江戸に初雪が降った夜、慶喜は夕餉の大広間に、一橋家の上屋敷に出入りする者をすべて呼び寄せた。誰一人、席を外してはならないと厳しく言い渡してあった。
なにせ、下手人がこの場に顔を出していなければ、作戦は徒労に終わってしまうのだ。
寧々は食事を数口ほど口にしたところで箸を置いた。食事を取るのをやめたのは、気分が優れないのだと思わせるためである。
家臣たちが夕餉を済ませた頃を見計らい、慶喜は二度手を打ち鳴らし、皆に聞いてほしいことがあると告げた。それから寧々へ視線を送る。
寧々はひと息ついてから、こう話し始めた。
「私は、子を宿したかもしれません」
家臣たちから、「おおっ」とどよめきの声が上がる。けれど、慶喜はそれを制するように両手を広げてみせた。
寧々は下腹をさすりながら、さらに続ける。
「それだけではございません。どうやら、この子は美賀子様の姫君の生まれ変わりに違いないのでございます」
皆の視線が、いっせいに寧々の下腹へと注がれる。ほとんどの者が驚きに目を丸くしていた。
「腹の中から、心の声が聞こえるのでございます」
「どういうことだ。続けてみろ」
慶喜が寧々の言葉の先を促す。それも、まるで自分も初めて聞いたかのように。
「子が、自分は殺されたのだと申しております。とはいえ、事の仔細については声がか細く、私の耳まで届かないのでございます。ただ、へそに何かを刺され、それから身体中がひどく痛むようになったと――」
にわかには信じがたい話であった。だが、寧々の言うことが真実ならば、腹の中の子は生き証人である。
「もし、さようであれば、その下手人は誰なのだ? 余はそれが知りたい」
慶喜は必死の形相で、寧々に問いかける。
「そこまでは分かりません。けれど、子の声を聴くには、いくつかの条件があるようでございます」
「条件……とは?」
寧々は、思考を巡らせるようにゆっくりと続けた。
「まず、姫君様の声が聞こえるのは、私が一人でいるときでございます。そして、姫君様がお眠りになられている墓地に近づくほど、その声は強くなります。しかも、月明りが眩しい夜にこそ、その声は最もはっきりするのでございます」
慶喜は、先を促すように問いかける。
「なるほど。つまり、すべての条件を整えれば、姫君を殺した下手人が誰なのか、声が聴き取れそうだということだな?」
「さようでございます。ですから私は、三日後の満月の夜、一人で墓地へうかがおうと考えております」
夕餉の大広間は、恐ろしく奇妙な雰囲気に包まれていた。寧々の証言を信じる者、反対に疑念を抱く者、そして亡霊の仕業ではないかと恐れる者。
美賀子などは、寧々の腹にすがりつき、我が子を守れなかったことに呵責の念を抱き、涙を流していた。
「もう一度、私の子として生まれてきてほしい」
そう願いながら、何度も寧々の腹を撫でていた。
だが、それらはすべて、下手人をおびき寄せるための策略である。
もしも寧々の推察が真相を的確に射抜いており、この中に下手人がいるのであれば、その者は心穏やかではいられないはずだ。
ならば、次に起こることはおのずと決まってくる。寧々たちは、下手人が必ず動くと踏んでいるのである。
そして、満月の夜。
寧々は慶喜たちに見送られ、提灯と菊の花を一輪携えて、姫君が眠る墓地――寛永寺へと向かったのである。
★
不忍池の水面には月が揺れ、池の中に浮かぶ弁天堂の輪郭を、淡い月明かりが縁取っている。人の声ひとつ聞こえぬ、静けさに沈む世界であった。
池のほとりを抜けて寺に着くと、大きな木々の間に、黒々とした堂宇の屋根が浮かんでいた。
寧々はその中へ足を踏み入れる。神経を研ぎ澄ませ、人の気配を察しながら、墓石の並ぶ墓地の中へ、一歩一歩進んでいく。
美賀子から聞いていた姫君の墓を見つけると、腰を据えて花を添え、両手を合わせた。
「どうか、おぬしを殺めた者の名を教えておくれ」
寧々の声が、夜のしじまに響く。それから息をひそめ、じっと気を張り巡らせる。
下手人は必ずこの場に現れる――その確信があった。
なぜなら、寧々は毒殺であることと、その方法まで匂わせたのだ。だから下手人は、本当に姫君の霊が語っているのではないかと思い込むはず。そして、己の所業が白日の下に晒されてしまうと懸念するはず。
その前に寧々を亡き者にしなければ。だが、屋敷は厳重な警護があり、始末するのは難しい。けれど好都合なことに、寧々は一人で寺に向かうと言い出した。ならば後をつけて暗殺し、悪霊の仕業に見せかければよい――。
そう考えるはずである。
そのとき、背後に人の気配を感じた。同時に寧々は確信した。推察は真実を射抜いていたのだと。
