その後、屋敷は侍女たちの噂話で持ちきりとなった。
『姫君の死は、やはり呪いであり、悪霊の仕業であった』
『悪霊は寧々様にまで憑き、姫君の生まれ変わりだと偽って、寧々様を惑わせていた。寧々様を呪い、不忍池へと誘い出して、池に沈めようとしていたのだ』
『尼音は、悪霊の存在に誰よりも早く気づいていた。尼音は寧々様を追い、身を挺して悪霊を払ったのだ。そして、悪霊もろとも不忍池に身を沈めたのだ』
――と。
無論、その噂は寧々の証言をもとにしたものであった。
証言を聞いた侍女たちは咽び泣き、尼音の死を嘆いた。尼音は手厚く祀られ、供養された。
だが、不忍池から尼音の死体が上がることはなかった。
影丸は寧々に、それでよいのかと尋ねた。けれど、寧々は「そのほうが穏便でしょう」と言って押し切った。
もし真相を公にすれば、侍女や家臣たちは互いを隠密ではないかと疑い、疑念と不信を募らせることになるだろう。それどころか、美賀子自身も、姫君が己の足音に苦しめられていたと知れば、深い呵責に苛まれることになるだろう。
悪霊の仕業だったという証言こそが、皆の心を縛りつけていた呪いから解き放つ、最も穏便な方法なのだ。
寧々は、そう考えたのである。
★
「影丸、大切なお話がございます」
そう言って影丸を呼び出したのは、人の姿が消えた夜の庭園であった。影丸はその言葉を待ちわびていたかのように、疑問を挟むことなく応じた。
星が瞬く冬空の下、二人は言葉なく肩を並べていた。ただ二人の吐き出す白い息が、夜空へ昇りながら、ゆったりと混ざり合う。
寧々はずっと考えていた。なぜ影丸は、これほどまでに慶喜の信頼を得ているのか。なぜ、見分の際に側室を選ぶ立場として、その場に居合わせたのか。
その理由は、尼音の言葉で明瞭になった。
『この場に現れたのが一橋家の家主だとは――』
『当主殿よ、江戸に撒かれる土となれ――』
一橋家には、寧々の知らぬ秘密が共有されていたのだ。その真相とは――。
寧々は覚悟を決め、ついに切り出した。
「本当は影丸が、一橋家の当主、慶喜様なのでございますね」
影丸は目を伏せて、ふっと不敵な笑みを浮かべた。
「ようやっと気づいたか。おぬしにしては気づくのが遅かったがな」
まるで否定はなかった。むしろ、寧々が悟るのを待っていたような雰囲気さえあった。
「上屋敷の中で、替え玉の事実を知らなかったのは私だけなんですね」
「さようだ」
「一橋家の面々は、あまりにも芝居が上手でした」
「元々、見分の時から、新しい側室にはこのことは内密に通すつもりだった」
一介の側室に、一橋家の秘密は預けられないということなのだろう。
「今までおぬしが慶喜だと思っていた男は、『平岡円四郎』という側近で、俺にとって兄のようなものだ」
確かに、影丸に対する態度から、二人の信頼関係が強固なことはよく理解できていた。
「しかし、なぜ替え玉を?」
「その円四郎から、安政の大獄から逃れるには、これが最善の方法だと提案されたのだ」
円四郎は蟄居を命じられた慶喜を不憫に思い、己が慶喜の身代わりとなり、慶喜を影丸という家臣に仕立てることで、自由を与えていたのだ。
「幕府の目付が屋敷を見回りに来た時、円四郎は慶喜として振る舞い、目付をうまく騙すことができた。以来、目付が来るたび、円四郎は慶喜として目付を騙し続けているのだ」
円四郎の貫禄を鑑みれば、目付たちが円四郎を当主の慶喜と思い込むのも無理はない。
「円四郎殿はまことに役者でございますね。しかし、なぜ影丸がそんな蟄居などという罰を受けることに?」
「それは、井伊直弼の独裁によるものだ」
影丸は続けて、事情を詳しく語った。
「江戸時代となってから、日本は長きにわたり鎖国を続けてきた。しかし、幕府が朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を独断で結び、世界の扉を開いてしまった。それは天皇に対する冒涜にほかならない。
