奥方としての扱いから解き放たれた寧々は、自由に江戸の街を散策したり、侍女たちの手伝いをしたりと、一橋家の姫として自由気ままな日々を送っていた。
そして、冬の峠を過ぎた頃、井伊からの返書が届いた。
書状の内容を改めた長十郎が、影丸を連れて寧々のもとへやってくる。
「井伊殿のお返事は、いかがでしたでしょうか」
「それが……意外な申し出がございました」
「意外な申し出……?」
長十郎は意味ありげな前置きをしてから、返書を開いた。掲げられた書状に目を通す。
『慶喜殿の寧々殿を思う御心のほど、承知いたした。
それでは、蟄居御免の儀につき、ひとつ願い置きたきことがある。
一橋家の庭には、見事なる梅の木が数多くあると聞き及んでおる。我らも一度、その梅花を愛でる席に加わりたく存ずる。
ついては、親睦の証として、梅見の宴を催されてはいかがであろうか。
ただし、それまでの間、寧々殿には手を付けぬよう、くれぐれも頼み置く』
……梅見の宴の申し出? それも、一橋家の敷地で?
影丸が家茂の申し出を断ったことに、井伊が怒りを覚えている様子はなかった。むしろ、それがなおさら不気味でもある。
しばらく沈黙が支配した。
寧々はおそるおそる影丸に尋ねる。
「影丸……どういたしましょうか」
影丸はしばし逡巡していたが、ついに決断を下す。
「井伊の意図は図りかねるが、断る理由もないだろう。ならば承諾するほかあるまい」
その答えに反対する者は誰もいなかった。
そこで、長十郎がひとつ手を叩いて気合いを入れる。
「では、私が指揮を執らせていただきます。一橋家の安泰のためにも、納得のいく梅見の宴にさせていただきますぞ!」
長十郎であれば紀州徳川家にも顔が利くし、段取りも円滑に進められるはずだ。やはり、年配の家臣ほど頼りになる者はいない。
「では長十郎よ、よろしく頼む」
寧々と影丸は顔を見合わせ、ほっと息を吐いた。
けれど、寧々は最後の一文が気になっていた。
――それまでの間、寧々殿には手を付けぬよう、くれぐれも頼み置く。
家茂は、まだ寧々を貰い受けることを諦めていないように思えた。
梅見の宴では、家茂公が直々に寧々を正室に迎えたいと言い出すかもしれない。そうなれば、寧々は自ら断りを入れられる立場ではない。
さらに、隠密としての任務を考えれば、家茂公の奥方になるという可能性を捨ててはならないのだ。
そのためにも、潔白の身でいなければならない――。
寧々の心は、影丸に惹かれながらも、麻縄で縛り付けられているかのように身動きが取れないのであった。
★
宴の日取りは、梅が満開となる弥生の初め頃に決められた。
当日は、将軍をお迎えしての梅見の宴とあって、一橋家は総出でてんやわんやの大騒ぎとなった。
日が昇る前から会場の設えや料理の準備が始まり、家臣や侍女たちは大忙しである。
長十郎が指揮を執り、家臣と侍女たちに指示を下す。
「こちらの卓は、もう少し梅の木がよく見える場所へ動かしてくれ」
「承知いたしました!」
「料理のほうはどうなっている?」
「鯛や鴨、それに山菜も届いております。あとは盛り付けを整えれば、いつでもお出しできます」
「酒は十分にあるか?」
「はい。地方より取り寄せた特産のものをふんだんに用意してございます」
庭には梅見の席が設けられ、卓には上品な敷物が掛けられた。次々と料理が運ばれ、彩りよく盛り付けられてゆく。
卓上には、鯛の塩焼き、鴨の煮物、山菜の和え物、筍の炊き合わせなど、春の味覚をふんだんに使った料理が並ぶ。
侍女たちは慌ただしく動き回り、最後の準備に余念がない。
その日は風もなく、青い空には雲のちぎれ端が浮かんでいるだけの、麗らかな日であった。
寧々と影丸は、庭先で忙しく働く家臣たちの様子を眺めていた。
「しかし、井伊殿はどういう風の吹き回しであろうか」
影丸は、どこか腑に落ちない表情を浮かべている。
