時は過ぎ、蓮の花が咲き始める頃となった。
ある日、唐突に影丸のもとへ一通の書状が届いた。表には、黒々とした筆字で『果たし状』と記されている。
だが、それを改めた長十郎は、首を傾げるばかりであった。
なぜなら、書状の中には何も記されていない和紙が一枚、収められているだけだったからである。
「まったく、たちの悪いいたずらでございますな。捨ててまいります」
「待て、長十郎。その書状は俺が預かろう」
「なぜでございますか?」
「少々、気になることがあってな」
長十郎は腑に落ちぬ顔をしながらも、書状を影丸へ差し出した。影丸はそれを受け取ると、丁寧に懐へ収めた。
なぜなら、その筆跡は寧々のものに間違いなかったからである。
かつて見分の折に記した誓約文――『家内の者どもと和睦を旨とし、私事をもって争論いたさず、一橋家御繁栄のため、忠節を尽くし相勤め申し上げ候こと』――を、何度も見返していた影丸だからこそ、そのことに気づくことができた。
寧々が、意味もなくこのような書状を寄越すはずがない。ならばこれは、寧々から影丸への言伝なのだ。影丸は、すぐさまそう悟った。
もしも影丸が寧々の正体に気づいているのであれば、この書状に隠された文字を読み解くはずだ――寧々はそう考え、この書状を寄越したのだろう。
そう察した影丸は、自室へ戻ると書状を開き、行灯の火にかざした。
すると、和紙の上に淡い影が浮かび上がり、やがて文字が一字、また一字と炙り出されていった。
このような手を使うということは、やはり寧々は隠密に違いない。
ならば、何らかの目的をもって一橋家へ入り込んだのだ。寧々は一橋家にとっての脅威だったはずなのだ。
だが、それらすべての立場を超えて――何よりも愛おしい、己の相棒であった。
寧々が姿を消して以来、影丸は寧々の存在の大きさを、嫌というほど思い知らされていた。
だからこそ、この『果たし状』に応じぬはずはなかった。
炙り出された書状には、こう記されている。
『六月十六日の亥の刻。夜四つの鐘が鳴る頃に、不忍池のほとりで待つ』
影丸は、その文字をじっと見つめた。やがて奥歯を強く噛み締めると、静かに刀を手に取った。
ゆっくりと刀身を抜き放つ。そして、刃に映る己の顔を見つめた。
淡い行灯の光を受けた影丸の顔には、大切なものを断ち切る覚悟の悲哀が滲んでいた。
★
夜の帳が落ち、約束の刻が近づいてきた。
影丸は剣を腰に携えて立ち上がる。家臣に気づかれぬよう、屋敷を出た。
満ちた月が天の頂を目指す。その光に照らされ、不忍池の水面が揺れながら淡く光を放っている。
呼び合うような蛙の鳴き声、風に揺れる草のささやき、踏みしめる砂利の音。
かつて、呪いの正体である尼音をおびき寄せるために通った道だ。
影丸は、まさかここで寧々を待つことになるとは、想像だにしなかった。
不忍池のほとりに着くと、着物を身に纏った若き女性の姿があった。その女性は、蓮の花を一輪、胸元に抱いている。
見間違うはずがない。しばらくの間、一橋家で影丸と時を共にした相棒、寧々であった。
相も変わらず美しいな――と、影丸は目を奪われる。
「待たせたな、寧々」
声をかけると、月の光に照らされた寧々は、悲しげな笑みを浮かべた。
「あの襲撃のとき、なぜ俺を助けた」
隠密として忍び込んだのであれば、その目的は尼音同様、徳川家の血筋を途絶えさせることであろう。
ならば、影丸を助けるという寧々の行動は、隠密の目的とは矛盾しているように思えたのだ。
寧々はひとつ、ため息を吐いてから、口を開く。
「私の任務は、あなたを殺めることではありません。ただ私自身が、あなたには生き延びて欲しかったのです」
影丸は黙って、寧々の言葉を胸の中に受け止める。
「一橋家に上がってからというもの、胸がこそばゆくなるような時間を過ごすことができました。まるで失った家族を再び持てたような気持ちにすらなったのですよ」
寧々は、まるで過ぎ去った日々を懐かしんでいるようであった。