さらに、寧々の鋭い五感を掻い潜り、ここまでそばに近づくことなど並大抵の者には不可能である。紛れもなく、忍びの所業であった。
提灯を掲げる寧々の瞳に、知る人の姿が映る。その姿を見た瞬間、寧々は表情を強張らせた。
それは、誰よりも身を粉にして奥方のために尽くしてきたはずの者――上臈御年寄の尼音であった。
「尼音――あなたは隠密だったのですね」
「ききき……勘が良い子だね。だが、あたしが姿を見せたのは、なぜだか分かるかい?」
今、目の前にいるのは、腰の曲がった老婆ではない。背筋をしゃんと伸ばし、血を求める魔物のような顔つきをしている。その手には、鈍く光る小刀が握られていた。
尼音が屋敷では見せない、真の姿を晒したということは――。
「この場で、私を殺すつもりなのでしょう」
「やはり勘の良い子だね。見分の時から、只者ではないと思っておったがな。じゃが、ここで始末すれば、腹の子と一石二鳥じゃわい」
尼音は、舐めるように寧々の下腹へと視線を向ける。
「残念ですが、わたくしは子を宿しておりません。それに、慶喜様の子の霊など、どこにもおりません」
「はぁ?」
「なぜなら、すべて下手人をおびき寄せるための策略だったのですから」
「なんじゃと!?」
同時に、尼音の背後で土を踏みしめる音がした。
尼音が振り返ると、そこには打刀を携えた影丸の姿があった。下手人が現れると読んで、寧々の後を追っていたのだ。
「一橋家に尽くしていたおぬしが、呪いの元凶だったとはな。まさか、ここまで根が深いとは思わなかったぞ」
険しい表情で言い放つ影丸は、怒りに身を震わせていた。
余所者が屋敷に溶け込み、一橋家の血を絶やそうとしていたことを、許せるはずがない。
ならば、姫君の死を呪いだと言挙げした耳のない僧侶もまた、尼音の回し者に違いない。
尼音の差し金であれば、どの寺を探しても僧侶が見つからないのは当然のことだ。尼音がどこの寺の僧侶なのか明言できなかったのも、これで納得できた。
影丸は打刀に手をかけ、刀を抜いて上段に身構える。
「姫君の恨み、とくと味わうがよい!」
だが、尼音は不敵な笑みを浮かべてみせた。
「しかし、この場に現れたのが一橋家の家主だとは、願ったり叶ったりじゃ。――殺れ」
ひゅん、と茂みの中から何かが影丸の顔めがけて飛んできた。
影丸は即座に気づいて身を翻し、かろうじて避けた。背後の木に突き刺さったのは手裏剣だった。
茂みの中から四人、忍刀を手にした黒装束の者たちが姿を現した。
「備えあれば憂いなしじゃな」
「俺を殺めようというつもりか? 不届き者めが!」
その瞬間、尼音は一陣の風のように寧々の背後へ回り込み、小刀をその首元に突きつけた。
「きゃあ!」
「これでも、あたしに手が出せるのかな。何かされたら、思わず手が滑ってしまうよ」
尼音は愉悦の笑みを浮かべている。寧々はその一挙一動を注視し、いつでも技を繰り出せるよう身構えていた。
しかし、殺気を悟られてはならない。尼音だけでなく、影丸にも――。
「影丸、私のことは見捨ててください! 町人出自の私がどうなろうと、一橋家には何の不都合もないはずです!」
寧々は身体を強張らせたまま叫んだ。すると、影丸が必死の形相で言い返した。
「不都合がないはずもない。たとえ一橋家が存続できずとも、俺がおぬしを必要としているのだ!」
その言葉は、影丸自身の心の内を、図らずも露わにしていた。
なんで、こんな時に――。
寧々の胸がひどく苦しくなる。この危機にあっても、決して自分を見捨てようとしない影丸の言葉が、嬉しくもあった。
「仲良きことはええことじゃ。安心せい、二人とも冥土に送ってやろう。ともに露となれば、あたしが疑われることもないじゃろうからな」
尼音は、寧々と影丸がこの場で刺し違えたように見せかけるつもりなのだ。そして何食わぬ顔で屋敷へ戻り、二人の死を知ったときに、呪いが降りかかったのだと嘆くのだろう。
「影丸、私を信じてください。私には八百万の神がついていますから!」
そうでも言わなければ、影丸は無理をして寧々を助けようとしてしまう。隙を見せて共倒れとなることだけは、絶対に避けなければならない。
そうなれば、真実は闇の中へ葬られ、一橋家の呪いもまた生き続けることになるのだ。
影丸は刀を下段に構え直し、精神を研ぎ澄ませた。
尼音は目を血走らせ、嬉々として叫ぶ。
「当主殿よ、江戸に撒かれる土となれぇぇぇ!」
尼音の声に合わせて、四人の忍がいっせいに影丸へと飛びかかる。
だが、影丸は身動きひとつせず、間合いを測りながら力を溜めていた。忍の刃先が己を引き裂く寸前、ついに剣技を繰り出す。
――一橋流奥義、詩仙繚乱斬!