「こちらからおうかがいし、直接ご挨拶申し上げたのが良かったのではないでしょうか。兜虫も気に入っていただけましたし」
井伊の提案は、梅の花を愛で、親睦を深める。ただ、それだけの話のはずである。
「寧々、おぬしは人が良すぎるのではないか」
「あら、そうでございましょうか。誰かを疑って生きるなど、晴れの日にわざわざ雨を願うようなものでございます」
寧々は、影丸を安心させるためにそう言ったのだ。
「まあ、それもそうだな。蟄居を御免してもらえるよう、最大のもてなしを致そう」
影丸は、梅の木を見上げて目を細める。
けれど、井伊は花見の宴をわざわざ望むほど、趣のある人間には見えない。だから、どうしても別の意図が隠されているように思えてならなかった。
寧々は、この梅見の宴で何も起きなければいいけれど、と願わずにはいられなかった。
★
やがて、徳川家一行が一橋家へ到着した。一橋家の武士たちは門前に並んで出迎える。
訪れたのは、家茂と井伊直弼、それに家臣や毒味役たち。総勢三十名ほどである。
「ようこそ、一橋家へお越しくださいました」
影丸――すなわち家主である一橋慶喜が、来客に向かって頭を下げた。
家茂が先んじて挨拶を返す。
「今日の日を楽しみにしておったぞ。では、存分に梅見を楽しませてもらおうではないか」
家茂は家臣たちとともに、悠々と敷地の中へ入っていく。一行は、影丸の懸念をよそに、穏やかな雰囲気であった。
その最後尾には、目付役の武士たちも控えていた。
ところが、目付役たちは慶喜の姿を見ると、驚いたように目を丸くした。
彼らは慶喜を見張るような視線を向けながら、互いに声を潜めて話している。
「慶喜殿は、やけに若返っていないか」
「あのときとは肌艷も顔色も大違いだ」
「もしや、別人ではなかろうか」
目付役たちは、どうにも信じられないという顔をしていた。
床に伏していた慶喜は、どう見ても三十を過ぎているように見えた。だが、目の前に佇む慶喜は、蟄居中に見た姿よりもはるかに若々しいのだ。
影丸は、それを承知していながら、あえてにこやかに声を掛けた。
「その節は一橋家の見回り、大変お疲れ様でございました」
目付役の一人が、おずおずと尋ねる。
「慶喜殿、お身体の具合は、もう大丈夫なのでございますか」
「少々時間がかかりましたが、幸い、病も癒えました。労咳ではなかったようです」
そう言われてしまっては、目付役もそれ以上、言い返すことはできない。
それでも、目付役は訝しげに影丸の姿をまじまじと見つめていた。
別人なのだから当然であるが、目付役たちにそれを証明する術はないのであった。
一行が庭へと案内されたところで、井伊が慶喜に声を掛けた。
「慶喜殿よ、ひとつお頼み申す」
「なんでございましょうか」
「皆、腰に刀を差しておるが、そのような物騒なものは、この祝いの席には似つかわしくないであろう」
影丸は嫌な予感がした。
「刀は武士の命。身につけておくのが常でございましょう」
「されど、今日は親睦のための花見である。互いに刀を預けることで、わだかまりのない席といたしたい」
井伊は、頑として譲らなかった。
「ですが……」
「これは家茂公からの要望であるぞ」
ためらいはあったが、そう言われては断ることはできない。結局、刀を置くための卓がひとつ、新たに用意された。
一橋家の武士たちも、徳川家の武士たちも、皆、腰の刀を外し、台の上へと並べていく。
「これで争いとは無縁の、平和な梅見の宴になりますぞ」
井伊は仰々しくそう言った。影丸は万一のためにと、懐に忍ばせておいた小刀に手を当てて確かめる。
寧々は来客に丁重な挨拶をして回る。家茂には、「あとで二人でお話でもいたしましょう」と誘いを受けたが、寧々は曖昧な返事をした。
一通りの挨拶を終えた後、寧々は影丸の側へ歩み寄った。
なにせ、以前から曖昧であったことが明確になったのである。