「けれど、あなたと私の目指す道は、決して交わらないものです」
寧々が着物の袖をまくると、そこには襲撃で戦ったときの手甲が装着されていた。手甲には、武器である鎖が巻き付けられている。
「あなたが私の正体を知った以上――共に生きていける未来は、もうございません」
寧々は抱えた蓮の花を手に乗せ、そっと池の方へ手を伸ばす。花ははらりと落ちて水面に浮かび、ゆったりとした波紋を広げる。
同時に、手に巻いた鎖がじゃらりと音を立てて伸びる。
振り向いた寧々の目は鋭く、それはまさに忍の目であった。
「それでは、最初で最後のお相手を、お願いいたします」
影丸は覚悟を決め、刀を抜いて構える。
「いざ、尋常に勝負!」
一瞬、風が二人の間を吹き抜けていった。
最初に技を繰り出したのは、寧々であった。
寧々は素早く間合いを詰めると、瞬時に鎖を放ち、影丸の構えた刀身を狙う。
だが、影丸は素早く身を躱した。鎖を引き戻す隙をついて踏み込み、寧々の懐に潜り込む。
二人の視線が間近で交錯し、火花を散らす。
影丸は剣の柄を寧々の鳩尾に打ち込む。
だが、寧々はいち早くその動きを読み、鎖を持つ手とは反対の手甲で柄を弾き飛ばした。
影丸はわずかに身を引き、間合いを取った。刀を振りかぶり、寧々の右肩めがけて打ち下ろす。
しかし、寧々は両手に持った鎖を水平に広げ、刀を受け止めた。
刀の動きが止まった瞬間、寧々はその刀身を両手のひらで挟み、動きを封じる。そして、影丸の腹に蹴りを入れた。
影丸は数歩後ずさりしたが、どうにか堪え、腹を押さえながら寧々を睨み返す。
だが、直後、目の前まで打突が迫っていた。影丸はすんでのところで身を翻し、躱した。
「なかなかやるな。さすが寧々だ」
「影丸……なぜ見え透いた技を繰り出すのです」
寧々は、影丸が本気でないと見抜いていた。寧々の技量であれば、たやすく受け止められる刀筋の技を、敢えて繰り出していたのだ。
「ふふ、さすがに騙すことはできなかったか」
「本気でやらねば、一橋家の血筋は今夜、途絶えるかもしれません」
「それは大いに困るな」
影丸は、ふっと一度口元を緩めてから、表情を引き締める。
「ならば、今度こそ本気で参る!」
影丸の集中力が高まっていくのを、寧々は感じていた。
鮮やかな連続の剣技が繰り出される。寧々はひとつひとつの刀の軌跡を見切り、手甲で受け止めながら思う。
影丸……いや、一橋慶喜。
私の心をざわつかせ、任務すら忘れさせようとするほど焦がし、振り回し、そして魅了した張本人。
一橋家を去ってから、あなたを思い浮かべて、どれだけ心を焦がしたことであろうか。あの、振り回されながらもともに過ごした日々が、どれだけ愛しかったことか。
でも、その日々はもう二度と戻らない。
一橋家を去ってから、喪失は心臓に打ち込まれた楔となり、胸を痛める日々を生きてきた。
その痛みを抱えたまま生きていくのは、あまりにも苦しい。その苦しみを抱えて生きるには、人生はあまりにも長すぎる。
ならば、いっそ――。
影丸から、稲妻のような剣技が繰り出される。
もう、避ける気など微塵もなかった。
忍として逝くのならば、引導を渡す者は、せめて自ら選びたい。
その願いが今、叶うのだ――。
浮かぶ涙に揺らぐ夜の中、白銀の刀身が光を放つ。寧々はそっと目を閉じた。
ところが、風の流れが止み、静寂だけが残された。
恐る恐る目を開くと、影丸の刀身は寧々の喉元、すんでのところで止まっていた。
寧々はわずかに息を吸い、悔しさを込めて唇を開く。
「……あなたはいつも煮え切らない方ですね。そのせいで、私がどれだけ焦らされたことか」
「黙れ!」
「私はあなたの敵でございます。相容れるはずなどございません。もう終わりにいたしましょう」
「黙れと言っているのだ!」
「私の口を閉ざしたければ、潔く殺し――」
その瞬間、寧々は言葉を発することができなくなった。
寧々自身、驚きで息が止まった。いや、息を吸うことすらできなくなっていた。