刀を鋭く回転させながら、地面から天へ向かって斬り上げる。
豪快な刀圧が風刃の竜巻を巻き起こし、忍たちを容赦なく切り裂いた。
飛び散る血飛沫は花弁のように舞い、巻き起こる風に乗って、月夜の空に華やかに咲き誇った。
「なぬうっ!?」
燦然たる剣技に吹きすさぶ鮮血が、一瞬、尼音の視界を奪う。その刹那の隙を、寧々は見逃さなかった。
――藤林流秘儀、山吹の天露返し!
寧々は小刀を持つ尼音の手を取り押さえ、同時に肘をみぞおちへ突き立てる。腰が折れたところで、間髪入れずに手刀を喉へ突き込む。さらに力の抜けた腕を掴んで体重をかけ、一気に突き上げる。鈍い音がして、肩の骨が外れた。痛みによろめく隙を突いて足を掛け、そのまま地面へ押し倒す。尼音は顔面から地面に突っ伏した。
刹那の間に繰り広げられた鮮やかな連続技によって、勝負は瞬く間に決した。
尼音は、まるで化け物にでも遭ったかのように、信じられぬものを見る顔をしていた。ひれ伏したまま、呻くような怨念の声をあげる。
「おぬし、ただ者ではないと思っていたが……一体、何者なのだ?」
「ただの側室にございます」
寧々は、あくまで涼しげにそう答えた。
「寧々! 大丈夫か!?」
影丸が寧々へ振り向いたとき、すでに寧々は尼音を取り押さえていた。
その光景は、影丸にとってあまりにも想定外だったらしい。事態を把握するまで、数秒のあいだ、その場に立ち尽くしていた。
「どういうことだ……」
「私が暴れたせいで、雪に足を滑らせて倒れたようです。千載一遇の好機だと思い、必死に押さえ込みました。相手は老婆ですから、力では負けません」
影丸は寧々の足元に目をやった。だが、派手に滑ったような跡はどこにもない。
「神のおぼしめしです。日々、神棚に手を合わせていたのが良かったのでしょう」
「とにかく、寧々が無事だったのは幸いだ」
影丸は地面に落ちた小刀を蹴り飛ばすと、尼音の首元へ刀を突きつけ、威圧するような声で言った。
「おぬしが隠密ならば、この場で自害するのもよかろう。だが、誰の差し金かここで吐けば、あるいは情けをかけてやれるかもしれん」
尼音は憎々しげな目つきで笑い、影丸を見上げた。
「主上の御名を明かすなど、誰ができようか。ならば殺せ。殺してくれるがよい!」
「ならば、覚悟せよ」
影丸は刀を大きく上段に振りかぶる。だが、すぐさま寧々がそれを制した。
「影丸、尼音に尋ねたいことがあります。ひとつだけ……」
「寧々がそう言うのであれば、尋ねるがよい」
影丸は上段の構えを崩さぬまま、刀を止めて様子をうかがう。寧々は尼音を真っ直ぐ見つめた。
「あなたは姫君を殺めるとき、心が痛みませんでしたか?」
すると、尼音は俯き、身体を小刻みに震わせた。
「背負った使命の重さに比べれば、己の心など取るに足らぬものだ……ひ、ひひひ……」
そう言って、喉を詰まらせる。その様子は、先ほどの魔物のような尼音とは、まるで違っていた。
「でも、それなら、あなたはなぜ泣いているのですか?」
尼音は歪んだ顔で笑いながら、ひたすら涙をこぼしていた。姫君を殺めることは、尼音自身の意に反することであったのだろう。
寧々は、その惨めな姿に己の立場を重ねてしまう。寧々もまた、尼音と同じように、一橋家に潜り込んだ隠密なのである。
「影丸、尼音はこのまま放しましょう。人間の心が残されているなら、その心まで殺すことはありません」
寧々の情けに、影丸は眉根を寄せた。
「寧々は甘いな。だが、本当にそれでよいのか?」
「構いません。これで呪いは解かれるのですから」
影丸は、ふっと肩の力を抜き、刀を下ろした。