尊王攘夷を掲げる大名・公家・志士らは幕府に反対したが、その多くは井伊直弼によって処罰され、中には島流しや死刑になった者もいるのだ。
南紀派の井伊は、家茂公を将軍として立てたことで、幕府を己の意のままに操っている。徳川の血を継がぬ者にとって、若き家茂公の大老という立場は、まさに願ったりの地位であろう」
家茂が第十四代将軍に着任した裏には、井伊直弼の策略があったということか。でも――。
「待ってください。家茂公が将軍の座に就いたということは、その対抗勢力もあったのですよね?」
「ああ、その対抗勢力こそが一橋家なのだ」
「えっ、ということは……」
寧々はあっけに取られつつ、影丸を指さした。影丸が一橋家の当主であり、一橋家が将軍候補であったとすれば――。
「影丸が、江戸幕府の将軍様になられたかもしれなかった、ということでしょうか」
「うむ、そういうことになるな」
影丸は平然と言ってのけた。
胸が早鐘を打ち、思わず姿勢を正してしまう。まさか軽口を叩き合っていた影丸が、それほどにやんごとなきお方だとは、想像だにしなかった。
いや、漂う雰囲気と優れた剣技には、納得できるものがある。
影丸は説明を続ける。
「だが、家茂公は若い。世継ぎをもうけるのはまだ先のことだ。だから井伊は、家茂公に何かよからぬ事態が起きれば、将軍の座を一橋家に明け渡すことになろうと懸念しているのだ」
「なるほど、影丸を蟄居の罰にした最大の理由は、一橋家を政の表舞台から葬るためだったのですね」
「そういうことになるだろうな」
初めて一橋家に上がる日、志乃が言っていた、「移り変わる世の荒波に呑まれた」とは、政争のことを示していたのだと、今になって納得できた。
そう聞けば、影丸が町へ出るのを警戒したのも肯ける。自分を知る者に見つかったら、蟄居を抜け出していることが知られてしまう。それゆえ、町人に変装する必要があったのだ。
同時に、重大な疑問が湧いてきた。
「では、美賀子様は一体誰の奥方なのでしょう。そして、姫君様は誰の子で――」
すると、影丸は周囲に誰もいないことを確かめた後、声を潜めて言う。
ここから先は、ごく一部の者しか知らない絶対の秘密だと言い添えて。
思わず背筋が伸びる。真剣な表情で肯くと、影丸は次のように説明した。
「表向きには、俺の正室ということになっている。美賀子の出自は今出川家という公家であり、嫁いだ理由は、徳川の血を継ぐ者と繋がりを持つための政略であった。
当時、俺は家茂公と第十四代将軍の座をかけて争っていた。常に命が狙われる立場であったため、縁組みを断っていたのだが――由緒ある公家からの頼みならばと断れず、致し方なく美賀子を正室として迎えることになった。
そのような曖昧なつながりであったため、互いによそよそしく、心が通うことはなかった。
そのせいで美賀子は一橋家で孤立し、寂しさに打ちのめされ、心を病んでしまった。
だが今さら離縁し、出戻りとさせることなどできるはずがない。
そこで、美賀子の相談役となったのが円四郎であった。円四郎は聡明にして懐が広く、美賀子の不安な心を包んでいた。
そして、美賀子と円四郎は次第に仲を深めていった。
最初は己の責務として美賀子の相手をしていた円四郎だったが、次第に情が芽生え、美賀子も円四郎を求めるようになっていた。
そして、二人はついに禁忌を犯してしまった――。契りを交わし、子まで成してしまったのだ」
「!!」
それは寧々にとって、驚愕の事実であった。まさか、側近の家臣が主の正室を寝取り、新たな命を宿すとは。しかも、その事実を影丸が受け容れ、ほかの家臣たちに黙秘していることにも驚かされた。
「その子が、亡くなられた姫君様だったのですね」
