影丸と寧々は長十郎とともに江戸城へと向かった。
弧を描いて深い堀をまたぐ橋を越えると、聳え立つ高い石垣にたどり着く。その一角には巨大な木造の門があった。江戸城の入口、桜田門である。
門は開かれていたが、八名ほどの槍を携えた番士が立ち並んでいる。番士に一礼し、井伊直弼からの書状を示す。
「上様のお許しを得て登城いたしました、一橋慶喜にございます」
「――と、その正室の寧々でございます」
影丸の言葉に便乗して名を名乗る寧々。影丸は眉間に皺を寄せて寧々を見やるが、寧々は笑顔を返す。
側室という立場で奥入りした寧々にとって、正室という肩書きは、たとえ嘘でも心躍るものがある。
番士の一人が「井伊様から聞いております」と言い、長十郎に手のひらを向けて制した。ここから先に進んでよいのは、慶喜本人と寧々のみであるという意味だ。
長十郎は献上品の風呂敷包みを寧々に手渡した。ずんと重みのある風呂敷包みである。寧々はそれを大事そうに抱えた。
桜田門をくぐると、目の前に広がる江戸城の広さは一橋家の比ではなかった。
いくつもの巨大な御殿が立ち並び、武士や役人、そして侍女たちがせわしなく行き交っている。
参勤交代で地方から上がってきた大名たちも多いのだろうと察する。石垣の内側は、町の賑やかさとは異なる緊張感が漂っていた。
「本丸はこちらにございます」
案内され、本丸御殿に足を踏み入れる。
そこには幾重もの襖で区切られた広間があり、金箔を施した障壁画が飾られていた。天井の豪華な装飾は、まるで来客を見下ろしているかのようである。
廊下には家臣たちが控え、平伏しながらも鋭い視線でこちらの動向を窺っている。
「無駄に人手がかかっておりますね」
「無駄と言うでない。手厚い歓迎だと言って差し上げろ」
広間の奥には、許された者しか足を踏み入れることのできない領域なのだと感じさせる、独特の緊張感が漂っていた。
付き添ってきた番士が奥の襖の前で正座し、「殿はこちらの部屋にてお待ちしております」と告げた。
慶喜と寧々も正座して膝を正すと、番士が襖を開く。
正面には、袴姿の若き君主が腰を据えていた。あどけなさを残す若君――徳川家茂である。
家茂は弱冠十三にして、第十四代将軍を務めている。硬い表情から、緊張しているのが見て取れた。
無理もないことだ。謁見する武士たちは皆、当の本人よりも大人なのだ。むしろ、同情心すら湧いてしまう寧々である。
その隣には、齢四十過ぎと思われる家臣が控えていた。
ふくよかな顔に、肥えた身体。眉間には深い皺が刻まれ、細く据わった双眸の奥には、相手の弱みを見逃すまいとする冷たさがある。
その男が、井伊直弼である。
影丸と寧々は揃って家茂に頭を下げた。まず、影丸が挨拶を述べる。
「登城をお許しいただき、誠に嬉しく存じます」
「苦しゅうない。こちらへ入るがよい」
家茂に促され、二人は姿勢を低くして座敷の中へ入る。
「一橋慶喜にございます」
「寧々と申します」
ちらりと隣の井伊へ視線を移すと、井伊は顔を前へ突き出すようにして、人を値踏みするような目を向けていた。
それなのに、口元には薄い笑みを浮かべている。寧々の背中が、ぞっと冷たくなった。
なにせ、この男は何人もの武士を死へ追いやっているのだ。
安政の大獄では、己に歯向かう者に片っ端から罰を与えてきた。下手をすれば、影丸にさえ死罪を言いつける可能性がある。生まれたばかりの子を殺すよう命じても、何らおかしくない男だと思えた。
「ところで、わざわざ謁見を求めてきた理由について述べよ」
蟄居を解いてもらいたいという嘆願が目的であることは理解しているはずなのに、そう尋ねるとは、まったく人が悪い。言いにくいことを、あえて本人の口から言わせようとしているのだ。
だが、影丸は平伏したまま、冷静に対処する。
「恐れながら、謹んでお願い申し上げます。このたび私儀、身に余る不始末により蟄居を仰せ付けられ、以来、御沙汰の趣を深く胸に刻み、日々謹慎してまいりました」
