華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

丸腰の武士たちは、刀を構えた藩士たちに囲まれ、身動きが取れずにいた。誰もが額に大粒の冷や汗を浮かべている。

幸い、藩士たちは寧々に気づいていない。寧々は素早く木陰へ身を隠した。

そのとき――。

背後から、何者かの気配が迫った。

相手は巧みに気配を消していたらしく、寧々がそれに気づいたときには、すでに首元へ小刀を突きつけられていた。

「黙って聞いておくれ」

聞き覚えのある、しわがれた声。小刀を握る手には無数の皴が刻まれている。寧々はゆっくりと振り向いた。

すると、そこには狐の面をかぶった者が立っていた。

だが、以前にも同じ目に遭った記憶が蘇る。取り押さえられたときの感触も、まったく同じであった。

相手は身を隠し、機会を窺っていたに違いない。その人物が誰なのか、寧々はすぐさま理解した。

「尼音……。どうして、こんなことを……」

この襲撃は尼音の仕業なのかと、寧々は思った。しかし――。

「勘違いするんじゃないよ。あたしは、あんたを助けに来たんだ」

尼音は即座に否定した。

「どういうことですか?」
「水戸藩の過激派が一橋家を襲撃するという、物騒な情報が入ったものでな。だから、あえてここで張っておったのじゃよ」
「では、あの連中は、あなたの差し金ではないのですか?」
「馬鹿を言うでない。あんなみっともない襲撃など、隠密の理念にそぐわないじゃろ」

