華蓮の姫は江戸に蠢く謎を喰う

その翌日の夕餉で、膳の上座に腰を据えたのは影丸であった。それだけで皆、寧々が一橋家の替え玉について承知したのだと悟ったようである。

「皆の者、聞いてほしい。今宵からは俺が当主、慶喜として戻ることになった」

その傍らには、正室の美賀子の姿があった。

美賀子は寧々の薬膳が功を奏し、次第に元気を取り戻していた。いまや、皆と共に食事を取れるまでになっている。

最初は寧々に厳しい目を向けていた美賀子だったが、寧々の尽力に心を動かされたのか、健康を取り戻すにつれて、しきりに感謝の言葉を口にするようになっていた。

その寧々は側室という立場ゆえ、下座に控えていた。

「最初に皆に言わねばならぬことがあるのだが――」

その瞬間、大広間は緊張に包まれた。

呪いが解かれたことが、この家にとって大きな転機となることを、皆も察しているようであった。

「美賀子との夫婦の縁は、本日限りで解く」

その一言に、家臣たちはひどくざわついた。

いくら呪われた者だからといって、由緒正しき公家から迎えた奥方を離縁するなど、あまりにも酷ではないか――。

そんな思いが、家臣たちの表情に浮かんでいる。

だが、美賀子に動揺の色はなかった。すでに縁切りすることを聞かされ、心構えができていたからである。

「ただし、このことを美賀子の実家に伝えるわけにはいかぬ。よって、美賀子はこれまでどおり一橋家の屋敷に住み続け、この家に貢献してもらう。無論、今後の生き方については、美賀子の意思を尊重するものとする」

一見すれば、美賀子を一橋家に縛りつける采配のようにも思える。

だが、実のところ、それは美賀子と円四郎との仲を正式に認めるという意味であった。

「あっ……ありがとうございます……」

美賀子は涙ながらに、深々と頭を垂れた。

これで美賀子は、当主の正室という立場を捨て、想い人と夫婦になれるのだ。

影丸と寧々は視線を合わせ、微かに口元を緩めた。これでよかったのだ、という思いを込めて。

「ところで、寧々のことだが……」

影丸はひとつ咳払いをして続けた。

「寧々の処遇についても、決めなければならない」

再びぴりりと張り詰めた空気に包まれる。

寧々は一体どんな要求をされるのだろうと、緊張して背筋を伸ばし、影丸の言葉を待つ。なにせ、皆にとっては寧々も呪われた者の一人である。

ところが、影丸の口から出たのは思いもしない言葉であった。

「円四郎から聞いたところ、寧々はおしとねすべり(・・・・・・・)の常習者とのことではないか」

――はぁ!?

