華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

それから数日が経った。

登城した日以来、寧々と影丸は、互いに相手から聞き出したことや、そこで感じ取った印象について話し合っていた。

寧々は、家茂が暗殺を主導しているとは思えないと、正直に話した。

一方の影丸は、井伊から呪いの黒幕であるような気配は感じられなかったという。

だが、それが本当に無関係だからなのか、それとも井伊が尻尾を出さぬだけなのかまでは、判じかねたと話した。

登城して蟄居の解除を願い出たせいか、目付が抜き打ちで一橋家を訪れることもなくなった。目付に探りを入れるという手も残されていたが、もはやその機会も失われてしまった。

今日もまた、寧々の座敷に早足の足音が近づいてくる。その足音を聞いただけで、誰なのかはすぐに分かった。

寧々はすぐさま姿勢を正し、足音の主を待つ。やがて襖が勢いよく開いた。

「寧々、ようやっと井伊から返書が届いたぞ」

姿を見せたのは影丸であった。影丸の手には、一通の書状があった。

寧々は、はっとして立ち上がる。影丸は襖を閉めると、寧々のそばへ早足で歩み寄った。

「どうだったのでございましょう」
「いや、まだ見ていない。ともに見ようと思ってな」
「影丸は、意外と律儀なんでございますね」

それを聞いた影丸は、露骨に肩を竦めた。

「その『意外』は余計だ。いまだに口が減らないな」
「常日頃から一言多くて、大変失礼いたしました」
「分かればよろしい。では、開くとするか」
「承知しました」

二人は肩を並べて座り、井伊から届いた書状を影丸が開く。

そこには、こう記されていた。

『先日は登城の儀、御苦労に存ずる。
家茂公には、寧々殿をいたくお気に召された様子である。
そこで、蟄居御免の儀について、ひとつ申し入れたい。
寧々殿はいまだ手付かずとのこと。ならば、家茂公の御側へ差し出されてはいかがであろうか。
この申し入れを受け入れられるのであれば、蟄居御免の件も然るべく取り計らおう』

これは――。

姫君が生まれ育ったら輿入れする、どころの話ではない。

寧々自身に家茂の奥方になってもらいたいという要望である。

寧々は驚きで目を丸くした。無論、影丸にとっても予想外のことだったに違いない。

目を通した二人とも、しばらく身動きひとつできなかった。

しかし同時に、寧々の頭の片隅に、ひとつの考えが浮かんだ。

――これは、隠密としての任務を果たすうえで、最高の機会なのではないか。

家茂の側に入り込めば、即座に幕府の中枢へ食い込むことができる。しかも、影丸は蟄居を解かれるのだ。

任務として考えれば、これ以上ない話だった。

しかし――。

寧々の心は、激しく抗っていた。

もし、その道を選べば、影丸とは離れ離れになってしまう。

影丸の声。肌の温度。凛々しい横顔。そのすべてを、失うことになる。

想像すると、再び孤独の大海へ放り出され、冷たい水の中へ沈んでいくような感覚に襲われた。それでも、隠密としての使命は、容赦なく寧々の背中を追いかけてくる。

寧々は、思わず影丸の顔を見た。影丸は、まだ書状へ視線を落としたままだった。たまらず影丸に尋ねる。

「どうしましょうか……」
「どうするとは?」
「応じれば、蟄居の解除という望みは叶います。私は呪いの受け皿として奥入りした身ですし……幸い、まだ手付かずでございますから……」