「尼音よ、寧々に感謝するんだな。では、どこへなりとも消えるがよい」
「生かされるとは屈辱このうえない。だが、この借りはいつか返してやるからな!」
尼音は遺恨を込めてそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。肩を押さえ、何度も振り向きながら、ひょこひょこと森の中へ逃げていく。
ようやく二人は緊張を緩め、ため息の後、互いに顔を見合わせた。
「ついに一橋家は呪いから解き放たれたのですね」
「本当によくやってくれた。寧々には感謝の念が尽きない」
だが、どちらの顔にも笑みはなかった。
呪いを解くという使命を果たした今、寧々に残されているのは、隠密としての務めだけである。そのためには、家主である慶喜の血を継ぐ子をもうけなければならない。
先ほどの尼音の言葉が、寧々の耳の奥でこだまし続けている。
『この場に現れたのが一橋家の家主だとは――』
『当主殿よ、江戸に撒かれる土となれ――』
この影丸という男、本当は――。
寧々は影丸の真顔を見上げながら、昂る胸の鼓動を必死に鎮めていた。
影丸は、そんな寧々の様子の変化に気づいたのか、それ以上、自ら口を開こうとはしなかった。
月明かりが淡く照らす墓地の中、ただ夜の静寂だけが、二人の間に流れていた。
なにせ、下手人がこの場に顔を出していなければ、作戦は徒労に終わってしまうのだ。
寧々は食事を数口ほど口にしたところで箸を置いた。食事を取るのをやめたのは、気分が優れないのだと思わせるためである。
家臣たちが夕餉を済ませた頃を見計らい、慶喜は二度手を打ち鳴らし、皆に聞いてほしいことがあると告げた。それから寧々へ視線を送る。
寧々はひと息ついてから、こう話し始めた。
「私は、子を宿したかもしれません」
家臣たちから、「おおっ」とどよめきの声が上がる。けれど、慶喜はそれを制するように両手を広げてみせた。
寧々は下腹をさすりながら、さらに続ける。
「それだけではございません。どうやら、この子は美賀子様の姫君の生まれ変わりに違いないのでございます」
皆の視線が、いっせいに寧々の下腹へと注がれる。ほとんどの者が驚きに目を丸くしていた。
「腹の中から、心の声が聞こえるのでございます」
「どういうことだ。続けてみろ」
慶喜が寧々の言葉の先を促す。それも、まるで自分も初めて聞いたかのように。
「子が、自分は殺されたのだと申しております。とはいえ、事の仔細については声がか細く、私の耳まで届かないのでございます。ただ、へそに何かを刺され、それから身体中がひどく痛むようになったと――」
にわかには信じがたい話であった。だが、寧々の言うことが真実ならば、腹の中の子は生き証人である。
「もし、さようであれば、その下手人は誰なのだ? 余はそれが知りたい」
慶喜は必死の形相で、寧々に問いかける。
「そこまでは分かりません。けれど、子の声を聴くには、いくつかの条件があるようでございます」
「条件……とは?」
寧々は、思考を巡らせるようにゆっくりと続けた。
「まず、姫君様の声が聞こえるのは、私が一人でいるときでございます。そして、姫君様がお眠りになられている墓地に近づくほど、その声は強くなります。しかも、月明りが眩しい夜にこそ、その声は最もはっきりするのでございます」
慶喜は、先を促すように問いかける。
「なるほど。つまり、すべての条件を整えれば、姫君を殺した下手人が誰なのか、声が聴き取れそうだということだな?」
「さようでございます。ですから私は、三日後の満月の夜、一人で墓地へうかがおうと考えております」
