華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

影丸と井伊の間には、痺れるような緊張感が漂っていた。

互いの思惑を探り合う駆け引きが、今まさに始まろうとしていたのだ。

井伊が手を叩くと、侍女が徳利(とっくり)と猪口(ちょこ)をふたつ、膳に載せて持ってきた。膳を二人の間にそっと置く。

「まあ、腹を割って話そうや。のう、慶喜殿よ」

本来なら、御三卿の当主である「一橋慶喜」よりも、一介の譜代大名であった井伊のほうが立場は下のはずである。

だが、井伊は明らかに上からの態度であった。大老として幕府の政を牛耳っているからこそ、尊大に振る舞えるのである。

それにしても、不遜な態度だと影丸は神経を尖らせる。だが、まずは柔和に対応し、相手の警戒心を解かなければならない。

「では、頂戴いたします」

猪口を受け取ると、酒が注がれた。影丸も井伊に酒を注ぎ、先んじて口をつけた。

この場で毒を仕込むことはないと踏んでいた。それに、井伊を信用しているという態度を見せなければならなかった。

影丸が口をつけたのを確かめてから、井伊も酒を口に運んだ。

それを飲み干すと、井伊はじろりと上目遣いで影丸を睨み、おもむろに尋ねた。

「――で、登城した本当の目的(・・・・・)は何だ?」

そう聞いたということは、登城の目的が蟄居を免じてもらうためだけではないと、すでに見抜いているはずである。

だが、井伊がその建前を見抜くことは、影丸にとって想定内だった。

本来の目的は、井伊が呪いの黒幕かどうかを確かめることにある。だが、それを悟られぬためには、別の登城理由を用意しておく必要があったのだ。

「折り入って、将来にわたり幕府を安泰とするための提案がございます」
「ほぉ、提案、とな」

井伊は片眉をわずかに上げる。値踏みするような視線が、影丸へ向けられた。

「盤石な幕府に必要なのは、まさに世継ぎでありましょう」

井伊の表情が、いぶかしげに曇った。影丸は一息ついてから、ついに本題を切り出す。

「そこで、一橋家の姫君を、いずれは家茂公の御正室として輿入れさせたいと考えております」
「一橋家の姫君を差し出すというのか……?」

井伊はゆっくりと猪口を傾けた。酒を飲み干すと、細めた目で影丸を見据える。

「だが、おぬしの正室である美賀子殿の娘は、夭逝してしまったではないか」

その声音に、憐れみの色などひとかけらもなかった。むしろ、一橋家の不徳によって子を失ったとでも言わんばかりの口ぶりである。

影丸は奥歯を噛みしめ、湧き上がる怒りをぐっと堪える。

「呪いの仕業です」
「呪い、だと……?」

井伊の眉が、ぴくりと動いた。

「そのために子は死に至り、美賀子もまた体を壊し、寝込んでおりました」
「むぅ、それは難儀なことであるの」

いかにも意外そうな顔をする井伊だが、その反応が演技なのか、本当に寝耳に水なのか、影丸には区別し難い。

「で、その呪いとやらの根源は掴めたのであろうか」

影丸は一瞬も迷うことなく答えた。

「はい。その呪いは先日、ついに消し去ることができました」

もしも、逃がした尼音が井伊のもとへ戻り、一部始終を伝えていたのだとしたら――影丸がここを訪れた理由を復讐だと考え、警戒心を見せるはずだ。

ところが、目の前の男からは、そのような気配が感じられない。

井伊は猪口を卓へ戻し、興味深そうな顔で尋ねる。

「ほお。して、その呪いの黒幕とやらは、いかなる妖だったというのだ」

即座に「毒」ではなく「妖」だと言い放ったのは、化けの皮を被った狸のなせる技なのか。それとも、本当に尼音とは無関係なのか――。

「呪いの原因が判明したのは美賀子の方だけです。それは脚気という病でありましたが、寧々のこしらえた薬膳によって回復しつつあります」

影丸はあえて、美賀子の件だけを告げた。

「娘の方は、呪いの原因は分からずじまいということであったのか」
「残念ながら」

そう答えたが、やはり反応は薄い。寧々が毒殺だと見抜いたことは、井伊の耳には入っていないように思えた。

「ところで……あの付き人の娘は、おぬしとどのような関係の者なのだ」

井伊は、寧々という存在に興味を持ったらしい。

寧々のことは「付き人」としか紹介していない。新たな正室であるということを、井伊が知る由もない。

だが、寧々は若い娘だ。井伊とて他意がないとは思っていないだろう。

「じつは側室として迎えたのですが、折り合いがつかず……今は一橋家の姫として扱っております」

「折り合いがつかず」と言っておけば、諸般の事情があるのだと察してもらえるだろう。たとえば寧々の実家が、側室では納得できないと言い張った――その程度に受け取ってくれれば、それで十分だ。