もしも尼音が井伊直弼の差し金ならば、円四郎が替え玉となっていたことも伝わっているはずだ。ならば、この影丸の態度を白々しいと感じるはずである。
寧々は絶えず、家茂の反応をうかがっていた。だが、影丸を訝しむ様子はない。
すると、家茂は井伊直弼の方へ目を向けた。まるで、直弼の指図を待っているようであった。
寧々は視界の隅で、井伊の動向を捉え続ける。
井伊は顎をしゃくり、合図を送った。続けさせろ、という意味であろう。家茂は目で肯いてから視線を影丸に移す。
影丸は、淀みなくその先を続ける。
「ただ、蟄居の身となりましてより、己の至らなさを省みるにつけ、今一度、御公儀のために尽くす機会を賜りたいとの思い、日ごとに募るばかりにございます」
「ほう。では、どのように尽くすと申すか」
家茂の言葉とは裏腹に、その表情には余裕など微塵もない。
将軍としての立場を盤石なものとするため、付け入る隙を与えてはならない――そんな緊張感が見て取れた。
「恐れ多くも御慈悲を賜り、蟄居の御沙汰をお解きいただけますならば、以後は決して軽挙に及ばず、身命を惜しまず御奉公に励む所存にございます」
年上の一橋慶喜に対し、その口から謝罪を言わせた。己の立場を誇示し、屈服させるためとも思えた。
ただ、替え玉であったことを非難する気配はない。
そうなると、尼音は井伊の手の者ではないのか。いや、井伊の独断で動いており、家茂がそのことを知らないという可能性もある。
「ふうむ。将軍争いに敗れたおぬしが、余の指図に反抗したことが、そもそもの発端であるぞ」
井伊が日米修好通商条約を承認したことが、多くの尊王攘夷派の武士たちの反感を買ったのだ。
その方策は、井伊の裁量によるものに違いない。だが、それを最終的に承認したのは将軍の権限である。だから、「慶喜は家茂に歯向かった」とみなされ、蟄居という罰を受けているのである。
「何卒、これまでの不始末につきましては寛大なる御処置を賜り、蟄居をお免じくださいますよう、伏してお願い申し上げます」
嘆願を終えると、しばしの沈黙があった。家茂の独断で、蟄居御免を決めることはできないのだろう。
そこで、寧々が沈黙を打ち破るための手を打った。
「ところで、もしよろしければお納めいただきたいものがございます。こちらになりますが――」
そう言い、携えていた風呂敷包みを差し出す。
「む、それは一体、何であろうか」
一橋家同様、いや、それ以上に、持ち込まれたものには警戒しているはずだ。井伊であれば当然、毒が仕込まれているのではないかと疑うだろう。
だが、寧々は微笑みながら答える。
「口にするものではございません。もしもお気に召せば、これを育てていただけましたら幸いに存じます」
「育てるもの……であると?」
「はい、兜虫の幼虫にございます。一橋家の敷地に積まれた堆肥の中で見つけました」
「まことでござるか!?」
家茂は、先ほどまでの厳粛な態度とは打って変わり目を輝かせた。膝を立て、身を乗り出す。
寧々は、男子であれば喜ぶはずだと思い、あらかじめ探しておいたのだ。無論、影丸も承知していることである。
風呂敷を開くと、そこには赤褐色の鉢があった。家茂は興味深そうに鉢の中を覗き込んだ。しかし、中は堆肥で満たされており、幼虫の姿は見えない。
「ここに何匹おるのだ」
「四匹ございます」
「掘ってみてもよろしいか」
「それでは殿のお手が、汚れてしまいます」
「構わぬ。男たるもの、手の汚れなど気にしてはおれぬ」
そう言われたので、寧々は風呂敷ごと鉢を差し出した。家茂が素手で土を掘り起こし始める。
すると、人差し指ほどの大きさの白い幼虫が一匹、土の中から姿を現した。家茂は目を見開き、息を飲む。
「これは立派でござるな!」
「うまく成虫になり、雌雄が揃えば、卵を産んでくれることでしょう。手はかかりますが、育てればたくさんの兜虫が生まれます」
「それは楽しみでござるな!」
ああ、こうして見れば、年相応の無邪気な若君ではないか、と寧々は思った。
