それは、二月ほど前のことである。
井伊直弼は、直々に水戸藩の重臣である武田耕雲斎を江戸城へ呼びつけた。
武田耕雲斎は、尊王攘夷を掲げる水戸藩士の中でも、ひときわ気骨のある男で体格も良い。井伊の政治姿勢を激しく憎み、とりわけ日米修好通商条約を朝廷の勅許なく締結したことについては、深い怨恨を抱いていた。
その武田が、今まさに井伊の目の前に鎮座している。
武田は長い白髭を擦りながら、井伊を睨みつける。血走った目には、隠そうともしない敵意が滲んでいた。
二人の間に流れる重苦しい沈黙を裂いて、武田が口を開く。
「では井伊よ。なぜ、この儂を呼び出したのか、説明してもらおうか」
声には明らかな苛立ちがあった。だが井伊はそれを意に介する様子もなく、武田を見返した。
「それは、おぬしが我々を誤解していると思ったからよ」
「誤解だと……?」
武田の片眉がぴくりと動いた。
「日米修好通商条約の件じゃ」
その言葉を聞いた瞬間、武田の眉間の皺がさらに深く刻まれた。
尊王攘夷を掲げる水戸藩士にとって、朝廷の許しを得ぬまま異国と条約を結ぶことは、日本という祖国への冒涜であった。
「今さら、言い訳がましいことを言うつもりか」
「そう青筋を立てるではない。条約締結には、裏の事情があっての」
井伊は、あえて一息置いた。相手の反応を確かめるように、武田の目をじっと見据える。
「実は、十四代将軍の座を争っていた頃のことだが……家茂の暗殺が企てられておったのを知っておるか」
「何だと……?」
武田は身を乗り出した。
これは井伊の虚言である。だが、あたかも周知の事実であるかのように思わせること――それが井伊の話術であった。
「まさか将軍候補の暗殺とは……一体誰が黒幕なのか、分かったのか」
井伊はひとつ咳払いをし、喉から絞り出すように言う。
「それがようやっと判明した。一橋家の連中だ」
「一橋家が黒幕だと……?」
「そう、慶喜だ。やつが隠密を雇ったのだ。その隠密を問い詰め続け、ついに吐かせて明らかになったことだ」
武田の顔に驚きが走る。だが、即座に疑念が驚きを覆った。
「一橋慶喜のどこに、そんな動機があるのだ?」
「一橋家の連中は華やかな異国の文化に目が眩み、開国を主導しようとした。家茂公がいなければ、幕府を牛耳り、政を意のままに操れると考えたのであろう」
しかし、武田の表情は疑念が色濃く浮かぶ。
「一橋側が開国を主導だと? 日米修好通商条約を締結したのは、おぬし自身ではないか」
だが井伊は、いかにも苦渋の決断を迫られているかのような表情を作った。
「私が締結する必要があったのだ」
「どういうことだ……?」
「徳川家の血筋の中で起こした抗争が表立ったものとなれば、民の忠誠は下がる。さすれば、徳川に対する反乱を惹起しかねない」
「表沙汰になっていない理由は、おぬしらが体面を重んじたからなのか」
それは井伊の虚言ゆえ、武田の知るよしもない。だが井伊は、さも事実であるかのように、ゆっくりと深く肯いた。
「暗殺計画を表沙汰にせぬことと引き換えに、将軍争いから退かせることに成功したのだ。だが、家茂公を危険にさらし続けるわけにはいかぬ。だから、私が日米修好通商条約を締結したのは、やつらを満足させ、再び暗殺を企てる理由を失わせるためであったのだ」
井伊はもっともらしい言い分を並べ立てた。だが、武田はその虚言を信じ切れていないようだ。
「では、なぜ一橋家の家主である慶喜を蟄居にしたのか、答えてもらおう」
井伊は、あらかじめ用意していた答えを口にする。
「それは慶喜からの提案であったのだ。蟄居とすれば、私の開国に反対した慶喜が罰を受けたという構図を作ることができる。暗殺を企てたなど、誰も思いもしないであろう」
「なるほどな……」
武田は黙り込んだ。井伊の話を信じるべきか、それとも虚言と見るべきか――それを推し量っているようであった。だが、さらに問いを重ねる。
「ならば、なぜ開国に反対する者たちを処刑したというのだ」
その問いに、井伊は薄く笑った。
