとりの僧侶の前に座った。机の上には和紙と筆が用意されていた。

「では、しかるべき書類をいただけますかな」
「はい、こちらでございます」

最初に源作から預かった身元を保証する書付と一札を渡す。僧侶は一札に目を通すと、

「この内容に相違はありませんか」

と尋ねながら、寧々の前へ広げた。

『孫・寧々は、これまで他家へ嫁したことなく、遊女・飯盛女などの稼業に携わったこともなく、身持ち正しく育てましたことを相違なく保証いたします』

「もちろんでございます」

寧々がまっすぐに答えると、僧侶は頷いた。

「では次に、私が申すとおり、誓約文を書いてください」

そう告げ、和紙と筆を差し出した。僧侶の言う誓約文は、このような内容だった。

『家内の者どもと和睦を旨とし、私事をもって争論いたさず、一橋家御繁栄のため、忠節を尽くし相勤め申し上げ候こと』

最初は、読み書きの教養を試すものだと察した。難なく書き終えると、僧侶はさらにこう付け加えた。

「ではもう一文、誓約があります。この誓約の意味を、正しく(・・・)、お察しください」

その言い方に引っかかるものを覚えた。しかし、思案する暇もなく、僧侶は誓約を読み上げた。

『もし背信・不忠これあり候はば、死罪に処せられた後、一切異議申し立て候まじく候』

意外にも物々しい内容に、寧々の筆ははたと止まった。聞いた限りでは、命を懸ける覚悟を問うものだろう。

だが、正しい意味とは、そんなに単純なものではないはずだ。では、その正しい意味とは――?

聞いた瞬間に覚えた、ほんのわずかな違和感が胸に引っかかる。寧々はしばらく考えた後、「もう一度、その誓約をお聞かせください」と頼んだ。

僧侶はためらうことなく、もう一度読み上げる。その言葉を反芻した瞬間、寧々ははっと息をのんだ。

「なるほど。この一文に込められた矛盾(・・)に気づけるかどうか――それを問うているのですね」

僧侶は、ふっと口元を緩めた。その表情の変化に、寧々は己の直感が正しかったことを確信した。

「死罪に処せられた後に異議を申し立てるなど、できるはずがございません。裏を返せば、死罪に処せられる前であれば、異議を申し立てることができる、という意味でございますね」