「もしお受け取りいただけるのでしたら、どこか育てられる場所を探した方がよろしいかと存じます」
「どのようなところが良いのだ」
「それは……江戸城のことは存じ上げませんので、なんとも言えませぬ」
「ならば、余が案内して進ぜよう」
すると井伊が、いてもたってもいられない様子の家茂を制した。
「殿、慌てなさりますな。まだ話の途中ではござらぬか」
「大老よ、すでに用件は聞いた。余の一存というわけにもいかぬ事案だ。よって検討のうえ、後日返答すればよかろう」
「確かに、そうではありますが」
「それよりも、余は慶喜殿からの贈り物を無下にせぬよう、この付き人に指南してもらうこととする」
家茂はすっかり気に入ったようで、早くも育てる気満々の様子である。
それに、寧々のことを「付き人」と呼んだということは、一橋慶喜の正室だとは認識していないらしい。
期待に満ちた表情で鉢植えを抱えた家茂は、平伏した影丸を見下ろしながら言う。
「では、返事は後ほど致す」
そして井伊へ目を向けた。直弼は不服そうな顔をしているが、家茂はさほど気にかけていないようである。
そこで影丸が口を開く。
「もしも殿がよろしければ、その間、井伊殿とお話ししたいことがございます」
影丸は平伏したまま、井伊を睨み上げる。気づいた井伊も、険しい顔で影丸を睨み返した。
だが、家茂は二人の間に散る火花に気づいていない。にこやかな笑顔で答える。
「構わぬ。では、大老よ、客人をもてなしてくれたまえ」
それから家茂は、「では、寧々とやらよ、余について参れ」と言って、意気揚々と座敷を出ていった。
寧々は井伊に一礼し、家茂の後についてゆく。
去り際に振り返り、影丸と目を合わせる。影丸は、頭を下げたまま微かに片方の口角を上げた。
――まずは作戦成功。
寧々と影丸の策略は功を奏した。
二人を分断させ、影丸が井伊から、寧々が家茂から情報を引き出す。
それこそが、江戸城へ乗り込んだ寧々たちの思惑であった。
弧を描いて深い堀をまたぐ橋を越えると、聳え立つ高い石垣にたどり着く。その一角には巨大な木造の門があった。江戸城の入口、桜田門である。
門は開かれていたが、八名ほどの槍を携えた番士が立ち並んでいる。番士に一礼し、井伊直弼からの書状を示す。
「上様のお許しを得て登城いたしました、一橋慶喜にございます」
「――と、その正室の寧々でございます」
影丸の言葉に便乗して名を名乗る寧々。影丸は眉間に皺を寄せて寧々を見やるが、寧々は笑顔を返す。
側室という立場で奥入りした寧々にとって、正室という肩書きは、たとえ嘘でも心躍るものがある。
番士の一人が「井伊様から聞いております」と言い、長十郎に手のひらを向けて制した。ここから先に進んでよいのは、慶喜本人と寧々のみであるという意味だ。
長十郎は献上品の風呂敷包みを寧々に手渡した。ずんと重みのある風呂敷包みである。寧々はそれを大事そうに抱えた。
桜田門をくぐると、目の前に広がる江戸城の広さは一橋家の比ではなかった。
いくつもの巨大な御殿が立ち並び、武士や役人、そして侍女たちがせわしなく行き交っている。
参勤交代で地方から上がってきた大名たちも多いのだろうと察する。石垣の内側は、町の賑やかさとは異なる緊張感が漂っていた。
「本丸はこちらにございます」
案内され、本丸御殿に足を踏み入れる。
そこには幾重もの襖で区切られた広間があり、金箔を施した障壁画が飾られていた。天井の豪華な装飾は、まるで来客を見下ろしているかのようである。
廊下には家臣たちが控え、平伏しながらも鋭い視線でこちらの動向を窺っている。
「無駄に人手がかかっておりますね」
「無駄と言うでない。手厚い歓迎だと言って差し上げろ」
広間の奥には、許された者しか足を踏み入れることのできない領域なのだと感じさせる、独特の緊張感が漂っていた。
付き添ってきた番士が奥の襖の前で正座し、「殿はこちらの部屋にてお待ちしております」と告げた。