影丸が突然、とんでもないことを言い出した。家臣たちはひどくざわつき始め、寧々は心臓が止まりそうになった。

確かに、夜伽を拒んだことは嘘ではない。

だが、それを大勢の前で暴露され、あまつさえ笑いものにされるような羞恥を味わうことになろうとは、夢にも思っていなかった。

四方から突き刺さる視線に耐えきれず、寧々は両手で真っ赤になった顔を覆う。

だが、影丸は容赦しなかった。

「手付かずどころか、手の付けようがない娘など、奥方としては失格であるぞ!」
「――っ!」

その言葉に、寧々の顔がさらに熱くなる。

なぜ自分が、こんな目に遭わなければならないのか。そもそも、悪いのは自分なのか。

慶喜だと思っていた男が偽物だったのだ。夜伽を拒んだことを責められる筋合いはない。それなのになぜ、自分だけが悪者であるかのように責め立てられる。

羞恥と怒りが入り混じり、寧々はついに耐えきれなくなった。思わず立ち上がって叫ぶ。

「私は、慶喜様の奥方になるつもりで一橋家に上がったのです! それなのに、偽物の慶喜様をあてがうなど、あまりにも酷いではありませんか!」
「寧々、口を慎まぬか」

影丸が低い声でたしなめる。だが、ここまで追い詰められた寧々に、もはや引き下がる余裕などなかった。

「これが慎んでなどおられますか!」

寧々は涙目になりながら、さらに言い募る。

「第一、あんな偉ぶった家主もどき(・・・・・)との夜伽など、こちらから願い下げでございます!」

その瞬間だった。

影丸が、ふと厳しい顔をして広間の一角へ目を向けた。その視線に何かを感じ取った寧々は、つられてそちらを見る。

そこには、慶喜の役を退いた円四郎が、ひっそりと座っていた。

寧々にそこまで拒絶された円四郎は、もはや立つ瀬もない。肩を落とし、すっかりしょげ返っている。

やがて円四郎は、消え入りそうな声でぽつりと呟いた。

「寧々殿……それは、少々言い過ぎではないか……」

その顔には、先日まで慶喜を演じていた男の威厳も貫禄も、微塵も残っていなかった。

まるで叱られた子供のような円四郎の様子に、寧々は、はっと我に返った。

「も、申し訳ございません!」

寧々は言い過ぎたと思い、慌てて深々と頭を下げる。

「つい……売り言葉に買い言葉で、酷いことを口にしてしまいました。どうか、ご容赦ください!」

円四郎は落ち込んだようで、うなだれたままだ。すると、影丸の口元にわずかな笑みが浮かんだ。

「……なるほど」

影丸は広間を見渡し、皆に聞かせるようにはっきりと告げた。

「これでは、夫婦としてやっていくのは到底無理であろう」
「え……?」

影丸は、寧々を真っ直ぐに見据えて宣告する。

「よって――寧々もまた、奥方の座を退いてもらうこととする」

その言葉を聞いた瞬間、寧々の胸が凍りついた。

「そんな……」

それはつまり――一橋家を去れということなのだろうか。

先ほどまで燃え上がっていた怒りも羞恥も、一瞬にして消え失せた。

確かに、呪いを解いた今となっては、一橋家にとって寧々は用済みなのかもしれない。

だが、それ以上に寧々の胸を締めつけたのは、影丸に見捨てられたという事実だった。

これまで一橋家の呪いを解くために尽くしてきた。その家主の影丸から、もう必要ないと言われたような気がした。それは胸の奥から、すべてが抜け落ちてしまったような感覚であった。

寧々は呆然としたまま、言葉を返すことができないでいた。

★

三行半(みくだりはん)を突きつけられた寧々のもとへ、真っ先に駆け寄ってきたのは夢桜であった。

「なんでございますか! あちきがあんなに必死にお教えしたというのに、まさかあれ以来、夜伽の一度もこなしていなかったなんて! 寧々様は、しなびた干物でございますか!?」
「し、師匠、申し訳ございません! 実践までは、まだまだ程遠かったのでございます!」
「程遠いですと? だいたい、子をもうけたかもしれないと仰っていたじゃないですか!」

