華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

三月ほど前、蒸し暑い夏の日のことだった。

寧々は源作に呼び出された。向かった先は、道場裏の竹林の奥にひっそりと佇む小さな茶屋である。

源作が誰かをここへ招く時は決まっていた。人生を左右するほどの深刻な話がある時だけだ。父の死を知らされたのも、この茶屋だった。

「失礼します」

畏まって障子を開けると、源作は何も言わず茶を点てていた。寧々は静かに正座し、その所作を見守る。

やがて茶碗が差し出された。

「一服召されよ」

その一言には尋常ならざる緊張感が漲っていた。両手で受け取り、一口含む。

……苦い。

まるで茶の味ではないように感じた。父の訃報を聞いた日の記憶が、胸の奥から静かによみがえってきたのだ。

源作は己の分の茶碗を飲み干して置くと、寧々をまっすぐ見据えた。

「時は来た」

その言葉の意味を悟った瞬間、寧々の背筋がすっと伸びた。いつか必ず告げられると覚悟していた言葉だった。だが、代々受け継がれてきた任務のためなら、断ることなどできなかった。

寧々は静かに目を閉じてうなずく。

「承知しております」

源作はしばらく黙っていたが、寧々の落ち着きを察したようで、やがて重く息を吐く。

「寧々よ……」

その声には、師範としてではなく、一人の祖父が孫娘を案じる響きがあった。

「お主にとって、殿方に抱かれることがどれほど苦しいか……儂が一番よう知っておる」

寧々の肩がわずかに震えた。脳裏によみがえるのは、数年前の痛々しい記憶だ。

かつて寧々は父と母、そして源作とともに甲斐の国で暮らしていた。源作からは武術と堅忍を、両親からは薬学や人体学を叩き込まれ、寺子屋にも通って読み書きを学んだ。

源作や両親がどんな仕事をしていたのか詳しくは知らなかったが、物々しい雰囲気の客が度々訪れることから、ただならぬ稼業であることは察していた。

ある日、母と二人で家にいた時、男たちが襲撃してきた。見覚えのある依頼人だったが、それが罠であると気づいた時には、もう遅かった。依頼を装って家の内情を探り、稼業を確かめたのだろう。

母は捕らえられ、その場で男たちに辱められた末、命を奪われた。寧々は母に言われたとおり納屋に隠れ、小さく震えながら唇を噛み締めていた。母は最期まで寧々のほうを見ようとせず、そのまま息絶えた。男たちに寧々の存在を悟らせないために違いなかった。

以来、家族以外の男に触れられることが耐え難い苦痛となった。肌に触れられようものなら、母の最期が脳裏をよぎり、反射的に相手を蹴り飛ばしてしまうのだ。

身を隠すように八王子へ移り住み、源作は仕事仲間の口利きで八王子千人同心の師範となり、生計を立てた。

父は母を襲った者たちへの復讐のために家を去り、しばらくして討ち死にしたのだと、源作から淡々と聞かされた。

父が家を出る時、いつになく優しい表情で頭を撫でてくれたのは、覚悟を決めていたからだろう。思い返すたび、涙が止まらなかった。

以来、寧々は寂しさを埋めるように、ひたすら稽古に励んだ。

一度だけ、同心の男が寧々に言い寄り、肩に触れたことがあった。その瞬間、寧々は反射的に男の股間を蹴り飛ばした。

男として再起不能となったその者は同心を辞めて姿を消したが、寧々も以後は自重し、男に触れられぬよう距離を取るようになった。

「だが、それでもおぬしは使命のために殿方を受け入れねばならぬ。くれぐれも、殿方の御殿様(・・・)を蹴り飛ばすことのないようにな」

源作の表情は深刻で、寧々もまた同じだった。寧々の苦悩を理解しているうえでの決断だということを、寧々もまた承知していた。

「そして家主の子を産み、その子を幕府の要職に就かせるのだ。それこそが、長きにわたり受け継がれてきた、我らが主からの依頼を果たすことにつながるのじゃ」

将軍家に近づき、江戸幕府の中枢に深く食い込む――その先にある壮大な計画の前では、己の意志など道端の小石のようなものだ。逃れることのできない使命の始まる日に向け、覚悟を込めて膝の上の拳を握りしめた。

「はい、承知しております。必ずや、一橋家への奥入りを果たしてみせます」

寧々は深々と頭を垂れた。

寧々の一家は、戦国時代から続く(しのび)の一族の末裔である。

戦国の終焉後、忍の家系は姿を変え、要人からの密命を請け負う隠密組織となった。江戸の世となって以来、主上(しゅじょう)より賜る密命を果たすことこそが、藤林家に課せられた宿命であった。

最後に源作は念を押すように一言、付け加えた。

「そして、何より我らの素性を知られてはならぬ」
「重々心得ております」

素性が露見した時こそ、己の命が尽きる時――。

寧々はそのこともまた、痛いほど理解していた。