「ああ。円四郎は、美賀子が子を宿したという事実を俺に打ち明け、自害するとまで口にした。確かに当主の正室を孕ませたとあれば、一橋家の屋敷で生きていけるはずがない。
だが、俺は兄のような円四郎を切り捨てることなどできなかった。元を辿れば、俺が美賀子を蔑ろにしていたことが原因だ。
だから、このことは円四郎、長十郎、美賀子、そして俺だけの秘密とすることにしたのだ」
そうであれば、尼音が姫君を本物の慶喜様――つまり、影丸の子供だと思い込んで毒を盛ったのも肯ける。
「俺自身、円四郎が当主であってくれればと、どれほど願ったか知れない。だが代々、当主は徳川の血を継ぐ者しかなれないのである。血の掟は絶対であったのだ」
影丸は、物欲や権力への渇望よりも、人を想う心の強い当主なのだと、寧々は思った。
「だから、美賀子はいつまでも俺の正室という立場に縛られていてはならない」
このままでは、いくら影丸が認めているとはいえ、円四郎と美賀子が不義を働いているようなものだ。
「では、どうされるのですか」
「そこで、再び呪いが降りかかるのを防ぐという名目で、一橋家の正室の座を退いてもらうことにする」
そうなれば、円四郎と美賀子にとっても幸せだろうと、寧々は深く肯く。
「だが、美賀子の実家には伏せておいたほうがよいだろう」
「一橋家は秘密だらけでございますね」
「ふふ、確かにな」
けれど、寧々は同時に、自分自身の立場があやふやなことに気づいた。
「で……では、私は誰と結婚したのでございますか?」
もしかすると、自分は正式に影丸の正室となるのでは――。
そう思った瞬間、寧々は心の中に、その展開を望んでいる自分がいることに気づいた。
それは、隠密としての使命を果たすという責任感とは別の期待だった。
ところが、影丸の返事は寧々の期待にそぐうものではなかった。
「偽の慶喜――つまり、円四郎の奥方ということになるな」
「はい、さようですか」
寧々は、あまりにもあっさりと期待を打ち砕かれ、心の中でのけぞった。
せめて少しくらいは、「俺の奥方であればよかろう」と思っている素振りを見せてほしかった。
己の本心をつゆほども見せない主君に、寧々はやきもきする。
影丸は寧々を諭すように続ける。
「初夜の床に訪れた時、俺が語ったことを思い出してくれ」
「影丸が語ったこと、ですか?」
思い出されるのは、呪いにより一橋家の将来を危惧した家臣たちの提案である。
『このままでは、一橋家が慶喜様の代で途絶えてしまう!』
『家臣として、先代の御当主様方に申し訳が立ちませぬ!』
『そのような事態になれば、皆で自害するほかあるまい!』
世継ぎの問題に終止符を打つべく、家臣たちは策を練り、新たな側室を迎えることとなった――影丸は、確かにそう言っていた。
「だが、その話には続きがあるのだ」
「続き……ですか?」
「ああ」
影丸は、その続きを淡々と語り続ける。
『しかし、これ以上、一橋家の血を呪いで穢すわけにはいかない!』
『ならば偽物の当主と奥方を据え置き、呪いの矛先を眩ませるほかあるまい!』
『だが、一体誰を当主と奥方に仕立てあげるのだ?』
そこで名乗りを上げたのが円四郎であった。もともと慶喜の替え玉として、目付の目を欺く役目を担っていた男である。
ならば、偽の当主を務めるには、この上なくうってつけであった。しかし、問題は奥方のほうである。
『由緒正しき姫君を、呪いの人柱として差し出すわけにはいくまい!』
そこで家臣たちは考え、ひとつの結論に至った。
『ならば、市井の者の中から選ぶというのはどうだ?』
『それはまことによい思案であるな!』
『『『賛成でござる!』』』
そうして一橋家は、新たな奥方を募ることになったのである。
「だから、おぬしの役目は円四郎の子をもうけ、呪いの受け皿となることであったのだ」
ところが、真相を知った寧々が穏やかでいられるはずがない。