自分でも、理にかなったことを口にしているのは分かっていた。それでも、感情が追いつかない。わずかに震えてしまう声も、気づかれているに違いない。

こんなにも冷静さを失ったことが、今まであっただろうか。

これで、影丸の元を去らなければならない――。

そう考えただけで、胸が締めつけられるように苦しくなった。

だが、影丸の返事は、寧々の予想を大きく外れたものだった。

「断るに決まっているだろう」

胸が、どくんと大きく跳ねた。

まさか、影丸が、そんな即答をするとは思っていなかった。

「ど……どうしてでございます?」
「おぬしは俺の正室であろう。それ以上の理由があろうものか」
「正室のふり、でございますよね」

突き放すようにそう言ってみせる。だが、自ら口にした言葉との矛盾に、寧々自身も気づいていた。影丸が断ってくれたことに、寧々の胸は喜びに躍っていたのだ。

すると影丸は突然、寧々の手を掴んだ。

「なぜ、おぬしがそのようなことを言うのだ」

そういうと、そのまま身体を引き寄せ、くるりと身を翻すと、背後から抱き寄せる。

「ちょっ……!」

胸が早鐘のように打ち、全身が熱くなる。拒絶などはなく、ただ甘美な息苦しさに襲われ、寧々は思わず息を呑んだ。

耳元で影丸の低い声が響く。

「おぬしは、他人に渡せるような代物ではない」

言葉が胸に沁みると同時に、全身が痺れるような感覚に包まれた。温もりに包み込まれ、四肢から力が抜けていく。

寧々は、へなへなとその場に座り込んでしまった。殿方に身を預けることへの恐怖さえも忘れ、胸の奥から湧き上がる喜びに、身体が小刻みに震えていた。

「影丸……そんな戯れは、似合いませんよ」

包み込む腕に、そっと手を添える。離そうとする言葉とは裏腹に、力が入らない。

影丸は腕に力を込め、寧々をさらに強く抱きしめた。

「もしも幕府が力ずくでおぬしを奪おうとするのであれば――俺にも考えがある」

そう言うと、影丸は突然、寧々を畳の上へ押し倒した。

柔術には自信があるはずなのに――身体が言うことをきかなかった。

心臓が激しく脈打ち、身体の中心へと熱が集まっていく。

「俺が手をつければ、諦めることであろう」
「じょ、冗談は……そこまでにしていただけますでしょうか」

頭では逃げなければと思うのに――そのまま委ねても構わないという気持ちになる。

そうすれば、影丸の心を射止めることができるのではないか。

一橋家に奥入りすると決めたときから、覚悟はしていたはずだ。ならば、断る理由など何ひとつない。

激しく鳴り続ける鼓動を必死になだめながら、寧々は口を開いた。

「でも、もしも、影丸が望むのであれば――」

そのときだった。

廊下の向こうから、勢いよく駆けてくる足音が聞こえてきた。影丸も気づいたようで、はっと身を起こす。

次の瞬間、襖が勢いよく開いた。そこに立っていたのは、夢桜だった。手には例の書物を抱えている。

「寧々様、本日も修練の続きをいたしましょう! ……って、あれ?」

夢桜の視線が、部屋の中で止まる。

「慶喜様……」

何やらとんでもない場面を目にしてしまったと思ったのだろう。確かに、とんでもない場面である。夢桜の顔が、気まずさでみるみる赤くなる。

「はは……これから、まさに実践でございましたか……」
「「…………」」

影丸も寧々も、微動だにしない。二人とも顔を夕暮れ色に染めたまま、まるで地蔵のように固まっている。

「それでは……大変失礼いたしました……」

夢桜は書物をそっと畳の上へ置いた。そして、時間を巻き戻すように、じりじりと後ずさる。

「どうぞ、お気になさらず……」

丁寧な小声でそう呟くと、襖をそーっと閉めた。

静寂が戻った座敷で、影丸と寧々は、お互いに何も言えないまま、その場に固まっていた。

そう――まるで、書物の中に描かれた艶画の一場面になってしまったかのように。

★

井伊直弼は、薄暗い居間で一人、顔をしかめて思案に暮れていた。

慶喜と寧々が江戸城へ登城した夜のことである。二人が城を出た後、家茂は顔を紅潮させて井伊直弼へ尋ねた。