つまりこれは、命を賭ける覚悟を問うているようであり、じつは冷静に物事を見抜く力を試す問いなのだ。

同時に、こんな問いをふっかける家主とは、いったいどんな人間なのかという興味が湧いてきた。

寧々が筆了するのを確かめた僧侶は、和紙を受け取ると納得したように頷き、裏手へと案内した。

小部屋には作務衣と地下足袋が用意されていた。僧侶は、「着替えたら裏手で待たれたし」と言い残し、その場を去っていった。

着替えて裏口へ出ると、寧々と同じように作務衣へ着替えた娘が数人待っていた。

その後もぽつぽつと人数は増えたが、最終的に裏口へ集められたのは二十人ほどだった。

そっと表口を見に行くと、ほとんどの娘は参加したときのままの身なりで参道に待たされていた。

やがて長十郎が現れ、その娘たちに向かって、「では、ここにおられる皆様は、これから良き伴侶をお探しください」と告げた。

見分の結果を悟った娘たちは、がっくりと肩を落として山門をくぐり、帰路につく。

中には長十郎に懇願する者もいたが、長十郎は「未練がましい者に武家の奥方は務まりませぬ」と厳しい表情で言い放ち、一蹴して背を向けた。

――どうやら、最初の関門は通り抜けられたみたいだ。

取り立てられなかった娘たちが掃けると、長十郎は寧々たちを表へ呼び出した。残った娘たちは、少なからぬ喜びを顔に浮かべながら表へと向かった。

「では、次の見分です。ここから一里余り先にある日本橋まで走っていただきます」

皆が「承知しました」と返すと、順に番号札と腰紐が渡された。寧々は「四番」を受け取る。娘たちは皆、番号札を落とさぬよう腰紐で結びつけた。

どうやら、足の速さと体力を競わせる試しが始まるらしい。

寧々は集められた娘たちの様子を見回した。娘たちはその道筋を頭に入れると、身体をほぐし始めた。

やがて鳥居の前に一列に並ぶ。

「では、始め!」

合図とともに娘たちはいっせいに駆け出した。寧々も後に続く。

長安寺を出ると、武家地を貫く堀沿いの道が続いている。橋を渡るたびにわずかな起伏はあるものの、足を取られるほどの坂はない。

寧々は走りながら考えていた。健康な娘を所望しているのだから、志願者の体力を較べていると考えるのが当然だ。無論、誰にも負けるつもりはなかった。

だが一方で、そんな単純な見分ではないのでは、という疑問が拭えない。

胸の引っかかりを覚えながら、周囲の様子をうかがいつつ、集団の最後尾について走る。

やがて武家地を抜けると、次第に人通りが増え、日本橋の賑わいが近づいてきた。

日本橋へ差しかかると、人や荷車、駕籠が絶え間なく行き交い、思うように足が進まなくなる。

折悪しく、町人たちが黒山の人だかりを作っていた。耳に届く噂話の端々をつなぎ合わせると、人気役者が呉服屋の店先に姿を見せるらしい。野次馬が我先にと押しかけ、往来はすっかり塞がれていた。

娘たちは人波を強引にかき分けながら先を急ぐ。寧々は細心の注意を払って人を避けていたので、必死に前を行く娘たちと差が開いていった。

壮健さを競うのであれば、早く着くに越したことはない。しかし、本気を出せばあまりにも目立ってしまう。それがきっかけで素性が知れたら一大事だ。

あたりの様子をうかがうと、帳面と筆を手にして何かを書き留めている町人がいることに気づいた。目を凝らすと、ほかにも何人かが同じように帳面へ筆を走らせ、頻繁に娘たちへ目を向けている。

寧々はその様子が妙に気になった。前を行く娘たちの背中を見つめながら、もしかすると、この見分の目的は――と、ひとつの考えが頭をよぎる。

ふと、自分に向けられる誰かの視線を感じた。気配を探ると、木陰に身を隠すようにこちらをうかがう武士の姿があった。

背は高く、頭一つ抜きん出ている。すらりと伸びた手足に、凛とした姿勢。齢は二十を少し過ぎた頃だろうか。物陰から姿を現そうとはしないが、妙に人目を引く風貌だった。

一瞬、その武士と視線が合った。

胸がざわめき、時が止まったような感覚に襲われる。

武士は気づかれたと思ったのか、視線を切って身を隠した。けれど寧々の胸のざわめきは収まらず、その姿が消えた場所からしばらく目を離すことができなかった。

ようやく人混みを抜けようとしたところで、粗末な身なりをした足の不自由そうな老婆が路上にうずくまっていた。背負っていた籠が倒れ、中から蜜柑が辺り一面に転がっている。いくつかは往来の人々に踏まれ、果汁をにじませていた。