尼音は、狐の面の奥から寧々を見据えた。

「――のう、藤林寧々よ」

寧々の表情が固まった。

藤林家は隠密の家系の苗字である。あえてその姓を口にしたということは――。

「私が隠密だと気づいたのですね」
「ひひひ、素直に認めたようだな」

尼音は、口元だけで笑った。

「おぬしの『主上の者』は、やはり『天皇』なのであろう?」

その一言に、寧々は全身を強張らせた。そこまで事情を理解しているということは――尼音もまた、寧々と同じ側の人間に違いないのだ。

「おぬしの代であれば、孝明天皇であろう。あたしの主上は、その先代であるがな」

寧々は何も答えなかった。だが、その沈黙は、尼音の推測を肯定しているようなものだった。

「やはり、そうであったか。おぬしの体術は、忍びの技としか思えなんだ」

尼音は腑に落ちたようで、構えた小刀を下げて鞘に収めた。寧々は安堵して息をつく。

江戸時代に入り、政の実権は天皇から幕府へと移った。

天皇はその失われた権威を取り戻すため、二百年以上にわたって隠密を徳川の血筋の中へ送り込んできた。寧々は、幼い頃からそう教え込まれてきた。

寧々に課せられた、幕府の権力を失墜させるという任務は、天皇からの勅命なのである。

しかしまさか、同じ屋敷に隠密が二人も紛れ込み、呪いを仕掛ける側と、それを解く側に分かれていたとは――なんとも奇遇なことであった。

「ならば、あんたに渡したいものがある」

尼音は寧々から一歩身を引いた。地面に置いていた風呂敷包みを拾い上げ、寧々へ差し出す。

「開けてみるがよい」

風呂敷包みを開くと、中には一対の手甲と、一本の鎖が入っていた。手甲は肘までを覆う、薄手の鋼でできたものである。

「これは……」
「あたしが現役の頃に使っていたものじゃ」
「あっ、ありがとうございます……!」
「それと、着物は邪魔じゃろう」

尼音は小刀を抜くと、寧々の着物の袖と裾をためらいなく切り落とした。動きやすくするためである。

「これも必要じゃろ」

さらに尼音は、頭から狐の面を外し、寧々へ手渡した。寧々はそれらを受け取ると、手甲を腕に着け、面を顔に装着する。

「でも、なぜ私に手を貸すのですか」

寧々は、面の奥から尼音を見つめた。素顔の尼音は、いたずらっぽく笑っている。

「あのときに生かされた借りは、いつか返すと言ったじゃろ」

忍の世界にも、義理と礼は根付いていたのだ。

「このご恩は……忘れません……!」
「忍なら、忘れて結構じゃ。では――隠密として逝くがよい!」

寧々は小さく肯くと、尼音に背を向ける。

隠密そのものの身のこなしで木々に紛れながら、寧々は争乱の只中へと飛び込んでいった。

一橋家と徳川家の武士たちは、水戸藩士たちに刀を突き付けられ、身動きを取れずにいた。その中には長十郎と円四郎の姿もあった。

藩士の一人が、刀の置かれた卓の前に立ちはだかっている。抜刀して陣取り、誰も近づけさせまいと威嚇していた。

刀を封じられては、太刀打ちできるはずもない。

そのとき――。

卓を占拠する藩士の背後に、ぬっと迫る影があった。気配を消しているらしく、藩士は気づいていない。

それは、天蓋を被った僧侶であった。

次の瞬間、手にした尺八を振りかぶり、藩士の頭を横から殴りつけた。藩士は吹き飛び、意識を失って倒れる。

鈍い音からして、金属製の尺八なのだと分かった。楽器でありながら、武器でもあるに違いない。

寧々は目を丸くした。

僧侶は寧々に気づいていたようで、寧々に目を向けると、自ら天蓋を取った。

その男の頭は、瓢箪のようにのっぺりとしている。やはり、「耳のない僧侶」であった。

僧侶は寧々を見据えて言う。

「我が名は時海。尼音から話は聞いている」

時海は刀を一振り、寧々へと渡した。

それは、慶喜の携えていた刀であった。時海は影丸のことも観察していたようだ。

「ここは俺に任せろ。おぬしは、それを主に渡すがよい」

時海は右手に尺八を構え、左脇に数振りの刀を抱えた。

「助かります……!」

まさか、尼音の手の者に助けてもらうことになるとは思わなかった。だが、この局面で味方となってくれたことは、頼もしいことこの上ない。

「覚悟せい、謀反者ども!」

相手は三人いたが、時海は尺八を巧みに操り、鮮やかに攻撃を受け流していく。その隙を突き、武士たちへ次々と刀を投げ渡した。

長十郎と円四郎は、空中に投げられた刀を受け取ると、すぐさま抜いて構えた。

藩士たちは、長十郎たちが武器を手にした途端、警戒して後ずさった。うかつに手を出せないと悟ったようで、睨み合いのまま膠着する。

寧々はその間を風のように抜け、影丸のもとへと急いだ。

影丸は井伊とともに、上屋敷の裏手へと向かっていった記憶がある。なぜ二人で向かったのかは分からない。けれど、人目につかないその場所では、助けを呼ぶこともままならないはずだ。