寧々の桃色の唇が、影丸の唇に塞がれていたのだから。
「ん……っ!!」
影丸の体温が唇から伝わり、全身が痺れるような恍惚感に満たされる。その恍惚感が、死の恐怖と絶望を一瞬で消し去った。
寧々は、身動きひとつ取ることができなかった。
唇が離れた後、全身の力を奪われ、へなへなとその場に崩れ落ちた。
「影丸……無言での口塞ぎは大罪にございます。ちゃんと心構えをさせてくださいと、お伝えなさったではありませんか」
唇を震わせ、そう喋るだけで精一杯だった。声も弱々しくなる。
「勝気な寧々は、どこかへ行ってしまったようだな。ならば、勝負はおあずけだ」
影丸に魅入られてからというもの、触れられると、すべてを奪われてしまう。身も心も、言うことを聞かなくなってしまうことを、寧々自身、嫌というほど自覚していた。
影丸は、逃げ出したくもあり、すべてを委ねたくもなる――そんな相手でもあった。
影丸は刀を置き、寧々の両手を取る。そして、じっと瞳の奥を覗き込む。
「寧々、聞いてほしいことがある」
「なんでございましょうか……」
寧々は、火照った顔と潤んだ瞳で影丸を見返す。
影丸は凛々しい表情で、まっすぐに目を向けていた。影丸が真摯に向き合うがゆえに、寧々は任務と己の感情の狭間で、さまよい続けていたのだ。
「俺はずっと思っていた。あんなくだらない政争で、どれだけ大切な人間の命が奪われたことか。どれだけの悲しみを人々にもたらしたことか」
「それが、この世の常でございましょう」
寧々はぼんやりしながら答えた。だが――。
「俺は決めた。俺が、次の将軍になる」
「突然、どうされたのでしょうか」
影丸は身分や肩書きに興味などなさそうだった。それなのに、なぜ唐突にそんなことを言い出すのか。すると――。
「俺が江戸幕府に終止符を打つためだ」
江戸幕府を、終わらせる……?
「ど……どういうことでございます?」
なぜ影丸が幕府を終わらせるなどと口にするのか、寧々には理解できなかった。だが、影丸の表情には、揺るぎない決心が色濃く浮かんでいる。
「いつまでもくだらぬ政争を続けておれば、哀しみに胸を痛める者が次々と出てくるであろう。だが、政権を手放せば、すべての武士から戦う理由を奪うことができるからだ」
まさか、影丸がそんなことを考えているとは、つゆにも思わなかった。
「もしそうであれば、誰が国を治めるのですか」
すると、影丸は不敵な笑みを浮かべた。
「朝廷に政治の権限をお返しする。俺が目指すのは、そう、まさに――『大政奉還』なのだ!」
数百年続く幕府の時代を終わらせ、日本を戦いのない世界へと導く――寧々は、その壮大な計画に圧倒された。
「ならば、その先に、おぬしと生きていく道はないであろうか」
寧々は混乱する頭を整理し、ひとつずつ絡み合う紐を解いていく。
寧々の隠密としての使命は、幕府を衰退させ、朝廷の権限を取り戻すこと。尼音が推察した通り、寧々にとっての『主上の者』は孝明天皇なのだ。
だが、もしも影丸が将軍の座を奪い取り、幕府の幕を下ろすというのであれば――。
図らずも、寧々と影丸の目指す道は交わっているのだ。
寧々は思わず、影丸の胸元を掴んでいた。
「も、もしよろしければ、私にその計画のお手伝いをさせていただけないでしょうか」
影丸は一瞬、驚いた表情をしたが、すぐさま口元を緩めて言う。
「おぬしがいれば、心強いことこの上ない」
寧々の表情は、光を浴びたように煌めく。
それは、決して交わることのなかった当主と忍が、同じ未来を見据えた瞬間であった。
「こんな私でも、よろしいのでしょうか」
寧々は肩を震わせて、影丸の胸に顔をうずめた。
「寧々は寧々だ。俺にとって、寧々は同じ使命を担う相棒であるからな」
寧々は影丸の胸の中で顔を上げ、言葉を返す。
「それ、かつて私が言ったことのように思いますが」
「そういえば、そうだったな。だが、この言葉は俺の本心そのものだ」