「ということは……私は呪いを受ける人柱として、偽りの当主に嫁がされたというのでございますか!?」
寧々の声が震えた。
町民出自の奥方ならば、捨て駒として扱われる可能性があることは、心のどこかで考えていた。
だが、いざそれが自分自身の役目であったと知れば、怒りを露わにせずにはいられない。
「私は……私は、慶喜殿の妻になるのだと覚悟を決めて、あの家に入ったのでございます。それなのに……」
寧々は唇を噛みしめた。悔しさに、目元が潤んでいる。
「私が身を捧げようとしたお方が、初めから偽物だったなど……そんなこと、あんまりではございませんか!」
殿方に触れられることすら受け容れられなかった寧々は、初夜を迎えるのが不安でたまらなかった。
だが、影丸は堂々と言い返す。
「まだ身を捧げてはおらんだろうが!」
それは事実ではあるが――。
「私の気持ちの中では、すでに身を捧げておりました!」
寧々は頭では理解しているものの、気持ちが収まらないのである。
「だいたい、円四郎様が替え玉などなさらなければ、私は影丸の奥方ということになっていたのではないのですか!?」
寧々はあてつけのようにそう尋ねていた。影丸が自分をどう思っているのか、知りたくてたまらなかったのだ。
だが、影丸はひとつ咳払いをしてから答えた。
「それは――俺であれば、夜伽の相手として申し分ない、という意味か?」
どうやら影丸は、寧々の言葉をそのように受け取ったらしい。寧々は慌てて首を横に振った。
「そ……そうは言っておりませぬ!」
「では、俺では嫌だということか」
「そうも言っておりませぬ!」
気まずさと恥じらいをごまかすように、寧々は両手を目の前で激しく振った。どちらに答えても追い詰められるようで、まるで両頬を交互につつかれているような心地がする。顔から火が出そうだった。
「やっぱり意地悪な影丸など、こちらからお断りでございます!」
それを聞いた影丸は、能面のような表情のまま肩を竦めた。
「まったく、口の減らない姫だ。その口を塞がれたいというのか?」
まさか――影丸が、自らの唇で私の口を塞ぐのか。
そんな想像が脳裏をよぎった瞬間、胸が激しく高鳴った。
影丸を意識しすぎるあまり、寧々の思考には男女の契りまでがついて回るようになっていた。
「お……お気に召したというのであれば、はっきりと仰ってくださいな。口を塞ぐのは、それからではありませんか」
「おぬしの言っている意味が、さっぱり分からん」
「無言での口塞ぎは大罪にございます! ちゃんと心構えをさせてください!」
「……ますます分からん。聡明な寧々は、どこへ行ったのだ?」
茹で蛸のように顔を真っ赤にして力説する寧々に、影丸は呆れ果てている。
だが、寧々自身、影丸と触れ合ったときの温もりを忘れられない。
思い出すたびに、胸の奥が疼くのだった。
影丸は姿勢を正した。まるで、それまでの戯れを断ち切るかのような厳粛な態度である。
「しかし、俺の立場を知った以上、俺のことを『影丸』と呼ぶのは、ここまでだ。今後は家主として、『慶喜』と呼んでもらうことにする」
突然の突き放すような言葉に、寧々は内心狼狽えた。
「い……嫌です! 私にとって、影丸は影丸です。同じ使命を担う相棒、影丸にございます!」
寧々は漆黒の瞳で、影丸をじっと見つめた。だが、影丸の決意は揺らがなかった。
「呪いが解けた以上、おぬしは用済みと知るがよい。したがって、おぬしの処遇については、明日の夕餉の後に伝える。覚悟しておくんだな!」
「ちょっと待ってください! 覚悟って、なんでございますか!?」
「覚悟とは、覚え悟ることであるぞ」
「文字そのままではございませんか!」
寧々が食い下がっても、影丸の態度は変わらなかった。
その姿は、もはや相棒としての心遣いさえも忘れてしまったかのように、冷たく寧々を突き放しているようであった。