「影丸、目付の者たちは、替え玉に気づいていなかったようですね」
「どうやら、そのようだな」
寧々の胸に安堵が広がる。それはつまり、一橋家に井伊の差し金が紛れ込んでいるわけではないことを意味していた。尼音もまた、井伊の手下というわけではないのだ。
ならば、尼音の言う「主上の者」とは、一体誰だったのか――。
その疑問は残ったが、今となってはそれを明らかにする術はない。
寧々は空を見上げる。頭上には梅の花が満開に咲き誇っていた。春の柔らかな陽射しが、枝先の花を照らしている。
「ところで、影丸は、どの梅がお好きでございますか?」
「梅か……。あまり考えたことはないが」
「私は、この梅が好きでございます」
「ほう」
二人は並んで、一本の梅の木を眺めた。
「果物のような爽やかな香りがする、これが好きでございます」
花弁を淡い黄色に染めるその梅は、月影という品種である。影丸は枝をたぐり寄せ、そっと花に顔を近づけて香りを確かめる。
「確かに爽やかな香りだ。俺も気に入ったぞ」
寧々は嬉しそうに影丸を見上げた。
無事に蟄居を解かれ、平穏な日々が訪れる――。
寧々は、そんな未来を願っていた。
そのときだった。
ふと、梅の木のひとつに背を預け、俯いている僧侶の姿が目に入った。
深い編笠である天蓋をかぶり、袈裟を身にまとっている。手には尺八を携えていた。寧々は声を潜めて影丸に問う。
「あの僧侶……ご存じでしょうか」
「さあ、見たことはないな。尺八を奏でさせるために、徳川家が呼んだのではないか」
なんとなく、この場には似つかわしくない者のように思えた。
寧々は、胸の奥に嫌な予感を覚えた。そして、ふと思い出す。
尼音が口にしていた――「耳のない僧侶」。
その瞬間、全身の肌が粟立った。
天蓋に遮られて顔は見えない。だから、もしかすると、あの僧侶は「耳のない僧侶」なのではないか。
もしそうであれば、何のために花見の宴に――。
だが、本人に尋ねるわけにもいかない。
そこで寧々は、あることを思いついた。
「影丸、気配を消して、あの僧侶の背後に回り込んでいただけますか」
「背後に?」
「はい。それで一瞬だけ、刀を抜く音を立ててほしいのです」
「刀を抜く音だと?」
「はい、さようでございます」
影丸は一瞬、躊躇した。だが、寧々の真剣な眼差しを見ると、納得したように肯いた。
「その理由については、後で教えてくれないか」
「もちろんでございます」
影丸は懐に忍ばせていた小刀に手を添え、人目を避けながら僧侶の背後へ回り込んだ。
そして、刀をすっと抜く。
――カチン。
すぐさま鞘へ収めた、その瞬間だった。
僧侶が、はっと顔を上げた。
まず前方に視線を向ける。そして、音のする方を確かめるように辺りを見回すと、次に背後へ顔を向けた。
影丸の姿を捉えたようであったが、影丸は僧侶へ目を向けることなく、何食わぬ顔でその場を離れてゆく。
僧侶はしばらく影丸の挙動を監視していたが、姿が見えなくなると、再び梅の木の幹に背を預けた。
影丸は少し間を空けてから寧々に合流する。
「寧々よ、これでよかったのか?」
「十分でございます」
寧々は僧侶を見つめ、小さく肯いた。
「あの僧侶が、耳のない僧侶で間違いありません」
「なぜ分かるのだ?」
影丸は懐疑的な表情を浮かべた。かたや寧々は、確信を宿した瞳で答える。
「先ほど、影丸が刀の音を立てたとき、あの僧侶はまず前を確認し、それから後ろを振り返りました」
「それが何を意味するのだ?」
「普通なら、音が背後から聞こえたと分かれば、すぐに後ろを振り向くはずでございます。ところが、あの僧侶は、まず目の前を確かめました」
影丸は記憶を辿るように、視線を宙へさまよわせた。
「確かにそうだが……それがなぜ耳のない僧侶だということに繋がるのだ?」
寧々は自分の両耳朶をつまんで言う。
「耳は音を聞くだけではございません。音がどちらから聞こえてくるのかを判断する手掛かりにもなるのです」