まさか、この襲撃は井伊の仕業では――。

そんな勘が働く。

だが、今はこの襲撃を切り抜けなければならない。そうでなければ、一橋家の未来は閉ざされてしまうのだ。

★

影丸は刀を突き付けられ、外壁に追い詰められていた。藩士たちは、我こそ手柄を立てんと、獲物を狙うような目つきで影丸を見据えている。

だが、そこに井伊の姿はない。

井伊は争乱の騒ぎを聞きつけると、「慶喜殿はここでお待ちくだされ。私が様子を見てきます」と言って、もとの中庭へと駆けていった。

万が一のことがあれば、井伊は家茂公を守らねばならない。影丸は井伊を止めようとはしなかった。

だが、その直後、八人の藩士がなだれ込んできた。一人残された影丸は、あっという間に武装した藩士たちに取り囲まれたのである。

「慶喜殿よ、己が欲望のために天皇の権威を穢し、この日本を冒涜した罪、死をもって償ってもらう!」

藩士らはあからさまに殺気を放っている。影丸を殺すことに、躊躇など微塵もないようであった。

「一体、何のことだ。俺は蟄居の身だぞ。政に関わった記憶すらない」
「とぼけるな! おぬしの所業の腹黒さは、すでに割れておるのだ!」

もはや、言葉が通じる相手ではなかった。

影丸は小刀を取り出したが、藩士たちがいっせいに掛かってくれば、応戦できるはずがない。

「何の逆恨みか知らんが、俺を手に掛けようとは不届千万だ!」
「なにを偉そうに。覚悟せいや!」

猛獣の牙を彷彿とさせる日本刀が、容赦なく影丸を襲う。

影丸は剣筋を見切り、小刀で弾きながら身を躱す。

だが、相手は八人。攻撃を受け流し、逃げ道を探そうとするも、たちまち四方を塞がれ、追い詰められていった。

「くっ、これまでか!」

影丸が絶望の表情を浮かべた、そのとき――頭上から、女の声が響いた。

「血に迷える仁義なき無法者どもよ。冥府にて懺悔するがよい!!」

見上げると、日の光を背に、屋敷の屋根にたたずむ着物姿の女がいた。

「何奴だ!?」

藩士たちは手で光を遮り、顔を確かめる。だが、その顔は狐面に覆われ、誰なのかは分からない。

すると、何かが影丸の目の前に降ってきた。影丸は、それが刀だとすぐさま気づいた。驚きながらも鞘を空中で受け取る。

「助かる!」

即座に抜刀すると、刀身が日の光を受けて鋭く輝いた。神経を研ぎ澄ませ、刃先を相手へと向ける。

だが、八人の藩士を一度に相手にするのは、たとえ剣技の達人である影丸であっても無謀である。

すると、女は屋根から飛び降り、影丸の隣に音もなく着地した。すかさず身を起こすと、すぐさま戦いの構えをとる。影丸は目を丸くして尋ねた。

「まさか、戦うつもりか」

女は黙って肯いた。

「かたじけない、狐面の者よ」

女は影丸と背中合わせに構えた。

「さあ、謀反者たちよ。死に急ぎたい者から、かかってくるがよい!」
「死ねええええい!」

藩士の一人が影丸に向かって踏み込んできた。

影丸の頭上から、刀が勢いよく振り下ろされる。

だが、影丸の目は鋭く、刀の軌道を寸分違わず見切っていた。

――一橋流剣技、迅雷五連撃(じんらいごれんげき)!

影丸は振り下ろされる藩士の刀を受け流し、わずかに生じた間隙を縫って、稲妻のごとき速さで手の甲に峰打ちを叩き込む。

相手の力が抜けた刹那、身を翻して懐に潜り込み、片手で相手の刀の柄を押さえ込んだ。即座に刀を逆手に持ち替え、その柄を藩士の額、人中、顎、胸元、そして鳩尾(みぞおち)へと次々に突き込む。

衝撃を受けた藩士は、がくがくと足を痙攣させ、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。一滴の血を流すことなく、瞬時に、完全に打ちのめしたのである。

「まずは一人!」
「お見事です!」

女が影丸を称賛した瞬間、刃先が女の首元へ向かって突き込まれた。

女は両手の手甲を交差させて受け止める。激しい金属音とともに火花が散った。

――藤林流秘儀、風来(ふうらい)の枯葉返(かれはがえ)し!

女は火花が消えるよりも早く、鎖を刀に絡ませた。刀身に鎖を滑らせながら、藩士の懐へと飛び込む。

藩士が慌てて鎖を引き抜こうと身を引く。だが、それこそ女の狙いだった。

女は後ずさる藩士の背後へ足を回していた。足を取られ、仰向けに倒れる。受け身を取ろうとして無防備になった刹那――女は全身に無数の打突を叩き込んだ。

藩士が仰向けに地へ伏した瞬間、さらに女は腹へ膝を捻じ込む。藩士は断末魔を上げる間もなかった。

「恐ろしくえぐい技だな、狐面の者よ」
「お褒めにあずかり、光栄です」

藩士たちは驚いた様子を見せたが、すぐに気を取り直し、影丸たちを見据えた。

「狙いは慶喜だ。一思いに仕留めるぞ!」

さらに三人の藩士が、一度に影丸へ斬りかかった。

だが、影丸は刀を下段に構えると目を閉じ、神経を研ぎ澄ませる。

刃が影丸の肌を切り裂こうとした、その瞬間――。

――一橋流奥義、神風乱舞斬(しんぷうらんぶざん)!

一振りの刀が、まるで無数の刃を放つかのような速度で舞う。

影丸は三人の間を風のように駆け抜けながら、暴風のごとき斬撃を繰り出し、藩士たちに襲いかかる。

藩士たちは必死に反撃する。だが、その刀はことごとく弾き返され、次々とその身を斬り裂かれていく。

凄絶な剣技に舞い散る鮮血が、白い梅花を紅に染める。苦痛に歪む悲鳴に、梅の枝葉が小さく揺れた。

そして、影丸が駆け抜けた後には――三つの躯が横たわっていた。

「これで残り三人!」
「あとは任せてください!」

女は残る藩士たちに向き合い、身構えて鎖を胸の前に垂らした。

――藤林流秘儀、鐘楼の影法師(しょうろうのかげぼうし)!