『姫君の死は、やはり呪いであり、悪霊の仕業であった』
『悪霊は寧々様にまで憑き、姫君の生まれ変わりだと偽って、寧々様を惑わせていた。寧々様を呪い、不忍池へと誘い出して、池に沈めようとしていたのだ』
『尼音は、悪霊の存在に誰よりも早く気づいていた。尼音は寧々様を追い、身を挺して悪霊を払ったのだ。そして、悪霊もろとも不忍池に身を沈めたのだ』
――と。
無論、その噂は寧々の証言をもとにしたものであった。
証言を聞いた侍女たちは咽び泣き、尼音の死を嘆いた。尼音は手厚く祀られ、供養された。
だが、不忍池から尼音の死体が上がることはなかった。
影丸は寧々に、それでよいのかと尋ねた。けれど、寧々は「そのほうが穏便でしょう」と言って押し切った。
もし真相を公にすれば、侍女や家臣たちは互いを隠密ではないかと疑い、疑念と不信を募らせることになるだろう。それどころか、美賀子自身も、姫君が己の足音に苦しめられていたと知れば、深い呵責に苛まれることになるだろう。
悪霊の仕業だったという証言こそが、皆の心を縛りつけていた呪いから解き放つ、最も穏便な方法なのだ。
寧々は、そう考えたのである。
★
「影丸、大切なお話がございます」
そう言って影丸を呼び出したのは、人の姿が消えた夜の庭園であった。影丸はその言葉を待ちわびていたかのように、疑問を挟むことなく応じた。
星が瞬く冬空の下、二人は言葉なく肩を並べていた。ただ二人の吐き出す白い息が、夜空へ昇りながら、ゆったりと混ざり合う。
寧々はずっと考えていた。なぜ影丸は、これほどまでに慶喜の信頼を得ているのか。なぜ、見分の際に側室を選ぶ立場として、その場に居合わせたのか。
その理由は、尼音の言葉で明瞭になった。
『この場に現れたのが一橋家の家主だとは――』
『当主殿よ、江戸に撒かれる土となれ――』
一橋家には、寧々の知らぬ秘密が共有されていたのだ。その真相とは――。
寧々は覚悟を決め、ついに切り出した。
「本当は影丸が、一橋家の当主、慶喜様なのでございますね」
影丸は目を伏せて、ふっと不敵な笑みを浮かべた。
「ようやっと気づいたか。おぬしにしては気づくのが遅かったがな」
まるで否定はなかった。むしろ、寧々が悟るのを待っていたような雰囲気さえあった。
「上屋敷の中で、替え玉の事実を知らなかったのは私だけなんですね」
「さようだ」
「一橋家の面々は、あまりにも芝居が上手でした」
「元々、見分の時から、新しい側室にはこのことは内密に通すつもりだった」
一介の側室に、一橋家の秘密は預けられないということなのだろう。
「今までおぬしが慶喜だと思っていた男は、『平岡円四郎』という側近で、俺にとって兄のようなものだ」
確かに、影丸に対する態度から、二人の信頼関係が強固なことはよく理解できていた。
「しかし、なぜ替え玉を?」
「その円四郎から、安政の大獄から逃れるには、これが最善の方法だと提案されたのだ」
円四郎は蟄居を命じられた慶喜を不憫に思い、己が慶喜の身代わりとなり、慶喜を影丸という家臣に仕立てることで、自由を与えていたのだ。
「幕府の目付が屋敷を見回りに来た時、円四郎は慶喜として振る舞い、目付をうまく騙すことができた。以来、目付が来るたび、円四郎は慶喜として目付を騙し続けているのだ」
円四郎の貫禄を鑑みれば、目付たちが円四郎を当主の慶喜と思い込むのも無理はない。
「円四郎殿はまことに役者でございますね。しかし、なぜ影丸がそんな蟄居などという罰を受けることに?」
「それは、井伊直弼の独裁によるものだ」
影丸は続けて、事情を詳しく語った。
「江戸時代となってから、日本は長きにわたり鎖国を続けてきた。しかし、幕府が朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を独断で結び、世界の扉を開いてしまった。それは天皇に対する冒涜にほかならない。