夕餉の大広間は、恐ろしく奇妙な雰囲気に包まれていた。寧々の証言を信じる者、反対に疑念を抱く者、そして亡霊の仕業ではないかと恐れる者。
美賀子などは、寧々の腹にすがりつき、我が子を守れなかったことに呵責の念を抱き、涙を流していた。
「もう一度、私の子として生まれてきてほしい」
そう願いながら、何度も寧々の腹を撫でていた。
だが、それらはすべて、下手人をおびき寄せるための策略である。
もしも寧々の推察が真相を的確に射抜いており、この中に下手人がいるのであれば、その者は心穏やかではいられないはずだ。
ならば、次に起こることはおのずと決まってくる。寧々たちは、下手人が必ず動くと踏んでいるのである。
そして、満月の夜。
寧々は慶喜たちに見送られ、提灯と菊の花を一輪携えて、姫君が眠る墓地――寛永寺へと向かったのである。
★
不忍池の水面には月が揺れ、池の中に浮かぶ弁天堂の輪郭を、淡い月明かりが縁取っている。人の声ひとつ聞こえぬ、静けさに沈む世界であった。
池のほとりを抜けて寺に着くと、大きな木々の間に、黒々とした堂宇の屋根が浮かんでいた。
寧々はその中へ足を踏み入れる。神経を研ぎ澄ませ、人の気配を察しながら、墓石の並ぶ墓地の中へ、一歩一歩進んでいく。
美賀子から聞いていた姫君の墓を見つけると、腰を据えて花を添え、両手を合わせた。
「どうか、おぬしを殺めた者の名を教えておくれ」
寧々の声が、夜のしじまに響く。それから息をひそめ、じっと気を張り巡らせる。
下手人は必ずこの場に現れる――その確信があった。
なぜなら、寧々は毒殺であることと、その方法まで匂わせたのだ。だから下手人は、本当に姫君の霊が語っているのではないかと思い込むはず。そして、己の所業が白日の下に晒されてしまうと懸念するはず。
その前に寧々を亡き者にしなければ。だが、屋敷は厳重な警護があり、始末するのは難しい。けれど好都合なことに、寧々は一人で寺に向かうと言い出した。ならば後をつけて暗殺し、悪霊の仕業に見せかければよい――。
そう考えるはずである。
そのとき、背後に人の気配を感じた。同時に寧々は確信した。推察は真実を射抜いていたのだと。
さらに、寧々の鋭い五感を掻い潜り、ここまでそばに近づくことなど並大抵の者には不可能である。紛れもなく、忍びの所業であった。
提灯を掲げる寧々の瞳に、知る人の姿が映る。その姿を見た瞬間、寧々は表情を強張らせた。
それは、誰よりも身を粉にして奥方のために尽くしてきたはずの者――上臈御年寄の尼音であった。
「尼音――あなたは隠密だったのですね」
「ききき……勘が良い子だね。だが、あたしが姿を見せたのは、なぜだか分かるかい?」
今、目の前にいるのは、腰の曲がった老婆ではない。背筋をしゃんと伸ばし、血を求める魔物のような顔つきをしている。その手には、鈍く光る小刀が握られていた。
尼音が屋敷では見せない、真の姿を晒したということは――。
「この場で、私を殺すつもりなのでしょう」
「やはり勘の良い子だね。見分の時から、只者ではないと思っておったがな。じゃが、ここで始末すれば、腹の子と一石二鳥じゃわい」
尼音は、舐めるように寧々の下腹へと視線を向ける。
「残念ですが、わたくしは子を宿しておりません。それに、慶喜様の子の霊など、どこにもおりません」
「はぁ?」
「なぜなら、すべて下手人をおびき寄せるための策略だったのですから」
「なんじゃと!?」
同時に、尼音の背後で土を踏みしめる音がした。
尼音が振り返ると、そこには打刀を携えた影丸の姿があった。下手人が現れると読んで、寧々の後を追っていたのだ。