「手掛かり、だと?」
「はい。耳があれば、前後から聞こえてくる音の違いを捉えられます。ところが耳を失えば、音の方向を判断しにくくなるのです」
これも、寧々が母から聞いたことであった。
忍は捕らえられると、罰として耳を切られることがあるという。そして、耳を失えば、音のする方向を捉えることが難しくなるのだと教えられた。
「音がどこから聞こえたのか、瞬時に判断できなかったのは、耳がないからでございましょう」
「なるほどな……」
だが、「耳のない僧侶」は尼音の息のかかった者である。ということは、この花見の席に、尼音が紛れ込んでいる可能性が高いのだ。
そしてあの僧侶もまた、危険極まりない存在なのである。
しかし、尼音は徳川家とは無関係だと思われた。それなのになぜ、この花見の席に紛れ込むのか。
一体、何の目的で……?
まさか、影丸に復讐を果たしに来たのではないか。
そんな懸念が、胸の中を渦巻いていく。寧々の背中がじりりと汗ばんだ。
そのとき――。
「皆の者、集まりたまえ!」
家茂の声が庭に響いた。
散らばっていた者たちが、次々と集まってくる。やがて全員が揃うと、家茂が挨拶を始めた。
「本日は一橋家にお招きいただき、誠に感謝いたす。徳川一族として親睦を深め、末永き繁栄を願い、ここに美しき梅の花を眺めながら、酒を酌み交わしたいと存ずる。
それでは皆の者、猪口を手に。祝杯を挙げようではないか」
皆が猪口を手に取り、酒を注ぐ。
そして、胸の前に掲げた。
「それでは、一橋家ならびに徳川家の末永き繁栄を祝して――」
「「「「「乾杯!」」」」」
家臣たちは皆、盛大に祝杯の声をあげた。
★
一橋家と紀州徳川家の家臣たちは、酒を飲みながら入り混じり、談笑を交わしている。
梅の木を眺めながら、穏やかな時間が流れていく。そんな中、井伊がおもむろに影丸のもとへ歩み寄り、その隣に並んだ。
「しかし、まことによき梅の花であるな」
「お褒めに預かり、光栄にございます」
「いや、私が申している梅の花とは――」
井伊は横目で寧々を見やった。
「おぬしの正室候補のことよ」
影丸は黙り込み、横目で井伊を見る。その言葉に含意があることは明白だった。
「我々もしつこく言うつもりはない。だが――」
井伊は声を落とした。
「最初の梅の実は、ぜひとも女児をと思ってな」
影丸の表情が険しくなる。だが井伊は、さらに影丸の耳元へ顔を寄せた。
「それゆえ、男女の産み分けの方法を教えてしんぜよう」
食べ物や子作りの日、それに神社への祈願など、子宝にまつわる話があると聞いたことがあった。
「だが、人のいる場所では話しにくいことだ。どこか二人きりになれる場所はなかろうか」
影丸は、ここで断る理由はないと考え、人のいない場所を思い浮かべた。
「では、ご案内いたします」
そう言って、影丸は井伊を上屋敷の裏手へと案内する。
だが、その背後で井伊が歪んだ笑みを浮かべていることに、影丸は気づいていなかった。
そして、冬の峠を過ぎた頃、井伊からの返書が届いた。
書状の内容を改めた長十郎が、影丸を連れて寧々のもとへやってくる。
「井伊殿のお返事は、いかがでしたでしょうか」
「それが……意外な申し出がございました」
「意外な申し出……?」
長十郎は意味ありげな前置きをしてから、返書を開いた。掲げられた書状に目を通す。
『慶喜殿の寧々殿を思う御心のほど、承知いたした。
それでは、蟄居御免の儀につき、ひとつ願い置きたきことがある。
一橋家の庭には、見事なる梅の木が数多くあると聞き及んでおる。我らも一度、その梅花を愛でる席に加わりたく存ずる。
ついては、親睦の証として、梅見の宴を催されてはいかがであろうか。
ただし、それまでの間、寧々殿には手を付けぬよう、くれぐれも頼み置く』
……梅見の宴の申し出? それも、一橋家の敷地で?