「それは建前じゃよ」
「建前……だと?」
「処分した者はいずれも、家茂を将軍として立てることに不満を持っていた者たちじゃ。そのことを反乱の芽を摘む口実にできるのであれば、渡りに船、といったところじゃったのだ」
すると武田は考え込み、それから拳を膝の上で握りしめ、吐き捨てるように呟いた。
「慶喜め……やつは水戸藩を裏切ったというのか」
どうやら、武田は井伊の虚言を信じたらしい。
その言葉を聞いた瞬間、井伊の胸中に歪んだ笑みが浮かんだ。だが、それを表情に出すことはない。
「そこで、慶喜の目を覚まさせるためにも、おぬしらに頼みたいことがある」
井伊は興奮をなだめつつ、唸るように切り出した。
「それで、この儂を呼んだということか」
「そうじゃ」
井伊は声を潜めて武田に近づき、顔をその耳元へ寄せた。
「一橋家を襲撃してもらいたい。祖国の安泰のため、天皇の権威奪還のために」
武田の表情が強張った。そして、しばし考え込むように身を固くした。
「ふ、ふ、ふ……政争とは、なんとも面倒なものであるな」
「理解いただけて嬉しい限りである」
井伊の腹の内は、黒い愉悦に満たされていた。武田はまんまと井伊の虚言に乗せられたようであった。
「ならば、段取りについて話させてもらいたいのだが……」
「やけに用意がいいな。儂が納得すると踏んでのことか」
「当然であろう、同志よ。何せ我々は、すでに同じ道を歩き始めているのだからな」
武田は気を引き締めるように、口を一文字に引き結んだ。
「だが、礼は弾むぞ。せっかく江戸まで出向くのだから、力を貸した武士たちには全員、吉原の一夜でも整えてくれよう」
やがて武田は、鼻からふんと息を吐き、口元を緩めた。
「くっくっく……おぬしは策士よのう」
「それを言うな。実行するかどうかは、おぬしらがおぬしらの正義を貫くかどうか次第――そういうことじゃ」
「御意」
二人の間に、奇妙な盟約が成立した。
そして二人は襲撃の綿密な段取りを詰め、襲撃前日に江戸で最後の打ち合わせを行うことになった。
「では、水戸藩の同志にも礼を伝えてくれ」
「ああ。当日は派手に暴れさせてもらうぞ」
「だが、徳川家の家臣まで刃の餌食にしてくれるなよ」
「おっと、狙いは一橋慶喜だけであったな」
「「くっくっく……」」
そうして武田は、江戸城を後にした。
だが、武田が部屋を出ていったあと、井伊の顔から笑みが消えた。
障子の向こうへ遠ざかっていく足音を聞きながら、井伊は一人、吐き捨てるように呟いた。
「……愚かな男よ」
そして、胸の内で冷酷な考えを巡らせた。
すべてが終わったところで、どうするか――答えは、とうに決まっている。
一橋家への襲撃は、慶喜を仕留めさせるのが目的だ。成功した後、謀反を企てた水戸藩士たちを、一人残らずその場で始末すればよい。
そうなれば、誰も真相を語ることはできない。まさに、死人に口なし――。
井伊は障子の向こうを見つめながら、わずかに口角を上げた。
「すべての罪は、おぬしらに背負ってもらおう。それも、地獄までな」
その声は、冬の江戸の静寂へと溶けていった。
★
家茂は、梅花が咲き誇る木の下に寧々の姿を見つけた。
すると、家茂は嬉しそうに寧々のもとへ小走りで駆け寄ってくる。その姿は、あどけない若君そのものである。
「寧々殿、待たせたな」
「あら、家茂様。またお会いできて光栄でございます」
寧々は深々と頭を垂れた。
「そう畏まるでない。余は、おぬしと話したいことがあるのだ」
家茂は顔を上気させ、いかにも嬉しそうである。
「ところで、兜虫たちはお元気でしょうか」
「春になったせいか、いきいきとしておるぞ。いずれ成虫となるのが楽しみである」
「子々孫々と繁栄していくと、よろしゅうございますね」
「それは徳川家も同じことである」
暗に寧々の嫁入りを促しているように思えたが、寧々はあくまで気づかぬふりをする。
「家茂様にも、いつか良きお相手が見つかることを願っております」
「じつは、すでに見つかっているのだがな」