「大老よ。寧々は、慶喜の一体何なのだ?」

荒げた声での問いに、井伊は一瞬、その意図を測りかねた。

最初は、寧々が家茂公の機嫌を損ねたのかと思った。先ほどまで戯れるような雰囲気だっただけに、なおさらである。

「一橋家の姫でございます。いずれは慶喜の正室となると聞いております」
「な、何だと……正室だと!?」

その家茂の反応を見て、井伊はようやく自身が勘違いをしていることに気づいた。

「うぬぬ……許せん……!」

家茂は拳を握りしめ、あからさまに狼狽していた。

そのとき、井伊直弼の脳裏に、ひらめきが舞い降りた。

――寧々が姫君を育てるのを待つ必要など必要ないではないか。

なぜなら、それよりも家茂公が男となる方が、はるかに事が早く進むはずだからだ。

熟した果実は、食べ時が肝心だ。そのときを逃してはならない。

そこで井伊は、家茂にこう進言した。

「ならば、蟄居御免の条件として、寧々殿をお預かりするというのはいかがでしょう」

それは、寧々を紀州徳川家の姫として迎え入れ、ゆくゆくは家茂の正室とするというものである。

「なんと、それは妙案ではないか! それならば慶喜が蟄居御免となっても、余は納得であるぞ」

家茂公は、あからさまに嬉しそうな様子を見せた。

「では、そのように取り計らいたいと存じます」
「頼むぞ、大老!」
「はっ!」

それからというもの、家茂の様子が変わった。

剣術の稽古に気合いが入るようになった。食事も以前より多く取るようになり、勉学にも積極的に励んでいる。

まるで、一日も早く一人前の将軍になろうとしているかのようであった。

★

しばらくして、慶喜からの返書が届いた。

井伊は心を躍らせながら、その文面に目を通す。なにせ、女一人のために蟄居御免を断る理由などあるまいと、高を括っていたのだ。

しかし、文面は井伊の期待をいともたやすく裏切った。

『先般は、ご丁寧なるご提案を賜り、ありがたく存じます。
されど、寧々は一橋家にとりまして、かけがえのなき者にございます。ゆえに、その身を差し出すなど到底いたしかねます。
蟄居御免の儀につきましては、寧々を条件とすることなく別の形にてご配慮いただければと存じます』

井伊は蒼白になった。額から冷や汗が滲み、書状を持つ手が次第に震えてくる。

やがて怒りに耐えきれなくなった井伊は、書状をくしゃくしゃに丸め、畳へ叩きつけた。さらに拾い上げると、びりびりと引き裂き、天井へ向かって紙片を投げ散らかした。

「あの若造が……あの若造がっ! 素直に従い、首を縦に振ればよいものを!」

憤慨した井伊は、その場にどっかと腰を下ろした。そして、苛立ちを露わにしながら、腕を組んで考え始める。

――家茂公への忠誠心など、所詮は口先だけだったのか。

日米修好通商条約締結の件以来、井伊に反感を抱く者は多い。いくら幕府に逆らう者たちを蟄居に処したところで、強い反発を受けている限り、井伊自身が命を狙われ続けることになる。

しかも、幕府の方針に異を唱える慶喜には、支持者も多い。今回の申し出に従わなかったということは、幕府に対して反旗を翻す意思があるとも取れるのだ。

――そうなると、最大の懸念は、水戸藩の尊王攘夷派だ。

慶喜の出身は水戸藩である。水戸藩には、井伊を敵視する者が少なくない。とりわけ、武田耕雲斎ら過激派の動きは、井伊にとって無視できぬものであった。

――このままでは、いずれ大きな災いとなる。

「……待てよ」

その瞬間、井伊の脳裏に、ある考えがよぎった。

ゆっくりと顔を上げると、口元には、にんまりとした笑みが浮かんでいた。

「これなら……」

井伊は、思いついた策を頭の中で反芻する。

この策ならば、紀州徳川家の地位を磐石なものとし、同時に尊王攘夷派の勢力を押さえ込むことができる。

それは、井伊にとって、まさに天啓であった。

「ひ……ひひ……」

井伊は笑いを堪えきれなくなった。

「ひひひひ……これだ……これしかない」

腹を押さえながら、畳の上で肩を震わせる。やがて井伊は、その場で大声を上げて笑い始めた。

その笑い声が、薄暗い居間に不気味に響き渡った。