尊王攘夷を掲げる大名・公家・志士らは幕府に反対したが、その多くは井伊直弼によって処罰され、中には島流しや死刑になった者もいるのだ。
南紀派の井伊は、家茂公を将軍として立てたことで、幕府を己の意のままに操っている。徳川の血を継がぬ者にとって、若き家茂公の大老という立場は、まさに願ったりの地位であろう」
家茂が第十四代将軍に着任した裏には、井伊直弼の策略があったということか。でも――。
「待ってください。家茂公が将軍の座に就いたということは、その対抗勢力もあったのですよね?」
「ああ、その対抗勢力こそが一橋家なのだ」
「えっ、ということは……」
寧々はあっけに取られつつ、影丸を指さした。影丸が一橋家の当主であり、一橋家が将軍候補であったとすれば――。
「影丸が、江戸幕府の将軍様になられたかもしれなかった、ということでしょうか」
「うむ、そういうことになるな」
影丸は平然と言ってのけた。
胸が早鐘を打ち、思わず姿勢を正してしまう。まさか軽口を叩き合っていた影丸が、それほどにやんごとなきお方だとは、想像だにしなかった。
いや、漂う雰囲気と優れた剣技には、納得できるものがある。
影丸は説明を続ける。
「だが、家茂公は若い。世継ぎをもうけるのはまだ先のことだ。だから井伊は、家茂公に何かよからぬ事態が起きれば、将軍の座を一橋家に明け渡すことになろうと懸念しているのだ」
「なるほど、影丸を蟄居の罰にした最大の理由は、一橋家を政の表舞台から葬るためだったのですね」
「そういうことになるだろうな」
初めて一橋家に上がる日、志乃が言っていた、「移り変わる世の荒波に呑まれた」とは、政争のことを示していたのだと、今になって納得できた。
そう聞けば、影丸が町へ出るのを警戒したのも肯ける。自分を知る者に見つかったら、蟄居を抜け出していることが知られてしまう。それゆえ、町人に変装する必要があったのだ。
同時に、重大な疑問が湧いてきた。
「では、美賀子様は一体誰の奥方なのでしょう。そして、姫君様は誰の子で――」
すると、影丸は周囲に誰もいないことを確かめた後、声を潜めて言う。
ここから先は、ごく一部の者しか知らない絶対の秘密だと言い添えて。
思わず背筋が伸びる。真剣な表情で肯くと、影丸は次のように説明した。
「表向きには、俺の正室ということになっている。美賀子の出自は今出川家という公家であり、嫁いだ理由は、徳川の血を継ぐ者と繋がりを持つための政略であった。
当時、俺は家茂公と第十四代将軍の座をかけて争っていた。常に命が狙われる立場であったため、縁組みを断っていたのだが――由緒ある公家からの頼みならばと断れず、致し方なく美賀子を正室として迎えることになった。
そのような曖昧なつながりであったため、互いによそよそしく、心が通うことはなかった。
そのせいで美賀子は一橋家で孤立し、寂しさに打ちのめされ、心を病んでしまった。
だが今さら離縁し、出戻りとさせることなどできるはずがない。
そこで、美賀子の相談役となったのが円四郎であった。円四郎は聡明にして懐が広く、美賀子の不安な心を包んでいた。
そして、美賀子と円四郎は次第に仲を深めていった。
最初は己の責務として美賀子の相手をしていた円四郎だったが、次第に情が芽生え、美賀子も円四郎を求めるようになっていた。
そして、二人はついに禁忌を犯してしまった――。契りを交わし、子まで成してしまったのだ」
「!!」
それは寧々にとって、驚愕の事実であった。まさか、側近の家臣が主の正室を寝取り、新たな命を宿すとは。しかも、その事実を影丸が受け容れ、ほかの家臣たちに黙秘していることにも驚かされた。
「その子が、亡くなられた姫君様だったのですね」