「えっ。それは、どなたでございましょう?」
寧々は、その意図に気づかぬふりをした。だが、家茂は引かなかった。
「待て。おぬしは、余の正室候補について聞いておらぬのか?」
「正室候補がいらっしゃるのでございますか。しかし、どうすれば私のような者が、それを知ることができましょうか」
家茂は、あからさまに意外そうな顔をした。
その返事に家茂は、寧々が井伊と影丸の間で交わされた書状の内容を知らないのだと察したであろう。
ならば影丸が申し出を断ったのは、寧々の意志ではなく影丸の独断だと考えるのも無理はない。
家茂の表情が、次第に険しくなってゆく。
「寧々よ。先日、蟄居御免の見返りとして、おぬしをこちらへ渡すよう命じたはずなのだが」
家茂は、寧々を真っ直ぐに見つめる。まるで問い詰めるような、そして逃げ道を塞ぐような目であった。
「……奴は、独断でそれを断ったということだな」
若君らしからぬ低い声で発せられた言葉を聞き、寧々の胸はひどくざわついた。
「ならば、おぬしに問いたい。今すぐ徳川家に入らぬか。この一橋家よりも、はるかに良き待遇で迎えて差し上げるぞ」
将軍からの命令となれば、穏やかではない。従わなければ、影丸にさらなる罰が待っているということなのか。
なにせ、安政の大獄では死罪とされた者もいるのだ。もしも影丸が将軍の命に背いたとなれば――。
背中にぞくりと冷たいものが走った。寧々はすぐさま取り繕うように答える。
「嬉しゅうございますが、私の一存では決められませぬ。考えるお時間をいただければと思います」
寧々が答えを濁すと、家茂はあからさまに焦りを見せた。
「次はいつ会えるか分からぬ。今日はこの場で、おぬし自身の口から本心を聞きたいのだ」
「そ、それは……」
答えあぐねた寧々は、わずかに後ずさる。だが、家茂は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「この家茂の申し出を断る理由など、どこにあるというのだ」
「そ、そうではありますが……」
「もし断るというのであれば――」
寧々が困惑し、返答に窮した――そのときだった。
正門の方から、門番の叫び声が聞こえてきた。
「貴様ら、何者だ!」
一瞬の間を置いて、切迫した声が屋敷中に響き渡った。間違いなく、一橋家の門番の声であった。
「敵襲じゃ! 門を固めよ! ……ぎゃあっ!」
門の方から悲鳴が上がる。和やかだった宴の雰囲気が、一瞬にして凍りついた。何が起きたのか分からず、皆がざわめきながら互いに尋ね合う。
だが、答えが出るはずもない。それからすぐ、正門の向こうから数多の剣士がなだれ込んできた。
先頭に立つ、ひときわ体格の大きな男が刀を掲げ、高らかに叫ぶ。
「者ども、聞けい!」
その声が、一橋家の庭に響き渡る。
「我らは尊王攘夷の志士である! 我らが主上、孝明天皇の御威光を損ない、恥辱を与える者どもよ! 我ら正義の士が成敗してくれるわ!」
それは、井伊直弼が恐れていた、水戸藩の過激派たちであった。
どこから花見会の情報が漏れたのかは分からない。だが、尊王攘夷派の者たちが、幕府の重臣や徳川一門が一堂に会するこの花見の席を知れば、復讐のための絶好の機会と考えるであろう。
彼らが一橋家の花見の席を狙って襲撃したのは明白だった。
「寧々殿、隠れて!」
家茂は必死に叫ぶと、寧々を卓の下へ押し込んだ。そして自らも、その中へ身を滑り込ませる。幸い、卓には大きな敷き布が掛けられており、二人の姿を隠してくれた。
「なんで、こんな時に……」
家茂の顔面は蒼白になり、身体は小刻みに震えていた。
敵の狙いは、日米修好通商条約を独断で締結した井伊直弼であろう。ならば、井伊を守るべきは、徳川家の家臣たちの役目である。
寧々は、そう思っていた。
武士たちの駆ける足音が、庭へと近づいてくる。寧々は聞き耳を立てた。
「お前らは屋敷の中を探せ! お前らは屋敷の裏手に回れ!」
「承知した!」
「無益な殺生はするな! 狙いは――一橋慶喜だけだ!」
――えっ?