影丸が家茂の申し出を断ったことに、井伊が怒りを覚えている様子はなかった。むしろ、それがなおさら不気味でもある。
しばらく沈黙が支配した。
寧々はおそるおそる影丸に尋ねる。
「影丸……どういたしましょうか」
影丸はしばし逡巡していたが、ついに決断を下す。
「井伊の意図は図りかねるが、断る理由もないだろう。ならば承諾するほかあるまい」
その答えに反対する者は誰もいなかった。
そこで、長十郎がひとつ手を叩いて気合いを入れる。
「では、私が指揮を執らせていただきます。一橋家の安泰のためにも、納得のいく梅見の宴にさせていただきますぞ!」
長十郎であれば紀州徳川家にも顔が利くし、段取りも円滑に進められるはずだ。やはり、年配の家臣ほど頼りになる者はいない。
「では長十郎よ、よろしく頼む」
寧々と影丸は顔を見合わせ、ほっと息を吐いた。
けれど、寧々は最後の一文が気になっていた。
――それまでの間、寧々殿には手を付けぬよう、くれぐれも頼み置く。
家茂は、まだ寧々を貰い受けることを諦めていないように思えた。
梅見の宴では、家茂公が直々に寧々を正室に迎えたいと言い出すかもしれない。そうなれば、寧々は自ら断りを入れられる立場ではない。
さらに、隠密としての任務を考えれば、家茂公の奥方になるという可能性を捨ててはならないのだ。
そのためにも、潔白の身でいなければならない――。
寧々の心は、影丸に惹かれながらも、麻縄で縛り付けられているかのように身動きが取れないのであった。
★
宴の日取りは、梅が満開となる弥生の初め頃に決められた。
当日は、将軍をお迎えしての梅見の宴とあって、一橋家は総出でてんやわんやの大騒ぎとなった。
日が昇る前から会場の設えや料理の準備が始まり、家臣や侍女たちは大忙しである。
長十郎が指揮を執り、家臣と侍女たちに指示を下す。
「こちらの卓は、もう少し梅の木がよく見える場所へ動かしてくれ」
「承知いたしました!」
「料理のほうはどうなっている?」
「鯛や鴨、それに山菜も届いております。あとは盛り付けを整えれば、いつでもお出しできます」
「酒は十分にあるか?」
「はい。地方より取り寄せた特産のものをふんだんに用意してございます」
庭には梅見の席が設けられ、卓には上品な敷物が掛けられた。次々と料理が運ばれ、彩りよく盛り付けられてゆく。
卓上には、鯛の塩焼き、鴨の煮物、山菜の和え物、筍の炊き合わせなど、春の味覚をふんだんに使った料理が並ぶ。
侍女たちは慌ただしく動き回り、最後の準備に余念がない。
その日は風もなく、青い空には雲のちぎれ端が浮かんでいるだけの、麗らかな日であった。
寧々と影丸は、庭先で忙しく働く家臣たちの様子を眺めていた。
「しかし、井伊殿はどういう風の吹き回しであろうか」
影丸は、どこか腑に落ちない表情を浮かべている。
「こちらからおうかがいし、直接ご挨拶申し上げたのが良かったのではないでしょうか。兜虫も気に入っていただけましたし」
井伊の提案は、梅の花を愛で、親睦を深める。ただ、それだけの話のはずである。
「寧々、おぬしは人が良すぎるのではないか」
「あら、そうでございましょうか。誰かを疑って生きるなど、晴れの日にわざわざ雨を願うようなものでございます」
寧々は、影丸を安心させるためにそう言ったのだ。
「まあ、それもそうだな。蟄居を御免してもらえるよう、最大のもてなしを致そう」