女は鎖を鋭く振り放った。

顔面を狙って飛んできた鎖を、藩士は刀で弾き飛ばす。ぱぁん、と激しい金属音が響いた。

そして、藩士が瞬きをした、その一瞬――女は身を翻し、藩士の背後へ回り込んだ。

回転の勢いを乗せ、無防備な後頸部へ手甲を叩き込む。骨の軋む鈍い音が響き、藩士は衝撃によろめいた。

その瞬間を狙い、女は身を低くして、さらに正面へと回り込む。倒れ込んでくる藩士の顔面へ、拳を突き上げた。

顎を射抜かれた藩士は、骨の砕ける鈍い音を響かせながら、仰向けに吹き飛ぶ。

地面に叩きつけられたときには、すでに息絶えていた。

「ひっ……!」

残る二人の藩士は、驚愕して後ずさった。

だが、女はすでに、後ずさる藩士の背後へ回り込んでいた。その首には、いつの間にか鎖が巻き付いている。

藩士は一瞬だけ苦悶の表情を浮かべたが、たちまち白目を剥いて失神した。

「くそっ……!」

もう一人の藩士は、鬼の形相で女に斬りかかる。だが、女は捕らえた藩士を盾にし、その背後へ身を隠した。

振るわれた刀が失神した藩士の首を斬りつけ、血しぶきが上がる。

血を吹く藩士は、女に突き飛ばされた。そのまま斬りつけた藩士にもたれかかり、ずるずると倒れ込む。

だが、倒れ込んだ藩士を押しのけて背後を見ても、女はもうそこにはいない。

「ど……どこだ!」

恐れて周囲を見回すが、女の姿はない。次の瞬間――。

頭上に、わずかな風の動きを感じた。だが、身構える間などなかった。

――藤林流秘儀、惨無大瀑布(ざんむだいばくふ)!!

頭上から、組み合わせた両手の手甲が脳天へ叩き込まれる。

頭蓋骨が砕ける鈍い音を響かせながら、藩士はその場に崩れ落ちた。

「これで八人、淘汰完了――」

その呟きは、感情の揺らぎを微塵も感じさせず、淡々としていた。

血で濡れた腕には、地面から舞い上がった砂がこびりついている。女はそれを鬱陶しそうに手で払い落とした。血に濡れた砂粒が、袖からぱらぱらとこぼれ落ちる。

周囲には、つい先ほどまで生きていた藩士たちが折り重なるように倒れていた。その惨状を意に介する様子もなく、影丸は刀をひと振りして血を払い、そのまま鞘へ収めた。

「助かった、狐面の者よ」
「生き延びられてなによりです。この家は、あなたなしでは成り立ちませんから」
「だが――一体誰が、こんな襲撃を企てたのだ」
「あなたが倒した最初の一人は生きています。捕らえて吐かせてください」

女は、倒れた藩士を指さした。

影丸がその藩士に目を向けると、まだ息がある。だが、ほかの藩士たちはすでに皆、屍と化していた。

「分かった。必ずこの黒幕は――」

影丸は振り向き、狐面の女に話しかけようとした。

だが――その女は、忽然とその場から姿を消していた。

影丸は茫然と立ち尽くし、しばらくの間、その女の残像を脳裏に焼きつけていた。

頭上に咲く梅の花々が、微かな風に揺れている。

それはまるで、その女の行方を囁き合っているかのようであった。

★

井伊は梅の木陰を伝い、藩士たちの目を盗みながら、中庭の中央を目指した。

もとより、藩士に姿を見咎められたとしても、井伊が斬られることはない。だが、あまりに不自然な動きを見せれば、この襲撃が己の企てであることを悟られかねない。

追い詰められた武士の中に家茂の姿がないと知ると、井伊はすばやく卓の下へ身を滑り込ませた。

そこには、恐怖におののき、身を震わせている家茂の姿があった。

「殿、ここにいらっしゃいましたか。ご無事で何よりにございます!」

井伊の姿を認めると、家茂は四つん這いのまま、井伊のもとへ這い寄った。

「ああ、大老よ、大変なことになったぞ! なぜかは分からぬが、無法者どもが襲ってきたのだ!」

外では、刃と刃がぶつかり合う音が響いている。

井伊は、家茂をなだめるように口を開いた。

「家茂殿は、決してこの場をお離れになりませぬよう。万一のことがあって、徳川家が将軍を失うことになろうものなら、誰が天下を治めるというのですか!」
「だが、余は寧々殿を助けに参らねばならぬ!」
「なりませぬ! この争乱の中へ飛び出してゆくなど、愚の骨頂にございます! 奴らとて、女子に手を掛けることはありますまい!」

――くくく……主を失い、悲嘆に暮れる女を、家茂公が慰めるという劇的な場面が目に浮かぶわ。

込み上げる笑いを必死に噛み殺していると、家茂が怪訝そうな顔で井伊を見つめていた。

「……大老よ。そなた、なぜ笑っておるのだ?」

井伊は、はっとした。すぐさま眉間に皺を寄せ、いかにも深刻そうな顔を作る。

「何を仰います。笑ってなどおりませぬ。差し込む光の加減で、私の顔が歪んで見えたのでございましょう」

やがて、外から聞こえていた叫び声も、刀が弾き合う音も途絶えた。辺りに静寂が戻る。

井伊は、藩士たちが慶喜の襲撃を成し遂げ、一橋家の敷地から引き揚げたのだと思った。

高鳴る胸の内を隠しながら、井伊はいそいそと敷布を上げて外へ出た。

だが、眼前に広がった光景は、井伊が思い描いていたものとは、あまりにもかけ離れていた。

そこには、水戸藩士たちが血まみれとなって倒れ伏しており、凄惨な有様であったのだ。

しかも、いつの間にやら一橋家の家臣たちが刀を手にしている。

――誰が奴らに刀を渡したというのだ!