夢桜に詰め寄られ、寧々は言葉に詰まった。

確かに、呪いの下手人を誘い出すため、子をもうけたふりをする必要があった。

だが、一橋家の上屋敷に仕える者たちには、呪いの真相を明かさないことに決めている。

「それには……言えぬ訳があるのでございます!」

すると、夢桜はますます慌てた。

「言えぬ訳って……まさか! 寧々様、別の誰かと交わっておられたのですか!?」
「ち、違います!」

だが、夢桜の勘違いから発せられた悲鳴のような声は、広間の隅々にまで響き渡ってしまった。

あまりの恥ずかしさに、寧々は顔から火が出そうになった。

いっそ、呪いの真相をすべて打ち明けてしまおうか。どうせ、このままでは一橋家を追い出されてしまうのだ。

思い詰めた寧々に助け船を出したのは、他ならぬ影丸だった。

「その点については、俺が釈明しよう」
「え……?」

影丸は寧々の隣に腰を下ろすと、いきなり寧々の身体をぐいっと引き寄せた。

「――っ!」

あまりに唐突なことで、寧々は喉から心臓が飛び出しそうになった。

そして、影丸は広間にいる者たちを見渡し、こともなげに言い放つ。

「円四郎には悪いが、寧々は俺がもらったのだ」
「「「な、な、なんですとーっ!」」」

いっせいに驚きの声が上がった。

「本来なら、家主である俺の側室となるはずだったのだ。ならば、誰も文句を言う筋合いはなかろう」
「「「殿ーーっ!!」」」

広間は、たちまち騒然となった。

部屋の隅で聞き耳を立てていた侍女たちまで、蜂の巣をつついたような大騒ぎである。

一方の円四郎は、口をあんぐりと開けたまま、ただ呆然としていた。

しかし――寧々自身は、まったく身に覚えのない話だ。

影丸はなぜ、突然こんなことを言い出したのか、寧々にはさっぱり分からなかった。

何も言い返すことができず、皆の盛り上がりに呑まれ、ただ口をぱくぱくさせることしかできない。

「そういう経緯だ。それゆえ、円四郎が拒まれるのも無理はないことだ」

つまり、円四郎に対するおしとねすべりは、本物の慶喜様を受け入れてしまったがゆえに、円四郎との夜伽に心が向かなかったのだ――。

家臣たちは、そう勝手に納得した。

影丸の告白を聞いた夢桜は、みるみるうちに目を輝かせ、寧々の手を取ってぶんぶんと振る。

「そ……そうだったのですか! 寧々様、慶喜様のお心を射止めるとは、さすがでございます! 今度こそ、呪いではなく、本物のお世継ぎをお待ちしております!」

寧々は笑顔の夢桜を否定することができなかった。仕方なく、神妙な顔で三つ指をつき、深々と頭を下げた。

「夢桜師匠……師匠に教わったことは無駄にせず、人生のどこかで役に立たせていただきます」
「はい! ぜひともお励みくださいませ!」

そんな二人を見て、家臣たちは困惑する。

いつの間に、寧々殿は慶喜様とそのような仲になったというのか。慶喜様は、寧々殿のどこに惚れたというのか。そもそも、寧々殿と夢桜の関係は一体何なのか。

「……まったく、わけが分からぬ」

家臣たちは顔を見合わせ、首を傾げるばかりであった。

★

夕餉の後から、寧々はずっと憮然とした顔をしていた。

突然、影丸と夜伽をしていたことにされたのだから無理もない。それも、円四郎の奥方という立場であるはずなのに。

まるで遊女のようではないかと、腹立たしいことこのうえない。

いっそのこと、手付かずのまま一橋家を追われてしまった方がましなのではないかとさえ思う。

なにせ影丸は、「おぬしの処遇については、明日の夕餉の後に伝える。覚悟しておくんだな!」と言っていた。だから、これっきりで一橋家を去ることになるかもしれないのだ。

寧々は今、床の間で影丸と向かい合っている。

ところが、当の影丸本人は、そんな寧々の困惑などどこ吹く風といった様子で、少しも悪びれる様子なく胡座をかいている。

寧々はよそよそしく切り出す。

「影丸――いえ、慶喜様とお呼びしたほうがよろしいのでしょうか」
「ふふ。どうやら相当に困惑しているようだな。まあ、ここでは影丸と呼んでくれて構わない」

影丸は、どこか「してやったり」といった表情を浮かべている。どうやら、何か思惑があるらしい。

「それにしても、なんで突然、私が影丸の毒牙にかかったことになっているんですか」

思わず「毒牙」などという言葉が口から飛び出した。あまりにも勝手に話を進められたことへの憤りと、何よりも自分でも整理のつかない複雑な気持ちを、寧々は抑えきれなかった。

影丸は目を細め、面白がっているのか、呆れているのか分からぬ顔で答える。

「それは酷い言いようだな。どうやら、俺の女になるのがよほど嫌と見える」
「誰もそんなことを言ってはございません!」

寧々は思わず声を荒らげた。すると影丸は、愉快そうに口元を緩めた。

「円四郎には後日、あれは子をもうけたことにするための芝居だと伝えておく。おぬしも不貞を働いていたと思われたくないだろう」
「当然でございます!」

やはり、私をからかっているだけなのではないか。

そう思えば思うほど、抱き寄せられた一瞬、胸をときめかせてしまったことが、今になってひどく恥ずかしい。

しかし、影丸はふっと表情を改め、姿勢を正した。その雰囲気の変化を察した寧々も、自然と背筋を伸ばす。

「ところで、おぬしは、この呪いの一件の黒幕が誰なのか、考えていたであろう?」

無論、それは寧々自身もずっと疑問に思っていたことだったが――。

「考えたことはございますが……分かりません」

幕府内の政争について詳しいわけではない。黒幕を推し量るには、寧々にはあまりにも情報が足りなかった。

すると、影丸はしばし考え込んだ末、口を開いた。

「俺は、一橋家の血を絶やそうとしたのは、井伊直弼の策略だったのではないかと考えている」

寧々も、その可能性については考えていた。

南紀派が幕府の実権を握り続けるためには、一橋家の存在は脅威である――そう聞かされていたからだ。

しかし、それならばひとつ、腑に落ちないことがある。

「もしも尼音が南紀派の差し金であったのなら、替え玉をしていたことが筒抜けになっているはずではありませんか」

影丸は、同意するように肯いた。

「俺も、そこが疑問なのだ。もし本当にそうだとすれば、目付役は替え玉だと知りながら、あえて気づかぬふりをしていたことになる。あるいは――」
「尼音の言う『主上の者』は、現在の江戸幕府の者ではなく、別の者……ということでしょうか」
「鋭いな。さすが寧々だ」