影丸は、梅の木を見上げて目を細める。
けれど、井伊は花見の宴をわざわざ望むほど、趣のある人間には見えない。だから、どうしても別の意図が隠されているように思えてならなかった。
寧々は、この梅見の宴で何も起きなければいいけれど、と願わずにはいられなかった。
★
やがて、徳川家一行が一橋家へ到着した。一橋家の武士たちは門前に並んで出迎える。
訪れたのは、家茂と井伊直弼、それに家臣や毒味役たち。総勢三十名ほどである。
「ようこそ、一橋家へお越しくださいました」
影丸――すなわち家主である一橋慶喜が、来客に向かって頭を下げた。
家茂が先んじて挨拶を返す。
「今日の日を楽しみにしておったぞ。では、存分に梅見を楽しませてもらおうではないか」
家茂は家臣たちとともに、悠々と敷地の中へ入っていく。一行は、影丸の懸念をよそに、穏やかな雰囲気であった。
その最後尾には、目付役の武士たちも控えていた。
ところが、目付役たちは慶喜の姿を見ると、驚いたように目を丸くした。
彼らは慶喜を見張るような視線を向けながら、互いに声を潜めて話している。
「慶喜殿は、やけに若返っていないか」
「あのときとは肌艷も顔色も大違いだ」
「もしや、別人ではなかろうか」
目付役たちは、どうにも信じられないという顔をしていた。
床に伏していた慶喜は、どう見ても三十を過ぎているように見えた。だが、目の前に佇む慶喜は、蟄居中に見た姿よりもはるかに若々しいのだ。
影丸は、それを承知していながら、あえてにこやかに声を掛けた。
「その節は一橋家の見回り、大変お疲れ様でございました」
目付役の一人が、おずおずと尋ねる。
「慶喜殿、お身体の具合は、もう大丈夫なのでございますか」
「少々時間がかかりましたが、幸い、病も癒えました。労咳ではなかったようです」
そう言われてしまっては、目付役もそれ以上、言い返すことはできない。
それでも、目付役は訝しげに影丸の姿をまじまじと見つめていた。
別人なのだから当然であるが、目付役たちにそれを証明する術はないのであった。
一行が庭へと案内されたところで、井伊が慶喜に声を掛けた。
「慶喜殿よ、ひとつお頼み申す」
「なんでございましょうか」
「皆、腰に刀を差しておるが、そのような物騒なものは、この祝いの席には似つかわしくないであろう」
影丸は嫌な予感がした。
「刀は武士の命。身につけておくのが常でございましょう」
「されど、今日は親睦のための花見である。互いに刀を預けることで、わだかまりのない席といたしたい」
井伊は、頑として譲らなかった。
「ですが……」
「これは家茂公からの要望であるぞ」
ためらいはあったが、そう言われては断ることはできない。結局、刀を置くための卓がひとつ、新たに用意された。
一橋家の武士たちも、徳川家の武士たちも、皆、腰の刀を外し、台の上へと並べていく。
「これで争いとは無縁の、平和な梅見の宴になりますぞ」
井伊は仰々しくそう言った。影丸は万一のためにと、懐に忍ばせておいた小刀に手を当てて確かめる。
寧々は来客に丁重な挨拶をして回る。家茂には、「あとで二人でお話でもいたしましょう」と誘いを受けたが、寧々は曖昧な返事をした。
一通りの挨拶を終えた後、寧々は影丸の側へ歩み寄った。
なにせ、以前から曖昧であったことが明確になったのである。
「影丸、目付の者たちは、替え玉に気づいていなかったようですね」
「どうやら、そのようだな」