慶喜と寧々も正座して膝を正すと、番士が襖を開く。
正面には、袴姿の若き君主が腰を据えていた。あどけなさを残す若君――徳川家茂である。
家茂は弱冠十三にして、第十四代将軍を務めている。硬い表情から、緊張しているのが見て取れた。
無理もないことだ。謁見する武士たちは皆、当の本人よりも大人なのだ。むしろ、同情心すら湧いてしまう寧々である。
その隣には、齢四十過ぎと思われる家臣が控えていた。
ふくよかな顔に、肥えた身体。眉間には深い皺が刻まれ、細く据わった双眸の奥には、相手の弱みを見逃すまいとする冷たさがある。
その男が、井伊直弼である。
影丸と寧々は揃って家茂に頭を下げた。まず、影丸が挨拶を述べる。
「登城をお許しいただき、誠に嬉しく存じます」
「苦しゅうない。こちらへ入るがよい」
家茂に促され、二人は姿勢を低くして座敷の中へ入る。
「一橋慶喜にございます」
「寧々と申します」
ちらりと隣の井伊へ視線を移すと、井伊は顔を前へ突き出すようにして、人を値踏みするような目を向けていた。
それなのに、口元には薄い笑みを浮かべている。寧々の背中が、ぞっと冷たくなった。
なにせ、この男は何人もの武士を死へ追いやっているのだ。
安政の大獄では、己に歯向かう者に片っ端から罰を与えてきた。下手をすれば、影丸にさえ死罪を言いつける可能性がある。生まれたばかりの子を殺すよう命じても、何らおかしくない男だと思えた。
「ところで、わざわざ謁見を求めてきた理由について述べよ」
蟄居を解いてもらいたいという嘆願が目的であることは理解しているはずなのに、そう尋ねるとは、まったく人が悪い。言いにくいことを、あえて本人の口から言わせようとしているのだ。
だが、影丸は平伏したまま、冷静に対処する。
「恐れながら、謹んでお願い申し上げます。このたび私儀、身に余る不始末により蟄居を仰せ付けられ、以来、御沙汰の趣を深く胸に刻み、日々謹慎してまいりました」
もしも尼音が井伊直弼の差し金ならば、円四郎が替え玉となっていたことも伝わっているはずだ。ならば、この影丸の態度を白々しいと感じるはずである。
寧々は絶えず、家茂の反応をうかがっていた。だが、影丸を訝しむ様子はない。
すると、家茂は井伊直弼の方へ目を向けた。まるで、直弼の指図を待っているようであった。
寧々は視界の隅で、井伊の動向を捉え続ける。
井伊は顎をしゃくり、合図を送った。続けさせろ、という意味であろう。家茂は目で肯いてから視線を影丸に移す。
影丸は、淀みなくその先を続ける。
「ただ、蟄居の身となりましてより、己の至らなさを省みるにつけ、今一度、御公儀のために尽くす機会を賜りたいとの思い、日ごとに募るばかりにございます」
「ほう。では、どのように尽くすと申すか」
家茂の言葉とは裏腹に、その表情には余裕など微塵もない。
将軍としての立場を盤石なものとするため、付け入る隙を与えてはならない――そんな緊張感が見て取れた。
「恐れ多くも御慈悲を賜り、蟄居の御沙汰をお解きいただけますならば、以後は決して軽挙に及ばず、身命を惜しまず御奉公に励む所存にございます」
年上の一橋慶喜に対し、その口から謝罪を言わせた。己の立場を誇示し、屈服させるためとも思えた。
ただ、替え玉であったことを非難する気配はない。
そうなると、尼音は井伊の手の者ではないのか。いや、井伊の独断で動いており、家茂がそのことを知らないという可能性もある。
「ふうむ。将軍争いに敗れたおぬしが、余の指図に反抗したことが、そもそもの発端であるぞ」
井伊が日米修好通商条約を承認したことが、多くの尊王攘夷派の武士たちの反感を買ったのだ。
その方策は、井伊の裁量によるものに違いない。だが、それを最終的に承認したのは将軍の権限である。だから、「慶喜は家茂に歯向かった」とみなされ、蟄居という罰を受けているのである。
「何卒、これまでの不始末につきましては寛大なる御処置を賜り、蟄居をお免じくださいますよう、伏してお願い申し上げます」