その言葉を聞いた瞬間、寧々は全身が凍りつくような恐怖に襲われた。敵の襲来の狙いが影丸だとは、想像だにしなかった。
なぜ、影丸が……?
どうしてなのか、あまりにも腑に落ちない。だが、このままでは間違いなく、影丸が殺される。寧々は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
足音から察すると、駆けていった敵の数は八名。いずれも手練れの者であろう。しかも武士たちは皆、刀を預けてしまっている。影丸といえども一振りの小刀では太刀打ちできるはずがない。
――影丸を、助けなければ。
寧々は、家茂の両肩に手を置き、諭すように言った。
「私は、行かなければなりません」
「ど……どうして、おぬしが……」
「当主をお守りするのもまた、奥方の務めと存じます」
「自ら危険の中へ飛び込むというのか?」
「いえ――」
寧々は、穏やかに微笑んだ。
「当主と同じ運命の中へ、飛び込むのでございます」
そう言って、寧々は家茂の肩から手を離した。
もとより、家茂に触れても拒否反応が起きることはなかった。刀の稽古で倒れそうになった家茂を抱きとめたとき、そのことに気づいていた。
それは、最初から家茂を男として見ていなかったからにほかならない。
寧々が身も心も預けられるのは、影丸をおいて他にはいないのだ。
「ま……待ってくれ!」
家茂の制止を背中で流し、寧々は卓の敷布をめくり上げる。そして最後に一度、振り向いた。
「家茂殿は、またお会いできますようにと、ここで願っていてください」
それだけ言い残すと、寧々は敷布をめくり、その身を外へと滑らせていった。
井伊直弼は、直々に水戸藩の重臣である武田耕雲斎を江戸城へ呼びつけた。
武田耕雲斎は、尊王攘夷を掲げる水戸藩士の中でも、ひときわ気骨のある男で体格も良い。井伊の政治姿勢を激しく憎み、とりわけ日米修好通商条約を朝廷の勅許なく締結したことについては、深い怨恨を抱いていた。
その武田が、今まさに井伊の目の前に鎮座している。
武田は長い白髭を擦りながら、井伊を睨みつける。血走った目には、隠そうともしない敵意が滲んでいた。
二人の間に流れる重苦しい沈黙を裂いて、武田が口を開く。
「では井伊よ。なぜ、この儂を呼び出したのか、説明してもらおうか」
声には明らかな苛立ちがあった。だが井伊はそれを意に介する様子もなく、武田を見返した。
「それは、おぬしが我々を誤解していると思ったからよ」
「誤解だと……?」
武田の片眉がぴくりと動いた。
「日米修好通商条約の件じゃ」
その言葉を聞いた瞬間、武田の眉間の皺がさらに深く刻まれた。
尊王攘夷を掲げる水戸藩士にとって、朝廷の許しを得ぬまま異国と条約を結ぶことは、日本という祖国への冒涜であった。
「今さら、言い訳がましいことを言うつもりか」
「そう青筋を立てるではない。条約締結には、裏の事情があっての」
井伊は、あえて一息置いた。相手の反応を確かめるように、武田の目をじっと見据える。
「実は、十四代将軍の座を争っていた頃のことだが……家茂の暗殺が企てられておったのを知っておるか」
「何だと……?」
武田は身を乗り出した。
これは井伊の虚言である。だが、あたかも周知の事実であるかのように思わせること――それが井伊の話術であった。
「まさか将軍候補の暗殺とは……一体誰が黒幕なのか、分かったのか」
井伊はひとつ咳払いをし、喉から絞り出すように言う。
「それがようやっと判明した。一橋家の連中だ」
「一橋家が黒幕だと……?」
「そう、慶喜だ。やつが隠密を雇ったのだ。その隠密を問い詰め続け、ついに吐かせて明らかになったことだ」
武田の顔に驚きが走る。だが、即座に疑念が驚きを覆った。
「一橋慶喜のどこに、そんな動機があるのだ?」