「一橋家に尽くしていたおぬしが、呪いの元凶だったとはな。まさか、ここまで根が深いとは思わなかったぞ」
険しい表情で言い放つ影丸は、怒りに身を震わせていた。
余所者が屋敷に溶け込み、一橋家の血を絶やそうとしていたことを、許せるはずがない。
ならば、姫君の死を呪いだと言挙げした耳のない僧侶もまた、尼音の回し者に違いない。
尼音の差し金であれば、どの寺を探しても僧侶が見つからないのは当然のことだ。尼音がどこの寺の僧侶なのか明言できなかったのも、これで納得できた。
影丸は打刀に手をかけ、刀を抜いて上段に身構える。
「姫君の恨み、とくと味わうがよい!」
だが、尼音は不敵な笑みを浮かべてみせた。
「しかし、この場に現れたのが一橋家の家主だとは、願ったり叶ったりじゃ。――殺れ」
ひゅん、と茂みの中から何かが影丸の顔めがけて飛んできた。
影丸は即座に気づいて身を翻し、かろうじて避けた。背後の木に突き刺さったのは手裏剣だった。
茂みの中から四人、忍刀を手にした黒装束の者たちが姿を現した。
「備えあれば憂いなしじゃな」
「俺を殺めようというつもりか? 不届き者めが!」
その瞬間、尼音は一陣の風のように寧々の背後へ回り込み、小刀をその首元に突きつけた。
「きゃあ!」
「これでも、あたしに手が出せるのかな。何かされたら、思わず手が滑ってしまうよ」
尼音は愉悦の笑みを浮かべている。寧々はその一挙一動を注視し、いつでも技を繰り出せるよう身構えていた。
しかし、殺気を悟られてはならない。尼音だけでなく、影丸にも――。
「影丸、私のことは見捨ててください! 町人出自の私がどうなろうと、一橋家には何の不都合もないはずです!」
寧々は身体を強張らせたまま叫んだ。すると、影丸が必死の形相で言い返した。
「不都合がないはずもない。たとえ一橋家が存続できずとも、俺がおぬしを必要としているのだ!」
その言葉は、影丸自身の心の内を、図らずも露わにしていた。
なんで、こんな時に――。
寧々の胸がひどく苦しくなる。この危機にあっても、決して自分を見捨てようとしない影丸の言葉が、嬉しくもあった。
「仲良きことはええことじゃ。安心せい、二人とも冥土に送ってやろう。ともに露となれば、あたしが疑われることもないじゃろうからな」
尼音は、寧々と影丸がこの場で刺し違えたように見せかけるつもりなのだ。そして何食わぬ顔で屋敷へ戻り、二人の死を知ったときに、呪いが降りかかったのだと嘆くのだろう。
「影丸、私を信じてください。私には八百万の神がついていますから!」
そうでも言わなければ、影丸は無理をして寧々を助けようとしてしまう。隙を見せて共倒れとなることだけは、絶対に避けなければならない。
そうなれば、真実は闇の中へ葬られ、一橋家の呪いもまた生き続けることになるのだ。
影丸は刀を下段に構え直し、精神を研ぎ澄ませた。
尼音は目を血走らせ、嬉々として叫ぶ。
「当主殿よ、江戸に撒かれる土となれぇぇぇ!」
尼音の声に合わせて、四人の忍がいっせいに影丸へと飛びかかる。
だが、影丸は身動きひとつせず、間合いを測りながら力を溜めていた。忍の刃先が己を引き裂く寸前、ついに剣技を繰り出す。
――一橋流奥義、詩仙繚乱斬!
刀を鋭く回転させながら、地面から天へ向かって斬り上げる。
豪快な刀圧が風刃の竜巻を巻き起こし、忍たちを容赦なく切り裂いた。
飛び散る血飛沫は花弁のように舞い、巻き起こる風に乗って、月夜の空に華やかに咲き誇った。
「なぬうっ!?」
燦然たる剣技に吹きすさぶ鮮血が、一瞬、尼音の視界を奪う。その刹那の隙を、寧々は見逃さなかった。
――藤林流秘儀、山吹の天露返し!