これからも一橋家の姫として、慌ただしい日々を送ることができる――。寧々は嬉しくてたまらなかった。
「無論、おぬしのことをこれ以上詮索するつもりはない。信頼さえあれば、それで良いのだから」
影丸は、寧々の裏事情をあえて野放しにするつもりらしい。一橋家は本当に秘密が多いと、改めて思う。
すると、影丸の表情に厳しさが戻る。
「だが今度は、曖昧な立場は許されないであろう」
「どのように許さないと申すのですか」
「決まっておるではないか。おぬし以外に務まらぬ役目が待っておる」
「役目……一体、何でございましょう」
影丸は一瞬、気構えを整えるように間を置いた。そして――。
「正真正銘の、俺の正妻だ」
そう言った。
その言葉を聞いた瞬間、寧々は目を見開いた。
あまりにも思いがけない言葉だった。
胸の奥が大きく跳ね、次の瞬間には、込み上げてくる喜びで身体が震えそうになる。
正妻――それは、寧々が心の奥底で、ずっと願っていた言葉だった。
嬉しい。ただ、その一言では言い表せないほどの喜びが、胸いっぱいに広がっていく。
思わず俯いた寧々の頬が、月明かりの下でも分かるほど赤く染まった。
「だが、俺が将軍となったあかつきには、立場上、数多の側室をもうけることになろう。それでも構わぬか」
「ふふ、もとより覚悟の上です。もちろん、妬きますけど」
「齢を重ねれば、相手にされなくなるかもしれないぞ」
「それならば、夜伽の技を磨きます」
「なんてことを言うのだ。まだ手付かずの女だというのに」
「手付かずとは失礼千万でございますよ。なにせ影丸のせいなのですから」
二人は顔を見合わせ、照れたように笑う。
やがて静寂が戻り、月の光に照らされた二人の影が、地面の上でそっと重なり合う。
重なった二人の影は、まるでひとつになったかのように、夜の闇へと溶けていった。
夜風が吹き抜け、蓮の葉を静かに揺らした。
水面には月が映り、その光が幾重にも揺らめいている。
熱を帯びた吐息が、静かな風に混ざる。
その二人を、天の頂に浮かぶ美しい月だけが、何も言わずに見守っていた。
やがて訪れる激動の時代を迎える二人に、ひとときの休息を与えるかのように――。
了
ある日、唐突に影丸のもとへ一通の書状が届いた。表には、黒々とした筆字で『果たし状』と記されている。
だが、それを改めた長十郎は、首を傾げるばかりであった。
なぜなら、書状の中には何も記されていない和紙が一枚、収められているだけだったからである。
「まったく、たちの悪いいたずらでございますな。捨ててまいります」
「待て、長十郎。その書状は俺が預かろう」
「なぜでございますか?」
「少々、気になることがあってな」
長十郎は腑に落ちぬ顔をしながらも、書状を影丸へ差し出した。影丸はそれを受け取ると、丁寧に懐へ収めた。
なぜなら、その筆跡は寧々のものに間違いなかったからである。
かつて見分の折に記した誓約文――『家内の者どもと和睦を旨とし、私事をもって争論いたさず、一橋家御繁栄のため、忠節を尽くし相勤め申し上げ候こと』――を、何度も見返していた影丸だからこそ、そのことに気づくことができた。
寧々が、意味もなくこのような書状を寄越すはずがない。ならばこれは、寧々から影丸への言伝なのだ。影丸は、すぐさまそう悟った。
もしも影丸が寧々の正体に気づいているのであれば、この書状に隠された文字を読み解くはずだ――寧々はそう考え、この書状を寄越したのだろう。
そう察した影丸は、自室へ戻ると書状を開き、行灯の火にかざした。
すると、和紙の上に淡い影が浮かび上がり、やがて文字が一字、また一字と炙り出されていった。
このような手を使うということは、やはり寧々は隠密に違いない。
ならば、何らかの目的をもって一橋家へ入り込んだのだ。寧々は一橋家にとっての脅威だったはずなのだ。
だが、それらすべての立場を超えて――何よりも愛おしい、己の相棒であった。
寧々が姿を消して以来、影丸は寧々の存在の大きさを、嫌というほど思い知らされていた。