「一橋家の連中は華やかな異国の文化に目が眩み、開国を主導しようとした。家茂公がいなければ、幕府を牛耳り、政を意のままに操れると考えたのであろう」
しかし、武田の表情は疑念が色濃く浮かぶ。
「一橋側が開国を主導だと? 日米修好通商条約を締結したのは、おぬし自身ではないか」
だが井伊は、いかにも苦渋の決断を迫られているかのような表情を作った。
「私が締結する必要があったのだ」
「どういうことだ……?」
「徳川家の血筋の中で起こした抗争が表立ったものとなれば、民の忠誠は下がる。さすれば、徳川に対する反乱を惹起しかねない」
「表沙汰になっていない理由は、おぬしらが体面を重んじたからなのか」
それは井伊の虚言ゆえ、武田の知るよしもない。だが井伊は、さも事実であるかのように、ゆっくりと深く肯いた。
「暗殺計画を表沙汰にせぬことと引き換えに、将軍争いから退かせることに成功したのだ。だが、家茂公を危険にさらし続けるわけにはいかぬ。だから、私が日米修好通商条約を締結したのは、やつらを満足させ、再び暗殺を企てる理由を失わせるためであったのだ」
井伊はもっともらしい言い分を並べ立てた。だが、武田はその虚言を信じ切れていないようだ。
「では、なぜ一橋家の家主である慶喜を蟄居にしたのか、答えてもらおう」
井伊は、あらかじめ用意していた答えを口にする。
「それは慶喜からの提案であったのだ。蟄居とすれば、私の開国に反対した慶喜が罰を受けたという構図を作ることができる。暗殺を企てたなど、誰も思いもしないであろう」
「なるほどな……」
武田は黙り込んだ。井伊の話を信じるべきか、それとも虚言と見るべきか――それを推し量っているようであった。だが、さらに問いを重ねる。
「ならば、なぜ開国に反対する者たちを処刑したというのだ」
その問いに、井伊は薄く笑った。
「それは建前じゃよ」
「建前……だと?」
「処分した者はいずれも、家茂を将軍として立てることに不満を持っていた者たちじゃ。そのことを反乱の芽を摘む口実にできるのであれば、渡りに船、といったところじゃったのだ」
すると武田は考え込み、それから拳を膝の上で握りしめ、吐き捨てるように呟いた。
「慶喜め……やつは水戸藩を裏切ったというのか」
どうやら、武田は井伊の虚言を信じたらしい。
その言葉を聞いた瞬間、井伊の胸中に歪んだ笑みが浮かんだ。だが、それを表情に出すことはない。
「そこで、慶喜の目を覚まさせるためにも、おぬしらに頼みたいことがある」
井伊は興奮をなだめつつ、唸るように切り出した。
「それで、この儂を呼んだということか」
「そうじゃ」
井伊は声を潜めて武田に近づき、顔をその耳元へ寄せた。
「一橋家を襲撃してもらいたい。祖国の安泰のため、天皇の権威奪還のために」
武田の表情が強張った。そして、しばし考え込むように身を固くした。
「ふ、ふ、ふ……政争とは、なんとも面倒なものであるな」
「理解いただけて嬉しい限りである」
井伊の腹の内は、黒い愉悦に満たされていた。武田はまんまと井伊の虚言に乗せられたようであった。
「ならば、段取りについて話させてもらいたいのだが……」
「やけに用意がいいな。儂が納得すると踏んでのことか」
「当然であろう、同志よ。何せ我々は、すでに同じ道を歩き始めているのだからな」
武田は気を引き締めるように、口を一文字に引き結んだ。
「だが、礼は弾むぞ。せっかく江戸まで出向くのだから、力を貸した武士たちには全員、吉原の一夜でも整えてくれよう」
やがて武田は、鼻からふんと息を吐き、口元を緩めた。
「くっくっく……おぬしは策士よのう」
「それを言うな。実行するかどうかは、おぬしらがおぬしらの正義を貫くかどうか次第――そういうことじゃ」
「御意」
二人の間に、奇妙な盟約が成立した。
そして二人は襲撃の綿密な段取りを詰め、襲撃前日に江戸で最後の打ち合わせを行うことになった。