寧々は小刀を持つ尼音の手を取り押さえ、同時に肘をみぞおちへ突き立てる。腰が折れたところで、間髪入れずに手刀を喉へ突き込む。さらに力の抜けた腕を掴んで体重をかけ、一気に突き上げる。鈍い音がして、肩の骨が外れた。痛みによろめく隙を突いて足を掛け、そのまま地面へ押し倒す。尼音は顔面から地面に突っ伏した。
刹那の間に繰り広げられた鮮やかな連続技によって、勝負は瞬く間に決した。
尼音は、まるで化け物にでも遭ったかのように、信じられぬものを見る顔をしていた。ひれ伏したまま、呻くような怨念の声をあげる。
「おぬし、ただ者ではないと思っていたが……一体、何者なのだ?」
「ただの側室にございます」
寧々は、あくまで涼しげにそう答えた。
「寧々! 大丈夫か!?」
影丸が寧々へ振り向いたとき、すでに寧々は尼音を取り押さえていた。
その光景は、影丸にとってあまりにも想定外だったらしい。事態を把握するまで、数秒のあいだ、その場に立ち尽くしていた。
「どういうことだ……」
「私が暴れたせいで、雪に足を滑らせて倒れたようです。千載一遇の好機だと思い、必死に押さえ込みました。相手は老婆ですから、力では負けません」
影丸は寧々の足元に目をやった。だが、派手に滑ったような跡はどこにもない。
「神のおぼしめしです。日々、神棚に手を合わせていたのが良かったのでしょう」
「とにかく、寧々が無事だったのは幸いだ」
影丸は地面に落ちた小刀を蹴り飛ばすと、尼音の首元へ刀を突きつけ、威圧するような声で言った。
「おぬしが隠密ならば、この場で自害するのもよかろう。だが、誰の差し金かここで吐けば、あるいは情けをかけてやれるかもしれん」
尼音は憎々しげな目つきで笑い、影丸を見上げた。
「主上の御名を明かすなど、誰ができようか。ならば殺せ。殺してくれるがよい!」
「ならば、覚悟せよ」
影丸は刀を大きく上段に振りかぶる。だが、すぐさま寧々がそれを制した。
「影丸、尼音に尋ねたいことがあります。ひとつだけ……」
「寧々がそう言うのであれば、尋ねるがよい」
影丸は上段の構えを崩さぬまま、刀を止めて様子をうかがう。寧々は尼音を真っ直ぐ見つめた。
「あなたは姫君を殺めるとき、心が痛みませんでしたか?」
すると、尼音は俯き、身体を小刻みに震わせた。
「背負った使命の重さに比べれば、己の心など取るに足らぬものだ……ひ、ひひひ……」
そう言って、喉を詰まらせる。その様子は、先ほどの魔物のような尼音とは、まるで違っていた。
「でも、それなら、あなたはなぜ泣いているのですか?」
尼音は歪んだ顔で笑いながら、ひたすら涙をこぼしていた。姫君を殺めることは、尼音自身の意に反することであったのだろう。
寧々は、その惨めな姿に己の立場を重ねてしまう。寧々もまた、尼音と同じように、一橋家に潜り込んだ隠密なのである。
「影丸、尼音はこのまま放しましょう。人間の心が残されているなら、その心まで殺すことはありません」
寧々の情けに、影丸は眉根を寄せた。
「寧々は甘いな。だが、本当にそれでよいのか?」
「構いません。これで呪いは解かれるのですから」
影丸は、ふっと肩の力を抜き、刀を下ろした。
「尼音よ、寧々に感謝するんだな。では、どこへなりとも消えるがよい」
「生かされるとは屈辱このうえない。だが、この借りはいつか返してやるからな!」
尼音は遺恨を込めてそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。肩を押さえ、何度も振り向きながら、ひょこひょこと森の中へ逃げていく。
ようやく二人は緊張を緩め、ため息の後、互いに顔を見合わせた。
「ついに一橋家は呪いから解き放たれたのですね」
「本当によくやってくれた。寧々には感謝の念が尽きない」
だが、どちらの顔にも笑みはなかった。
呪いを解くという使命を果たした今、寧々に残されているのは、隠密としての務めだけである。そのためには、家主である慶喜の血を継ぐ子をもうけなければならない。
先ほどの尼音の言葉が、寧々の耳の奥でこだまし続けている。
『この場に現れたのが一橋家の家主だとは――』
『当主殿よ、江戸に撒かれる土となれ――』
この影丸という男、本当は――。
寧々は影丸の真顔を見上げながら、昂る胸の鼓動を必死に鎮めていた。
影丸は、そんな寧々の様子の変化に気づいたのか、それ以上、自ら口を開こうとはしなかった。
月明かりが淡く照らす墓地の中、ただ夜の静寂だけが、二人の間に流れていた。