だからこそ、この『果たし状』に応じぬはずはなかった。
炙り出された書状には、こう記されている。
『六月十六日の亥の刻。夜四つの鐘が鳴る頃に、不忍池のほとりで待つ』
影丸は、その文字をじっと見つめた。やがて奥歯を強く噛み締めると、静かに刀を手に取った。
ゆっくりと刀身を抜き放つ。そして、刃に映る己の顔を見つめた。
淡い行灯の光を受けた影丸の顔には、大切なものを断ち切る覚悟の悲哀が滲んでいた。
★
夜の帳が落ち、約束の刻が近づいてきた。
影丸は剣を腰に携えて立ち上がる。家臣に気づかれぬよう、屋敷を出た。
満ちた月が天の頂を目指す。その光に照らされ、不忍池の水面が揺れながら淡く光を放っている。
呼び合うような蛙の鳴き声、風に揺れる草のささやき、踏みしめる砂利の音。
かつて、呪いの正体である尼音をおびき寄せるために通った道だ。
影丸は、まさかここで寧々を待つことになるとは、想像だにしなかった。
不忍池のほとりに着くと、着物を身に纏った若き女性の姿があった。その女性は、蓮の花を一輪、胸元に抱いている。
見間違うはずがない。しばらくの間、一橋家で影丸と時を共にした相棒、寧々であった。
相も変わらず美しいな――と、影丸は目を奪われる。
「待たせたな、寧々」
声をかけると、月の光に照らされた寧々は、悲しげな笑みを浮かべた。
「あの襲撃のとき、なぜ俺を助けた」
隠密として忍び込んだのであれば、その目的は尼音同様、徳川家の血筋を途絶えさせることであろう。
ならば、影丸を助けるという寧々の行動は、隠密の目的とは矛盾しているように思えたのだ。
寧々はひとつ、ため息を吐いてから、口を開く。
「私の任務は、あなたを殺めることではありません。ただ私自身が、あなたには生き延びて欲しかったのです」
影丸は黙って、寧々の言葉を胸の中に受け止める。
「一橋家に上がってからというもの、胸がこそばゆくなるような時間を過ごすことができました。まるで失った家族を再び持てたような気持ちにすらなったのですよ」
寧々は、まるで過ぎ去った日々を懐かしんでいるようであった。
「けれど、あなたと私の目指す道は、決して交わらないものです」
寧々が着物の袖をまくると、そこには襲撃で戦ったときの手甲が装着されていた。手甲には、武器である鎖が巻き付けられている。
「あなたが私の正体を知った以上――共に生きていける未来は、もうございません」
寧々は抱えた蓮の花を手に乗せ、そっと池の方へ手を伸ばす。花ははらりと落ちて水面に浮かび、ゆったりとした波紋を広げる。
同時に、手に巻いた鎖がじゃらりと音を立てて伸びる。
振り向いた寧々の目は鋭く、それはまさに忍の目であった。
「それでは、最初で最後のお相手を、お願いいたします」
影丸は覚悟を決め、刀を抜いて構える。
「いざ、尋常に勝負!」
一瞬、風が二人の間を吹き抜けていった。
最初に技を繰り出したのは、寧々であった。
寧々は素早く間合いを詰めると、瞬時に鎖を放ち、影丸の構えた刀身を狙う。
だが、影丸は素早く身を躱した。鎖を引き戻す隙をついて踏み込み、寧々の懐に潜り込む。
二人の視線が間近で交錯し、火花を散らす。
影丸は剣の柄を寧々の鳩尾に打ち込む。
だが、寧々はいち早くその動きを読み、鎖を持つ手とは反対の手甲で柄を弾き飛ばした。
影丸はわずかに身を引き、間合いを取った。刀を振りかぶり、寧々の右肩めがけて打ち下ろす。
しかし、寧々は両手に持った鎖を水平に広げ、刀を受け止めた。
刀の動きが止まった瞬間、寧々はその刀身を両手のひらで挟み、動きを封じる。そして、影丸の腹に蹴りを入れた。
影丸は数歩後ずさりしたが、どうにか堪え、腹を押さえながら寧々を睨み返す。
だが、直後、目の前まで打突が迫っていた。影丸はすんでのところで身を翻し、躱した。
「なかなかやるな。さすが寧々だ」
「影丸……なぜ見え透いた技を繰り出すのです」
寧々は、影丸が本気でないと見抜いていた。寧々の技量であれば、たやすく受け止められる刀筋の技を、敢えて繰り出していたのだ。