「では、水戸藩の同志にも礼を伝えてくれ」
「ああ。当日は派手に暴れさせてもらうぞ」
「だが、徳川家の家臣まで刃の餌食にしてくれるなよ」
「おっと、狙いは一橋慶喜だけであったな」
「「くっくっく……」」
そうして武田は、江戸城を後にした。
だが、武田が部屋を出ていったあと、井伊の顔から笑みが消えた。
障子の向こうへ遠ざかっていく足音を聞きながら、井伊は一人、吐き捨てるように呟いた。
「……愚かな男よ」
そして、胸の内で冷酷な考えを巡らせた。
すべてが終わったところで、どうするか――答えは、とうに決まっている。
一橋家への襲撃は、慶喜を仕留めさせるのが目的だ。成功した後、謀反を企てた水戸藩士たちを、一人残らずその場で始末すればよい。
そうなれば、誰も真相を語ることはできない。まさに、死人に口なし――。
井伊は障子の向こうを見つめながら、わずかに口角を上げた。
「すべての罪は、おぬしらに背負ってもらおう。それも、地獄までな」
その声は、冬の江戸の静寂へと溶けていった。
★
家茂は、梅花が咲き誇る木の下に寧々の姿を見つけた。
すると、家茂は嬉しそうに寧々のもとへ小走りで駆け寄ってくる。その姿は、あどけない若君そのものである。
「寧々殿、待たせたな」
「あら、家茂様。またお会いできて光栄でございます」
寧々は深々と頭を垂れた。
「そう畏まるでない。余は、おぬしと話したいことがあるのだ」
家茂は顔を上気させ、いかにも嬉しそうである。
「ところで、兜虫たちはお元気でしょうか」
「春になったせいか、いきいきとしておるぞ。いずれ成虫となるのが楽しみである」
「子々孫々と繁栄していくと、よろしゅうございますね」
「それは徳川家も同じことである」
暗に寧々の嫁入りを促しているように思えたが、寧々はあくまで気づかぬふりをする。
「家茂様にも、いつか良きお相手が見つかることを願っております」
「じつは、すでに見つかっているのだがな」
「えっ。それは、どなたでございましょう?」
寧々は、その意図に気づかぬふりをした。だが、家茂は引かなかった。
「待て。おぬしは、余の正室候補について聞いておらぬのか?」
「正室候補がいらっしゃるのでございますか。しかし、どうすれば私のような者が、それを知ることができましょうか」
家茂は、あからさまに意外そうな顔をした。
その返事に家茂は、寧々が井伊と影丸の間で交わされた書状の内容を知らないのだと察したであろう。
ならば影丸が申し出を断ったのは、寧々の意志ではなく影丸の独断だと考えるのも無理はない。
家茂の表情が、次第に険しくなってゆく。
「寧々よ。先日、蟄居御免の見返りとして、おぬしをこちらへ渡すよう命じたはずなのだが」
家茂は、寧々を真っ直ぐに見つめる。まるで問い詰めるような、そして逃げ道を塞ぐような目であった。
「……奴は、独断でそれを断ったということだな」
若君らしからぬ低い声で発せられた言葉を聞き、寧々の胸はひどくざわついた。
「ならば、おぬしに問いたい。今すぐ徳川家に入らぬか。この一橋家よりも、はるかに良き待遇で迎えて差し上げるぞ」
将軍からの命令となれば、穏やかではない。従わなければ、影丸にさらなる罰が待っているということなのか。
なにせ、安政の大獄では死罪とされた者もいるのだ。もしも影丸が将軍の命に背いたとなれば――。
背中にぞくりと冷たいものが走った。寧々はすぐさま取り繕うように答える。
「嬉しゅうございますが、私の一存では決められませぬ。考えるお時間をいただければと思います」
寧々が答えを濁すと、家茂はあからさまに焦りを見せた。
「次はいつ会えるか分からぬ。今日はこの場で、おぬし自身の口から本心を聞きたいのだ」
「そ、それは……」