寧々の胸に安堵が広がる。それはつまり、一橋家に井伊の差し金が紛れ込んでいるわけではないことを意味していた。尼音もまた、井伊の手下というわけではないのだ。
ならば、尼音の言う「主上の者」とは、一体誰だったのか――。
その疑問は残ったが、今となってはそれを明らかにする術はない。
寧々は空を見上げる。頭上には梅の花が満開に咲き誇っていた。春の柔らかな陽射しが、枝先の花を照らしている。
「ところで、影丸は、どの梅がお好きでございますか?」
「梅か……。あまり考えたことはないが」
「私は、この梅が好きでございます」
「ほう」
二人は並んで、一本の梅の木を眺めた。
「果物のような爽やかな香りがする、これが好きでございます」
花弁を淡い黄色に染めるその梅は、月影という品種である。影丸は枝をたぐり寄せ、そっと花に顔を近づけて香りを確かめる。
「確かに爽やかな香りだ。俺も気に入ったぞ」
寧々は嬉しそうに影丸を見上げた。
無事に蟄居を解かれ、平穏な日々が訪れる――。
寧々は、そんな未来を願っていた。
そのときだった。
ふと、梅の木のひとつに背を預け、俯いている僧侶の姿が目に入った。
深い編笠である天蓋をかぶり、袈裟を身にまとっている。手には尺八を携えていた。寧々は声を潜めて影丸に問う。
「あの僧侶……ご存じでしょうか」
「さあ、見たことはないな。尺八を奏でさせるために、徳川家が呼んだのではないか」
なんとなく、この場には似つかわしくない者のように思えた。
寧々は、胸の奥に嫌な予感を覚えた。そして、ふと思い出す。
尼音が口にしていた――「耳のない僧侶」。
その瞬間、全身の肌が粟立った。
天蓋に遮られて顔は見えない。だから、もしかすると、あの僧侶は「耳のない僧侶」なのではないか。
もしそうであれば、何のために花見の宴に――。
だが、本人に尋ねるわけにもいかない。
そこで寧々は、あることを思いついた。
「影丸、気配を消して、あの僧侶の背後に回り込んでいただけますか」
「背後に?」
「はい。それで一瞬だけ、刀を抜く音を立ててほしいのです」
「刀を抜く音だと?」
「はい、さようでございます」
影丸は一瞬、躊躇した。だが、寧々の真剣な眼差しを見ると、納得したように肯いた。
「その理由については、後で教えてくれないか」
「もちろんでございます」
影丸は懐に忍ばせていた小刀に手を添え、人目を避けながら僧侶の背後へ回り込んだ。
そして、刀をすっと抜く。
――カチン。
すぐさま鞘へ収めた、その瞬間だった。
僧侶が、はっと顔を上げた。
まず前方に視線を向ける。そして、音のする方を確かめるように辺りを見回すと、次に背後へ顔を向けた。
影丸の姿を捉えたようであったが、影丸は僧侶へ目を向けることなく、何食わぬ顔でその場を離れてゆく。
僧侶はしばらく影丸の挙動を監視していたが、姿が見えなくなると、再び梅の木の幹に背を預けた。
影丸は少し間を空けてから寧々に合流する。
「寧々よ、これでよかったのか?」
「十分でございます」
寧々は僧侶を見つめ、小さく肯いた。
「あの僧侶が、耳のない僧侶で間違いありません」
「なぜ分かるのだ?」
影丸は懐疑的な表情を浮かべた。かたや寧々は、確信を宿した瞳で答える。
「先ほど、影丸が刀の音を立てたとき、あの僧侶はまず前を確認し、それから後ろを振り返りました」
「それが何を意味するのだ?」