「それでは、いまだ手付かずということか」
「はい。お恥ずかしながら、手付かずにございます」

床の事情を探るなど、いやらしいことだと影丸は思った。だが、正直に答えた方が、井伊の心証を悪くすることはないはずだ。

「寧々の旧姓は何というのだ」
「藤林と申します」
「藤林……? 聞いたことがないな。何処(いずこ)の公家出身であろうか」
「公家ではございません。市井の者でございます」
「なんと、市井の者とは!」

井伊は目を見開いた。その驚きは、一橋家を嘲るものなのか、それとも寧々を見込んでのものなのか――。

影丸は井伊の視線を真っ直ぐに受け止め、毅然と言い返した。

「勘違いされては困ります。この世の女性の中から、最も奥方に相応しい者を選んだつもりでございます」
「相応しいとは、どういう意味であるか」
「大変聡明な娘にございます。呪いを見抜いたのも、寧々にございます」

井伊の目が、すっと細くなる。

「だが、それだけではないであろう」
「それだけではない、と申しますと……?」
「あの足の運び、ただの娘とは思えぬ。何らかの武術を嗜んでいるのであろうな」

どうやら井伊は、寧々の武術家としての才を見抜いているらしい。確かに影丸自身も、見分の折に寧々の走りを見て、その実力を出し切っていないことを見透かしていた。

だが、影丸は内心の動揺を一切表に出さず、平然と答えた。

「柔術の師範の孫と聞いています。少しは齧っているためではないかと」
「齧っている程度、か……」

すると井伊は黙って立ち上がり、庭に面した障子を開けた。

外へ目をやると、中庭の隅で鉢を囲み、しゃがみ込む二人の姿があった。

鉢をひっくり返して幼虫を探しているらしく、家茂は一匹見つけるたびに、無邪気に顔をほころばせている。

「どうやら、土産はお気に召されたようですな」
「兜虫ならば、害はなかろう」

二人は座敷へ戻り、再び向かい合って腰を下ろした。

「ところで、寧々の齢はいくつだ」

不意に尋ねられ、影丸はわずかに目を細めた。

「十七にございます」

影丸が答えると、井伊はしばし黙っていた。やがて庭に目をやりながら、何気ない口調で尋ねる。

「おぬしは、あの娘に子をもうけさせるつもりなのであろう?」

ここまで寧々のことを細かく探ってくるとは思わなかったが、動揺を見せるわけにはいかない。まるで寧々の将来を、政略の一手として値踏みしているかのような言葉だった。

「さようでございます。美賀子は呪われてから身体の具合が戻らないため、正室の座から退いてもらいました」

影丸はあくまで平静を装い、淡々と答えた。井伊は細い目をさらに細める。

「ということは、あの娘を正室にするつもりだということか」
「その通りでございます」

そのとき、ぎりり、と歯ぎしりの音がした。

影丸は、井伊の横顔を盗み見る。井伊の表情は、冷静な言葉遣いとは裏腹に、まるで鬼でも潜んでいるかのような凄みがあった。

一橋家には、すでに世継ぎを得る目処が立っている。影丸に男子が生まれれば、いずれ将軍の座を一橋家に譲らねばならぬ事態となるかもしれないのだ。

一方、家茂の属する紀州徳川家は、若き家茂に頼るほかなく、その血筋はあまりにも心許ない。その懸念だけは、井伊がいくら知恵を絞ろうと払拭できるはずがなかった。

井伊はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと答えた。

「蟄居の件であるが……返事については後ほどとしよう。慎重な検討が必要であるからな」
「家茂公のお手を煩わせるとは、恐れ多いことでございます。何卒、よろしくお願い申し上げます」