答えあぐねた寧々は、わずかに後ずさる。だが、家茂は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「この家茂の申し出を断る理由など、どこにあるというのだ」
「そ、そうではありますが……」
「もし断るというのであれば――」
寧々が困惑し、返答に窮した――そのときだった。
正門の方から、門番の叫び声が聞こえてきた。
「貴様ら、何者だ!」
一瞬の間を置いて、切迫した声が屋敷中に響き渡った。間違いなく、一橋家の門番の声であった。
「敵襲じゃ! 門を固めよ! ……ぎゃあっ!」
門の方から悲鳴が上がる。和やかだった宴の雰囲気が、一瞬にして凍りついた。何が起きたのか分からず、皆がざわめきながら互いに尋ね合う。
だが、答えが出るはずもない。それからすぐ、正門の向こうから数多の剣士がなだれ込んできた。
先頭に立つ、ひときわ体格の大きな男が刀を掲げ、高らかに叫ぶ。
「者ども、聞けい!」
その声が、一橋家の庭に響き渡る。
「我らは尊王攘夷の志士である! 我らが主上、孝明天皇の御威光を損ない、恥辱を与える者どもよ! 我ら正義の士が成敗してくれるわ!」
それは、井伊直弼が恐れていた、水戸藩の過激派たちであった。
どこから花見会の情報が漏れたのかは分からない。だが、尊王攘夷派の者たちが、幕府の重臣や徳川一門が一堂に会するこの花見の席を知れば、復讐のための絶好の機会と考えるであろう。
彼らが一橋家の花見の席を狙って襲撃したのは明白だった。
「寧々殿、隠れて!」
家茂は必死に叫ぶと、寧々を卓の下へ押し込んだ。そして自らも、その中へ身を滑り込ませる。幸い、卓には大きな敷き布が掛けられており、二人の姿を隠してくれた。
「なんで、こんな時に……」
家茂の顔面は蒼白になり、身体は小刻みに震えていた。
敵の狙いは、日米修好通商条約を独断で締結した井伊直弼であろう。ならば、井伊を守るべきは、徳川家の家臣たちの役目である。
寧々は、そう思っていた。
武士たちの駆ける足音が、庭へと近づいてくる。寧々は聞き耳を立てた。
「お前らは屋敷の中を探せ! お前らは屋敷の裏手に回れ!」
「承知した!」
「無益な殺生はするな! 狙いは――一橋慶喜だけだ!」
――えっ?
その言葉を聞いた瞬間、寧々は全身が凍りつくような恐怖に襲われた。敵の襲来の狙いが影丸だとは、想像だにしなかった。
なぜ、影丸が……?
どうしてなのか、あまりにも腑に落ちない。だが、このままでは間違いなく、影丸が殺される。寧々は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
足音から察すると、駆けていった敵の数は八名。いずれも手練れの者であろう。しかも武士たちは皆、刀を預けてしまっている。影丸といえども一振りの小刀では太刀打ちできるはずがない。
――影丸を、助けなければ。
寧々は、家茂の両肩に手を置き、諭すように言った。
「私は、行かなければなりません」
「ど……どうして、おぬしが……」
「当主をお守りするのもまた、奥方の務めと存じます」
「自ら危険の中へ飛び込むというのか?」
「いえ――」
寧々は、穏やかに微笑んだ。
「当主と同じ運命の中へ、飛び込むのでございます」
そう言って、寧々は家茂の肩から手を離した。
もとより、家茂に触れても拒否反応が起きることはなかった。刀の稽古で倒れそうになった家茂を抱きとめたとき、そのことに気づいていた。
それは、最初から家茂を男として見ていなかったからにほかならない。
寧々が身も心も預けられるのは、影丸をおいて他にはいないのだ。
「ま……待ってくれ!」
家茂の制止を背中で流し、寧々は卓の敷布をめくり上げる。そして最後に一度、振り向いた。
「家茂殿は、またお会いできますようにと、ここで願っていてください」
それだけ言い残すと、寧々は敷布をめくり、その身を外へと滑らせていった。