「普通なら、音が背後から聞こえたと分かれば、すぐに後ろを振り向くはずでございます。ところが、あの僧侶は、まず目の前を確かめました」
影丸は記憶を辿るように、視線を宙へさまよわせた。
「確かにそうだが……それがなぜ耳のない僧侶だということに繋がるのだ?」
寧々は自分の両耳朶をつまんで言う。
「耳は音を聞くだけではございません。音がどちらから聞こえてくるのかを判断する手掛かりにもなるのです」
「手掛かり、だと?」
「はい。耳があれば、前後から聞こえてくる音の違いを捉えられます。ところが耳を失えば、音の方向を判断しにくくなるのです」
これも、寧々が母から聞いたことであった。
忍は捕らえられると、罰として耳を切られることがあるという。そして、耳を失えば、音のする方向を捉えることが難しくなるのだと教えられた。
「音がどこから聞こえたのか、瞬時に判断できなかったのは、耳がないからでございましょう」
「なるほどな……」
だが、「耳のない僧侶」は尼音の息のかかった者である。ということは、この花見の席に、尼音が紛れ込んでいる可能性が高いのだ。
そしてあの僧侶もまた、危険極まりない存在なのである。
しかし、尼音は徳川家とは無関係だと思われた。それなのになぜ、この花見の席に紛れ込むのか。
一体、何の目的で……?
まさか、影丸に復讐を果たしに来たのではないか。
そんな懸念が、胸の中を渦巻いていく。寧々の背中がじりりと汗ばんだ。
そのとき――。
「皆の者、集まりたまえ!」
家茂の声が庭に響いた。
散らばっていた者たちが、次々と集まってくる。やがて全員が揃うと、家茂が挨拶を始めた。
「本日は一橋家にお招きいただき、誠に感謝いたす。徳川一族として親睦を深め、末永き繁栄を願い、ここに美しき梅の花を眺めながら、酒を酌み交わしたいと存ずる。
それでは皆の者、猪口を手に。祝杯を挙げようではないか」
皆が猪口を手に取り、酒を注ぐ。
そして、胸の前に掲げた。
「それでは、一橋家ならびに徳川家の末永き繁栄を祝して――」
「「「「「乾杯!」」」」」
家臣たちは皆、盛大に祝杯の声をあげた。
★
一橋家と紀州徳川家の家臣たちは、酒を飲みながら入り混じり、談笑を交わしている。
梅の木を眺めながら、穏やかな時間が流れていく。そんな中、井伊がおもむろに影丸のもとへ歩み寄り、その隣に並んだ。
「しかし、まことによき梅の花であるな」
「お褒めに預かり、光栄にございます」
「いや、私が申している梅の花とは――」
井伊は横目で寧々を見やった。
「おぬしの正室候補のことよ」
影丸は黙り込み、横目で井伊を見る。その言葉に含意があることは明白だった。
「我々もしつこく言うつもりはない。だが――」
井伊は声を落とした。
「最初の梅の実は、ぜひとも女児をと思ってな」
影丸の表情が険しくなる。だが井伊は、さらに影丸の耳元へ顔を寄せた。
「それゆえ、男女の産み分けの方法を教えてしんぜよう」
食べ物や子作りの日、それに神社への祈願など、子宝にまつわる話があると聞いたことがあった。
「だが、人のいる場所では話しにくいことだ。どこか二人きりになれる場所はなかろうか」
影丸は、ここで断る理由はないと考え、人のいない場所を思い浮かべた。
「では、ご案内いたします」
そう言って、影丸は井伊を上屋敷の裏手へと案内する。
だが、その背後で井伊が歪んだ笑みを浮かべていることに、影丸は気づいていなかった。