井伊は、徒党を組んで襲撃に加わっていた武田耕雲斎の姿を探した。だが、武田だけが見当たらない。

武田は、戦況が不利になろうとも、恐れをなして逃げ出すような男には見えなかった。となれば、己の企てに気づき、事の次第を察して退いたとしか思えない。

なにしろ武田は、この襲撃が井伊の企てであることを知る、ただ一人の男である。もし生き延びていれば、この襲撃の真相が明るみに出るかもしれない。

そればかりではない。井伊は水戸藩士たちを利用して襲撃を企て、その結果として死人まで出したのだ。この失敗の責めを負わされれば、怒りの矛先が井伊へ向けられることは避けられない。

最悪の場合、水戸藩士たちによって、命を狙われることすらあり得るのだ。

そう思った途端、井伊の背筋を冷たいものが走った。恐怖に身を震わせながら、井伊は刀を抜き放つ。

そして、意味もなく刀を振り回しながら、必死の形相で家臣たちへ向かって叫んだ。

「武田はどこだ! 武田耕雲斎の姿を見た者はおらぬか! 必ず奴を探し出せ! 見つけたら、すぐさま殺せ! 殺すのだァァァ!」

その脳裏に浮かんだのは、桜田門の陰に身を潜め、己の命を狙う水戸藩士の姿であった。

★

襲撃の後、寧々の姿が見当たらなくなり、家臣たちは憔悴した。何が起きたのか、皆、薄々察していたのだ。

その折、井伊は「武田耕雲斎を見つけたら殺せ」と声を荒らげていた。井伊のことである。反逆を企てそうな者には、とうに目をつけていたに違いない。

そして、その武田が此度の襲撃に紛れ込んでいた。ならば、武田こそが襲撃を仕組んだ首謀者に違いない。

襲撃に失敗した武田は、せめてもの報復として寧々を連れ去ったのではないか――。

そう考えれば辻褄が合う。だから家臣たちは皆、そのように解釈し、影丸に提言をした。

「こうなったら至急、武田の召し捕りを命じねばなりますまい!」
「寧々殿がどんな目に遭わされるかわかったものではございません!」
「むしろ井伊殿に、水戸藩に兵を差し向けるよう、願い出た方がよろしいのでは!」

だが、影丸は首を横に振った。

なぜなら、寧々が己の意志で姿を消したのだと、影丸だけは悟っていたからだ。

「寧々は、もともと捨て駒であった市井の者だ。襲撃を返り討ちにできたのだから、これ以上、家臣たちを戦いに巻き込むことはなかろう」

その影丸の言葉は、家臣たちにとっては、あまりにも冷たいものと思えたかもしれない。

だが、寧々のことを思えば――。

あの狐面の女が寧々であることは、疑いようもなかった。

みなぎる気力、強靭な意思、そして身に纏った神秘的な気配――あれほどのものを醸し出せる者が、寧々をおいて他にいるはずがない。

戦う姿を目にしたあのときから、慶喜は寧々が尼音と同じ穴の狢なのではないかと察していた。

思い返せば、いくつも思い当たる節がある。

見分の際に見せた、腰の据わった走り。呪いの真相を解き明かした聡明さ。

繁華街で蕎麦を食していた折には、巨漢の男をいとも容易くひれ伏させた。

そして、墓場で忍に襲われた際、寧々は瞬く間に尼音を降伏させてみせた。

こうしてひとつひとつを思い起こしてみれば、寧々がただの市井の女であったはずがない。むしろ、初めから何かを隠していたのだ。

だからこそ、これ以上の詮索はせぬほうが、寧々のためなのである。

事実、寧々の身を案じた長十郎が、その旨を伝えるため、寧々の実家である八王子に遣いを出したが、祖父である藤林源三は姿を消し、その行方は同心たちの誰も知らないということであった。

寧々の行方を示す手掛かりは、もはやどこにも残されてはいなかった。