嘆願を終えると、しばしの沈黙があった。家茂の独断で、蟄居御免を決めることはできないのだろう。
そこで、寧々が沈黙を打ち破るための手を打った。
「ところで、もしよろしければお納めいただきたいものがございます。こちらになりますが――」
そう言い、携えていた風呂敷包みを差し出す。
「む、それは一体、何であろうか」
一橋家同様、いや、それ以上に、持ち込まれたものには警戒しているはずだ。井伊であれば当然、毒が仕込まれているのではないかと疑うだろう。
だが、寧々は微笑みながら答える。
「口にするものではございません。もしもお気に召せば、これを育てていただけましたら幸いに存じます」
「育てるもの……であると?」
「はい、兜虫の幼虫にございます。一橋家の敷地に積まれた堆肥の中で見つけました」
「まことでござるか!?」
家茂は、先ほどまでの厳粛な態度とは打って変わり目を輝かせた。膝を立て、身を乗り出す。
寧々は、男子であれば喜ぶはずだと思い、あらかじめ探しておいたのだ。無論、影丸も承知していることである。
風呂敷を開くと、そこには赤褐色の鉢があった。家茂は興味深そうに鉢の中を覗き込んだ。しかし、中は堆肥で満たされており、幼虫の姿は見えない。
「ここに何匹おるのだ」
「四匹ございます」
「掘ってみてもよろしいか」
「それでは殿のお手が、汚れてしまいます」
「構わぬ。男たるもの、手の汚れなど気にしてはおれぬ」
そう言われたので、寧々は風呂敷ごと鉢を差し出した。家茂が素手で土を掘り起こし始める。
すると、人差し指ほどの大きさの白い幼虫が一匹、土の中から姿を現した。家茂は目を見開き、息を飲む。
「これは立派でござるな!」
「うまく成虫になり、雌雄が揃えば、卵を産んでくれることでしょう。手はかかりますが、育てればたくさんの兜虫が生まれます」
「それは楽しみでござるな!」
ああ、こうして見れば、年相応の無邪気な若君ではないか、と寧々は思った。
「もしお受け取りいただけるのでしたら、どこか育てられる場所を探した方がよろしいかと存じます」
「どのようなところが良いのだ」
「それは……江戸城のことは存じ上げませんので、なんとも言えませぬ」
「ならば、余が案内して進ぜよう」
すると井伊が、いてもたってもいられない様子の家茂を制した。
「殿、慌てなさりますな。まだ話の途中ではござらぬか」
「大老よ、すでに用件は聞いた。余の一存というわけにもいかぬ事案だ。よって検討のうえ、後日返答すればよかろう」
「確かに、そうではありますが」
「それよりも、余は慶喜殿からの贈り物を無下にせぬよう、この付き人に指南してもらうこととする」
家茂はすっかり気に入ったようで、早くも育てる気満々の様子である。
それに、寧々のことを「付き人」と呼んだということは、一橋慶喜の正室だとは認識していないらしい。
期待に満ちた表情で鉢植えを抱えた家茂は、平伏した影丸を見下ろしながら言う。
「では、返事は後ほど致す」
そして井伊へ目を向けた。直弼は不服そうな顔をしているが、家茂はさほど気にかけていないようである。
そこで影丸が口を開く。
「もしも殿がよろしければ、その間、井伊殿とお話ししたいことがございます」
影丸は平伏したまま、井伊を睨み上げる。気づいた井伊も、険しい顔で影丸を睨み返した。
だが、家茂は二人の間に散る火花に気づいていない。にこやかな笑顔で答える。
「構わぬ。では、大老よ、客人をもてなしてくれたまえ」
それから家茂は、「では、寧々とやらよ、余について参れ」と言って、意気揚々と座敷を出ていった。
寧々は井伊に一礼し、家茂の後についてゆく。
去り際に振り返り、影丸と目を合わせる。影丸は、頭を下げたまま微かに片方の口角を上げた。
――まずは作戦成功。
寧々と影丸の策略は功を奏した。
二人を分断させ、影丸が井伊から、寧々が家茂から情報を引き出す。
それこそが、江戸城へ乗り込んだ寧々たちの思惑であった。