老婆は地を這うようにして、転がる蜜柑を一つひとつ拾い集めている。

寧々の逡巡は一瞬だった。足を止めると、蜜柑を拾い集めて籠へ戻し、老婆の腕を取って静かに立ち上がらせた。

「ご老人、お気をつけなされませ」
「かたじけない。若いお方じゃのに、情け深いことよ」
「いえ、お役に立てたのでしたら何よりです」

これで一番乗りは叶うまい。そう思いながらも、不思議と不安はなかった。なぜなら、この見分は日本橋へたどり着く速さだけを競うものではないと、寧々は確信したからだ。

立ち上がり、老婆に一礼すると再び走り出した。

寧々が日本橋の指定された店先へ着いた頃には、ほかの娘たちはすでに集まっていた。帳面を手にした番頭風の男が、志願者たちの名を順に書き留めている。

「申し訳ございませぬ。遅参いたしました」

寧々は腰につけていた木札を外し、両手で差し出して深々と頭を下げた。番頭は木札の番号を確かめると、穏やかな口調で言った。

「しばしお待ちなされ。ここに到着した順にお呼びします。ただし、新しい奥方が決まりましたら、そこで終わりとなります」
「さようでございますか」

娘たちは茶屋の前で待たされていたが、到着した順に茶屋の中へ呼ばれてゆく。

最初に着いた者は己の勝ちかと浮かれていたようだが、出てきた時には狼狽した様子で、涙を流しながら茶屋を後にしていた。

どうやら、最後の審判はまだ下されていないらしい。同時に寧々は、自身の想像が的を射ているのだという確信を深めていった。

やがて番頭が帳面から顔を上げ、寧々を呼ぶ。

「四番の――寧々殿。どうぞ、お入りくだされ」

いつの間にか、茶屋に残っているのは寧々ただ一人となっていた。

☆彡

時は数十分前に戻る。

日本橋の往来には、町人や旅人、物売りたちが思い思いに過ごしていた。

道端で世間話に興じる者、店先で品物を並べる者、荷を担いで行き交う者――一見すれば、いつもの日本橋の賑わいである。

だが、その場にいる者の多くは、一橋家の息のかかった者たちであった。

「ついに、この役目の時が参りましたな」
「しかし、君主殿のお考えには恐れ入る。家柄や血筋だけでは、人の器は量れぬというわけですな」
「近頃の若者は礼を失する者も多い。見どころのある娘がおればよいが」
「そのようなことを申されると、ご隠居のように聞こえますぞ」
「ははは、まだまだ若い者には負けぬわ」

穏やかな笑いが広がった、その時である。

往来の向こうから、腰に木札をつけた娘たちがいっせいに姿を現した。皆、息を切らしながら、我先にと日本橋の袂を目指している。

「参りましたぞ」

一人が小さく声を上げる。

「持ち場につけ」

低い号令とともに、家臣たちは何事もなかったように散っていく。ある者は店先へ、ある者は荷担ぎとなり、またある者は道端で人気役者の噂話を始めた。

やがて一人の老婆が、背負っていた籠をゆっくりと地へ下ろす。その籠には色鮮やかな蜜柑がぎっしりと詰まっていた。

老婆は周囲を見回し、小さくうなずくと、籠を静かに傾けた。

蜜柑がころころと往来へ転がる。老婆もまた、よろめくように地へ伏した。

一橋家の家臣たちは、それぞれ何食わぬ顔で持ち場につきながら、志願者たちの振る舞いを注視していた。

娘たちは我先にと、人で埋め尽くされた往来へ飛び込んでゆく。肩をぶつけ、人を押しのけ、無理に道を切り開いてゆく。

町人に扮した番頭や手代たちは突き飛ばされ、肩を弾かれ、履物を踏まれても声一つ上げない。

詫びることなく駆け去る娘たちを見て、帳面を手にした男が静かに筆を走らせる。

「九番、十八番、二番……見込みなし」

その先では、粗末な身なりの老婆が往来にうずくまっていた。背負っていた籠は倒れ、中から蜜柑が辺りへ転がっている。

老婆は地を這うように蜜柑を拾い集めようとする。

だが、一人の娘がその蜜柑を踏みつけた。潰れた蜜柑の汁が老婆の顔へ飛び散る。老婆は思わず目を押さえた。

娘は老婆へ一瞥をくれると、小さく舌打ちし、そのまま走り去ってゆく。

「六番、まったく見込みなしッ!」

思わず駆け寄ろうとした手代たちを、老婆は手を上げて静かに制した。しかし、刻限を気にする娘たちは誰一人として足を止めない。町人に扮した番頭や手代たちは顔を見合わせ、思わず顔を曇らせた。

しかし、最後に駆けてきた娘だけは違っていた。

腰の木札には、「四番」と記されている。

娘は人波へ歩み寄ると、「失礼いたします」、「申し訳ございませぬ」と幾度も頭を下げながら、人々の間を静かに通り抜けてゆく。

その慎ましい立ち居振る舞いに、人々は自然と道を譲った。

やがて娘は、往来に倒れた老婆へ目を留める。

迷わずしゃがみ込むと、転がった蜜柑を一つひとつ拾い集め、老婆の籠へ丁寧に戻していった。

拾い終えると、老婆へそっと手を差し伸べる。老婆は感慨深げにその手を握り、ゆっくりと立ち上がった。

「ご老人、お気をつけなされませ」
「かたじけない。若いお方じゃのに、情け深いことよ」
「いえ、お役に立てたのでしたら何よりです」

娘は一礼すると、そのまま足早に目的地へ向かっていった。

老婆は娘の背中を静かに見送り、やがて立ち上がる。

近くで町人を装っていた番頭を手招きすると、低い声で告げた。

「四番の娘は、必ず奥へ通してください」

その一言に、正体を隠していた番頭や手代たちは顔を見合わせ、小さく笑みを交わして静かにうなずいた。

その一部始終を、少し離れた木陰から、一人の若い武士が黙って見つめていた。

☆彡

寧々が茶屋へ通されると、そこには二人の侍が静かに控えていた。

「あ……」

一人は長安寺にいた長十郎。そしてもう一人は――道中で目の合った若い武士であった。寧々は目を丸くし、同時に胸が高鳴った。

やはり、あの武士は私たちの様子をうかがっていたのだ。

漆黒の髪を乱れなく結い上げ、切れ長の涼しい目元は秋の三日月を思わせる。すっと通った鼻梁に薄い唇。その端正な顔立ちは、戦場とは無縁の品格をまとっていた。思わず視線が吸い込まれてしまう。