すると、外から鋭く木を打ち合わせる音が聞こえてきた。影丸と井伊は、同時に外へ目を向ける。

家茂と寧々が、それぞれ木刀を手にしていた。

刀の稽古をしているようであるが、本気で打ち合っているわけではない。家茂は半ば遊びのような調子で、さまざまな型を寧々に披露している。寧々もまた、家茂の木刀を受けながら、笑顔で応じていた。

「なかなか器量よしの娘のようだな」

井伊がそう呟くと、影丸は庭の二人を眺めたまま答えた。

「ええ。よくできた娘でございます」

そう言う影丸は、慈愛に満ちた眼差しで寧々を見守っている。

井伊は、そんな影丸の横顔を妬ましそうに見上げながら、ひたすら奥歯を噛み締めるのであった。

★

風呂敷を抱える家茂は、水を得た魚のように、意気揚々と座敷を出ていった。

「寧々よ、余についてまいれ」
「かしこまりました」

家茂は寧々を御殿の正面にある中庭へと連れ出した。

外に出ると空気は冷たいが、風はない。降り注ぐ冬の日差しが、ほんのりと暖かく感じられた。

家茂は、寧々の手土産である風呂敷包みを庭に置いて広げる。鉢を取り出すと、土の上に置き、一気にひっくり返した。

鉢からこぼれた土が、小さな山を築く。家茂はその中を、夢中になってまさぐり始めた。

「いた!」

白い幼虫が一匹、また一匹と見つかる。いずれも体を丸めたまま、ほとんど動かない。

「動かないようでは、つまらないではないか」

家茂は少し残念そうに呟いた。

「冬ですから、虫の類はあまり動かないのでございます」
「春になれば、動き出すであろうか」
「もちろんでございます。ただ、夏が近くなりましたら、そっとしておいてあげてください」
「なぜだ?」
「蛹(さなぎ)になるための巣を作るのでございます。その巣を壊してしまったら、成虫になれず死んでしまうのです」

家茂は、土の中の幼虫をじっと見つめた。

「そうなのか。見届ける忍耐も必要なのだな」
「さようでございます」

すると、家茂は真剣な顔になった。しばらく俯いたまま黙っていたが、やがてぽつりとこぼす。

「余はまだ、蛹にもなっておらぬ。見守られてばかりだ」

その言葉には、若くして将軍となった若君の苦悩が滲んでいた。寧々は、胸の内でそっと思う。

もしも紀州徳川家の世継ぎなどという立場に生まれていなければ、この若君は野山を駆け回り、虫を追いかけながら、自由に暮らしていたのではないだろうか。

そう思うと、家茂の境遇に同情心すら湧いてくる。

家茂は散らばった土を鉢の中へ戻し、その中へ四匹の幼虫をそっと埋めた。

「しばらくは、この場所で構いませんが、夏が近づけば涼しい場所に置いておいた方がよいでしょう」
「成虫になったら、逃げはせぬか?」
「網を張っておけば、逃げられないでしょう」

家茂は黙り込んだ。大人になっても網を張られ、逃げることのできない自分の身の上を重ねているように思えた。将軍という立場もまた、蟄居のようなものなのではないだろうかと感じる。

突然、家茂は顔を上げ、寧々に尋ねた。

「ところで、成虫の兜虫は、どんな餌を食べるのだ?」
「焼酎に漬けた果物を好むようでございます」
「よく知っておるな」
「影……いえ、慶喜殿が教えてくださったのです」

寧々がそう答えると、家茂から無邪気な笑顔が消え、どこか寂しげな顔になった。

「……慶喜は、将軍争いに負けた男だぞ」
「ですが、優しく頼りになるお方にございます」
「蟄居を解いてほしいと嘆願しに来た、負け犬であろう。おぬしは、主人がそのような男で恥ずかしくないのか」
「全く恥ずかしくございません。それどころか、誇りに思っております」