「ふふ、さすがに騙すことはできなかったか」
「本気でやらねば、一橋家の血筋は今夜、途絶えるかもしれません」
「それは大いに困るな」
影丸は、ふっと一度口元を緩めてから、表情を引き締める。
「ならば、今度こそ本気で参る!」
影丸の集中力が高まっていくのを、寧々は感じていた。
鮮やかな連続の剣技が繰り出される。寧々はひとつひとつの刀の軌跡を見切り、手甲で受け止めながら思う。
影丸……いや、一橋慶喜。
私の心をざわつかせ、任務すら忘れさせようとするほど焦がし、振り回し、そして魅了した張本人。
一橋家を去ってから、あなたを思い浮かべて、どれだけ心を焦がしたことであろうか。あの、振り回されながらもともに過ごした日々が、どれだけ愛しかったことか。
でも、その日々はもう二度と戻らない。
一橋家を去ってから、喪失は心臓に打ち込まれた楔となり、胸を痛める日々を生きてきた。
その痛みを抱えたまま生きていくのは、あまりにも苦しい。その苦しみを抱えて生きるには、人生はあまりにも長すぎる。
ならば、いっそ――。
影丸から、稲妻のような剣技が繰り出される。
もう、避ける気など微塵もなかった。
忍として逝くのならば、引導を渡す者は、せめて自ら選びたい。
その願いが今、叶うのだ――。
浮かぶ涙に揺らぐ夜の中、白銀の刀身が光を放つ。寧々はそっと目を閉じた。
ところが、風の流れが止み、静寂だけが残された。
恐る恐る目を開くと、影丸の刀身は寧々の喉元、すんでのところで止まっていた。
寧々はわずかに息を吸い、悔しさを込めて唇を開く。
「……あなたはいつも煮え切らない方ですね。そのせいで、私がどれだけ焦らされたことか」
「黙れ!」
「私はあなたの敵でございます。相容れるはずなどございません。もう終わりにいたしましょう」
「黙れと言っているのだ!」
「私の口を閉ざしたければ、潔く殺し――」
その瞬間、寧々は言葉を発することができなくなった。
寧々自身、驚きで息が止まった。いや、息を吸うことすらできなくなっていた。
寧々の桃色の唇が、影丸の唇に塞がれていたのだから。
「ん……っ!!」
影丸の体温が唇から伝わり、全身が痺れるような恍惚感に満たされる。その恍惚感が、死の恐怖と絶望を一瞬で消し去った。
寧々は、身動きひとつ取ることができなかった。
唇が離れた後、全身の力を奪われ、へなへなとその場に崩れ落ちた。
「影丸……無言での口塞ぎは大罪にございます。ちゃんと心構えをさせてくださいと、お伝えなさったではありませんか」
唇を震わせ、そう喋るだけで精一杯だった。声も弱々しくなる。
「勝気な寧々は、どこかへ行ってしまったようだな。ならば、勝負はおあずけだ」
影丸に魅入られてからというもの、触れられると、すべてを奪われてしまう。身も心も、言うことを聞かなくなってしまうことを、寧々自身、嫌というほど自覚していた。
影丸は、逃げ出したくもあり、すべてを委ねたくもなる――そんな相手でもあった。
影丸は刀を置き、寧々の両手を取る。そして、じっと瞳の奥を覗き込む。
「寧々、聞いてほしいことがある」
「なんでございましょうか……」
寧々は、火照った顔と潤んだ瞳で影丸を見返す。
影丸は凛々しい表情で、まっすぐに目を向けていた。影丸が真摯に向き合うがゆえに、寧々は任務と己の感情の狭間で、さまよい続けていたのだ。
「俺はずっと思っていた。あんなくだらない政争で、どれだけ大切な人間の命が奪われたことか。どれだけの悲しみを人々にもたらしたことか」
「それが、この世の常でございましょう」
寧々はぼんやりしながら答えた。だが――。
「俺は決めた。俺が、次の将軍になる」
「突然、どうされたのでしょうか」
影丸は身分や肩書きに興味などなさそうだった。それなのに、なぜ唐突にそんなことを言い出すのか。すると――。
「俺が江戸幕府に終止符を打つためだ」
江戸幕府を、終わらせる……?