「私が見ていたことに気づいたのは、おそらく其方だけでしょう」

その言葉に、寧々ははっと我に返った。

「失礼いたしました。視線を感じたもので」

畳へ座り、頭を下げると、その若い武士が穏やかな声で問いかけてきた。

「私の名は影丸。そなたを改めて吟味することはいたさぬ。ただ、一つだけ尋ねたいことがある」
「なんでございましょうか」

寧々は頭を上げて背筋を正した。

「なぜ、必死にたどり着こうとはしなかった」

その一言は、寧々が本気で走っていなかったと見抜いている気配に満ちていた。しかし、責めるでもなく、ただ事実を問う声音だった。それでもこの影丸という男には――ただの侍とは一線を画す、己の世界を有するような雰囲気を纏っている。

寧々は慎重に、息を整えて答える。

「長十郎様は、『ここから一里余り先にある日本橋まで走っていただくことです』とおっしゃいました。ですが、この混雑した道中については何も仰いませんでした。慎重にならざるを得なかったのです」
「ふむ、用心深さの裏返しといことか」
「それに、道中での町人たちの様子に違和感を覚えました。ですから、単に早く日本橋へ着くことだけが、この見分の目的ではないと思い至りました」

影丸と長十郎は静かに顔を見合わせた。長十郎は顎の無精ひげを擦りながらさらに問う。

「其方は勘が鋭いようだな。では、もし吟味だと気づかなかったとしても、あの老婆へ手を貸したか」

寧々は迷わず頷く。

「目の前で困っているお方を見過ごすことはできませぬ。たとえ刻限に遅れ、召し抱えていただけぬことになろうとも、それだけは人として違うと思いました」

長十郎は静かに頷いた。

「人は己の利を優先すると、情けも礼も忘れる。されど、一橋家に仕える者は、いかなる時も人の道を踏み外してはならぬ。武芸や学問はいずれ磨けよう。しかし、人としての誠ばかりは、後から身につけられるものではない」

そう言って隣へ目を向けた。

「そうだろう、影丸」
「同感でございます」

影丸は頷き、茶屋の奥へ視線を送る。やがて姿を現したのは、先ほど往来に倒れていた老婆だった。

「ひっひっひ。よくできた娘でございますね」

老婆は嬉しそうに笑った。その笑顔を見た瞬間、寧々の肩からふっと力が抜けた。町民の誰も老婆に手を貸さなかったのは、皆がこの見分の立役者であったからなのだ。

「一橋家は、お人が悪うございます。まさか、これほど大掛かりな見分とは思いもよりませんでした」

三人の口元に笑みが浮かぶ。やがて影丸が静かに問いかけた。

「では、私から最後に一つ。――なぜ我らは今、この見分の趣意をそなたへ明かしたと思うか」

その問いを聞いた瞬間、寧々の胸は高鳴った。答えは一つしかない。

「私を召し抱えてくださる、おつもりだからでございましょうか」

その時だった。襖が静かに開く。

三人はいっせいに平伏した。寧々も慌てて頭を下げる。襖の向こうには、一人の武士が静かに立っていた。

齢は三十を少し過ぎた頃に見える。精悍な顔立ちには知性が宿り、その眼差しは人を射抜くような力強さを秘めている。一家を率いる当主としての風格が、その身から漂っていた。

――このお方が、一橋家当主。

一橋慶喜。

「そなたの誠、しかと見届けた。聡明にして健やか、なおかつ慈愛の心を持つ者こそ、一橋家の奥向きにふさわしい。さあ、参れ。余は、そなたの力を借りたい」

寧々は深く頭を下げた。

「身に余るお言葉にございます」

震える声でそう答えると、畳へ両手をつき、額が畳に触れるほど深く礼をした。

「この命、一橋家のため、誠心誠意お尽くしいたします」