「ああ。円四郎は、美賀子が子を宿したという事実を俺に打ち明け、自害するとまで口にした。確かに当主の正室を孕ませたとあれば、一橋家の屋敷で生きていけるはずがない。
だが、俺は兄のような円四郎を切り捨てることなどできなかった。元を辿れば、俺が美賀子を蔑ろにしていたことが原因だ。
だから、このことは円四郎、長十郎、美賀子、そして俺だけの秘密とすることにしたのだ」
そうであれば、尼音が姫君を本物の慶喜様――つまり、影丸の子供だと思い込んで毒を盛ったのも肯ける。
「俺自身、円四郎が当主であってくれればと、どれほど願ったか知れない。だが代々、当主は徳川の血を継ぐ者しかなれないのである。血の掟は絶対であったのだ」
影丸は、物欲や権力への渇望よりも、人を想う心の強い当主なのだと、寧々は思った。
「だから、美賀子はいつまでも俺の正室という立場に縛られていてはならない」
このままでは、いくら影丸が認めているとはいえ、円四郎と美賀子が不義を働いているようなものだ。
「では、どうされるのですか」
「そこで、再び呪いが降りかかるのを防ぐという名目で、一橋家の正室の座を退いてもらうことにする」
そうなれば、円四郎と美賀子にとっても幸せだろうと、寧々は深く肯く。
「だが、美賀子の実家には伏せておいたほうがよいだろう」
「一橋家は秘密だらけでございますね」
「ふふ、確かにな」
けれど、寧々は同時に、自分自身の立場があやふやなことに気づいた。
「で……では、私は誰と結婚したのでございますか?」
もしかすると、自分は正式に影丸の正室となるのでは――。
そう思った瞬間、寧々は心の中に、その展開を望んでいる自分がいることに気づいた。
それは、隠密としての使命を果たすという責任感とは別の期待だった。
ところが、影丸の返事は寧々の期待にそぐうものではなかった。
「偽の慶喜――つまり、円四郎の奥方ということになるな」
「はい、さようですか」
寧々は、あまりにもあっさりと期待を打ち砕かれ、心の中でのけぞった。
せめて少しくらいは、「俺の奥方であればよかろう」と思っている素振りを見せてほしかった。
己の本心をつゆほども見せない主君に、寧々はやきもきする。
影丸は寧々を諭すように続ける。
「初夜の床に訪れた時、俺が語ったことを思い出してくれ」
「影丸が語ったこと、ですか?」
思い出されるのは、呪いにより一橋家の将来を危惧した家臣たちの提案である。
『このままでは、一橋家が慶喜様の代で途絶えてしまう!』
『家臣として、先代の御当主様方に申し訳が立ちませぬ!』
『そのような事態になれば、皆で自害するほかあるまい!』
世継ぎの問題に終止符を打つべく、家臣たちは策を練り、新たな側室を迎えることとなった――影丸は、確かにそう言っていた。
「だが、その話には続きがあるのだ」
「続き……ですか?」
「ああ」
影丸は、その続きを淡々と語り続ける。
『しかし、これ以上、一橋家の血を呪いで穢すわけにはいかない!』
『ならば偽物の当主と奥方を据え置き、呪いの矛先を眩ませるほかあるまい!』
『だが、一体誰を当主と奥方に仕立てあげるのだ?』
そこで名乗りを上げたのが円四郎であった。もともと慶喜の替え玉として、目付の目を欺く役目を担っていた男である。
ならば、偽の当主を務めるには、この上なくうってつけであった。しかし、問題は奥方のほうである。
『由緒正しき姫君を、呪いの人柱として差し出すわけにはいくまい!』
そこで家臣たちは考え、ひとつの結論に至った。
『ならば、市井の者の中から選ぶというのはどうだ?』
『それはまことによい思案であるな!』
『『『賛成でござる!』』』
そうして一橋家は、新たな奥方を募ることになったのである。
「だから、おぬしの役目は円四郎の子をもうけ、呪いの受け皿となることであったのだ」
ところが、真相を知った寧々が穏やかでいられるはずがない。