きっぱりと言い切ると、家茂の表情がさらに曇りを深めていく。

「もしかして、おぬしは余のことを見くびっておるのか?」

家茂がそう懸念するのも無理はない。大人たちに囲まれた幼い将軍なのだ。否応なしに背伸びをせざるを得ないのだろう。

「いえいえ、滅相もございません」
「ならば、余の剣技を見せてやろう」
「本当でございますか?」

寧々は、あえて嬉しそうな顔をしてみせた。すると家茂は、「ふふん」と満足げに鼻を鳴らす。

「将軍たるもの、常に戦に備えておかなければならないからな」

そう言うと、家茂はみずから木刀を二本持ち出してきた。

中庭の中央に立ち、二人は向かい合う。寧々もまた木刀を手に取り、厳かに構えた。

「では、打ち込んでくるがよい。ただし、あくまで型であるからして、ゆっくりとだぞ」
「承知いたしました」

寧々は掛け声を上げながら、木刀をゆっくりと振り上げた。そのまま家茂へ向けて打ち下ろす。

すると家茂は、迫りくる木刀を受け流し、身を翻した。そして、寧々が体勢を立て直すよりも早く木刀を振り下ろし、その切っ先を寧々の頭上でぴたりと止める。

「その切り返し、お上手にございます!」

寧々が笑顔で褒めると、家茂は得意げに胸を張った。

「であろう。では、次は胴を狙って打ち込んでくれぬか」
「では、参ります」

寧々はゆっくりと木刀を引き、胴を狙って踏み込んでいく。

すると家茂は、その一撃を受け止めて払いのける。同時に身を屈め、寧々の懐へ潜り込んだ。

そのまま胴を斬るように木刀を振り抜きながら、寧々の脇を駆け抜けていく。

「見事でございます!」

寧々は笑顔で褒め称えた。家茂は、ますます得意げな表情を浮かべている。

それにしても――。

寧々が見る限り、家茂はあどけなさを残した若君の延長でしかない。

呪いを仕掛けるような狡猾な策略を練り、それを実行するような人物には、とても思えなかった。

少なくとも、そのような所業に手を染めれば、この若君は心を病んでしまうのではないか。

そんなことを考えていたため――目の前に木刀が迫っていることに気づくのがわずかに遅れた。

反射的に木刀を振り下ろす。木刀がぶつかり、家茂の木刀が弾き飛ばされた。

「……!」

家茂は手を離れた木刀を追うように身体をよろめかせ、転びそうになる。

寧々は咄嗟に手を伸ばし、その身体を抱き留めた。

「殿、大丈夫でございますか?」

寧々に抱き留められた家茂は、しばらく呆然としていた。やがて、顔がみるみる赤くなる。

家茂は慌てた様子で寧々の腕から身を離すと、着物についた埃を払い始めた。

「あ……足捌きに失敗しただけである。転びそうになどなっていないからな!」

そう言い放つ声には、恥ずかしさを隠そうとしているのがありありと表れていた。寧々はその様子を見て、思わず微笑む。

「弘法も筆の誤り、と言いますものね」

そのとき、ふと御殿の方から視線を感じた。

寧々が御殿の方へ目を向けると、井伊と影丸がこちらを見ていた。どうやら、話は一段落したようであった。

影丸は、井伊から情報を引き出せたであろうか――寧々は二人の様子を眺めながら、そんなことを考えた。

「家茂殿、主人と大老とのお話は終わったようでございます」
「ということは、もう行ってしまうのか」

家茂の声には、わずかな寂しさが滲んでいる。

「さようでございます。主人に従うのが、私の務めでございます」

すると家茂は、もじもじとしながら寧々に尋ねた。

「ところで、寧々。聞きたいことがある」
「なんでございましょう?」

家茂は少し迷うように口をつぐんだ。そして、意を決したように尋ねる。

「おぬしは、あの男の一体何なのだ?」

率直にそう訊かれて、寧々は少し戸惑った。

正室ということになっているが、正式にそうなったわけではない。かといって、この無邪気な将軍を前に、嘘をつくのも憚られた。

「さあ、私にも分かりませぬ。ただ――言葉では言い表せぬような、奇妙ながら大切な関係でございます」

その答えに、家茂は複雑な表情を浮かべた。

すると、遠くから影丸が手招きしているのが見えた。下城する頃合いだという意味らしい。

「そろそろ戻らねばなりませぬ。本日は楽しい時間をいただき、誠にありがとうございました」

寧々は丁重に一礼すると、踵を返した。そして、小走りで御殿の中へと戻ってゆく。

家茂はその場に立ち竦んだまま、去ってゆく寧々の背中を、いつまでも目で追い続けていた。