「ど……どういうことでございます?」
なぜ影丸が幕府を終わらせるなどと口にするのか、寧々には理解できなかった。だが、影丸の表情には、揺るぎない決心が色濃く浮かんでいる。
「いつまでもくだらぬ政争を続けておれば、哀しみに胸を痛める者が次々と出てくるであろう。だが、政権を手放せば、すべての武士から戦う理由を奪うことができるからだ」
まさか、影丸がそんなことを考えているとは、つゆにも思わなかった。
「もしそうであれば、誰が国を治めるのですか」
すると、影丸は不敵な笑みを浮かべた。
「朝廷に政治の権限をお返しする。俺が目指すのは、そう、まさに――『大政奉還』なのだ!」
数百年続く幕府の時代を終わらせ、日本を戦いのない世界へと導く――寧々は、その壮大な計画に圧倒された。
「ならば、その先に、おぬしと生きていく道はないであろうか」
寧々は混乱する頭を整理し、ひとつずつ絡み合う紐を解いていく。
寧々の隠密としての使命は、幕府を衰退させ、朝廷の権限を取り戻すこと。尼音が推察した通り、寧々にとっての『主上の者』は孝明天皇なのだ。
だが、もしも影丸が将軍の座を奪い取り、幕府の幕を下ろすというのであれば――。
図らずも、寧々と影丸の目指す道は交わっているのだ。
寧々は思わず、影丸の胸元を掴んでいた。
「も、もしよろしければ、私にその計画のお手伝いをさせていただけないでしょうか」
影丸は一瞬、驚いた表情をしたが、すぐさま口元を緩めて言う。
「おぬしがいれば、心強いことこの上ない」
寧々の表情は、光を浴びたように煌めく。
それは、決して交わることのなかった当主と忍が、同じ未来を見据えた瞬間であった。
「こんな私でも、よろしいのでしょうか」
寧々は肩を震わせて、影丸の胸に顔をうずめた。
「寧々は寧々だ。俺にとって、寧々は同じ使命を担う相棒であるからな」
寧々は影丸の胸の中で顔を上げ、言葉を返す。
「それ、かつて私が言ったことのように思いますが」
「そういえば、そうだったな。だが、この言葉は俺の本心そのものだ」
これからも一橋家の姫として、慌ただしい日々を送ることができる――。寧々は嬉しくてたまらなかった。
「無論、おぬしのことをこれ以上詮索するつもりはない。信頼さえあれば、それで良いのだから」
影丸は、寧々の裏事情をあえて野放しにするつもりらしい。一橋家は本当に秘密が多いと、改めて思う。
すると、影丸の表情に厳しさが戻る。
「だが今度は、曖昧な立場は許されないであろう」
「どのように許さないと申すのですか」
「決まっておるではないか。おぬし以外に務まらぬ役目が待っておる」
「役目……一体、何でございましょう」
影丸は一瞬、気構えを整えるように間を置いた。そして――。
「正真正銘の、俺の正妻だ」
そう言った。
その言葉を聞いた瞬間、寧々は目を見開いた。
あまりにも思いがけない言葉だった。
胸の奥が大きく跳ね、次の瞬間には、込み上げてくる喜びで身体が震えそうになる。
正妻――それは、寧々が心の奥底で、ずっと願っていた言葉だった。
嬉しい。ただ、その一言では言い表せないほどの喜びが、胸いっぱいに広がっていく。
思わず俯いた寧々の頬が、月明かりの下でも分かるほど赤く染まった。
「だが、俺が将軍となったあかつきには、立場上、数多の側室をもうけることになろう。それでも構わぬか」
「ふふ、もとより覚悟の上です。もちろん、妬きますけど」
「齢を重ねれば、相手にされなくなるかもしれないぞ」
「それならば、夜伽の技を磨きます」
「なんてことを言うのだ。まだ手付かずの女だというのに」
「手付かずとは失礼千万でございますよ。なにせ影丸のせいなのですから」
二人は顔を見合わせ、照れたように笑う。
やがて静寂が戻り、月の光に照らされた二人の影が、地面の上でそっと重なり合う。
重なった二人の影は、まるでひとつになったかのように、夜の闇へと溶けていった。
夜風が吹き抜け、蓮の葉を静かに揺らした。
水面には月が映り、その光が幾重にも揺らめいている。
熱を帯びた吐息が、静かな風に混ざる。
その二人を、天の頂に浮かぶ美しい月だけが、何も言わずに見守っていた。
やがて訪れる激動の時代を迎える二人に、ひとときの休息を与えるかのように――。
了