「ということは……私は呪いを受ける人柱として、偽りの当主に嫁がされたというのでございますか!?」
寧々の声が震えた。
町民出自の奥方ならば、捨て駒として扱われる可能性があることは、心のどこかで考えていた。
だが、いざそれが自分自身の役目であったと知れば、怒りを露わにせずにはいられない。
「私は……私は、慶喜殿の妻になるのだと覚悟を決めて、あの家に入ったのでございます。それなのに……」
寧々は唇を噛みしめた。悔しさに、目元が潤んでいる。
「私が身を捧げようとしたお方が、初めから偽物だったなど……そんなこと、あんまりではございませんか!」
殿方に触れられることすら受け容れられなかった寧々は、初夜を迎えるのが不安でたまらなかった。
だが、影丸は堂々と言い返す。
「まだ身を捧げてはおらんだろうが!」
それは事実ではあるが――。
「私の気持ちの中では、すでに身を捧げておりました!」
寧々は頭では理解しているものの、気持ちが収まらないのである。
「だいたい、円四郎様が替え玉などなさらなければ、私は影丸の奥方ということになっていたのではないのですか!?」
寧々はあてつけのようにそう尋ねていた。影丸が自分をどう思っているのか、知りたくてたまらなかったのだ。
だが、影丸はひとつ咳払いをしてから答えた。
「それは――俺であれば、夜伽の相手として申し分ない、という意味か?」
どうやら影丸は、寧々の言葉をそのように受け取ったらしい。寧々は慌てて首を横に振った。
「そ……そうは言っておりませぬ!」
「では、俺では嫌だということか」
「そうも言っておりませぬ!」
気まずさと恥じらいをごまかすように、寧々は両手を目の前で激しく振った。どちらに答えても追い詰められるようで、まるで両頬を交互につつかれているような心地がする。顔から火が出そうだった。
「やっぱり意地悪な影丸など、こちらからお断りでございます!」
それを聞いた影丸は、能面のような表情のまま肩を竦めた。
「まったく、口の減らない姫だ。その口を塞がれたいというのか?」
まさか――影丸が、自らの唇で私の口を塞ぐのか。
そんな想像が脳裏をよぎった瞬間、胸が激しく高鳴った。
影丸を意識しすぎるあまり、寧々の思考には男女の契りまでがついて回るようになっていた。
「お……お気に召したというのであれば、はっきりと仰ってくださいな。口を塞ぐのは、それからではありませんか」
「おぬしの言っている意味が、さっぱり分からん」
「無言での口塞ぎは大罪にございます! ちゃんと心構えをさせてください!」
「……ますます分からん。聡明な寧々は、どこへ行ったのだ?」
茹で蛸のように顔を真っ赤にして力説する寧々に、影丸は呆れ果てている。
だが、寧々自身、影丸と触れ合ったときの温もりを忘れられない。
思い出すたびに、胸の奥が疼くのだった。
影丸は姿勢を正した。まるで、それまでの戯れを断ち切るかのような厳粛な態度である。
「しかし、俺の立場を知った以上、俺のことを『影丸』と呼ぶのは、ここまでだ。今後は家主として、『慶喜』と呼んでもらうことにする」
突然の突き放すような言葉に、寧々は内心狼狽えた。
「い……嫌です! 私にとって、影丸は影丸です。同じ使命を担う相棒、影丸にございます!」
寧々は漆黒の瞳で、影丸をじっと見つめた。だが、影丸の決意は揺らがなかった。
「呪いが解けた以上、おぬしは用済みと知るがよい。したがって、おぬしの処遇については、明日の夕餉の後に伝える。覚悟しておくんだな!」
「ちょっと待ってください! 覚悟って、なんでございますか!?」
「覚悟とは、覚え悟ることであるぞ」
「文字そのままではございませんか!」
寧々が食い下がっても、影丸の態度は変わらなかった。
その姿は、もはや相棒としての心遣いさえも忘れてしまったかのように、冷たく寧々を突き放しているようであった。