二人はそれぞれ別の角度から考えていたが、行き着いた疑問は同じだった。

この一橋家の呪いを仕組んだ者は、本当に幕府の中にいるのだろうか。それとも――。

「ところで、影丸は蟄居を命じられている立場でございましょう。このままずっと身を潜めているおつもりですか」

寧々の問いに、影丸は黙って寧々を見つめた。この疑問が解けぬまま、蟄居を続けるわけにはいかない。

もし替え玉のことがすでに知られているのだとすれば、井伊直弼はさらなる処罰を下すだろう。なにしろ、安政の大獄では死罪となった者さえいるのだ。

ところが、影丸はふっと不敵な笑みを浮かべた。

「そこでだ。寧々に協力してもらいたいことがある」

やはり、何か考えがあるらしい。一難去って、また一難――。

寧々はそんな予感を覚え、半ば冗談のつもりで尋ねた。

「また奥方のふりでございますか」

すると、影丸はこともなげに答えた。

「そうだ。だが、今度は俺の正室(・・・・)としてだ」
「はぁ!?」

寧々は思わず眉間に皺を寄せ、素っ頓狂な声を漏らした。

まさか、図星を突いてしまうとは思わなかった。報われない奥方の芝居など、もう懲り懲りである。それなのに――。

「なぜ、私が正室のふりをする必要があるのでしょうか」

建前の正室であれば、美賀子で良かったはずだ。

ところが、影丸の顔には、すでに次なる策を描いている者の自信が浮かんでいた。

「なぜなら、これから家茂公と井伊直弼のいる江戸城へ乗り込むことにしたからだ」
「乗り込むって――なぜです?」
「蟄居の解除を嘆願するための直談判だ。さらに、こちらから歩み寄る姿勢を示すため、おぬしを俺の正室として紹介する」

寧々は、その大胆な発想に驚きを隠せなかった。

そのとき、源三から届いた密書の内容が脳裏をよぎる。

『幕府の大老、井伊直弼が家茂公の正室を探し始めているらしい』
『もし、おぬしに娘が生まれたならば、いずれ家茂公へ嫁がせることもできるやもしれぬ』

それは、隠密として与えられた使命と、まさに合致していた。

「もしかして……私に姫君が生まれたならば、家茂公に嫁がせるという内約を結ぶおつもりでは?」

胸の奥をざわめつかせながら尋ねる。すると、影丸は片方の口角を上げた。

「やはり、良い勘をしているな」

あまりにもあっさりと肯定され、寧々は拍子抜けする。まさか影丸は、本当に私と子をもうけようと思っているのでは……。

「無論、その内約は忠誠心を見せかけるための餌、つまり作戦であるがな」
「あ……さようでございますか」

つまり、本心では奥方として迎える気も、ましてや子をもうけるつもりもないようだ。

寧々は、またしても肩透かしを食らったような気持ちになった。

そして、影丸が自分のことをどう思っているのか――そのことには、まだ触れることすらできない。

胸の奥が、むずむずする。まるで、生殺しにされているような気分だ。

「寧々。俺は井伊直弼に探りを入れ、尼音が井伊直弼の差し金であったのかを確かめたいのだ」

もしも呪いの黒幕だという証拠を掴めれば、大老としての実権を剥奪することができる。無論、蟄居の罰の効力もなくなるのだ。

「この責務、寧々でなければ果たせぬ。なにせ、相手は手強き老獪の狸であるからな」
「承知しました」

寧々は小さく肯いた。

寧々は使命を与えられたことに、深い安堵を覚えていた。

少なくとも、自分にはまだ一橋家にいる理由がある。

そして――影丸のそばにいる理由も。

「では、井伊直弼から承諾の返書が届き次第、登城の支度を整える」

そう言い放つ影丸の姿には、まさに一橋家の当主たる威厳が漂っていた。

寧々は居住まいを正し、厳かに深々と頭を垂れる。

「はい。仰せのままに。最善を尽くします」

たとえ、どのような任務を命じられようとも構わない。

影丸にとって、自分がどのような立場であろうとも構わない。

この一橋家に住み続けられるのであれば――。

いや。

影丸のそばにいられるのなら、それでいい。

寧々はただ、影丸のそばにいることが心地よくなっていた。

そのために生きてもよいと、いつしか思うようになっていたのだった。